78 / 83
四階のこわいへや
あの、本当に……口にするのも、嫌なんですよ。え? いやだって……見ればわかるでしょ。なんか、空気おかしくないです?
窓の方から見てもいつも暗くてカーテン開いてて、最初は空き部屋だと思ったんですよ。それが……え、はい。カーテンはあるんです。ありますよね? でも、電気がついてるところは一度も見た事はなくて……それなのに、たまに、窓の奥に人が立ってるんですよね。空き部屋じゃないんだ、ってなんか……気味が悪くなっちゃって。
それに、玄関もなんかおかしいでしょ?
普通あんな風に真っ黒になりますか……煤かなって思ったけど、いやだって、煤だっておかしいじゃないですか。火事があったわけでもないし、他のドアはみんな、普通に灰色なんですから。たまに牛乳の瓶に水が入った状態で置かれていることありますよね? あれもなんか不気味で嫌なんですよ……。
この前、住人らしき人とすれ違ったんですけど……本当に、もう、なんていうか……あれ、人じゃないんだと思います。顔がないっていうか、真っ黒っていうか。なんか、首が据わってないかんじにガクガクしていて、めっちゃ怖くて。思わず、自分の部屋に帰らずにそのままコンビニに行っちゃいました。え? だって、怖いじゃないですか……アレが、こっちの事認識したりとか……部屋に入るところ、見られたらダメだって思ったっていうか……怖い話って、ほら、ついてくる話多いでしょ?
ピーッ、という音とともに、再生が途切れる。
その内容はさて置き、いやぁ世の中便利になったもんだよねスマホ一個で録音も再生もなんなら録画だってできちゃうんだもんねぇなんて年寄っぽい事を考えてしまうのは、まーなんつーか内容をしっかり吟味したくないからだ。
坂木春日二十……もう六かもしんないけどよくわからん、そろそろ歳とか数えるの面倒になってきた。たぶん二十六歳。職業オカマ、兼なんだかすっかり怪しい呪い屋の助手みたいな仕事こなしてる毎日だが、相変わらず俺はホラー好きでもなんでもない。
それでも多少は慣れて来た。
マジで死にそうになるようなもんとか、急にがばっと来るびっくり系以外はなんとなく深呼吸二個くらいで冷静に見れるくらいには慣れた。すごい。拍手が欲しい。盛大に拍手して労ってほしいところだが、正直そんな霊能スキル全くもってほしくなかったわけで、祝われても困るような気もする。
まあ、うん。要するにつまるところ俺は慣れた。そこらへんに突っ立ってる成仏できてなさそうな女の霊くらいなら風景としてスルー出来るくらいには慣れた。
それなのに今回は背筋がぞわっぞわするような気持ち悪さをビンビン感じている。
それは、決して『う! この建物……居るッ!』的な霊感みてーなもんじゃない。
「……以上、四〇三号室の伊藤さんの証言ですね。証言というか、インタビューというか、まあただの聞き取りですが」
今日も顔だけは爽やかな全身真っ黒超絶不審者くろゆりさんは、いつも通りサラッとした美声でサラッと前髪揺らしながらサラッと心霊現象に俺を巻き込んでくださる。
つーか慣れたといえばこいつの存在にも随分となれた。……慣らされた、って感じもするけど。
結構前の俺ならこんな見るからに怪しい男と一緒に喫茶店なんて入れなかっただろうし、同じテーブルにつくことすら断固拒否しただろう。
慣れって怖い。たいして混んでもいない平日真昼間の薄暗い喫茶店の店員アンド客からの視線を一心に受けても、もうあんまり気にならなくなった。
恥ずかしいなんて感情抱くだけ無駄だし勿体ない。俺が感じた羞恥心で飯が食えるわけでもない。
もうやだ恥ずかしいくろゆりさんとなんか一緒にいたくない! なんて駄々こねて引きこもったところで、なんの益もない。まあ恥ずかしいってことは損かもしんないし、結局心霊云々に巻き込まれている状況は損かもしんないけど。
