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 そろそろツチ族の野営地に到達した頃だ。松明の炎に照らされた野営地の開けた場所に確認できるのは、見張りらしき数人だけだった。おそらく大半が天幕の中にいるのだろう。クバル率いる少数部隊と襲撃をしかける本隊は付近の暗闇に潜んでいる。  じっと様子を窺っていると突然、激しい咆哮が響き渡る。それへ呼応するようにいくつもの野太い雄叫びが暗闇の中から上り、間もなくしてぽつぽつと悲鳴が響いた。 「始まりましたね」 「……」  奇襲作戦が開始したのか。だがそれにしては様子がおかしい。ツチ族の天幕に火をつけるのではなかったか。火の手は上がっておらず、見える光は松明の炎だけだ。見張りのツチ族たちに狼狽している動きもない。  ブラッドとグランとともにいた戦士たちが、じっと目を凝らして野営地を睨んでいる。彼らにはブラッドたちには見えないものまで見えるらしい。近くにいた男は弾かれたようにダイハンの言葉を口走り、素早く馬に飛び乗った。他の戦士たちも続いて馬に飛び乗り手綱を握る。  ただごとではない様子の戦士たちを見上げると、その中のひとりが訥々とした共通語で「ここで、待て」と言い放ち、手綱を引いた。馬は小石を転がしながら斜面を駆け下りて行く。他の戦士も彼に続いてツチ族の野営地へ下りる。残されたブラッドとグランは戦士たちの急く背中が闇に溶けるのを見送るしかなかった。 「さっきの雄叫びはダイハンの戦士ではなくツチ族のものか」 「まさか」 「奇襲が予測されていたばかりか、その奇襲が伏兵にでも襲われたか……?」  野営地の様子を窺っていると、松明の炎が揺らめいて天幕に移る。何者かが転ばせたらしい。炎はみるみる燃え広がり、隣り合う複数の天幕に燃え移って野営地の半分が巨大な炎に包まれた。本来は、これが作戦の始まりだった。  炎が大きくなったことで、辺りの様子がはっきりと見えるようになる。暗闇に包まれていた巨岩の陰や天幕から離れた地点まで、橙色に照らされている。 「おい……話が違うだろ」  ダイハンの戦士とツチ族の男たちが刃を交えていた。やはり、奇襲をかけようとしたところを逆に奇襲されたようだ。天幕の中にツチ族はおらず、みなダイハンを待ち構えていたらしい。だがブラッドが目を留めたのは戦士たちがツチ族の伏兵に見舞われた状況ではなく、敵の数だった。  二十なんて数じゃない。ざっと目算しただけで――こちらと同じか、上回る。 「斥候の報告と違うぞ」 「まずいですね。例え上手く事が運ばなくても数で押し切れる算段でしたが、これでは」 「……ヤミールとカミールは」  ふたりがいるとしたら天幕の中だ。その半分には炎が広がり天高く橙が躍り上がっている。  たった今駆け下りて行ったダイハンの戦士たちはまだ炎に包まれていない天幕を確認しようと向かうが、突然飛び出してきたツチ族によって阻まれる。戦士の多くは馬から転げ落ち、襲いかかるツチ族に対して、本隊の戦士同様に劣勢を余儀なくされる。  炎が燃え広がる範囲と速度は時間とともに増していく。倒れる戦士の数も増していく。  もし作戦が失敗しダイハン族が窮地に立たされた場合は、高地で待機しているブラッドたちが最も近い村へ走り情報を伝える。状況次第で新たに戦士たちを加勢させるか、あるいはツチ族の攻撃に備えさせ野営地から撤退してくる王たちを迎える。そういう手筈になっていた。しかし。 「俺も下へ下りる」 「……今なんと?」 「下へ下りる。グラン、お前は馬を走らせてダイハンの劣勢を伝え加勢を呼んでこい」  簡潔に伝えると、グランは理解できないという風に顔を強張らせた。 「いえ、殿下も私とともに伝令を」 「俺はふたりを探しに行く。今燃えている天幕の中にいるかもしれねえし、そうじゃなくてもじきに燃え移る」  本来の作戦で奇襲をしかけるのと並行してふたりを救い出す算段なのだ。しかし逆に伏兵に見舞われたこの状況では。 「早くしないと手遅れになる」 「行ったところであなた武器持ってないでしょう。ツチ族に襲われたら応戦できませんよ」 「お前のを借りて行く」 「嫌です」 「なぜだ」  緑の瞳で睨みつけると、従者の女は怯むことなく、目の周囲の筋肉を強張らせて視線を返してくる。 「私の使命はあなたをお守りすることです、殿下。危険だと知りながら向かわせることはできません」  遠くの野営地からぱちぱちと炎の爆ぜる音が耳に届く中、静かに、だが緊張感に満ちた硬い声音でグランは言い張る。 「お前の言い分はもっともだな」 「ええ。ですからともに村へ引き返しましょう」 「お前の使命が俺を守ることだというのと同じように、俺の使命は……ダイハンの女王として民を守ることだ」  それが決まりだとでも言うように言い切ると、グランは驚いたようにほんの一瞬息を止めた。  一体どの口が。自分でもそう思わずにはいられない。自ら望んで就いた地位ではない。ダイハンの女王など、卑しい蛮族の王もその民も嫌悪の対象だった。   どうしてしまったのだろうか。忌避すべきもののために自らの身を危険に晒そうとしている。 「引き返してしまったらふたりはきっとあの炎の中で焼け死ぬだろう」  このままでは民を、ヤミールとカミールを守れない。クバルには、剣を持たず戦わない代わりに同行させろと頼み、約束した。だがその王の安否も炎の陰に隠れてわからない。  ならば自分が、女王が、約束を破ってでも行くしかない。  「俺は俺のものを見捨てない。お前が剣を向けて引き留めたとしても俺は行く」  一際大きな音がして、ツチ族の天幕のひとつが崩れ落ちた。地面へ伏せた布の上を、炎が這ってごうごうと燃えている。ブラッドが息を飲んだ時、浅く息を吐き出す音が聞こえた。 「……わかりました」  低く呟いたグランは一度視線を地面に落とした後、右手を胸に当て毅然としてブラッドを見上げた。 「私もおともします」 「いや、お前は伝令だ」 「殿下おひとりより私もいた方がいい筈です」 「じゃあ誰が村へ伝令に行く?」 「ふたりを探し出してからでも。ですので、必ず見つけて助けましょう」  唇に薄く笑みを伸ばすグランの顔を、遠くの炎が淡く照らす。この王子は言い出したら聞かない頑固者だ、こちらが折れるしかない――そう思っているに違いなかった。 「手遅れになる前に行くぞ」  ブラッドは自分の馬に跨がり、眼下に広がる赤い光景を見下ろした。焼けつく炎が広がる中のどこかに、ヤミールとカミールがいる。

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