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ヘリオサ

 王の家、ヘリオスス。  道中でダイハン族の暮らしについて教えながら、これから向かう場所の名をヤミールとカミールはそう呼んだ。  ダイハン族はアトレイア王国の遥か南、乾いた赤い大地の巨岩群に住居を構えて生活している。幌で作ったテントに家族が住み、三百人ほどのダイハン人でひとつの村が構成され、すべてでおよそ五十の村が赤い大地の巨岩群に散っているという。その中のひとつが、ヘリオススと呼ばれるのだと教えてくれた。  「王は五十の村それぞれに長を置き、王はその長たちをまとめています。王が直接治める土地がヘリオススです。ヘリオススは最もよい土地です」  植物の実りにくい乾いた土地、男は狩りへ出て食糧を調達する。その間女たちは子どもや老人を守り、食事の支度をする。貨幣はなく、村間の取引はすべて物々交換で行われる。アトレイアに比べれば原始的な文化だった。  ダイハン族は低脳で野蛮な異民族。アトレイアでは幼少時に庶民の子も貴族の子も必ずそう教育されるし、大人は彼らを侮蔑していた。ブラッドも同じだ。その野蛮な文化の中で一生、おそらく一生過ごさなければならないのかと思うと暗鬱な気分に閉ざされる。  三日月が南北にふたつ繋がったような形の巨岩の陰にヘリオススはあった。巨大なふたつの月が身の内に守るようにして村が広がっている。  日が傾く頃、月の北の先端へ着くと、そこで仕事をしていたダイハンの民たちが手を止めて騎乗の一行を見上げた。ヤミールは先に馬を下り、白馬に跨がるブラッドへ褐色の手を差し伸べた。貴婦人をエスコートするかのような仕草に、ブラッドは力強い眉を顰めた。 「女じゃない。あと、女でも男より秀でた騎手もいる」   同じようにカミールに手を差し出されているグランを見やりながら、ブラッドは軽い身のこなしで赤い大地に降り立った。グランも憮然とした表情で馬から降りる。いつの間にか下馬していたサー・マーティンはブラッドの馬の手綱を奪った。 「ここ一帯がヘリオスス、王の家です。王と女王の住まいは南の方にあります」  ヤミールとカミールが案内する先へついていく。馬を連れた一行が歩くと、褐色の肌と長い黒髪のダイハンの民たちは見慣れぬ色をしたブラッドたちを凝視した。警戒心や敵愾心といったものは感じない。ヤミールとカミールがいなければ状況はまったく異なるだろうが。  先頭を行くヤミールとカミールへ向けて、中には頭を垂れる者もいた。花嫁の従者だ、もしかしたらヘリオススの中では位の高いダイハン人なのかもしれない。  ふたりに対するような態度をブラッドにとる者はいなかった。仮にも彼らの王の妻となる男だが、珍獣を前にしているかのように、じろじろと無遠慮に見てくるだけだった。 「……それにしても」  仕事の手を止めて一行の様子を窺うダイハン人を眺めて、ブラッドは気づいた。 「女と子どもしかいないな」  「戦士はみな狩りへ行っています」 「戦士?」  「ダイハンでは男はみな戦士です」  カミールと同じ白い布のような衣類を巻いて首に留めたダイハン人はどれも女だった。夕飯の支度なのか小刀で何かの実を切ったり、干した獣の肉を削いだりしている女たちの周囲では、十に満たない年頃の子どもたちが甲高い声を上げて走り回っている。   「お前も男だろう。狩りに行かないのか」  「私は戦士ではありません。アステレルラの僕となりました」  「自分で選んだのか」 「ヘリオサに選ばれました。栄誉ある務めです」  ヤミールの言葉の端には時折聞き慣れない単語が入り交じる。ヘリオサとは何かと聞くと、彼は恭しく改まって口を開いた。 「ヘリオサは王のことです。太陽という意味の言葉からきています。私たちダイハン族は太陽神の末裔です」   彼が口にする「ヘリオサ」という言葉には、何か神々しく特別なものの名を囁くような隠微な響きがあった。 「じゃあアステレルラは?」  「星という意味です。私たちは太陽と星の神に仕えます。……アステレルラ。こちらがあなたと王の住まいです」   ヤミールと話している間に北側の月を抜けた。北側は薄汚い幌の住居が点在しているだけだったが、南側は随分と様子が違っていた。  天幕の張られた幕営のような大きな住居がいくつも並んでいる。熱風や砂を防ぐようにしっかりと閉じられた幕は、北側の幌の住居とは異なる。ところどころに煙が立ち上り、女たちが賑やかな声を上げて夕食の準備をしている。子どもたちは手に持った短い棒切れを振り回し、ぶつかり合わせて遊んでいた。  北側と最も異なるのは洞窟だった。弧を描く三日月の巨岩の内側にはいくつか大きな穴が空いており、数人の女たちが洞窟と外を往来していた。 「北とは様子が違う」 「ヘリオススには五百の民がいます。ほとんどの者は北で生活していますが、王と女王、それに近い者たちは南に住みます」 「こっちの男たちも狩りへ?」 「はい。王とともに出かけています」     三日月の中心に近づくと、一行の姿に気づいた女たちが手を止めてこちらの様子を窺った。