……この倫理観と人間的感情が希薄な男がなんかこうヤバい事しでかしたり、命を軽率に投げ出したりするよりはマシだ。そんな風に思っちゃう俺は今日も怪しい呪い屋に体よく呼び出され、とある古い集合マンションにのこのこついてきたわけだ。
マンションというかアパートなのかもしんない。そこらへんはわからないけど、一人暮らし用のアパートというよりは、ファミリータイプの賃貸マンションに見えた。
五階建てのその建物は適度におどろおどろしい感じに古く、誰が見てもなんとなく薄気味悪く感じることができそうだ。つっても爽やかな夏の日差しの下ってわけじゃなけりゃ、どんなにきれいな物件も『なんかそういう雰囲気あるなぁ』なんて感じる事ができる。ここ、幽霊出るんだってよ。そうささやかれただけで、なんとなくそういう気分になっちゃうもんだ。
今回の依頼人は集合マンションの住居人……ではなく、不動産の管理会社の人だった。
アパート前で待ち合わせた管理会社の女性は、颯爽と道を挟んだ喫茶店に俺たちを誘導し、颯爽と珈琲を三つ頼んだ。
なんだか妙にパキパキとした管理会社のお姉さんは、俺の方をちらっと見たもののほぼスルーで、しゃきしゃきとくろゆりさんにいつもお世話になっております的なご挨拶を済ませて必要な資料をどしどし渡していた。どうやらくろゆりさんとは何度か面識がある、らしい。
こんな怪しい呪い屋によくもまあ何度も仕事頼むよなーと思ったけど、そういやくろゆりさんは仕事に対してはわりと真面目だ。その上できないものは『できない』と断言する。
無理にどうにか金をせしめようとする霊能者と比べれば、格段に信頼できるのかもしれないが――なんかおねーさんがくろゆりさんにお仕事依頼すんのは、単純にコイツがイケメンだからじゃねえのか? と察してしまった。
どうしても他人の機微というか、行動とか言動とかから感情の行き先を探ってしまう。職業病みたいなもんだ。
おねーさんが名残惜しそうに帰った後、特に彼女の香水の匂いも気にしていないような顔でくろゆりさんは今回の依頼を説明してくれた。
曰く、『四〇八号室が怖い』のだ、という。
そして冒頭の伊藤氏のインタビュー音声含め、住人五人の肉声録音を聞かされる羽目になったわけだ。
「……これ、さっきの管理会社の人がわざわざかき集めたわけ?」
「というか、苦情電話の録音じゃないでしょうかね。勿論ご本人にはお祓いをする機関への提出の許可は取っている、というような事を仰っていたような気がしますが。……僕はまあ呪い屋であって正式には霊能力者でも神仏の関係者でもないので、お祓いと言われると虚言か詐欺のようではありますね」
「似たようなもんだし別にそこは問題なかろーよ」
「昨今個人情報の扱いには厳しいですからね。言葉尻一つで裁判沙汰になるくらいなら正式に名乗った方がマシだと思っていますよ。ところで、春日くんの感想を伺ってもよろしいですか?」
「……感想って、あー……この、録音の?」
「はい。この吉川集合団地の五人の住人の口頭証言の、感想ですね」
「…………えーと……どれが本当? って、感じ、っつーか」
「はあ。まあ、そうですよね。皆さん、どうにもバラバラな霊障を訴えていますし」
「だって最初のオッサンは四〇八号室前にいつも白い女が立ってるって言ってただろ? それなのに次のおばちゃんは四〇八号室からさかさまの男がぶら下がってるっていうし、あとはなんだっけ、手が伸びてきてノックする? それと子供の歌が聞こえる、だっけ? そんで最後のはドアが黒くて部屋の中にも黒い人がいる、だろ?」
「見事にバラバラですね。共通しているのはすべて『四〇八号室が怖い』という事だけです」
