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指南

 ダイハン族とツチ族の戦闘を背後にしながら、縛りつけられるように馬に乗せられたブラッドは、隊列の目的地である次の村へ先行することとなった。護衛もとい見張りの戦士たち数名と、グラン、ヤミール、カミールをともにして。  ただならぬ様子で村へ駆け込んだヘリオススからの一行を迎え入れた村の代表者は、戦士たちの無事を祈った後、用意された天幕の先へブラッドを案内した。 「彼は申しております。ヘリオススからの長旅、お疲れでしょう。そのうえ、道中でのツチ族との衝突。心中はお察しいたします。ですが心配はありません、あなたのヘリオサは必ずツチ族を掃討し、アステレルラのもとへ無事帰還なされます――」  ヤミールの通訳をすべて聞く前に、ブラッドは代表の男の前を大股で素通りした。集まった村の者たちが徐々にひそひそと囁き合うのも気に留めず、荒々しく幕を裂いて天幕の中へ入る。日光を遮断した屋内はいくらか涼しかったが、昂った感情を諌めるには程遠かった。  天井は低いが面積の広い室内の奥に置かれたベッドまで行くと、ブラッドは毛皮の敷かれた硬い岩の上に身を投げ出した。 「アステレルラ」  僕の声が遠慮がちにかけられる。腕で目元を覆った視界は何も映さないが、足元にヤミールとカミールが佇んでいる気配がする。彼らは忠実で、皮肉にも、いかなる時も女王の傍を離れようとしない。  言葉を交わしたくない。ひとりになりたかった。だが無意識のうちに、身の内を苛む蟠りが口をついて出る。 「俺の役目は王を慰めることだけだ」 「アステレルラ」 「わかっている」  クバルを打った右の拳がまだ熱を持っているような気がする。身体の内側を焦がす憤りと屈辱に震える掌をぎゅっと握り込んだ。  あの目だ。ブラッドを見下ろす王の瞳。どこまでも深く、底冷えする鮮烈な赤。あの目はブラッドの自由を奪い、自由であろうとすることを許さない。 「一体何の意味がある? 和平の証だという花嫁に」  こんなことで保たれるアトレイアとダイハンの平和など壊れてしまえばいい。獣の交尾の上に築かれた、野蛮で下品な偽りの平和など。 「……ヘリオサがあなたに酷く当たるのは、ダイハンの民を思ってのことです」  思いがけず足元から届いた声に、ブラッドはおもむろに目元を覆う腕をよけ、下目に僕の姿を見た。慰めにすらならない言葉だ。 「俺をいたぶればお前らに良いことがあるのか?」  ヤミールは首を横に振る。違います、と否定を呟いて続ける。 「ヘリオサのご両親は先代のアステレルラに殺されました」 「……へえ」  殺された事実よりも、両親という単語がうまく咀嚼できない。生まれながらにして絶対の王であったかのような男に、彼を生んだ父と母がいることに違和感を覚える。  寝台に肘をついて上体を起こし、淡々と言葉を紡ぐ僕を見やる。 「先代のヘリオサの妻である先代のアステレルラは勇ましくも、お優しくはなく、横暴な方でした。戦士たちや民に難題を与え、それを叶えない者は処刑したのです」 「クバルの親も処刑されたのか」 「そうです。他の者たちも大勢殺されました。ですから、ヘリオサ・クバルは自らが王になられても、ご自分のアステレルラに権力を与えることを快く思っていませんでした。先代のようになることを危惧しておられるのです」 「俺が無闇にダイハンの民を殺すとでも思っているのか?」  口にしてからブラッドは、いや――と自らを冷笑した。頬の筋肉が引き攣り、捻れた笑みが出来上がる。  弟のシュオンは言っていたではないか。槍試合で騎士を無惨に殺し、罪のない民を大勢処刑台に送るという罪を犯したと。あの日、玉座の間で、大勢の臣下の前で罪を明らかにされたではないか。  それに、ダイハンの民を殺してきたことに変わりはない。彼らは自分たちの一族へ嫁いだのは戦を主導した男の哀れな弟だと思い込んでいるが、真実は異なる。国境付近の戦闘へ派兵を行ったのは、今はシュオンを名乗るブラッドだ。彼らはそれを知りえないだけで。 「ヘリオサは心配しておられるのです。