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廻り箱 07
【七】坂木 春日
神聖なオカマだらけのバックルームにオッサンがいるんだけど誰よ、と思ったら知り合いだった。
「……っくりしたぁ……キッキョウさんそんな恰好でどこに行くのってーかブラックメンかようける」
いつも通りちょっと早めに出勤した俺を出迎えた桔梗さんは、本来はママという敬称で呼ばれるべき立場の人だ。オーナーから店を任されている人で、要するに店長って事になるんだろう。
ただしママって呼ぶと『私はあんたたちのオカンじゃないわよ』と苦笑いをされてしまうのが常で、結局俺たち従業員は尊敬と親しみの気持ちを普通の敬称に込めて呼んでいる。
普段は色っぽい着物をしなやかに着こなしている桔梗さんは、ファンデもアイカラーも口紅も塗っていなかった。なんならウィッグも被っていない。
黒いスーツに黒いネクタイを締めたその姿は、どっからどう見てもオカマではなく四十代の細い男だ。
馬鹿面さらした俺に対し、パチンパチンと丁寧に爪を切っていた桔梗さん(男バージョン)は、いつも通りの長く柔らかいため息を吐く。
「アンタねぇ……どっからどう見ても葬式でしょうよ」
「いやどっからどう見てもブラックメンすよ。完全にグラサンが似合う。宇宙人追いかけて人間の記憶消すタイプのブラックメン。もしくは電脳空間で分裂するタイプのブラックメン」
「トミー・リー・ジョーンズもヒューゴ・ウィーヴィングもイケメンよねぇ。私割と好きだわ、ああいうタイプ。……椿ちゃん、最近よく映画ネタ振ってくるけど、彼氏とイチャイチャ鑑賞してたりするの?」
パチン、と固い音が響くその合間に視線も寄越さず笑われて、敵わない人に喧嘩吹っ掛けるもんじゃねーよな、としみじみ実感した。うっかり一瞬口ごもってしまったのもよくない。こんなん、完全に俺の負けだ。
彼氏とかいねえし、つか俺はオカマでもゲイでもねえし、そんで桔梗さんが思い浮かべてるだろう男の事はホント恋人だと認めた瞬間から俺の寿命が伸び縮みするタイプでやべーし、でもそんなん説明するの面倒だし、かといって桔梗さん相手に誤魔化しの言葉ぶっぱなしたところでどうせ反撃受けるだけだし……って躊躇しているうちに二枚も三枚も上手の年上のオカマはフッと息を吐く。
本当に甘い息の吐き方をする人だ。
「羨ましくっていいけどねぇ。アンタ、無駄にいろいろ考えすぎなのよね。その見た目よりも思慮深いとこと愛情深いとこ、好きだけどね。……こういう事言ってるから年増のオカマ扱いされんだけど」
「いやぁ、桔梗さんは年増のオカマってか理想の上司って感じなんでその落ち着きを常葉ねーさんに叩き込んでほしいっすよ……」
「無理ねーあれは無理。アレは、あの浮ついたにぎやかさがいいのよ、ってことにしておきましょう。ところで私、これからお通夜だから。お店、常葉ちゃんに任せたからね。あと、アンタの彼氏借りてくわ」
「彼氏……は? くろゆりさん? あんなん持って行ってどうするんですか。通夜の必需品でもねーでしょ?」
「キミは本当に僕に対しては一貫してつれないですね」
「……っ、…………!」
危うく叫ぶところだった。
耳の後ろからそっとかけられた言葉と両肩に置かれた手に、マジで本気でビビってしまった。
おまえほんと、マジで、そういうドッキリ感あふれる登場のしかたすんのやめろって何度言わせんだよ本当に。
ていうかいつからそこに居たんだよ。思わず直近の発言を思い返しているうちに、俺の背中側から颯爽登場したご存じ呪い屋野郎は、今日もサラッキラッとした効果音バリバリ背負ってるような爽やか顔面フェイスだった。
ただ今日は黒いシャツじゃない。全身真っ黒だしネクタイも黒いが、シャツは普通の白だ。
あー。普通の喪服とか一応持ってらっしゃるのね? なんて妙な関心の仕方してしまった。ていうか全身真っ黒奇天烈仕様じゃないくろゆりさんは、なんつーかイケメン度が二割増しでよくねーなと思う。喪服だけど。喪服なのに。喪服っていうかスーツっていうカテゴリで見ちゃうからかもしれない。
