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 岩の陰に身を潜めながら、白い衣服の袖で額を拭う。油の混じった汗は拭いてもすぐに玉のように浮き出てくる。激しく燃え上がる炎が絶えず身を焼いているためだった。 「向こう側の天幕にはいなかったな」 「ええ、残るは正面ですね」  剣戟が激しく響く野営地の様子を、ブラッドとグランは岩の陰から身を乗り出して覗いた。正面へ百歩ほど移動した地点に一番大きな天幕がある。他と離れていたためか炎は燃え移っていない。 「あそこにもいなかったら……」  もしヤミールとカミールを見つけられなかったら。それはすなわち、すでに焼き崩れた天幕に潰され焼かれているということだ。凄惨な光景を想像し、汗に濡れた背中にぞくりと悪寒が走る。考えたくもない――ブラッドは頭を振り、残された天幕を見据えた。  そこへ至るまではダイハンの戦士とツチ族たちが激しい攻防を繰り広げていた。数で劣るダイハンの中には倒れる者もいるが、自分たちを上回る数の敵を相手にしている割には善戦し、持ちこたえている。さすが勇猛を誇る戦士の一族だ。  しかし、時間の経過とともに戦況が悪化することは明白だった。撤退するか、救援を呼ばない限り壊滅は不可避だ。一刻も早く目的であるふたりを見つけて離脱し、村へ走らなければならない。 「きっと無事です。信じましょう」 「……ああ、そうだな。大丈夫だ」  ブラッドは、息絶えていたツチ族の手の中から奪った剣を握り締め、グランを顧みる。 「走るぞ」  グランが頷く。  岩陰から飛び出し、剣戟の中を一息に駆けた。男たちが雄々しい声を上げながら刃をぶつけ合っている。走りながらブラッドは確認できる限りでダイハンの戦士たちの姿を確認したが、その中に王の顔はなかった。  クバルは強い。ダイハンの中で最も強い。だから王たり得るのだ。きっと別の場所で果敢に戦っている筈だ。  心に唱えながら、何者にも襲われることなく天幕まで辿り着く。炎の被害はないが、褪せて黄ばんだ白色の至るところに赤黒い血液が飛散していた。血を吸っていくらか重たくなった入り口の布を押し上げようとしたが、グランの手が無言で制する。顔を見合わせると従者の女は頷き、ブラッドを押し退けて先に布を押し上げ、中へ身体を滑り込ませた。  キィン、と金属が衝突する音。グランの剣が、左側から突き出た剣を受け止め、弾いた。グランの剣先はその方向を真っ直ぐに突き、間もなく人間の喉から空気と液体が混じり合って漏れ出る音がした。わずかに振り返った彼女の頬には血が飛んでいる。 「敵はひとりだけです」  ツチ族の喉から剣を抜き、薙いで地面へ血を払う。ひと突きだ。さすが騎士の称号を戴いていただけのことはある。グランの後ろから天幕の中に入ったブラッドは、簡素な中、奥に積まれた木箱の横に人が転がっているのに気づいた。  急いで走り寄る。手足を縛られ、頭に布袋が被せられているが、男と女だ。見覚えのあるそのふたりの格好に、緊張が張り巡っていた身体がふっと軽くなっていった。  人の気配を感じてか、拘束されている男の身体がびくりと跳ねる。ブラッドは男の横に屈み、被せられた袋を取り去ると、露になった顔を見てほうと安堵の息が漏れる。 「っ、アステレルラ……」  ヤミールは赤い双眸を大きく見開き、震える声でブラッドを呼んだ。不安と緊張に満ちて強張った顔が、ふっと緩んだように見えた。  縛られた手足の縄を断ち切り、上体を起こしてやる。涼やかな顔の目元に痛々しい痣があるが、その他に外傷はない。額の際に汗が浮かび、いつも綺麗に整えていた長い黒髪は艶もなく乱れていた。 「……髪を切られたんじゃねえのか」  無意識に呟いた言葉に、ヤミールは理解できていないように目を瞬かせる。グランを見れば同じようにカミールを解放しており、彼女も殴られた痕はあったが長く美しい黒髪は健在だった。  では村に残されていた黒髪は何なのか。ツチ族は他民族を攫う際にその者の頭髪を切り落とす。あれはふたりの髪の毛ではなかったのか。  首を捻るブラッドに、ヤミールが「申し訳ございません」と震える声で言った。膝を擦って側へ寄ったカミールも、ともに頭を下げる。 「申し訳ございません、アステレルラにご迷惑を………このような危険な場所まで。ヘリオサに叱られます」 「いや、クバルの許可は得てる」  ヤミールが「え?」と驚いた声を上げる。本当は、離れた地点で待機する約束だったのだが。同行する許可を得たことに間違いはない。ヤミールは、クバルがブラッドに自由を与えたことが信じがたいのか赤い瞳で瞠目している。 「ヘリオサが自らお許しになったのですか?」 「ああ。馬を奪ってでもついて行くと言ったらな」 「……そうですか。