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にせぼせき

「奥様が倒れてしまわれたそうですよ」  昨日の夕飯のメニューとか今朝の気温とかを話題にしているトーンだった。相変わらず黒づくめのイケメンは頭の中がおかしいというか俺にはちょっと理解できないっていうか、テンションが意味不明にフラットだ。 「……え。それ、先月依頼に来てた夫婦? あのすんげー顔色悪かった夫婦?」 「はい、その非常に顔色が悪かったご夫婦の、女性の方です」  いやまあそら、男の方を奥様とは言わねえだろう。世の中多様性って奴も若干市民権を得て来たが、男女の夫婦においての役割は奥様と旦那様以外のものはそうそうないはずだ。たぶん。  てーか、男女の定義や日本語の話はどうでもいい。  問題は、俺が目の前の家に入りたくないってことだ。  平日午後四時、若干の曇り空。きっぱり晴れていたって別に俺の心境は変わんないんだけど、やっぱり日差しがない午後って奴は憂鬱度が増す。さらに心霊スポット度も増す。  夜はすんげー怖かったけど昼間に行ったらそうでもなかった、とかあるでしょ。やっぱり太陽の光ってやつは人間に勇気とか元気とかやる気とか、幽霊なんか気のせいだったに違いないと思い込める力とかを与えてくれんだよ。だから俺はくろゆりさんの仕事に付き合うときは、めっちゃ天気予報を見る。めっちゃ祈る。晴れてくれ頼むって祈る。  ……そんでまあ、俺の祈りはカミサマって奴には大概届かないわけだ。  いやでも……目の前の家のじっとりとした気配は、例え真夏の晴天でも跳ね返しそうだなぁと思わせる。  廃墟ではない。心霊スポットでもない。きちんと生活感のある普通の一軒家だというのに、どうしてか、じわーっと気持ち悪い。  うん、そう、気持悪い。怖いんじゃなくて、寒いとか気味悪いとかでもなくて、なんつーか気持ちの悪い佇まいの家だった。  この家の住人である『やたらと顔色の悪い夫婦』が黒澤鑑定事務所を訪れたのは、梅雨明け直後の朝一だった。  朝からなんでおまえくろゆりさんとこに居るんだよ、ってつっこみはしないでほしい。俺もそう思ってる。  確かあの日は、前夜に俺の職場で俺にやたらと絡んでくるストーカー予備軍みたいな面倒くせー客がいて、でも今月店の売上やべーしなぁと思いながら嫌々接客しているところを普通に客として来店したくろゆりさんに見事目撃され、その場では笑顔を崩さなかったくろゆりさんにお持ち帰りされたあときっちり一晩かけて散々な目にあった――ただし真顔できみをだれかにわたすきはありませんだなんて言うコイツはちょっと、こう、あーってなった――あとで、正直珈琲淹れる手も運ぶ足も小鹿だった、事をすげー嫌だけど覚えている。  寝てていいですよとか抜かすくそ野郎に、誰のせいで寝不足だと顧客ファイル投げつけたことまで思い出してしまった。くそ。そういう若干痒いやりとりをするとなんか妙に嬉しそうにするようになっちまいやがって、マジで俺が死にそうになるからやめてほしい。  あとこのへんの下りは一切本筋に関係ないからいい加減話を戻そう。鬼畜エロ野郎の愚痴は、真剣お化け屋敷を目の前にして思い出すもんじゃない。  えーと、そう、とにかく先月きちんと予約をしてきちんとした格好できちんと頭を下げて黒澤鑑定事務所に入っていた白石夫妻は、家がおかしいのです、とおもむろに切り出した。  半年前からやたらと家鳴りがする。電化製品が壊れる。無言電話が続く。深夜に人の気配がする。生ものや野菜がすぐに腐る。風呂場から異臭がする。誰もいない筈なのに笑い声が聞こえる。肩口に誰かの息がかかる。  一つ一つは『気のせい』で片づけられる異変かもしれない。しかしきっかり半年前から始まり、これが一気に襲ってくるとなると話は別だ。何か原因があるに違いないと思うだろう。  心当たりといえば、半年前に亡くなった親族から『石のオブジェのようなもの』を預かったことくらいだ、という。お地蔵様だと思って祀ってくれたらいいから、と渡されたそれに夫婦は困惑しとりあえず仏間においてあるという。  