「こんにちは春日くん。もう今晩はというべき時間ですかね。これからご出勤ですか? 今日のドレスは新しいものですね、僕はもう少し丈の長いスカートの方がよいかと思――」
「情報量が多いんだっつの黙れ俺のストーカー。つーかなんであんたが通夜についてくんだよあんたほど冠婚葬祭が不似合いな奴俺他にしらねーんだけど」
「似合うか似合わないかという判断をされたのは初めてですが、たしかに僕は生死の儀式には縁がないですね。今回は僭越ながら僕の方から同行をお願いいたしました。というか、桔梗さんに付いていく許可をいただいた、という感じですかね」
「いやだからなんでだよって訊いてんの」
「……繋がってしまったから、ですかね?」
珍しくふわっとした言い回しであいまいに首を傾げる。
なんだそりゃ、と俺が口を開く前に桔梗さんに背中を押され、いいからあんたら座ってお話しなさい、と開店前のボックス席に押し込まれた。
「バックルームはこれから混雑しちゃうからね。私、ちょっと銀行行ってくるわ。今ピン札しかないのよ。お通夜の時間まではまだあるから、くろゆりさんごめんなさいね、ちょっと椿ちゃん相手におしゃべりしていてください」
「どうぞお時間はお構いなく。桔梗さんの御都合に全面的に合わせます」
「そう言っていただけるとありがたいわ。じゃあ椿ちゃん、素敵なお客様に粗相のないように」
まるで店の客を任されるときのようにしなり、と挨拶をされるけれど、今の桔梗さんは個性派俳優風の喪服男だ。
喪服の桔梗さんが出て行った後の店内は、当たり前だががらんどうだ。オカマや手伝いのバイトさんたちが出勤する時間まで余裕がある。
照明をすこし絞った店内で、当たり前のようにゆったりくつろいだくろゆりさんはやっぱり違和感があった。……普通の格好にここまで違和感のある奴もすげーよマジで。
そんなくろゆりさんは、俺のおニューのスカートの丈がどうにも気になるらしく、やたらと太腿触ってくる。手つきは完全にエロイ大人だけど。おまえ喪服なんだからもうちょいこう、態度というか素行気をつけなさいよと自分の事を棚上げにして思う。
「……で。繋がった、ってなんだよ」
忙しなく足を組み替えつつ、そのたびに追いかけてくる手を払いつつ、先ほどの話を蒸し返す。くろゆりさんとの付き合い方のコツは『納得してない話は流さない』ことだ。
繋がってしまったから。確かにこいつはそう言ったはずだ。
繋がる、という言葉を、くろゆりさんはよく使う。この世のものではないものとの接触を、この人は『縁が繋がる』と表現する。
原因を消滅させられないのなら、繋がっている縁を切ればいい。怪異の要因がバシッと分かることなんか稀だ。
要因がわからないなら、そいつと繋がる縁を切ってしまうのが一番早い。そうすれば、大概のものからは逃げられる。至極簡単で当たり前の話だ。
幽霊だの呪いだの、原理もわからなければ勉強だってしていない。それでもくろゆりさんの仕事を間近で見ていて勝手に理解したのは、こいつの除霊の大半は『縁を切る』作業なんだろうな、ってことだった。
繋がったものを切る。それを生業とするくろゆりさんが、『繋がってしまったから』という理由で桔梗さんに同行する。……この事実に嫌な予感しないほうがおかしいだろう。どう考えてもよくない案件だ。
もうこいつが急に俺の生活圏内に出没しただけでも嫌なフラグだっていうのに、最恐に不吉かつ怪しい呪い屋は妙に困ったように首を傾げて苦笑した。
わかるぞチクショウいいか伊達にお前の彼氏扱いされてるわけじゃねえんだぞ俺だって。その顔マジでよくないときの顔だろう。
「なに。ヤバい案件なの? 桔梗さん巻き込まれちゃってんの? つかくろゆりさん大丈夫なの?」
「今のところ何とも言い難いのですが、そうですね、簡単にご説明すると――……春日くんは、先日の箱と夢の女性の件を覚えていますか?」
「箱と夢……箱、っあー? あー……あのド深夜藁人形ご訪問ループの……?」
