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廻り箱 01

【壱】坂木 春日  禍々しい、って形容詞がぴったりの大変小汚い小箱だった。 「……いやなんで預かっちまったんだよこんなヤバいの固まりみてぇなもん……」  直視も無理だし近寄るのも無理。素手で触るなんて以ての外、って感じの『霊感なんてあるのかないのかあやふやな俺から見ても完全にヤバくてアレ』な物体だった。  じりじりと距離を取って後退る俺のケツに、くろゆりさんの仕事机がぶつかる。  応接テーブルに置かれたそのヤバ箱の向こう側で、やたらと丁寧な仕草で扉を閉めた自称呪い屋が振り返って表情を緩めやがる。サラッと髪の毛揺らしながらスルッと振り返るくろゆりさんは、今日も砂漠で一滴の汗も掻かなそうなメントス顔だ。  人間は慣れる。飽きる。鈍感になる。  それが持論の俺だっていうのに、くろゆりさんの顔面に関しては見る度にイケメンすぎて『イケメンだなぁ』なんつー語彙力ゼロの感想が飽きることなく浮かんでしまう。  しかしながらくろゆりさんが三六五日毎日文句なしのイケメンでも、相変わらず真っ黒づくめの奇天烈ファッションセンス野郎でも、応接テーブルの禍々しい小箱の禍々しいっぷりは半減するわけもない。禍々しい箱は正しく禍々しいだけだ。  縦横高さ、すべて五センチ程度の正方形の箱だった。  もとは赤だったのかなーという名残をギリギリ残した表面は、べっとりした黒い何かに覆われていてもはや黒い。煤けているようにも、黒い液体が沁み込んでいるようにも見える。これを普通に持っていた依頼人の手は汚れていなかったから、煤でもなければ液体でもない、はずだ。  表面の毛羽立ち具合から見て、和紙かなんかでつくられた箱なんだろう。たぶん。いや知らんけど、テーブルに置いた時音とかしなかったし、木じゃないっぽい感じはする。  これだけでも普通に近寄りがたいっつーのに、さらに真っ黒に汚れたお札みたいなもんが箱の上にべったりと貼られていた。  クソヤバいっすよって自己紹介してるようなもんじゃねーかよ。  寒気がするとか悪寒がするとか鳥肌が立つとかそういう感覚はない。まあ俺はそもそも『感じます……っ!』って感じの人じゃないし、ビビッと寒気感じちゃう方が稀だ。霊感なくたって、近寄りたくないし触りたくないだろうこんな見えてる地雷箱。スーパーあからさま過ぎて逆に笑いが出そうだよ。  じりじりと後退しすぎて事務机に乗り上げそうな俺をチラッとみたイケメンは、なんかこうふふって感じに表情を緩めてからほんのすこしだけ肩を落とした。  ……他人向けじゃない。俺向けのくろゆりさんになる瞬間が最近ちゃんとわかるようになってきていて俺はしにたい。 「まあ、そう言わずに。僕も本日いきなりこちらの物品をお預かりする事になるとは思っていませんでしたが、預かってくださいと差し出されたもので」 「いやいや。いやいやいやいや、預かんなよ素直かよあんた笑顔で『本日は一度お持ち帰りください』って言えんだろうがよ……」 「道行く他人に押し付けられた物でしたら僕もつき返しますよ。一応仕事に関してはそれなりに真面目にこなしているつもりです。依頼人がいなければ僕の仕事は成り立たない。故に、依頼人の要求に関してはできうる限り承るように善処しています」  ……確かに。くろゆりさんは依頼人が可哀そうだとか、依頼人の為を思ってとか、そういう言葉とは程遠い仕事スタイルの男だ。  依頼はできうる限り真摯にこなす。けれどくろゆりさんが依頼に対して真摯なのはそれが金を貰う仕事だからであって、人助けだとか親切だとか正義感だとかで除霊をする人じゃないわけだ。良くも悪くも私情は一切挟まない。その事務的除霊スタイルがくろゆり流だ。  くろゆりさんが必要だと判断すればお持ち帰りくださいと言うだろうし、逆にお預かりしましょうと言ったということはまあ、除霊するにあたってお預かりした方が効率良かった、というだけなんだろう。  