北の者たちは見慣れない異国人たちを珍しがるだけだったが、南の者たちはその視線の中に品定めするような鋭いものをたたえている。彼女たちの女王がどんな男か、じっくりと見定めようとしていた。より不躾なそれに晒されない場所へ早く逃れたくて、ブラッドはヘリオススを見渡しながらヤミールに問うた。 「俺はどこに住めばいい」    「王と女王の住まいはより安全な場所です。ご案内します――」   ヤミールが案内しようとした時、甲高い馬の嘶きが聞こえてきた。赤い地面の重い轟きが足裏を通って身体へ振動を伝える。周囲のダイハンの民たちが熱心に見つめる赤い大地へ目を向けると、百は優に超えるだろう馬の群れがヘリオススへ向かっていた。 「王が戻りました」   その言葉を聞いてブラッドは身を硬くした。  ダイハン族の王。南に住む蛮族たちの長。これから伴侶となる男。  ブラッドはその男を直接は知らない。アトレイアの南の国境で繰り返される紛争に赴いたことはなかった。蛮族との小競り合いはブラッドの下の武官や騎士に任せていたのだ。書簡や臣下を通してのやり取りで和平を結びこそはすれ、野蛮な異民族の長と相対して言葉を交わすなどもってのほかだった。  厳しく乾いた大地で荒々しい異民族を統べる蛮族の王だ。どれだけ屈強で粗暴な巌のような男が現れてもおかしくない。そのような猛獣のような男と結婚する。考えただけで暑い南の地においても悪寒が走った。  土埃を上げて馬たちがヘリオススの中に駆け込んできた。馬でさえアトレイアのものとは違い、首や脚をぶ厚い筋肉で覆われた体は寸胴で、刃で刺してもびくともしなさそうな印象だった。気性も荒そうだ。  馬に跨がる男たちもみな屈強で、剥き出しの褐色の上半身は盛り上がった筋肉を見せつけるかのようだった。顔つきも峻厳な者が多く、アトレイアの女子どもは彼らを見たら震え上がりそうだ。  あの中に、ダイハン族の王がいる。嘶く馬から下りる男たちを眺めていると、おかしなものに気がついた。 「何だ、あれは……」  主を乗せた一頭の馬の後へ長い縄が伸びている。土に汚れた縄の先を目で追うと、細長いものが繋がれている。砂と赤い液体に塗れて子細はわからないが、おそらく人だ。  グランがそっと顰め顔を近づけてブラッドに耳打ちした。 「おそらく同胞への制裁でしょう。ダイハン族は何より掟と誓いを重視し、破った者には容赦がないと聞いたことがあります」  「……破ったら、俺もああなるか」  繋がれている者はすでに人間の姿を保っていない。どれだけの距離を馬で引き摺られたのか知らないが、馬の脚力と速度で引かれては摩擦で全身の皮膚が剥がれ、肉は固い大地に削られ、知らぬ間に息絶えていたことだろう。  和平の証としてアトレイア王国の第二王子を嫁がせる。花嫁の正体が誓約と異なる人物だと知れた時、ブラッドの身柄はどうなるだろうか。  死体を繋いだ黒い馬に乗った男が大地に降り立ち、ブラッドたちのもとへ近づいてくる。大股で地を裂くような男の歩みへ道を明け渡すようにダイハンの民たちは左右へ分かれ、顔の前で手を組んで頭を垂れた。ブラッドを威嚇するようだった女たちが恭しい仕草を取るのを見て、その男が何者かわかってしまった。 「ヘリオサ」  ヤミールとカミールが顔を伏せて王の名を呼ぶ。男は女王の僕たちを一瞥した後、赤い瞳をブラッドへ向けた。男の目線の高さはわずかに見上げるほどで、ほとんどブラッドと変わらない。  美しい男だった。目頭から緩い弧を描く眉、宝石のような赤い瞳が嵌まる目は、猛禽のような鋭い眼力でブラッドを見据えた。縁取る睫毛は濃く、鼻は高く、彫りが深い。厚めの唇は左右に引き結ばれたままぴくりとも動かない。  長く波打つ前髪を掻き上げた額は秀で、漆黒の髪は腰辺りまで伸び、項で紐が束ねている。ダイハンは男も女も長髪だが、男の中では彼の髪が最も長く艶があった。  美しいといっても、それは女性的な美しさではない。ブラッドもアトレイアでは男前だと評されたが、ダイハンの王は言うなれば美丈夫。他の男たちと同じように剥き出しになった褐色の上半身は逞しく、鍛え抜かれた上腕や肩や首は太い。 「……」  王の鋭い視線がブラッドを這う。カミールがダイハンの言葉で王に何かを説明するが、耳を傾けているのかどうか、王に反応はない。  品定めするような視線は居心地が悪いが、ここで臆してしまえば軟弱者だと思われて舐められる。これまでの激しい実戦で作られたブラッドの体躯は、数多の戦士の長だという目の前の王に劣らない。ブラッドは黙して全身を舐め回す男を堂々と睨み返した。  すると王は小さく鼻を鳴らし、にわかにブラッドの脇をすり抜けて赤い巨岩の方へ去って行った。洞窟へと入って行く王の後ろ姿を見ると、その手が真っ赤に濡れている。何の血か、あるいは誰の血か、問わずともわかる。 「……あれが王か」 「我らのヘリオサ、名をクバルといいます、アステレルラ」  ヤミールが去った王の名を告げる。ブラッドは王が消え入った洞窟の先へ険しい目を向け、王の名前を口の中で反芻した。

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