日々の怪現象にほとほと疲れた白石夫妻は、結局『この石が悪いのではないか』というオカルトな結論に至った。というわけだ。  幽霊を信じてなくても、お祓い程度で解決するのならばという気持でくろゆりさんに依頼する人も多いらしい。のっぴきならない除霊代金を返せずに身体を差し出した身としては、『この程度の金で解決するならなんて金額じゃねーだろブルジョワかよ』と思うけどまあいいよ、俺が貧困なのはくろゆりさんとこの依頼人とは関係ないし。  問題は、白石さん(妻)が、くろゆりさんを家に上げたがらなかったことだ。  ここでおさらいだけれど、くろゆりさんは霊感がすんげー強い! というわけでもないし、百発百中除霊は完璧! というわけでもない。まあ祝詞とか呪術とか、そういう知識はちゃんとあるっぽいし一応色々できることはあるっぽいけど、世の中の人が想像する霊能者の特殊能力とは言い難いだろう。  この人のお決まりの文句は『拝見してみないことにはわかりません』だ。  この日も勿論すべての霊障(らしき事象の申告)を聞き終わったくろゆりさんは、いつものサラッとした顔で前途のセリフを吐いた。  拝見してみないことにはわかりません。とりあえずはご自宅に伺いましょう。  ……俺としてはそうホイホイと死地に向かうのやめてほしいんすけど。いやまあ……仕事だから仕方ないんだろうけどさ……。  なんて微妙な顔を晒してしまったわけだが、なんと奥方の方もくろゆりさんのセリフに顔を曇らせた。  どうも、霊能者に除霊を依頼に来た、というよりも占い師に助言を求めに来た、という方向の気持ちだったらしい。まあそりゃあ、いきなりいざお宅へ! とか言われたら『え、まじで?』ってなると思う。  見られて困るものがあるわけではないのですけれど。他人を招くことに抵抗がありまして。除霊というものは、どこにいてもできるものかと勝手に、思い込んでおりました……。  そんな風に目を伏せる仕草は、人嫌いの令嬢って感じで育ちの良さがぐいぐい全面に出ていた。どうも本当に人間が得意ではないらしい。  旦那氏の顔色の悪さは霊障爆盛りのせいかもしれないけど、奥さんは外歩くだけで貧血になって倒れそうだ。むしろこんな怪しい事務所によく同行したなと感動すら覚える。  対するくろゆりさんも、どんなことをしても依頼人は守る! みたいな根性正義マンじゃない。  さらりと笑ったイケメンは、そういう事でしたら私ができることはお札をお渡しする程度ですが、と軽やかに既存品のお札を売りつけていた。鮮やかな手口だ。まあでも占い師に助言もらえれば心強いよね! 程度の気持ちの人たちなら、お札数枚くらいでも気分は晴れるのかもしれない。  とりあえず身内に不幸があるわけでもないし、相当困っているわけでもないし、少し気持ち悪いけれどお札ももらったしとりあえず我慢しようかという結論になったんだろう。  実際にくろゆりさんに相談した後に、除霊の依頼をする人間は三割程度だ。  まあそんなもんだよな。弁護士だって無料相談して、そんでそのまま依頼する人ってのはカツカツに困っていてどうしても弁護士が必要って人だろうし。心霊相談だってそんなもんだろう。  そんな感じの緩い相談の一つ、だと思っていた。思って完全に忘れていた。つーかそんなやつら山ほどいすぎて、奥さんまじ帰りに吐かなきゃいいねみたいな雑談してなきゃすっかり忘れたまま思い出す事だって困難だったはずだ。  白石さん(夫)から正式に依頼が舞い込んだのは昨日の夜。妻が血を吐いて倒れた、という相当にアレな状態からの依頼だった。 「かなり動揺されていましたので、仕方なく僕も病院に伺いました。奥さんの方はご両親も他界されているということで、うろたえる旦那さんに彼のお母さまが付き添っていました。どうも嫁姑の仲は良好だった様子ですね」 「ばあちゃんいたのかよ。つかばあちゃん同居か? そりゃいきなり霊能者連れてきました! バーン! なんてできねーわなぁ」 「仰る通りで。致し方ないとはいえ、流石に僕も自分の見た目が多少一般的ではない自覚はありますし」 「……多少……?」 「きみのその怪訝な視線は友愛だと受け取ります。……そんなわけで、そのまま鍵をお預かりしてしまいました。