呪い屋もとい黒澤鑑定事務所がそれなりに繁盛しているのはこの、『慈善ではない故に仕事を仕事としてきちんとこなす』事務的な姿勢が評価されているから……かもしれない。  ていうかなんだかんだで入り浸っているうちに、世界はわりと心霊現象で溢れているということを知った。別に知りたくなかったけど知った。  世界は心霊現象で溢れている。その上ここは心霊現象でお困りの市民が集まる心霊鑑定事務所、要するに霊能力者の事業所だ。三歩歩けは棒より先に心霊現象にぶち当たる。  今日もふらっと置きっぱなしのパンツを取りに来た俺は、知りたくもなかった依頼人の恐怖体験をうっかりしっかり共有してしまったわけだ。  俺はただ置きっぱなしだったパンツ取りに来ただけなのに……いや心霊鑑定事務所にパンツ置きっぱなしにすんなよって話だけどさ。  依頼人はこのヤバ箱を、友人から預かった、と話した。  引っ越しをするからちょっとだけ荷物を預かってほしい。そう言われて快く引き受けたダン箱の中に、薄汚れた気味の悪い箱は紛れていた。  陰鬱そうな眼鏡のおねーちゃんが陰鬱そうに口にした話によると、この箱(正確には箱が紛れていたダンボール箱)を自室に置くようになってから、気味の悪い夢を見るようになった、という話だ。  自分は自室に横になっている。けれど視界は外にあって、要するに神の視点みたいな状態らしい。なんの変哲もない、不思議な事などどこにもない近所の風景の中に、ぽつん、と異質なものが立っている。  それは地味な中年の女だという。  白いドレスとか着物とか赤いセーターとか喪服とか、そういう特徴もない、ただひたすら凡庸な服装の女が、ぽつんと道路の真ん中に立っている。笑ったり泣いたり叫んだり恨み言を吐いたりしない。中年の女は妙に小さな目でじっと、ひたすらに自分の家の方向を見ている。  起きたときには決まって、嫌な汗をかいているんです――。  重いため息を嫌という程吐きまくった依頼人は、『あの女の人はこの箱を目指しているような気がする』なんつー気味の悪い言葉を土産に、問題のヤバ箱を残して帰りやがった。  お預かりしますね、なんつって爽やかに見送ったくろゆりさんの背中を睨みつける俺は、さぞひでえ顔をしていたことだろうよ。 「なんだかキミは、やたらとこの箱を怖がりますね。実際に何かが出たわけでもないですし、今はまだ『夢の話』でしかないでしょう?」  すすっと音もなく応接ソファーに腰を下ろしたイケメン野郎は、俺を見上げて顎の下で両手を組む。一々仕草がイケメンで今日ももれなく腹が立つ。箱に対する恐怖と相まって腹立たしさも二倍だ。 「いやだってさぁーほぼ毎晩って話だったじゃん? ほぼ毎晩、寝るともれなくおんなじ女が夢に出てくるってやばくね? 何それホラーかよホラーじゃんいやつーかホラーだから依頼に来てんだろうけどさぁ、そもそも俺、夢の話って駄目なんだよ……」 「夢にまつわる怖い話が苦手、ということですか?」 「あーいや、なんか、普通に面白い夢とかでも、あんま聞きたくねーなぁ……なんかさぁー夢の中って感情の振れ幅すげえじゃん。やけに瑞々しいっつーか。その割に現実感ぶっ飛んでて意味わかんないじゃん。後から思い返すと突っ込みどころしかねえのに、夢の中の自分は本気で焦ったり本気で怒ったり本気で笑ったりしてんの。アレなんかこう、気持ち悪いってか怖いってか不気味ってか……」 「生憎と僕はあまり夢を見るタイプではないのでまったくその通りですと肯定はしがたいですが、言っていることはまあ、なんとなくはわかりますよ。五感で感じているわけではないので、感情の割合が大きいんでしょうかね」 「うわ、何その頭良さそうな発想……イケメンがそれっぽい事言うとなんか納得しそうになるしイケメンでインテリとかむかつき度が増すからやめろ……」 「暴言だとしても、キミに顔を褒められる単語を連呼されるのは悪い気持ちではないですね。さて、こちらの箱ですが――」 「ちょッ! おま!? 素手で触んなよンなもんッ!」 