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黒髪

 ユリアーンやグランが天幕に来るのだから、当然他の民たちもすでに起床して食事を済ませ各々の仕事に取りかかっている時間帯だ。だが村人たちのテントから離れた女王の天幕まで届く騒々しさは、明らかに異質なものだった。 「何事だ」  昨日のことがあるので敵襲なのではないかと案じてしまう。訝って天幕の入り口の布を押し上げると、太陽が目を刺してくる。眩しさに目を顰めながら外の様子を窺うと、離れた場所に民たちが集まっていた。  ひとりを中心にして取り囲むように十数人、それを離れた場所から様子を窺う人々、村の炊事場からも何事かと駆けつける者もいる。 「殿下、これを」  グランが背後から肩に毛皮をかけてくる。それを引っ張って身体をくるみ肌を隠す。天幕の外に出るとこちらに気づいたらしく、人垣の中からひとり飛び出して駆けてくる者がある。ダイハン族らしからぬ短髪の少年、アルだ。  彼が近づいてくると、胸の前に掲げた手の中に何かが握られていることに気づく。 「アステレルラ、おはようございます」  足を止めたアルは息を切らしながら頭を下げた。再び上げた顔には動揺と不安が色濃く表れていた。ブラッドは彼のただならぬ様子よりも、開いた手の上に載ったものを認めて眉を顰めた。 「……何だ、それは」  問わずとも見ればわかるものだったが、思わず口に出して確認していた。  黒い毛束だ。上腕ほどの長さのある、艶のある毛束。遺物のように、小さい手の上に載っている。  嫌な予感が巡る。  顔を強張らせた女王を見上げながら、アルは引き結んだ唇を開いた。 「これは、ツチ族がきた跡です」 「来たのか、この村に」 「間違いありません。ツチ族は多民族を攫う際に、その者の頭髪を切り落とすんです。俺もそうでした」 「じゃあ、これはこの村で誰かが拉致されて残していったものか」  ブラッドは胸がざわつくのを感じていた。まさか、と思う。想像の通りであって欲しくないが、いつもより大きく聞こえる自分の心臓の音がうるさい。  不意に、視界に入り込む姿があった。民が集まるテントの方向とは逆の方角から、歩いてくる大きな身体。つい先刻に女王の天幕を追い出された男とともに、騒ぎを聞きつけたのか近づいてくる。 「……クバル」  昨夜の情動など微塵も感じさせない仏頂面で、アルの傍らに立つ。衣服ではなく毛皮を掻き合わせたブラッドの姿にわずかに顔を顰めた。不意に視線が交わるが、言い様のない居心地の悪さを感じてすぐに目を逸らした。  これまでの夜と何ら変わらない。女王の務めとして王を受け入れただけのこと。そう自分に言い聞かせても正面から顔を見るのは憚られる。  アルがダイハンの言葉でクバルとユリアーンに説明する。ブラッドも視線は合わせずアルの言葉に続けて言った。 「ヤミールとカミールがいない。いつもなら必ず俺が起きる前から傍にいる筈が、今日に限って服も用意せずに、姿が見えない」  アルの言葉通りなら、彼が手にしている頭髪はふたりが拉致された痕跡である可能性が高い。普段から村への襲撃が日常的なものなのかどうかはわからないが、大事であることには違いない。  クバルが重々しく口を開く。 「あのふたりにはお前から目を離すなと初めから言ってある。自ら俺の命令に背くことはありえない」 「それは俺を監視するためか」 「そのつもりで僕を命じた」 「釈然としねえが……確かに俺の知る限りではふたりはお前に逆らわない」 「ツチ族に攫われたと見ていい」  自らの役目を放棄することは断じてないだろう。仮にそうだとしても理由が見当たらない。  ツチ族の報復の被害にあったのだ。 「アル、この髪の毛はどこに落ちてた?」 「村の東の方にある巨岩の裏です」 「わざわざ痕跡を残して挑発してるってことはふたりは殺されてはいないだろうが……早く見つけないと」  会話の内容を理解しないユリアーンが不意に低く唸る。クバルが説明すると、王の腹心は腕を組んで鼻を鳴らした。