ダイハンの民が、再びアステレルラに傷つけられるのではないかと。ましてやあなたは敵であったアトレイアから嫁いでこられた王子であられます。ヘリオサは牽制しておられるのです」  いつになくヤミールは饒舌だ。抑揚の少ない静かな響きの裏には、自らの王を信じ庇うような切実な色がある。 「牽制のために、俺を縛りつけて自由を奪い犯すと?」  ブラッドの繕わない問いに、ヤミールは長い睫毛を伏せる。慎重にベッドの縁に腰かけ、声を潜めた。 「我々にとってヘリオサはすべて。ヘリオサがお決めになったこと、ヘリオサがなされることはすべて正しい。……ですが、ヘリオサのあなたへの扱いは、適切であるとは言えません」  手放しに王を崇め王に服従していた青年が零した本音らしき言葉に、ブラッドは眉を顰める。 「望まぬ婚姻といえど、あなたは女王。王の唯一の妻。あのような扱いを受けることなどあってはならないのです」 「だからと言って、お前らが諫言してくれる訳じゃないだろう?」  僕は僕だ。ユリアーンのような、クバルの信頼を得ている腹心の戦士ではない。ただ王の命令に従い、女王の世話をするのが彼らの唯一の務めだ。 「王の愛を受けることができるのはあなただけです、アステレルラ」 「……愛?」  突拍子もない返答に、その馴染みのない単語を繰り返した口が歪む。は、は、と思わず乾いた笑いが引き攣った唇の端から漏れた。 「あの男に一滴でもそんな感情があれば、俺は今言ったような不適切な扱いは受けてない」 「あなた自身が王から得るのです、アステレルラ」  確信を持ったような口ぶりは至って真剣で、ヤミールの表情を見たブラッドは不自然に吊り上がった口をぎゅっと引き結ぶ。 「俺を犯す男から愛を得ろと? 無茶なことを言うな」  できもしないし、したくもない。クバルの方にも、ブラッドに与える愛など、そのような温い感情の源泉すら持ち合わせていないだろうに。  ヤミールは、おもむろに細い腕を動かし、無気力に投げ出されたブラッドの手をそっと握り込む。 「戦に出られずとも、アステレルラであるあなたは王を手玉に取ることができます」 「どうやって」  ヤミールは薄い唇を結んだまま、じっと女王を見つめる。しばしの静寂の後、思い当たったブラッドは「冗談だろ」と苦い声を絞り出した。 「私たちがお教えします」  兄に寄り添うカミールも確と頷く。 「そんなおぞましい手を使ってまであいつに媚びたくねえ。今日も同じだ、クバルは俺の話も聞かず乱暴に犯す」 「おぞましくなどありません。ヘリオサの心に触れるには必要なことです」  ちりちりと喉元がむず痒い。ヤミールは至極真面目に提案している訳だが――彼らの案は気が乗らない。そもそもクバルと心を通わせる必要などない。グランも言っていたが王と仲を深めるなど、誤ってもありえないのだ。 「自ら股を開いて王の機嫌を取れというのか」 「あなた自身のためでもあります。夜伽を楽しめるようになればアステレルラの負担も減ります」  岩のベッドに押し付けられ、後ろから貫かれる痛みと屈辱を思い出す。自分はこの男の支配の下にあるのだと強制的に思い知らされる行為を毎夜繰り返し、身も心も疲弊していた。 「愛なんてものはいらない」 「……アステレルラ」 「だが、あいつに道具のように扱われるのは気に食わねえ」  絶望の中でわずかでも溜飲を下げる方法を見つけようとするならば、他に手立てはない。組み敷かれるのも媚びるのも同じ屈辱でしかないが、一生組み敷かれるのと一時辛抱して相手に媚びるのとだったら、後者を選んで出し抜く機会を窺うのが賢いやり方だ。 「クバルと仲良くするなんて冗談でもあり得ないが、この境遇に甘んじるつもりもない。……お前らのやり方に従う」 「賢明なご判断です、アステレルラ」 「俺はあいつに屈しない。あいつのものにはならない。そのためにお前らのやり方を教えろ」 「仰せのままに。我らのアステレルラ」  頭を垂れ、ヤミールは口元に笑みを浮かべた。悲しげに歪められたものだったが、初めて見せた微笑みであることに違いはなかった。

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