「キミの愉快な言語センスに関しては割合好感を持っていますよ。その訪問ループの一件で間違いないかと思います。概要を覚えていますか?」
覚えているも何も、あの朝まで楽しく無限ループ地獄体験をしたのはつい先週のことだ。
不気味な黒い箱を友人から預かったら、夢の中に『近づいてくる地味な女』が出るようになった、という話だ。
黒澤鑑定事務所への依頼人は高瀬さんという女性だったが、類似しているケースを杜環さんの書籍で見つけた為、その体験者も同時に除霊に参加する事になった。
明かりのない深夜の廃墟で、人ではない女が玄関から入ってきて階段を上がり、かがみこんで顔を確認してはチガウと呟きまた出て行く。この繰り返しはそこそこのインパクトとして俺の心霊体験の思い出に刻み込まれている。
追いかけられたわけでもないし、見た目にやばいインパクトがあったわけでもない。ただ朝まで延々五時間、ただひたすら不気味な幽霊(だと思われる何か)に顔を覗かれ続けた身としては、もうあんな体験はごめんだと思う。
家の中で物音がする。影のようなものが動く。文字にしてしまうとなんだよそんなことかよと思う些細な怪異だとしても、体験者からしてみれば心臓が飛び出るくらいの恐怖なわけだ。
俺の恐怖を笑う奴はド深夜に目と鼻と口が小さい不気味な女に顔面十センチ前まで近づかれてみろと思う。いいか、普通に怖いからな。シンプルに怖い。あの女が物理的に存在している生きている人間で、なんらかの方法で鍵を開けて入って来ただけだったとしても怖い。
そうは言っても悲しいかな、俺はくろゆりさんに出会ったせいで随分とそういうヤバいものに慣れてきていた。勿論怖いっちゃ怖いけど、失禁するほどじゃない。
けどまあ、そういうものに耐性がない女子二人の恐怖ってやつはとんでもなかったようで、朝日が昇り始めてやっとご訪問ループが終わってファミレスに移動した後も女子ーズはガタガタと震えたまま放心していた。
でしょうよ。だってこええもんあれ。普通にっていうか当たり前のようにこええもん。
ただあの儀式というかループ除霊は、あの一晩で終わったわけではない、らしい。そもそも、何が原因でどうしてあの女がやってくるのか、詳しい事情は一切不明だ。
もしまた夢に女が出てくるようなら、再度同じ方法を試してみましょう。そう言われた時の女子達の驚愕の表情はもはやギャグだった。全然笑えないけどさ。
つか一度関わっちゃったわけだし、再除霊の際は俺も頭数に入ってるだろうし、げんなりしたのは俺だって一緒だ。
「え。あの無限ループ結局落ち着いてないわけ? 再チャレンジ? 再チャレンジ無限ループご訪問?」
「ああ、いえ。高瀬さんからも水戸さんからも、その後夢を見たというご報告はありません。僕が存じ上げていないだけかもしれませんが、とりあえずのところ再度あの除霊を行う予定はありませんよ」
「じゃあ何よ。何がどう問題だっつーのよ」
「どうも入り組んでいてどこからご説明するのが最適なのか、難しいのですが。そうですね……まず先週僕が借りた一軒家ですが、あの家は事故物件として破格の値段で貸し出されている空き家をお借りしたものです」
「なにその後出し情報最悪なんすけど。知りたくなかったんですけど。事故物件ってなに、誰がどう死んだの」
「元々貸し物件だったそうですが、前回の住人である五十代男性が自殺。その母親である七十代の女性は、自殺した男性が発見されたと同時に白骨化した状態で見つかりました。男性が自殺したのは母親の白骨死体が放置されていた部屋です。二階の角部屋ですね」
「ちょ……それあの部屋じゃねえかよ……」
なんの情報なくても怖いってのに、気味の悪さまで追加してくんのやめていただきたい。
まあ、でも、ほら、長い目で見りゃどこでも人間は死んでるし、事故物件なんて概念最近のもんでしょ? と思えば、まあ……いや知りたくはなかったしもう絶対行きたくねーけど。
これだけでももう嫌だってのに、くろゆりさんは立て続けに知りたくなかった事実をもりもり並べ立てる。