つい先刻も向けた不愉快な視線でブラッドを睥睨し、ダイハンの言葉で皮肉を口にする。  いつもならヤミールが通訳してくれるが、敵に攫われ隣にいない。 「アル、奴は何て言ってる」  昨日加わったばかりの少年に代わりを求めるが、アルは小さな口を歯切れ悪そうに歪ませてブラッドを仰ぎ見るだけだった。ユリアーンのこちらを侮った不敬な態度や言動には慣れている。「構わん」とぶっきらぼうに促すと、アルは恐る恐る口を開いた。 「たかが女王の下僕ふたりだ、いくらでも替えはきく、助けに行く必要はない、と……」  こめかみがぴくりと引き攣る感覚がある。ブラッドは蛇のような赤い目を睨みつけ、気に食わない王の腹心ではなく、ダイハンを統治する王本人を正面から見据えた。 「ヤミールとカミールは俺の僕だ。助けるかどうかは俺が決める」 「……」  王の鮮血の瞳が無言で見下ろしてくる。そこに宿る感情はやはり読み取れない。 「見捨てろと言われても俺は探しに行く。俺は俺のものを見殺しにしない」  確かに女王の下僕などいくらでも替えがきく存在かもしれない。ダイハンに嫁いできたばかりの頃なら、自分の僕が行方不明になり入れ替わろうと何も感じなかっただろう。だが今は違う。王の命令であろうと自分に尽くしてくれたふたりが、敵に拉致され危険な状況に陥っている可能性を思うと、無視できない。  決して譲らないと強い眼差しで貫くと、クバルはかすかに目を伏せる。思案しているらしいクバルに隣のユリアーンが再び言葉をかけた。  王が視線を上げ、ブラッドの緑の目と交錯した。 「――ふたりは探す。仲間が攫われたまま黙っているのはダイハンの戦士ではない。民たちも憤っている。他にも攫われた者がいるかもしれない」  ほ、と浅く息を吐き出す。安堵したのも束の間、クバルは厳しい語調で続けた。 「だがお前は連れて行かない。お前はここで待て」 「……何だと?」  思ったよりも低い声が喉から漏れ出た。空気に痛みが走る。  唐突に変わった剣呑な雰囲気に、傍でアルが息を飲み込む音がする。 「何もせずただ黙って待っていろと?」 「アステレルラが赴く必要はない」 「俺の僕のことなのに、必要ない? 俺に自由を与えるのがそんなに不安か」  剣は必要ない。女王の務めは一日中安全な場所にいて、夜は王に犯されることだけ。昨夜、行為の前にクバルに確認したことだ。――昨夜を経ても、王の考えは変わらない。 「お前の望み通り、剣は持たない。戦わない。見張りをつけてくれても構わねえ。そこまでは譲歩してやる。だが俺を置いていくのには納得しない」  クバルの瞳を睨むと、赤色が一瞬揺れる。 「何と言おうと、俺は戦士から馬を奪ってでも行く。自分の僕が敵に拉致されたのに黙っていられるか」  胸倉を掴み上げる勢いで捲し立てる。見つめ合うこと数秒、クバルは不意に視線を逸らして低い声で漏らした。 「……わかった」 「!」 「ただし同行するだけだ。常に見張りはつける。勝手な行動は許さない」 「ああ、それでいい」  今度こそ胸を撫で下ろす。頭ごなしにブラッドの自由を制限しようとしていたクバルが、初めてブラッドに許可を出したのだ。  察したらしいユリアーンがクバルに抗議の声を上げるが、王は片手を掲げて制しただけで、決めたことを覆そうとはしなかった。 「四方に斥候を出す。夜間には村を発ちふたりを奪還しに行く。それまでに準備をしておけ」  簡潔に告げ、王は身を翻した。不安と憤りを露わにする民たちが集まってくるのに大声で叫び、集結したヘリオススの戦士たちに指示を与えている。  隣に立つグランが、緊張が解けたようにほうと息を吐いた。 「まさかヘリオサが殿下の仰ったことを許すとは思いませんでした」 「俺もだ」 「ヘリオサは何か変わられましたか」 「……さあな。知らん」  従者の問いに言葉を濁し、ブラッドは羽織った毛皮を掻き合わせて踵を返す。出立の準備をする前に、服を探さなければならなかった。

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