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花と害虫(有賀×桜介)

「……桜介?」 唐突に名前を呼ばれ、反射的に顔を上げてから、無視するべきだったと後悔した。 春先に出来た恋人や町の知り合いはサクラと呼ぶし、友人の殆どは三浦の姓を呼ぶ。まあ、桜介と呼ぶ人間も居ないことはなかったから、うっかり反応してしまった。失念していた。そういえば、昔の恋人やらも名前で呼ぶ事を、すっかり忘れていた。 目があって、あ、と思ったけれど、今更上げた視線を手元の本に落とすわけにはいかない。 「あー……新條、……さん。どうも。……珍しいとこで会う、ね?」 もう何年ぶりになるかもわからない昔の恋人に、高級ホテルのロビーで会うとは思ってもおらず、対応もぎこちなくなる。 そもそも、何と呼んでいたかすらよく思い出せない。下の名前で呼んでいたかもしれないが、名前自体が思い出せない上に今更そんな風に馴れ馴れしく呼ぶのもどうだろう、と、自分は呼び捨てにされたことにも気がつかず桜介はひたすらに冷や汗をかいていた。 最悪だ。何も今日、こんなところで会わなくてもいいのに。 「本当にな。お前、こういうところ苦手だっただろう。親類と食事会でもあるのか? 友人の式の二次会とか……」 「あー。ええと、ちょっと、夕食の、待ち合わせに。新條さんは、仕事場この辺だっけ?」 「ああ、俺はモデルの御機嫌取りでこれからディナーだよ。新しい写真集の撮影が入っててさ。結構長いスパンでやるから、仲良くなっておかないと」 「相変わらず、忙しそうだなー……」 そうだった、そう言えばカメラマンだった。歯の浮くような台詞と甘く整った顔が相まって、まるでホストのような男だったことしか覚えていなかった桜介は、やっと新條のことをぽつぽつと思い出し始めた。 カメラマンで、夜の街で出会って、短期間とはいえそれなりに真剣に付き合ったような記憶がある。ただ、何をするにも自分は一切悪くないというスタンスを貫く新條に、桜介の方が早々と白旗を上げた。別段酷い浮気をされたとか、暴力を振るわれたということはない。単純に、人間的に合わないと感じた男だった。 「ここ、良い?」 斜め前の椅子を指さされ、イヤですとも言えない。 仕方なく曖昧に頷くと、新條はにっこりと笑って長い脚を組んで座った。 「何、桜介趣味変わった? 随分お洒落な本読んでるじゃん」 「え、うん。ちょっと、知り合いが関わってて、面白そうだったし。まあ、借りモノなんだけど」 「あー、それ、装丁がいいよね。タイトル入れる位置が絶妙でさ。その装丁のデザイン事務所、最近話題で、俺もちょっと注目してるね。あんまり本はしないみたいだから、結構貴重かもよ?」 そんなことは勿論知っていた。桜介が開いている現代小説のデザインは有賀が手掛けたもので、作者が好きすぎて頼みこんでやらせてもらったと珍しく狂喜していた為に気になって、有賀自身に貸して貰った本だった。 そして今日、どこのどういうものがどうなったのか詳しくは知らないがそれなりに名誉な賞を受賞したということで、お祝いがてらたまには外で食事でも、と、桜介をホテルのロビーに呼び出したのもその有賀だった。 昼間に外で打ち合わせがあるから、夕方にこの辺で、と指示を受けたのは一昨日の事だったが、それから必死にクローゼットの中の服と格闘した。そこら辺の飲み屋や軽い食事は何度か一緒に入ったが、有賀が外で夕食を、と誘って来たのははじめてのことだ。特に何も言われなかったので、スマートカジュアルくらいを目処になんとなくジャケットとチノパンを選んできたが、これで正解だったのか既に心臓が痛い。 ただ、その不安感には有賀はどんな反応をするかな、という少々の期待感も含まれていたので、それほど苦痛というわけでもなかった。 今、目の前に昔の男が座って笑顔で話かけてきている、この状況の方が苦痛だ。 有賀は何時に来るのだろう。時間に対してルーズな男ではなかったが、今日は元よりゆっくりとした待ち合わせをしていたし、読書に没頭していて携帯も確認し忘れていた。 トイレに立つのも不自然だ。さっさと新條の相手が来て、さっさとディナーに行ってほしい。