「僕があの貸家を選んだ理由は事故物件だから、ではありません。彼女たちが証言していた『夢の中で女が立っていた位置』の丁度中心にあったのがあの家だった為です。実はあの家を選んだ時点では丁度いい物件が見つかったくらいの気持ちだったのですが……後々、物件を拝借する際に仲介していただいた特殊清掃業者の方にお話を伺う機会がありまして。……どうやら、高瀬さんと水戸さんの他にも、最低二人は夢の女に悩まされていた人間がいたようです」
気味の悪い箱を手にする。すると自分の家に近づいてくる女の夢を見る。夢の中で女が立っていた場所には、黒い不気味なシミが浮き出る。これが体験者に共通する証言だ。
「全員にお話を伺えたわけではありませんが、呪いの小箱の関係者だと思われる女性に行きつく事ができました。なるべく早くお話を伺いに行こうと思っていたのですが……彼女が務めるスナックは昨日、不審火により全焼。――店主の小井戸文江氏は病院に運ばれましたが死亡しました」
「……え、まさか、くろゆりさんと桔梗さん、そのー……小井戸? さんの通夜に? 行くの……?」
「そのまさかですよ。僕も桔梗さんからご連絡を受けるまで、ここまで繋がっているとは思っていませんでした。なんでも昨日桔梗さんのご自宅から酷く焦げ臭く甘い匂いがした、とのことでご相談を受けたのですが。……小井戸文江と桔梗さんが同郷の同級生だったそうです。特に親密なお付き合いをしていたわけではないそうですが、小井戸文江の兄とは少し交流があるそうで。遺族に声をかけられたのだから行くしかないと、ため息をついておられましたよ」
「……待って混乱してきた待って待って、ええと……その、文江さんって人が、例の呪いのヤバ箱を作った、ってこと?」
「いえ、それはわかりません。どうも生前の彼女は『常連の男性が店のバイトの女の子に対して文句をつけていたので、そんなに文句を言うのなら呪ってしまえばいい、と助言のようなものをした』と仰っていたということです」
なんだそれ。と思った感情が露骨に顔に出ていたらしい。
俺の怪訝丸出しな顔を見据えたくろゆりさんは、ふと表情を和らげてキミは真面目ですよねと言う。いや、真面目っていうか、ごく普通の倫理観だろうと思う。
呪っちゃえば。……そう零したスナックの女主人は、酔っ払いの戯言程度の感覚で言葉を放ったのだろう。俺だって夜の仕事をしているからわかる。
世の中酒が入ると世界の愚痴しか言わないオッサンとか、悪口しかストックがないおねーさんとか、山ほどいる。そういう奴らの愚痴とか悪口とかわんさか耳にしていると、助言を考えるのも面倒で適当にあしらいたくもなる。
呪っちゃえば。そう言った小井戸文江は、呪いの方法なんて知らなかったのだろう。なんとなくそう思う。
「それで、ええと……そのオッサンは呪いのヤバ箱をオリジナル作成しちまった、ってこと?」
「いえ、それが……少し奇妙なのですが。そもそも、小井戸文江のスナックでバイトの女性を雇っていたという事実がありません」
「…………ん?」
「居ないんですよ。バイトの女性、という人物は存在しないんです。常連だという人物や近場のお店の人に伺いましたが、彼女はずっと一人でスナックを切り盛りしていたという話です。まあ、数年前となると確証はありませんが、少なくともこの二年程度の間は誰も彼女の店で働いた痕跡はない」
「いや、じゃあ、その文江さんって人、嘘ついてるってこと? じゃあストーカー男に呪いほう助したのも嘘ってこと?」
「そこまではわかりません。ご本人が亡くなってしまったので、どうしようもないですね。これも気味の悪い繋がりではありますが、あの事故物件で自殺した男性の名前は『小井戸』というそうですよ。小井戸文江さんとは、血のつながりはないようですがね」
「えーいやいや情報量多い。落ち着いて。俺そんな頭よくねーから落ち着いて手加減して何が何だかわからんつまりどういうこと……」
「僕にもさっぱりわかりませんよ。その上手がかりはもうありません。あと、これは僕が勝手に気付いたこと、というか、こじつけかもしれませんが……」