ご家族は泊まり込みだそうで、好きに入っていいと許可をいただきましたので」 「え、奥さんそんなヤバいの? 倒れたって心労とかクラっとしてとかじゃなくって救急搬送の方なの?」 「救急搬送の方ですね。どうも脳の血管がどうとか……旦那さんは完全に動揺していてよく伺っていないのですが、クモ膜下出血ではないでしょうか」 「……やばいやつじゃん。まじかよ。あんな若いのに?」 「若くても唐突に倒れてしまうことがあるそうですよ、クモ膜下出血は。脳の血管の怪我ですからね。勿論高年齢になればリスクも高まるでしょうが、若いから大丈夫、年寄だから危ない、というものでもない筈です。それに彼女はもうすぐ五十代じゃないかな……」 「え、見えねえ。三十八歳(令嬢)って感じじゃん」 「お子さんはいらっしゃらないのかもう一人立ちしているのかわかりませんが、とりあえず家は無人とのことですよ。気兼ねなく探索ができて大変ありがたい」 「……今回のさぁ、もろもろっていうか奥さんの緊急搬送とか、それってなんかやべー霊障なの? 死んだ親戚が預けてきたっていう石? が原因なわけ?」 「わかりません」  ずばん、と言い切られて思わずデスヨネと口から零れる。  ですよね、はい、知ってたよ。逆につらつらと恐らく先祖の祟りで……とか言われた方がびっくりするしな。あんた誰中身くろゆりさんじゃねーな? と思うに違いない。  わかりません、はくろゆりさんの常套句で、くろゆりさんがくろゆりさんとして一部で信頼されている理由だ。  見ないものはわからない。調べないとわからない。そんな当たり前のことが、なぜか心霊関係だと『ヤブ』とか『偽物』みたいな扱いになるわけだが、くろゆりさんはきっぱりとこのセリフを吐く。  今回も確かに家を見ているだけではわからない。勿論、俺にもわからない。俺だってそこに『なんかすげー気持ち悪い感じの一軒家がある』ことしかわからない。  白石、の表札は妙に古いのに、玄関先はやたらと新しい。リフォームってやつかもしれない。  古き良き今時見ない表札の上には、昔は会ったよねって感じの家族の名前一覧がある。白石紀夫、白石雅美、白石エツコ。  鍵をかちりと回してドアノブを掴んだくろゆりさんは、そのままの姿勢で眉をしかめた。 「ちょ、やめろやめろ、なんだその顔、あんた『このなかに……いる!』みたいないタイプじゃないっしょ、一体何――」 「中から誰かが押さえていますね」 「…………………えぇ……?」  霊障早くない……?  そういうのは中に入って奥の部屋とかで起こってほしいんですけど。 「鍵がかかったまま、ってわけじゃなくって?」 「きっちりと回しましたよ。鍵は開けました。何より、これは鍵がかかっている感触ではないです。明らかに人の力で押し戻されます。どうも、僕たちはこの家に入れないらしい」 「おえぇ……お仕事できねーじゃん……」 「仕方ありません、庭に回りましょう。流石に廃墟ではないですし、許可を得てはいますが窓を割って侵入するというわけにはいきませんが……どこかしら鍵を閉め忘れているならそれはそれで結構ですし」 「いや結構じゃねえよ窓から侵入とかぜってー嫌だかんな。内側になんか居る家に窓から侵入とかぜってーに嫌だかんな」 「では春日くんは外で待機――」 「あんた一人で行かせんのもぜってー嫌」 「………………」 「あの、さーせん、幽霊(仮)とドアコントしながらガチ照れかますのやめてもらえます……?」 「すいません、あまり他人に大切にされたことがないもので。常々思っているのですが僕は常時きみの言葉を録音しているボイスレコーダーがあればいいのにと思います」 「よかねーよそんなもんくろゆりさんに実装されたら死ぬ気でぶち壊しに行くからな……つか庭ってあっち? から回んの?」  こんな場所でいちゃついていても、帰る時間が延びるだけだ。日が暮れてきたらホントに笑えないし、さっさと調査を終わらせてしまうに限る。  なんとなく鬱蒼とした雰囲気の玄関先から、やっぱり鬱蒼とした感じの庭に回る。  表は割とキレイな洋風というかありきたりな一軒家だったのに、裏に回ると急に和風というか……古い家の面持ちになる。  