そう、五人はすべて別の現象を訴えていた。
ひとつひとつは確かに嫌な霊障だ。女が立ってるのも、さかさまにぶら下がってる男も、ノックする長い手も、不気味な子供の童謡も、窓の中の人影も。まあ、嫌だな、と思う。
けれどそれが集まって見える光景は、一段と不気味だ。
『同じ場所の話なのにみんな訴えてる現象が違う』。
……いっそ同じものを見ていてくれたほうがわかりやすいのに、どういう解釈をしたらいいのかさっぱりわからずに嫌な違和感が背中を這う。
「……全員本当の事言ってて、全員が見たぶんの幽霊妖怪怪奇現象全部盛り盛り、ってことは、あー……ないっすかね」
「ありえなくはないでしょうが、どうでしょう。例えば事故が多発するような場所や因縁深い場所は、そう言うものを引き寄せるとはよく聞きます。小さな部屋にみっしりとそういうものが詰まっているのかもしれない。ですが調べたところ、この集合団地には自殺はおろかよくある『墓が違い、病院の跡地、元首塚』等の土地的な問題もないですね。なんだかわからないがとにかく場所が悪い、という状態が、ない、とは言い切れませんが」
「こういう場合ってどうすんの? あー……ほら、くろゆりさんってさぁ、要するに対処療法っていうか……こういうのはこうしたら効くっぽい、みたいなやり方すんじゃん」
くろゆりさん曰く、本人に霊感のようなものはあまりない、らしい。
だから場所の因縁とか幽霊ご本人の無念とか、そういうものはまったく感じないという。じゃあどうやって成仏させんのよって話だけど、要するに対処療法だ。
こういう霊障にはこういうのがたぶん効く。こういう状況ではこうやったらいけそう。そんな感じで『状況』を見て対処する。原因にコミットするわけじゃない。
汚い水はろ過装置に通すと綺麗になるとか、油性マジックの汚れはマヨネーズで取れますとか、そういう感じだ。汚い水を不思議な力で浄化したり、マジックの汚れをスーパーパワーで消したりはしない。
だからこういう場合どうすんの?
どれ信じるの?
つかどれを重点的に対処すんの?
まさか全部? 全部やんの?
てかこれから件の四〇八号室に行きましょう的な展開だったりすんの?
絶対嫌よ? そんなもりもりの場所に俺絶対行きたくないわよ?
って気持ちを全力で盛りに盛って懇願ビームしてたんだけど、当のくろゆりさんは珍しく歯切れ悪く唸る。
……こいつが何か言いよどむときは、大体よくない事実が控えている。これは俺の経験則だ。
「なんだよ。もだもだしてねーで言えし。聞きたくねーけど聞いてやるから言えし」
「最近キミはあまり物怖じしなくなりましたよね。嫌だ嫌だと喚いて悲しい顔をしている春日くんが見れなくなったのは少々勿体ないような気もしますが、積極的に僕のお仕事を手伝ってくださる気概には感謝しております」
「いや感謝は金で渡して。そんで言え、もう珈琲もぬるいんだよ。なんもねーなら帰るぞ俺今日ちょっと早く出なきゃなんねーんだよ同伴の予約が――」
「春日くん、キミの席から集合団地は見えますね?」
「……見えっけど」
ちらっと視線を窓に向けると、喫茶店から件の集合住宅ははっきりしっかり見える。目のまえなんだからそりゃ当たり前だ。
きっちりと陳列されたドアは良い感じに古くて、いい感じに不気味だ。勿論これはさっきの住人の証言をがっつり聞いちまった偏見のせいだろう。ちょっと古い集合住宅なんて大体はこんなもんだ。
「向かって左が若い番号となります。一階の一番左が一〇一号室。その右側が一〇二号室……といった具合ですね。五階建てですので、四〇八号室は四階の左から八番目となります」
「まあ、そうなるわな」
「四〇八号室、見えますか?」
「………………」
え、見なきゃなの?
その禍々しいオンパレードモリモリ部屋を見なきゃなの?