「まだなんかあんのかよ」
「今回の依頼人が高瀬さん、そして杜環さんからご紹介いただいた水戸さん。そのほかに先日同じ夢を見た、とご相談いただいた方が岩波さんというお名前です。すべて、水に関わる漢字が入っているんですよね」
瀬。水。波。確かに、すべて水に関わるものだ。
漢字は水に関わるものではないが、井戸は、水をためる場所だ。
ふと小井戸文江の死因が頭をよぎる。
「……あの顔のパーツのちっさい女は、水を求めてたって、こと?」
「それも僕にはわかりませんが、特定の人物しか霊障に合わない理由はこれかもしれませんね。偶然の一致かもしれませんが。とりあえず本日通夜に同行させていただきますが、再度高瀬さんまたは水戸さんがあの夢を見る事がなければ、これ以上この件について縁を深めることもないでしょう。いい加減、繋がりすぎて絡めとられそうです。繋がるというのは縁が深いということだ。生きている人間ですら縁の深さは怖いものです。相手がこの世のものでなければ尚更怖い」
恐怖なんか微塵も感じていないような爽やかな笑顔で淡々と話す。その様子はいつも通りのくろゆりさんだったけど、なんつーか、心なしか真面目度が強い……ような気がした。気のせいかもしれないし、俺の個人的な願望かもしれない。
「……いやつーか今からその文江さんの通夜行くんだっけ? え、何言ってんのマジで。やめた方がよくね? なんか他の人に任せた方がよくね? いや桔梗さんは心配だからぜひ桔梗さんは誰かと一緒に行ってほしいけど、いやなんなら二人とも行かなくてもよくね?」
ふと冷静になって『いやこの件まだ終わってねーじゃん』という事実に気が付いてしまった。
終わってない。だってこれからコイツはその焼け死んだスナックのママの通夜に行くわけだ。
思わずくろゆりさんの喪服の太腿に手を置いてしまう。いやこう、ボックス席に座ってるとさ、どうしても接客してるときの仕草が出ちゃうんだよ。
きょとん、とした顔晒したイケメンは、俺の手をぎゅっと握って掴んできっちり捕獲してから、もうそりゃとんでもねー甘ったるい顔して目を細めやがった。
「そういえば他人とあまり近しくなるようなお付き合いをしてこなかったので、キミに心配されるたびに非常に不思議な気持ちになりますし、たぶんこれは『嬉しい』という感情なのでしょうね。キスしてもいいですか?」
「いやいやいやいやお前俺口説いてる場合じゃねーだろ行くのヤメロっつってんだ」
「ここまで繋がってしまったら、もうどう避けても勝手にまた遭遇してしまいますよ。桔梗さんの身の安全を保障することは、キミの助けにもなるでしょう?」
「なる、っちゃ、なる、けど……ほんと大丈夫なのかよ……」
「はい。とは言い切れませんが、万全の注意を払って伺うつもりですよ。この縁をこれ以上繋ぐつもりはありませんので。……キスは、だめ?」
かわいく訊くのヤメロかわいいから。かわいいとか思っちまうから。しかも流されちまうからさ。
一応サッと誰も見ていない事を確かめてから、しかたねーなって顔を全力で装いながらくろゆりさんの唇に自分の唇くっつける。軽いキスはすぐに捕獲されて、どんどん深くエロイキスになっていった。
ここ最近コイツとしかちゅーしてない。てかこんなえっろいあっまいキスばっかされてたら、他の子とどういうキスしたらいいのかもうわかんなくなりそうだ。
「…………っ、ふ…………ほんと……まじで、わりと、ほんきで、心配してんだからな」
こんな甘ったるいセリフ目ぇ見て言えるかって話で、くろゆりさんの肩口に顔埋めてぼそぼそ呟くみたいになった。
やだ俺ったら少女漫画……なんて笑えるのはいつも後の話だ。いつだって少女漫画なうしているときは、ヤバいほど心臓が煩いし顔があっついし脳みそがぱやぱやしている。言いたくねえし表現したくねえし認めたくねえけど、むねきゅんってきっとこういう感覚だ。
ヒロインかよって感じの俺をヒーローかよって感じで抱きしめ返して来る男は、きもちいー声でふふふと笑う。照れんなくそが。あんたはいつでもひょうひょうとしていてもらわねえと、余計に恥ずかしいだろうがくそが。