庭というか、軽い空き地のような感じだった。あんまり手入れはされてなくて、ちょっとした木が数本生えているだけだ。花とか植えてそうな奥さんだったのに、いやこれ完全に偏見だけどさ。  庭に面しているガラス戸は、昔ながらの縁側って感じだ。薄いカーテンの隙間から、奥に和室が見える。たぶん、仏間だけど――。 「…………」 「………………」 「……春日くん、見えていますか?」  見えているかどうか、と言われたらイエスだ。ただ、なんつーか、それが何なのか、俺にはまだ、わからない。わからないけど、気持悪い。気持ち悪いことはわかる。  和室のど真ん中に、そいつは座っていた。  ゆったりしたブラウスに、くすんだ色のズボン。よくばあちゃんたちが着ている、あの『それどこで売ってんの?』っていう感じの、お年寄りファッション。  髪は真っ白で、背中は丸い。  どう見ても老婆としか思えないものが、こちらに対して横向きに正座していた。まっすぐと顔を向けている先には、仏壇らしきものが見える。  そこまではいい。  え、ばあちゃんいるじゃん? とか、じゃあさっきのくろゆりさんとドアノブコントしてたのはばあちゃんだったの? とか、そんな風に軽く思えない理由があった。 「恐らくエツコさんですね。昨晩病院で見かけた方です。僕はまずインターフォンを鳴らすべきだったのですかね。ここからでも一声かければ――」 「待て、ちょっと待て、くろゆりさん、見えてねーの?」  思わず、本気でその手を掴んで引いた。思いっきり後ろに引いた。ついでに一歩後ろにさがる。下がった拍子になんか硬いもんをガツンと踏んだ。……でっかい石みたいな、感触。 「見えてない、とは、何の……すいません、きみには何が……」 「遺影。遺影ある。上、ほら、かかってんじゃん、遺影」 「……………ああ、」  ほんとうだ、とくろゆりさんが口にした瞬間、和室の真ん中に座っていたソレの首がゆっくりと動いた。  ゆっくり、ゆっくり、こっちの方向に顔を向ける。  走って逃げるべきだと分かっているのに、俺はくろゆりさんの手を握ったまま動けない。  ぐぐ、ぐぐぐぐぐ、とこちらを向いたソレの顔面には、いい加減見慣れたくろゆりさんのお札がびっしりと貼られていた。  震える足で、一歩、また下がる。  その拍子に、足元の何かに重心を取られて俺は、後ろに思い切り倒れ込んだ。 「春日くん……!」  イケメンがさっそうと手を伸ばして来るけど、どんくさい俺はしっかりケツをついてしまっていて、うっかりアレから目を離してしまう。  次に視線を上げた時、ガラス戸のカーテンはぴっちりと閉まっていて、中の様子は全く伺えなかった。  ……なんだったの、アレ。  てかばあちゃん死んでんじゃん。遺影あったじゃん。アレ、生きてる奴じゃねえじゃん。遺影あったじゃん、にこにこしたばあちゃんの顔だったじゃん、さっきのアレとおんなじブラウスだったじゃん。  尻もちついたまま呆然と家を見つめる俺の目の前で、俺が躓いた硬い何かを拾い上げたくろゆりさんは顔を顰めた。 「……ああ、これは、うん……これは、呪いがかえってきても、おかしくないですね」 「呪い、がかえる……?」 「ひとまず出ましょう。僕だけならまだしも、きみが障りを受けてはいけない。本当にこういうときに僕も含めて逃げよう、という気持になるのできみの存在は偉大です」 「いや俺が居なくても命大切にしろ……いのちをたいせつにのコマンドいつも選択しておけ……」 「きみの発言は時折三十代ですが、普段接客している層に合わせているんでしょうかね?」  うるせー最近アプリでドラクエやってんだよ、と元気に毒づいてみせるのは家の方を意識したくないからだ。  いやだって、窓にべったりくっついてこっち見てんだもん、さっきの顔面お札ばあさんが。  窓という窓、全部に居るんだもん、さっきの顔面お札ばあさんが。  そりゃこんだけ家の中にいれば、音もなるし野菜も腐るし急に笑い声も聞こえるだろう。そう思わせるだけの量と圧を感じる。怖い、というより、もうとにかく、気持悪い。  ぞっとする、という感覚とも違う。胸がむかむかするような、胃の中がぐるぐるするような気持ち悪さだ。  