そう思ってすんげー眉をしかめたものの、俺の視線をばっちり受けた爽やかメンズ(職業呪い屋)は相変わらずの爽やかミント顔でにこっと笑う。くそ、顔だけは今日も百五十点で腹立たしいしなんかその顔マジで最近嫌いじゃないとか思い始めている自分が一番腹立つから嫌だ。
にっこり笑ってるイケメン見てると妙な気分になってきそうで、テレカクシ気分で集合団地の方をえいやっと見た。
下から四つ。そんで左から、いち、に、さん……としっかり数えた俺は、しばらく固まった。
ない。
部屋は、四〇七号室までしかない。
そこには白い女も、長く伸びる手も、黒いドアもない。
俺が目にしたのは、『四〇八号室なんてない』という事実だ。
「……皆さん、こぞって『四〇八号室が怖いからどうにかしてくれ』と言うそうなんです。ですが、何度数えても部屋は七つしかない。実際に部屋番号も四〇七までしかない。四〇八号室なんて部屋は、この集合住宅に存在しないんですよ」
「…………え、でも、だって、……普通に、喋ってなかった?」
「そうですね。皆さんごく普通に、当たり前のように四〇八号室が存在するものとして『苦情』を訴えています。四〇八号室なんてものが存在するのが怖い、と訴える人は一人もいません。あたりまえのように四〇八号室の窓を見て、ドアをみて、その住人を見て、気味が悪いと訴えている」
「えーと、それ……そんな部屋ないですよーって、誰か、言ったら……」
「管理会社の方で何度も説明しているそうですよ。四〇八号室が怖いからどうにかしてくれ、と電話がかかってくるたびに、そんな部屋はありませんよ、七つまでしかないですよね、と説明する。ですが皆さん『いやだから四〇八号室の話だから』と全くもって会話が成立しないそうです」
「ないものが、見えてる……? 当たり前のように? ってこと?」
「それだけではなく、さらにそこに霊障がある。……先ほども申し上げた通り、この物件に特に曰くがあるわけではありません。そもそも、ない部屋の過去など辿れませんしね」
そりゃそうだ。
事故物件とか昨今流行りだけど、存在しない部屋では誰も住めないし、誰も死ねない。
「え。……じゃあ、これどうすんの。四〇七号室の隣に塩でも撒くの?」
「それでどうにかなるならやぶさかではないですが。……まあ、とりあえずは実地調査ですね。どうも霊障を訴えていない人も、四〇八号室は『ある』と認識しているようです。あの建物に足を踏み入れるとそうなるのか、住むとそうなるのか……とりあえず聞き込みをしましょう。そのあとは一泊してみるのもいいかもしれませんね。どうやら同じ階の四〇二号室が空室らしいので、必要ならば鍵を渡すというお話でした」
「あー……さっきの、バリキャリっぽい見た目のおねーちゃん? ……くろゆりさんの常連?」
「石泉さんですか? まあ、何度かご依頼いただいている方ですが……」
「これから鍵貰いに行くの?」
「いえ、鍵はまた様子を見て、と思っておりますが。とりあえずは一度部屋を見て回った後にご報告には行きますよ。依頼人は彼女ですからね」
「ふーん」
温くなった珈琲を一気に飲み干して、おねーちゃんが置いて行った千円と一緒に伝票を掴む。さっさと会計しちゃう俺の後ろから追いついてきたくろゆりさんは、ご出勤のお時間ですかと爽やかな声をかけてきた。
「まだ時間あっからもうちょい助手したるけど、くろゆりさんちょっと」
「はい、なん――、っ、?」
有無も言わせずイケメンの襟元をガバッと開いた俺は、有無も言わせずにその首筋っつーか鎖骨あたりに思いっきり噛みついてからイケメンのさらさら素肌を思いっきり吸い上げた。
……これは最近知った別に知らなくてよかった情報なんだが、このイケメン自分は突拍子もない事をサラッとしてくるくせに、逆に俺がなんかすると一瞬思考停止しちまうらしい。
ぽかん、と俺を見つめる顔があんまりにも素で、悪い気はしない。にこにこさらーっとした能面イケメンスマイルを崩す瞬間は、なんかこう、ちょっとグッとくる。
「…………びっくり、しました。キミは、道端で口説くなとよく僕に説教しますが、道端で噛みついてキスマークを残す事は許容範囲なんですか?」
「許容範囲なわけねーだろばーかばーか俺にしたら殴るし三日間店出禁にするわ」