「手袋はしていますよ」 「そういう事言ってんじゃねーの!」  確かにいつもの黒革手袋をしていやがったが、マジでそういうことを言っているんじゃない。そもそも触んなって話だ。  完全にビビってる俺の目の前で、くろゆりさんは平気な顔でヤバ箱をひょいと持ち上げる。 「触って平気なのかよそれ……っ」 「さあ、どうでしょう。とりあえず高瀬さんは平気なようでしたし、臭いもしないですし……というか、触って平気ではなかったら、春日くんは何か困るんですか」 「困るだろバッカ。あんたになんかあったらフツーに困んだろう」 「……最近の君は少々どころか明確に僕に甘くないですか?」 「うるっせーばーかばーかどうせ最終的に丸め込まれて甘ったるくなんなら開き直ったって一緒だろうがよー。つかまさかその箱開けない、よな?」  恐る恐る後ろから近づく俺に、くろゆりさんがふわりと笑う気配がする。  ほんとうに依頼人の前では能面みたいな笑い方するくせに、俺に対してはそういう顔向けてくるから嫌だ。どういう顔って訊かれたら説明したくない最高に甘ったるい顔。……一瞬ホラー箱の事忘れて少女漫画しそうになって、いやいやいやと現実を思い出す。  中年女の夢つきホラー箱を持って微笑む男に、きゅんとしている場合じゃない。 「開けませんよ。こちらは高瀬さんがご友人に預かったものです。そのご友人には今連絡を取っていただいている最中ですが、どうも音信不通に近い状態のようですね。おそらく箱を開ける許可はとれないでしょう。というかこの箱、妙に軽いんですよね。中に何か入っているような音はするんですが」 「やめろやめろ、振るな振るな。つかくろゆりさんは、あー……この後、その箱どうすんの」 「寝室に持ち込みますが。……他に心霊現象を見分ける術がないもので」 「お、おう……」  そうだった。この人基本『夜寝てみればいいんですよ幽霊が本当にいるなら僕の師匠はでてきませんからねにっこり』なんていう捨て身の方法しか持ち合わせていなかった。  くろゆりさんには霊感なんてものはない、らしい。経験則でなんとなく除霊をするコイツが、幽霊のいるいないを判断できるのは本人の能力ではなく、本人に付属している『師匠』のお陰だ。いや、お陰って言っていいのか知らんけど。  くろゆりさんがライトに摘まみ上げるもんだから、箱の禍々しい成分は多少軽減されているような気がしないでもない。  なんでこんなビビってんだと自分でも不思議に思う。くろゆりさんに連れられて結構いろんなヤバい場所にホイホイ行くけど、行く前からこんなにビビったりはしない……筈だ。話を聞いただけでこんなビビるってのは、不思議というか不気味だ。  さっきの依頼人のねーちゃんの話がやたらと鮮明に脳みそに刻み込まれているような、嫌な感覚だ。デジャヴっていうか、既視感っていうか。  ――と、ここまで考えてから俺は眉を寄せる。  なんとなく情景が鮮明に浮かんでくる気がしていた。その理由を真剣に冷静に考えて、記憶の引き出しからやっとの思いで引っ張り出す事に成功した。  既視感があるわけだ。  俺はこの話によく似た話を、知っている。 「くろゆりさんさー。あのー……先月の杜環サンの新刊、貰った? つか読んだ?」  ふと俺が零した問いかけに、イケメンは首を傾げる。爽やかな顔面にはささやかな疑問の表情が浮かぶ。 「杜環さんの新刊というのは、『うすかげ怪談』でしたかね。実話怪談の二作目の……。御本はいただきましたが、生憎と僕はまだ目を通していませんよ」 「俺この前間違えて早出勤しちまってさ、暇だったから控室で熟読しちまったんだけどさー……あん中に、すっげー似た話……てか同じ話? あんだけど……」  ぴたり、とくろゆりさんの動きが止まる。ぐるぐると適当に箱を回していた手を止め、少しだけ眉を寄せたのがわかった。 「……それは、箱にまつわる怪談ですか? それとも夢の中で近づいてくる中年女性?」 「箱はどうだったか覚えてねえけど、無表情の中年女が近づいてくる夢を見る、って奴だったと思う。