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王の決闘*流血描写

 男は手にした剣の切っ先を王へ向け、ダイハンの言葉で唾を飛ばして怒鳴り散らした。クバルは黙って険しい表情で彼を見上げ、ダイハンの他の者たちは彼らの行動に何も言わず黙って事の成り行きを見つめていた。  ブラッドは混乱を顔に出さぬよう努めながらも、一体どういう事態なのか理解できない。これも芸のひとつか。  じっと息を潜めているとクバルはおもむろに立ち上がり、剣を抜いた。アトレイアから献上されたものではなく、自らの腰に差していたものだ。ファルカタと呼ばれる長く湾曲した剣は、ダイハン族が戦の際に使用しているものだった。  クバルが料理の並べられた卓を跨いで反対側まで出ると、男は獣のように唸りながら後退した。男に付き従っていたダイハンの戦士たちは左右に下がった。 「おい……一体何が起こってる」  隣に屈んだヤミールがそっと耳打ちした。 「決闘です、アステレルラ」 「決闘だと? 婚礼の日にか? これもダイハン族の伝統か」   流血を好む野蛮な民族ならばありえる。理解はできないが。そう思っている間にも、ダイハン族の男と王の決闘は始まった。  決闘を挑んだ男はクバルよりも大柄で、巌のような体つきをしていた。その巨体から振り下ろされた剣をクバルは片手で受け止め、右へ流した。キン、と甲高い音が祝宴の間に鳴り響く。着飾った女たちは悲鳴を上げて宴の場から遠のいていく。 「婚礼の儀の最中に決闘を行うのは伝統ではありません」 「じゃああの男は王に因縁でもあるのか。わざわざ祝宴の最中に割って入るほど」  男とクバルが激しく打ち合う。賓客席で食事をしていたシュオンの前に、その身体で守るように騎士が進み出る。シュオンも騎士も明らかに困惑していた。アトレイアで同じ事態が起これば不敬罪で罰を受けることになるだろう。絶対に起こりえない事件だ。 「私たちは決闘によって王を選びます。ダイハンの民は強い者しか認めません。あの男は以前からヘリオサ・クバルを殺して自らが王になると公言していました。まさかこの祝いの日に挑むとは思いませんでしたが」  もとから最悪の婚礼だったが、ますます最悪になった。  どうでもいい、早く終わればいいと投げやりになっていたところだが、自分の婚姻を血で汚されるという辱めを受けて何も思うところがない訳ではない。しかも流血を伴う決闘で剣を握っているうちのひとりはブラッドの夫となる男だ。こんな酷い結婚があるか。  湾曲した剣と剣が激しくぶつかり合うのを、ダイハンの民たちは批判するどころか歓声を上げて楽しんでいる。酒を酌み交わし、太鼓の音まで聞こえ始めた。彼らにとってこの決闘は遊興だ。  ――血を好む蛮族。酷い場所に嫁いでしまった。  わあ、と男も女もひときわ喧しい声で騒いだ。挑戦者の男の膂力は規格外のもので、クバルが押し負けているのだ。クバルの肉体も屈強だったが、それより一回りでかい巨体の男はまるでカバだ。不意に不安がよぎる。 「仮に、王が死んだら俺はどうなるんだ」 「新しい王は前の王の所有物についてすべての権限を持ちます。アステレルラはヘリオサの持ち物となっています」 「つまりクバルが負けた時は、あの大男が俺の処遇を決める訳か。今まではどうだったんだ」 「大抵は、新しい王は前のアステレルラを殺しています」  躊躇なく口にするヤミールの言葉に、一瞬心臓が冷たくなった。  殺される。望まぬ地に嫁いだばかりで、婚礼の祝宴の間に。  硬い表情をしたグランが、決闘の様子を見据えながらそっと顔を近づけてきた。 「あの男を殺しますか」 「馬鹿、決闘の中に割って入ればお前が真っ先に殺されるだろうが」 「では」 「……『俺の夫』が勝つのを祈るしかないだろう」  悔しいが、ブラッドの命運はクバルにかかっている訳だ。彼の勝利を願う以外にブラッドにできることはない。  その時、クバルが弾き飛ばされた。賓客席の卓へと仰向けに倒れ込み、飲み物の注がれた杯や果物の乗った皿が姦しい音を立てて地面へ落ちる。ダイハンの者は短い悲鳴を上げたものの、見世物として退屈しない展開を見せる決闘に期待の声を上げた。言葉のわからないブラッドでも彼らがどういう意味の言葉を言っているのか想像できる。  挑戦者の男が仰向けになったクバルの喉元に剣を突き刺そうとファルカタを振りかぶる。危ないと思った瞬間、クバルは男の足元を長い脚で払い、巨体を地面に転ばせた。観衆から喜色に満ちた歓声が上がる。遊戯として楽しんでいながらも、一応彼らは自らの王を応援しているらしい。いつの間にかブラッドの息も上がっていた。 「勝つでしょうか」 「勝ってもらわないと困る」    クバルが死に、新しい王にブラッドが殺されたとしたら、アトレイア王国が和平を破ってダイハン族に攻め込む大義名分を得ることになる。そうなると喜ぶのはシュオンだ。ブラッドを殺し、ダイハン族を駆逐することができるのなら彼の本望だろう。弟の望み通りに事態が動くことだけは我慢ならない。  劣勢から立ち上がったクバルは、再び身体の前に剣を構えた。男と刃を交わす度、褐色の身体に纏った筋肉が力強く蠢くのをブラッドはただ黙って見ているしかない。  