悪心に耐えつつ無駄に軽口を交えつつ、きっちりとくろゆりさんの手を握って寄り添うように庭から玄関先へ、そして家の敷地から脱出する。  あんなに入室を拒んでいた玄関の扉はちょっとだけ開いていて、そこからさっきの顔面お札ばあさんが顔だけ出してこっちを見ていたけど完全に無視を決め込んだ。  あんなもの、関わってまともでいられるわけがない。 「……いやつーかアンタなに持ってきてんだよ」  もう帰ろうぜと言おうとした矢先、くろゆりさんなんか石みたいなものをまじまじと観察していることに気が付いた。  それは俺が躓いた、庭に落ちていた石――くろゆりさんのお札がべったべたに貼られた、なんか四角い石だ。  そんなもん持ってくんなよはよ捨てろ。いますぐ捨てろ、と言う前にくろゆりさんはなんとそのお札をぺりぺりとはがし始める。 「ちょッ、おまっ!? 何してんの!? 気でも狂ったの!?」 「狂っていませんよ、大丈夫まずければ予備を貼り直せばいいだけです。たぶん」 「たぶんで命削るかもしれねえ選択肢選ぶなっつってんだろ……!」 「きみが本気で怒ってくださるので、僕の命にも価値があるんだなと実感できますよ。見てください、これ、わかりますか。……これは、墓だ」 「……は? 何……え、墓? って、あの、お墓とかそういう?」  ……いやちっちゃくない?  確かに形は墓石に近いけど、サイズがあまりにも小さい。くろゆりさんが訳知り顔で墓ですね(ドヤ)したその石は、くろゆりさんの片手に収まるサイズ感だった。大きさ的には位牌と同程度。いや流石に小さいだろう墓の一部とかそういうことか? と思ってよくよく眺めると、確かに表面に何か掘ってる。  しらいしえつこのはか。  ……つたない字で掘られた嫌な言葉は、俺が抑え込んだ悪心をぐらぐらと刺激した。 「おえ……なにこれ、まじ墓じゃん……いや墓っていうか、なんつーか、あー……なにこの、小学生の机の上に花瓶の花置くいじめみたいな感じ……」 「まさにその通りなのでしょう。小学生のいたずらのような簡単さで、これは作られた筈です。それでも作法が整ってしまえば呪いは発動する」 「……これ、作ったの、もしかして、奥さん……」 「恐らくは。旦那さんが実の母親を呪う理由が思い当たりません。家から出したい程憎いならどうにでもできたのではないでしょうか。近しい親類もいないのならば、誰に指をさされることもない。義母を追いやることができない嫁の呪いというのが一番簡単な推測ですね。勿論、そのあたりは簡単に決めつけられない事情があるのかもしれないですが……ああ、これ、本当にまずいですね。この、ボンドで張り付けられているのは髪の毛と爪ですね。おそらくはエツコさんのものでしょう」 「待って、ちょっと待って、エツコばあちゃん呪い殺されたってこと? 奥さんに?」 「死因まではわかりませんよ。ただ、呪っていたことは確かですね。たしかこの石は旦那さんが親類から預かったと言っていましたね。もしかして奥さんは義母が死んだあと、このミニチュアの墓石の扱いに困って誰かに押し付けたんじゃないでしょうか。それが、結局また戻って来た」 「……そりゃ、心当たりあるよな、霊障に」  くろゆりさんを家に招きたくなかった理由も、なんとなくわかる。世間が考える有能な霊能者だったら、家に入った瞬間『老婆が訴えています……!』とか言いそうなもんだ。  実際にはくろゆりさんは現場詮索推理型で、霊の声が聞こえたりズバッと言い当てたり訴えをくみ取ったりはしない。しないけど、あれだけ顔にべったべたお札貼られたばあさんが居れば、お察しって感じだ。 「……奥さんの脳のお病気って、じゃあ、ええと、因果応報……?」 「そうだ、と断言はできませんし、僕はあまり因果応報という言葉は好みませんがまあ、そう思われても仕方ないとは思います。だから放っておこうというわけにもいきませんけどね」 「え。アレどうにかすんの」 「しますよ。そういう依頼ですので。僕が承った依頼は『家の怪異を調査し、できる範囲で無くすこと』です。