一方的に自分の仕事の自慢話を開始している新條に適当に相槌を打ちながら、そういえば自分カッコイイ自分スゴイ系の人だったなぁと苦笑まじりの息をこっそりと吐いてはみたが、新條は気が付くそぶりもみせない。 「しかしこれも縁かなって思うよ。本当に久しぶりだけど、変わってないっていうか、ちょっとかっこよくなったよな、桜介」 「……あー、そう? それは嬉しいかな」 「色気っていうの? そういうのちょっと、感じちゃうね。俺に先約が無かったら、ぜひとも一晩かけて、空白の四年を埋めたいところだよ」 「いや、うん、俺もこれから約束があるから、まあ、そうね、それはちょっと無理かな、と」 「今日はお互い忙しいってわけだ。じゃあ、次の縁を期待してもいい?」 普段、有賀の台詞を痒い痒いと思って聞いてはいるが、自分に好意がない人間のこういう類の台詞は痒いどころではなく正直笑える。 というか、何故勝手に運命を感じているんだこの男は。桜介は連絡先すら消したままだし、今も露骨に嫌がる程の記憶もないので面倒だとは思いつつも適当に流していただけだ。好意をちらつかせたり、フリーを匂わせたりはしていない。なんだったらこれから夕食を約束している相手が居ると言っているのに、新條は聞いていなかったのか。それとも勝手に脳内変換しているのか。 「いや縁は知らんけど、俺今お付き合いしている人がいますんで、そういうの俺はしたくないし」 「じゃあ、大人の時間抜きで飲もうよ。積もる話もあるだろ?」 そんなものは一切無い。 桜介の日常はご近所さんの和気あいあいとしたエピソードしかなかったし、そんな地味な話を頬杖ついて楽しそうに聞いてくれるのは多分有賀くらいなものだ。ご近所ハプニング以外の話となれば、もうその有賀の話くらいしかない。 どうやって逃げよう。もういっそここから出て、有賀に待ち合わせ場所を変えてもらおうか。 そう思いながら固い笑顔を返していた時、新條の視線がすうっと桜介から逸れた。 その視線を辿るように振り向くと、いつもよりもフォーマルなジャケットとシャツを着こなし、颯爽と歩く有賀と目があった。 最悪のタイミングだが、最強の助け船が来た。喜んでいいのかどうなのか。とりあえず、桜介が軽く手を上げて腰を浮かそうとすると、そのまま、とジェスチャーされた。 「まだ時間あるから、ちょっとゆっくりしてていいよ。遅れてごめんね。……こちらは?」 いつも家に居る時よりも、数段優雅に、奇麗に微笑んでいるが、どうにも目が怖い。おそらく桜介が微妙に逃げたがっていたのを察しているのだろう。頭のいい恋人は、すぐに事情を見抜くから困る。 「あー……昔の、友人の。新條サン。カメラマンさんで、これからお仕事仲間と夕飯の待ち合わせなんだってさ。えーと、新條さん、こちら、あー……有賀さん」 「どうも。有賀デザイン事務所の有賀将人と申します。……サクラちゃんの友達に、カメラマンさんがいらっしゃったとは初耳です」 「有賀デザイン……ああ! 貴方がこの本の装丁の! いやぁ素晴らしいお仕事をされると、仲間内でも評判なんですよ! ええと、名刺……おい桜介、なんでさっき教えてくれなかったんだよ。お前、有賀さんと知り合いなのか」 「知り合い……まあ、そう、かな」 ちらりと見上げた有賀の顔は珍しくしっかりと笑っていたが、やはり、目は笑っていなかった。 怖い。とても怖い。それが桜介にではなく、名刺交換をしている新條に向けられている敵意だというのがわかるのが、また怖い。 なんと言い訳しようかと暫く考えてはいたが、歯切れの悪い桜介の紹介で恐らくあまり会いたくない関係の人間だということはばれているだろう。 それに偶然会っただけで、後ろめたいことはない。むしろ気まずかった桜介の気分は、有賀の登場で随分助けられた。 当の新條は有賀がいたく気に入ったらしく、こちらが席を立つまでにこにこと談笑していた。大概はよく聞けば自分の仕事の自慢だったが、有賀は相変わらずの恐ろしい程の笑顔でやり過ごし、どうぞまた機会がありましたら、と奇麗に礼をして立った。 ただし最後に、『桜介さんと出かける際は、僕に許可をお願いしますね。大事な恋人なので』ととんでもなく甘い声で人差し指を立て、桜介と新條を唖然とさせた。 ずるずると引きずられるように桜介が引っ張られていった先はホテルの出口でもエレベーターの入り口でも無く、奥のトイレの個室だった。 