「三日で許していただけるんですね。常々思っていますが最近目に見えて僕に甘い。……僕には人間的な感情なんてもの、ほとんど残っていないといいますか……情緒なんてものは持ち合わせていない自覚はありますが、これは、その」
「うるっせーよ所有マークだっつの」
「……随分とワイルドな所有印ですね」
「かわいいのがよけりゃ今度寝てる時に額にハートマークのサイン入れたるわ」
「春日くん、何かよくないものでも口にしましたか?」
「してねーよ。……たまにわすれんだよアンタほらえぐいやばい奴だし怪しいし中二病の化身だし性格破綻してるから、顔だけは完璧な美形だってこと忘れんだよ……」
「……今は、基本的にお誘いいただいてもお断りしていますよ」
「あ。そこの倫理観はあんのね……?」
「一応。そんなものが僕の中にあったことに自分でも若干驚いてはいますが……キミに対しては、不誠実でいたくないと思いましたので。そもそも僕がセックスをするのは単純な興味がある場合のみで、他人に対して性欲を感じたりするようなこともありませんでしたし」
「でも誘われたら一発お相手しちゃう生活だったんだろ?」
「まあ……特に、断る理由もなければ」
「……いまは、なんでセックスすんの? 興味あるから?」
「いいえ。キミがそこにいるから」
ふわ、っと目を細めやがるからなんかこう「ヒィッ……」みたいな変な声出ちまって、耳がぐわっと熱くなって死にそうになったから耳を噛んで誤魔化したら痛いと笑われた。
柔らかい声出すな馬鹿。なんか嬉しそうに笑うな馬鹿。そんなキャラじゃないだろアンタ、もっとさらっと鬼畜っぽく笑っとけよ馬鹿。……俺がいい気になんだろ馬鹿。
てか気味の悪い心霊マンション(かどうかは不明だけどみんな怖いって言ってんだからなんかそういうのあんだろたぶんということで仮に心霊マンションとする)の前でいちゃつくのどうなのって話なんだけど。
怖い時はなんかエロイこと考えろとか言うし、体温アガルようなきゃっきゃ! とした雰囲気の方が心霊スポットでも元気に過ごせそうだと思う。そう思う事にする。そういう言い訳をしようと思う。うん。
……結局俺があの管理会社のおねーちゃんに嫉妬乙だったことなんかバレバレで、いやばれてんのわかってて会話してたけど、そういうのわかっちゃうくらいには俺の事ちゃんと見てるくろゆりさんにまたヒーアーウワーハーみたいな声出そうになって、深呼吸三つでどうにか気分を落ち着かせた。
幽霊とかそーゆーもんにもいい加減慣れた。深呼吸二つくらいでどうにかスルー出来るくらいになった。
それなのにくろゆりさんとのあれこれはまだ深呼吸三つは余裕で必要で、全然慣れる気配なんかない。イケメンはいつでもイケメンで慣れねえし、イケメンが俺の事やったら特別扱いしてくるのにも慣れないし、そういう状況悪くないじゃんみたいに思っちゃってる俺にも慣れない。
「……今から聞き取りすんの?」
なんか空気がわやわやしてきて、誤魔化すように現実的な話題を振る。
目をぱちくりしたくろゆりさんは、いつものアルカイックな笑顔を浮かべて頷いた――と思ったが、次の瞬間俺の手を引いた。
「……っ、え、なに……」
「――いえ。キミの後ろに頭の長い女性が立っていたもので」
「…………マ?」
「本当ですよ。さて、では録音の順に参りましょうか」
「え。行くの。マジで? ……マジで?」
「仕事ですからね。春日くんは先に帰っていてもいいですが、個人的にはご一緒いただけるとありがたいです。僕が――」
「諦めにくくなる、から?」
「はい。その通りです」
にっこり、というよりはふわっと笑いやがるから、くっそしかたねえなと俺の中の甘い部分が全力で前に出てきちゃったわけで、……まあ、この五分後には盛大に後悔した。
面倒くさいし思い出すのも嫌だから結論だけ言うと、結局四〇八号室の謎はわからずじまいだった。
ただお札貼りまくって塩盛りまくって換気しまくったら、四〇八号室の話題を口にする人間は減っていった……らしい。その為管理会社は『霊障は解決した』として、くろゆりさんへの依頼を取り下げた。
ただ、四〇三号室の伊藤さんが屋上から飛び降りて自殺未遂をしたという話を聞いた。幸い命には別状はなかったというが。……伊藤さんだけは、ずっと、『四〇八号室が怖いからあの部屋には戻りたくない』と言っているという話だ。
伊藤さんと四〇八号室にどんな因縁があるのか、管理会社からの依頼が引き下げられた今となっては、知る由もない。
終
ともだちにシェアしよう!