目が空洞だとか血走っているとかが多い中でさ、表情皆無な中年女ってなんか嫌に気持ち悪いなぁーって思った記憶があんだよね」 「なるほど。キミが妙に気味悪がっていた理由は、既視感が原因ですか」  そうだ、俺がやたらとさっきの高瀬某ねーちゃんの話に不気味さを感じたのは、一度同じ話を聞いたことがあったからだった。  杜環サンの怪談はそこそこ怖い。淡々と語る事が多い(らしい)実話怪談業界の中でも、かなり心理描写や風景描写が丁寧でディテールが凝っている(らしい)。要するに生々しくて怖いってことだ。  しばらく顎に手を当てて考え込んでいたくろゆりさんだったが、スッと箱を置くと本棚の方に移動する。軽い感じでぽいぽいと抜き取って腕に積んでいくのは、ホラー文庫っぽいやつと辞書みたいな分厚いハードカバー本だった。 「とりあえず該当の文章を拝見してみましょう。必要ならば杜環さんにお話をお伺いしなくてはいけませんね。守秘義務、というものも出版社にはあるでしょうから、どこまでお話していただけるかはわかりませんが。実話怪談という触れ込みをきちんと信じるならば、それを話した人間が存在している筈ですから」  さくさくと予定を立てたくろゆりさんは、本の束を抱えて応接用のソファーにもう一度座り直した。どうやら今回の仕事は、読書からスタートするらしい。 「……その辞書みたいなやつは何よ」 「これはお札の本ですよ。大体の宗教の札は網羅している、といううたい文句ですのでそれなりに重宝しております。この箱に貼ってある札はよく目にする魔除けや呪いの符ではないので、こちらも調べるところからのスタートです。……春日くん、本日のお仕事は?」 「んー。普通に夜から行くけど……なに、なんか手伝う事あんの?」 「まあ、お手すきならこちらの実話怪談集に同じ話があるかどうかチェックをお願いしたいですが、別にお手伝いしてくれなくてもいいですよ。ただ、隣に座っていてくださると僕の作業効率が上がるような気はします」 「…………いや上がんねーだろ。つか普通に暇だし手伝うっつの」 「ですがキミは、実話怪談が好きなわけではないでしょう?」 「そりゃ怖いの好きか嫌いかっつったら嫌い寄りだけど。手掛かりは多い方がいいんだろ?」  俺は霊が祓えるわけでもないし、声が聞こえるわけでも訴えを理解できるわけでもない。それはこの人も同じで、結局くろゆり式除霊っていうのは経験則と対処療法だ。  できるだけ情報を集めることは、それだけ除霊の成功率を上げることにもつながる……筈だ。たぶん。なんか大体憶測だけど。いやまあ合ってるだろ、うん。  しばらく俺の顔をまじまじと見つめていたくろゆりさんは、ふっと笑って目を細める。その慈愛! って感じの顔ヤメロまじで。 「キミは本当になんというか、相変わらず『いい人』で困ります。僕以外にその優しさを発揮させないように一生監禁しておきたい」 「いやいやいやなにペロッとやべーこと言ってんだ変態落ち着けクソヤロウあんた以外にこんな出血無料労働大サービスかます予定今んとこねーよ!」 「どうでしょうね……春日くんは押しに弱いから」 「あんたなんで基本情緒とか死んでるのに俺に関しては図星付いてくんの……?」 「さあ、何故でしょうね。僕も、自分のことながら不思議です」  珈琲を淹れましょう、と立ち上がったくろゆりさんはなんか妙に楽しそうで普通に困る。……困る、こいつのこの、隠さない浮かれっぷりはどうしたって恥ずかしくなってしまう。いやしかたねえだろこんなん普通に恥ずかしい。  浮かれた様子のくろゆりさんが居なくなった瞬間――、箱の存在感が、どでかくなる。  圧迫感はない。別に鳥肌も立たない。寒気も悪寒もしない。  それでもやっぱりその箱を見ると、誰もいない道のど真ん中にぽつん、と立つ中年女を想像してしまって、首の後ろが少しざわついた。

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