まさかトイレで修羅場か、と一瞬ひやりとしたが勿論そんなことはなく、笑顔を引っ込めたいつもの顔の有賀が、急に桜介を抱きしめてきた。 「…………ばか。サクラちゃんの馬鹿。アレでしょ。あれ、昔の男でしょ。なんでこんなとこで遭遇しちゃってるの。サクラちゃんの運の悪さなんなの。でもこんなとこ指定した僕も悪い、ごめんね、大丈夫だった?」 「あのままだと大丈夫じゃなかったかもしれないけど有賀さんがさらっと助けてくれたから無事。俺もまさか、このタイミングで馬鹿なって思った。……有賀さん大丈夫? 声死にそうだけど、やばい?」 「死にそうだよー……嫉妬って、嫌だね。すごい怖い。重い。しかもアレさ、サクラちゃんちょっと口説かれてたんじゃないの? 目がね、向こうはロックオンしてたよ。思わず大人気なくそして映画か小説のようなことをしてしまったくらいには頭にきてました。ごめん」 額をくっ付けて至近距離で謝る有賀が、情けなさそうにしているのがどうにも愛しく、苦笑まじりに良いよと頭を撫でる。 そのままぐったりとしなだれかかってくる有賀に、キスをしたのは桜介の方だ。ゆっくりと唇を合わせると、有賀も腰を支えてくれて、徐々に答えてくれる。場所を選びたかったが、他に利用者も居ないようだし少しだけ許してもらおうと思う。 唇を離した有賀は、ゆっくりと息を吐いて、ゆっくりと桜介の名前を呼ぶ。 「サクラちゃん」 「え、なに?」 「好きって五回言って」 「……好き。ちょう好き。大好き。すんごい好き。有賀さんが一番好き」 「うん。僕もサクラちゃんが大好きなのであの男へのこのどす黒い如何ともしがたい感情をどうにか押しこめてヒトとしての一歩を踏み外さない努力をしたいと思います。あー……くそ。なんだあれ。ほんっと、あー……放送禁止用語を叫びたくなった」 珍しく言葉を乱す有賀が、桜介はどうにもかわいいと思えてしまう。 「なんか、やきもち焼きすぎていらっいらしてる有賀さん、実はちょっとかわいいなって思っちゃうんだけど、汚い言葉は似合わないから駄目な?」 「だってあいつサクラちゃんを桜介って呼んだんだよ」 「……有賀さんも呼べばいいじゃん」 「無理。恥ずかしい。ていうか僕はサクラちゃんってあだ名がね、大好きで仕方が無いしサクラちゃんをサクラちゃんって呼ぶのが好きだし、だけどそれとこれは別でね、既知の友人か親御さん以外に桜介なんて呼ぶ不届きモノは全員世界から滅せろくらいは思ってる」 「案外心せまいっすね」 「とんでもなく狭いですよ。六畳一間もないね。あーまったく苛々したらお腹がすいたよ、もう。サクラちゃん今日は帰れると思わないこと。おいしいもの食べておいしいお酒飲んで全部忘れてふかふかのベッドで僕とセックスいたしましょう」 「うん、いいけど、え……うそ、このホテルとったの?」 「大丈夫。怒られると思ってスイートは外したから」 「…………有賀さんって時々とんでもないことに金つぎ込むよな」 「とんでもないことって何さ。大概サクラちゃん関連だよ」 気持ちを切り替える様にもう一度キスをして、若干乱れたジャケットや髪型を直してくれる。 まだ有賀は苛々しているらしく、いつもの無表情が更に極まっていたが、ぶつぶつと文句を言えば言う程、桜介はむず痒く嬉しいような気分に襲われてしまう。 嫉妬が嬉しいなんて、あまり良くないとは思うけれど。有賀は本当に心から苛ついているのだろうけど。しかし、かわいいと思うし嬉しいと思うのは仕方が無い。 余り喜んでいるのもどうかと思って、何食わぬ顔で夕飯何処行くのと訊けばこのホテルの最上階のレストランだと言われ、足が止まった。 「……ドレスコードとかない、よな?」 「一応無いね。まあ、でも今日のサクラちゃんの格好はスマートカジュアルって感じだから、大概のお店は入れるよ。そもそもサンダルに短パンとかじゃなければ、断られるってことはないし」 「じゃああんま気にして来なくて良かったのか……」 「でもそのジャケットすごくカッコイイから僕は好き。そして更に、お洒落かっこいいサクラちゃんを最初に見たのがアイツだっていうのも腹が立つんだけどね」 名刺は燃やすとでもいいそうな勢いだったので、桜介はそっと手を握って落ちつけ馬鹿と囁いた。 End

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