怪異の発生した原因に同情の余地があろうがなかろうが、依頼の内容には影響しませんからね」  確かに、イノシシが畑を荒らすからどうにかしてくれと言われて『調査したらイノシシはあなたに子供を殺されていたんだ、可哀そうだからこの依頼はナシ!』とはならない。うん、そりゃならないわ。  でもアレをどうにかってどうやって……?  という俺のごく当たり前の疑問に、くろゆりさんはさらりと笑って答えた。 「家を焼く以外の方法を検討しますよ。片っ端から試して無理ならとりあえず無理とご報告します。幸いにも触ると死ぬレベルの何かではないようなので」 「いやいやいやすんげー気持ち悪いんだけどなんか吐きそうなんだけどあんた平気なの!?」 「多少の吐き気はありますね。まあ、この程度ならば些事です。大丈夫、寿命を削るような何かではないですよ。何より、呪いが根源ならば僕としては比較的扱いやすい。神様の領域などに比べれば素人の呪いは楽な部類です。少なくとも祟られない」 「命がマイナスになんなきゃオッケーみたいな判断の仕方やめてもらえます……?」 「きみが手を握ってくれるので、実質プラスですよ。とりあえず今日は帰りましょう。一度呪いを祓ってから、僕は病院にご報告に参ります。エツコさんがいつどういう経緯で亡くなったのか、一応確認しておきたいですから」 「……旦那さんに言うの?」 「事実はご報告します。誰が、どうして、と言った先ほどの推論は僕たちの偏見も大いに含まれますので、それは勿論除外しますよ」 「いやーでもさーそんなんさー普通はさーそういうことじゃん? って思わね?」 「わかりませんよ、本当に特殊な事情があるのかもしれないし、彼にしかわからないこともあるかもしれない。結局僕たちは他人なので、誰の感情も事情もわかりませんので」  まあ、そりゃそうなんだけど。  病院で妻の回復を信じる夫に告げる言葉として、この人が適当なものを選ぶかなぁと思ったら不安しかないんだけど。じゃあお前代わりにやるかって言われたら絶対嫌だから、それこそ他人ごとだと思う事にするしかない。  なんとなく解せない気持ちで件の家を後にしながら、まるで何事もなかったかのようにくろゆりさんは微笑む。  ほんとお前の情緒どうなってんだ。いや、じめじめ引き摺らないところは評価してるけど。 「春日くんは、本日はお仕事ですか?」 「え。いや、俺は今日まるっとオフ。つか、ほら、あのー先月くろゆりさんがぶち切れたアレいるじゃん?」 「……洗面台のゴキブリの話ですか?」 「いやちげーし。つかあんた別にゴキブリに切れてなかったし。冷静に殺虫剤ぶちかましてましたし。アレだよあのほら俺の太腿もんでた奴」 「…………ああ」 「ちょっと待って顔こんわいから落ち着いて。何、思い出すだけでもアウトなの……?」 「基本的に記憶から抹消しています。思い出すと無意識に呪いそうなもので」 「えええ過激派……あんたそんな情熱的だったっけちょまてだから道端で情熱表現かますなぐるぞそのイケメン面。いや、あの、そのほらアレ、あんたが嫌いなアイツがまた通い始めて、本格的に俺に被害出て来たからちょっとしばらく椿ちゃんお家待機して~こっちでどうにかしておくから~ってことになっちまいまして」 「……初耳ですが」 「言ってねーもん、あんたまじで呪いそうだったんだもん」 「しませんよ、とは言い難いです。己でも不思議なのですが、本当に僕はきみのことになると自我が保てない。きみが、大らかで良かったと思う。……許してもらえているから、きみを世間から奪って監禁していないんです」 「こわいこわい。愛がこわい」 「感情なんて高ぶればすべて怖いものですよ。愛でも恋でも憎しみでも妬みでも」  人間なんてそういう生き物ですから、なんてきれいにまとめようとしてるけど、ちゃっかり俺の手を握って『ではしばらくは僕の部屋で生活してくださいますね?』なんてどろっとした声で囁くからやめろほんとやめろと思った。  人の感情なんてものはわからない。事情もわからないし環境だってわからない。  それでも誰かを呪うよりはまあ愛とか恋とかしてた方がマシなんじゃないのと思ったよ。っていう話だった。

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