ですが、私どものことでアステレルラがこのような場所まで赴かずとも良いのです」 「自分の僕が敵に攫われたのに黙っていられるか」  ヤミールは言葉を詰まらせる。  ユリアーンはたかが女王の僕、いくらでも替えはきく、と蛇のような不愉快な視線で嘲ったが、それに対して憤ったのはつい今朝のことだった。 「……感謝いたします。一日の間、ご不便をおかけして申し訳ございません」 「朝起きたら服がなくて困ったことくらいだ」  それに加えユリアーンの狼藉も許してしまうし、ふたりの不在は案外に痛手であることに気づいた。代わりはいないのだ。ヤミールは薄く笑みを浮かべ、再び謝罪の言葉を口にした。 「外では戦士たちがツチ族と戦ってる。ここも火がつくかもしれん、早く離脱しないと」 「ヘリオサはご無事ですか?」  膝に手を突いて立ち上がろうとした時、ヤミールがはっとして問いかけた。ブラッドはここへ到達するまでに過ぎた戦士たちの顔ぶれを思い起こすが、その中に王はいなかった。 「わからん。……戦士たちは敵の伏兵に遭い、一時的に混乱に陥ったようだが今は何とか応戦してる。あいつもどこかで戦ってるだろう。ツチ族の十数人は斬り伏せてるんじゃねえか」  決して信頼している訳ではないが、決闘での剣捌きや豪腕を見れば、一度に数人に囲まれたとしてもそのすべてを返り討ちにできそうなくらい腕の立つ戦士だとわかる。彼が敵の刃に倒れることはないのではないかと、心配は杞憂なのではと思えるほどだ。  ヤミールは乾いた喉を潤すように一口唾を飲み込み、重大なことを抱え込んでいる、そんな神妙な顔つきで口を開いた。 「今、お伝えしたいことがございます」  よく見ればヤミールは腹や肩にも打撲の痕があった。痛めつけられた身体が痛むだろうに、ヤミールは膝を折って姿勢を正す。突然硬く変わった僕の表情に、隠れていた不安が緩やかに燻り始める。無意識に唇を濡らし、短く言う。 「話せ」 「私とカミールがツチ族に攫われた時のことです。昨夜、アステレルラの天幕を離れた後、村の東の方へ向かう人影を見ました。民たちの家は反対の方角ですし、その時間はみな中に入っているので、不思議に思い後をつけたのです」  ふたりがブラッドの天幕を後にしたのは入浴の後だ。寝静まるような時刻ではないが、民たちは各々自らの住居で家族とともに過ごしている時間帯だった。  村の東には狩りに使う武器や道具を保管しており、他には馬を繋いであるだけで、夜間に東へ行く理由は見当たらない。 「巨岩の陰で、話をしている者たちがいたのです。全部で三人、そのうちふたりはツチ族、ひとりはダイハンの者でした」  ヤミールの口から明かされた重大な事実に、瞼がひくりと震える。 「ダイハンに背いて敵と密談していたということか」 「そうです。しばらく隠れて聞いていましたが、その者はツチ族に今後の巡行の行程やヘリオサの動向などを伝えていました」 「……ツチ族にダイハンを売るつもりか」 「ヘリオサを殺してダイハンを支配するつもりです。気配が知られて捕らえられた時、そのように話していました」 「そうか。……ひとつ聞くが、お前ら攫われた時に髪の毛は切り落とされていないな?」  胸の内に留まっていた疑問を口にすると、双子はお互いに顔を見合せる。どうしてそんなことを、とでも言いたげにブラッドを見上げる。 「暴行は受けましたが、髪の毛は切られていません」 「……わかった」  ツチ族は他民族を拉致する際に、その頭髪を切り落とす風習があると聞いていた。実際に、拉致されたという場所に落ちていたのだ。ふたりの話とは噛み合わない。 「……アステレルラ。ツチ族と密談していた者は――」  ヤミールが重々しく口にしたその人物の名前に、ブラッドは目を瞠った。突然背後から殴られたような衝撃だった。  明確に形を持って立ち上る不安の影が、じわじわと胸中を暗く侵食する。 「……クバルが危ないかもしれん」  王は裏切り者がいることを知らない。自らを殺すためのツチ族の謀略であることを知らない。  早く真実を伝えなければ、クバルの命はないかもしれない。 「グラン。ヤミールとカミールを頼めるか」  立ち上がり剣の柄を握りしめる。グランはふたりに寄り添いながら、眉を顰め非難めいた苦々しい声を出した。 「どこへ行くおつもりです。まさかヘリオサのところへ?」 「ここもじきに火がつく。ふたりを連れて野営地から離脱しろ」 「殿下、いけません」  従者が呼び止める声を背中に受けながら、ブラッドは血を吸って重たくなった布を押し上げ外へ出た。途端、布と血と肉を糧にして燃え盛る炎の激しい轟音が、火花を散らす剣と剣のかしましい金属音が流れ込んできた。 「あなたが危険に身を晒してまで行かないといけないのですか」  悲痛な声は、天幕から一歩離れるごとに聞こえなくなった。

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