男が突然足元のわずかな砂を蹴り上げた。宙に舞った砂塵はクバルの視界を奪う。卑怯な攻撃にふらついたクバルを、男は大木のように太い脚で蹴り飛ばした。ブラッドの目の前にあった皿や杯が薙ぎ倒され、卓の角に後頭部を打ったクバルと一瞬だが視線が交わる。ヘリオススに着いた日以来、初めて目が合った気がした。こんな危険な状況で初めて相対するなど、おかしいとしか思えない。  クバルはすぐに立ち上がろうとするが、男の攻撃の方が早かった。卓の上のクバルの頭部目がけてすでに剣を振り下ろしている。  ――殺される。  口を半開きにして光景を見つめるブラッドの前で、クバルは屈んだ体勢から剣を投げた。ドッ、という鈍い音とともに湾曲した剣の半分ほどが男の腹に埋まっていた。動きを止めた男が呆然と自らの腹を見下ろす。クバルは刺さった剣の柄を握り締めて抜き、間髪置かずに刃を真横に薙ぎ払った。  巌のような顔つきの男の首が落ちる。首を失った身体が重い音を立てて地面に膝をつき、肉と骨が覗いた断面からぴゅうぴゅうと血飛沫が噴き出した。赤い血液はクバルの身体を濡らし、そしてブラッドの頬にまで飛んだ。温かくねっとりとした液体が顔を流れてゆく。  一瞬の沈黙の後、大歓声が祝宴の間を包んだ。興奮した雄叫びを上げてダイハンの民たちが王を褒め称える。ヘリオサ、ヘリオサ、何度も王の名を叫んだ。決闘に勝利したクバルはダイハンの民たちの歓声には応えず、全身に浴びた返り血もそのままにブラッドの隣の、王の席へと戻って腰を下ろした。  ありえない。狂っている。こんな野蛮な男の妻になるのか、俺は。  呆然と隣の夫を見やるブラッドの頬を、カミールが恭しい手つきで布で拭った。顔を強張らせていると、大歓声に包まれる中、賓客席の中で立ち上がる者があった。 「お見事でした、クバル王」  立ち上がったシュオンは高らかに拍手をした。ブラッドは弟の姿を見つめ、警戒しながらも息を落ち着けようと深呼吸する。  ダイハンの者たちの注目を集めたシュオンは、滑らかな声で話し始めた。 「本日は大変めでたい日です。我が弟シュオンと、誇り高い戦士ダイハン族の王が結ばれた。すばらしい決闘でした。やはりクバル王は我が弟の夫に相応しい強い男です」  クバルを褒め称えるシュオンの言葉を、通訳士がダイハンの言葉に訳して伝える。 「アトレイアとダイハン、我々の絆は強固になります。何かお困りのことがございましたら、我がアトレイア王国に助けをお求めください。弟と、王のために、すぐに参じます」    いけしゃあしゃあと言う。ブラッドは猛禽のような鋭い視線で弟の姿を睨みつけた。視線に気づいたシュオンは、ブラッドと同じ色をしたグリーンの瞳で笑いかけた。その柔らかさに背筋が冷たくなる。 「ですが、この場で誓いを立てて祝宴を開いただけでは結婚したとは言えません。夫婦になったのならば寝床をともにしなくては」  ――何を言い出すのか、この男は。   通訳士がダイハンの者たちと王へ向けてシュオンの言葉を伝えるのを、ブラッドは信じられない気持ちで見ていた。 「男と女は床入りをしてから初めて夫婦と呼べます。王と女王もそれは同じ。女王が女でなく男であってもそれは同じです。そうは思いませんか」  アトレイアの王子の問いかけに、ダイハンの者たちは興奮気味の声を上げ始めた。みな一様に同じ言葉を叫んでいる。理解できない言葉だが、何となく意味はわかる。シュオンの言葉に同意を示している。 「ふざけたことを抜かしやがって――」   怒りに声を上げようとした瞬間、肩を掴まれた。振り向くとグランが何とも言えない苦い表情をしている。 「殿下……歯向かうのは得策ではありません」  苦々しい声でグランが耳元で囁いた。 「アトレイアの王子が命じれば、あそこに控えている百人の兵士はダイハンの民を皆殺しにすることもできます。その中にはきっとあなたと私も含まれます」 「……クソが」   悪態を吐いたところで事態が好転する訳ではない。それでもブラッドはこの状況に唾を吐くしかなかった。  ダイハンの民たちが声を上げて急かすのを憎々しげに睨めつけていると、不意に横から腕を引かれた。体勢が崩れた瞬間、身体がふわりと浮き上がった。急に視線が高くなり、渋い表情をしたグランの顔が遠ざかる。 「……!? っ、おい」   ブラッドはクバルの肩に担がれていた。まるで荷物でも運ぶような気安さだが、鍛え抜かれたブラッドの体重は決して軽くはない。クバルは同じくらいの体格のブラッドを難なく持ち上げ、そして歩き出した。向かっているのは王と女王の住まい、赤い巨岩の洞窟だ。 「クソッ、下ろせ! 蛮族が、あいつの言葉を本気にするのか!」     ブラッドが暴れてもクバルはびくともしない。決闘で殺した男の血に濡れた身体で担ぎ上げられるのは非常に不快で、抜け出そうと動くとぬるぬると滑り、クバルは腕に持ったブラッドの太腿を強く拘束した。  ダイハンの民たちの歓声の中、ブラッドは洞窟の中へと運ばれていく。遠のいてゆく弟が笑っているような気がした。

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