「キミの言葉に嘘がない事は、存分に理解しているつもりですよ。何かまずければすぐに引き返します。春日くん、明日はお休みでしたね? もしお暇ならお付き合いしていただきたい場所があるのですが」
「まあ、暇っちゃ暇だけど。なに、どこの心霊スポットよ」
「残念ながらただの買い物ですよ。スーツのクリーニングがてら、ついでに映画でもどうかと思いまして」
「……くろゆりさんってわりと大衆向けの映画好きだよな……? もっとこうめんどうくせー難しい奴好きそうな顔してんのにパイレーツなカリビアンとか結構見てるもんな?」
「何も考えずに感受できるものは割合好きですよ。最近はキミが一緒に見てくださるので、新しい趣味のようになってきてしまっていますが……」
「つーかそれデートじゃん?」
「デートですね」
「……黒いかっこでくんの?」
「あー……そう、ですね。まあ、一日くらい平気でしょうから、キミがお望みの洋服を揃えてもいいですが」
なんだその『一日くらい平気』って。つかアンタのあの黒い格好、やっぱなんか因縁っつーか理由あんのかよ聞きたくない。
聞きたくないので聞かなかったことにして俺は、本屋寄りたいとだけ口にした。
……知らない事を、知りたいと思わなくもない。けどこの人の人生全部背負うには時間がかかる、って思ってっからさ。まあゆっくりやらせてください、ってのが今のところの言い訳だ。
携帯をちらりと見たくろゆりさんは、桔梗さんが帰ってくるようですと言って立ち上がる。そういや俺も、そろそろ化粧ちゃんとしないとまずい時間だ。
「まー、じゃあとりあえず気ぃつけて。桔梗さん頼んだからな」
「はい、頼まれました。明日が楽しみなので無茶はしない、とお約束できます」
「やめろ恥ずかしい事サラッというなエロ鬼畜キャラを最後まで貫けどういう顔したらいいかわかんねーだろ」
「笑えばいいと思いますが、無理に表情を押し込めている春日くんは非常に愛おしいと思いますのでそのままでも結構ですよ」
「……なんか今日テンション高くない? 通夜そんな楽しみなの?」
「まさか。僕の挙動が普段よりも陽気だというのなら、キミが僕を『彼氏』と認識している事実を知ったからじゃないですかね?」
「…………………スルーしたつもりだったのに蒸し返すんじゃねえよ馬鹿野郎……」
「照れるキミは本当にかわいい。もう一度口づけをしたいところですが時間切れです。それでは明日……ああ、いえ、桔梗さんと一緒にまた戻ってくるかもしれませんね。塩を用意していただきましょう。それでは行ってきます」
いってらっしゃい、と手を上げてから、なんつーか……なんかこう、随分俺たち普通になっちゃったな? なんてことに気が付いて勝手にうわーと思っちゃってボックス席のソファーに沈んでしまった。
嫌だとか止めろとか近寄るなとか暴言ばっかりの俺と、俺の事なんか微塵も気にしていないような男の筈だった。
行ってきます、なんて笑ってさー、いってらっしゃいなんて手を上げてさー、明日何着よっかなーなんて考えちゃってるんだからさ。……普通っていうか、どう考えてもそういうアレだ。
それでもまだ口にして認めないのは、言葉は言霊だという教育をくろゆりさんから再三受けているせいだ。
言葉は形にすると力を持つ。
呪いしかり、祈祷しかり。例えきちんとした手順を踏んでいなくても、言葉の力だけで呪いは成立したりもする。
水を求めてさ迷っていたあの女は、結局何だったのか。結局誰だったのか。……今は、どこにいるのか。
そんな事を俺が考えてもわかるわけがない。
わかるわけがないので仕方なく、今日の労働のために化粧をすることにした。食って寝ないと人間は生きていけないし、食って寝るためには労働が必要だからだ。
「……明日ほんと何着よう……」
ふわり、と鼻をかすめる焦げたようなニオイに気づかないふりを貫いて、俺は一人で言の葉を放った。
終
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