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裏切り*流血描写

 血と油を吸って切れ味の鈍くなった剣を、相手の喉元に突き刺す。鋭い刃であれば一瞬で絶命できただろうに、肉を断つにはいささか切れ味の足りない剣は、相手に死に至るまでの長い苦痛を与えた。 「くそ……」  ごぼごぼと鮮血を溢れさせる喉に刺さった剣を引き抜こうとするが、骨に引っ掛かってしまったのか容易に抜けない。ブラッドは舌を打ち、首から生えた剣をそのままに相手を蹴り倒し、地面に落ちていた誰のものとも知れない剣を拾った。長く湾曲している剣はダイハンの戦士が扱うファルカタだ。  すぐ近くに息絶えた戦士の身体が無造作に転がっていた。確認した死体の顔がクバルでないことに安堵しながら、ブラッドは血を吸った乾いた赤い大地の上で辺りを見渡した。  どうして安堵しているのか。自分でもわからなかった。  クバルに凶刃が迫っている。その結果、クバルが死んだとして、ダイハンの民たちは悲しみ咽び泣くだろう。だが、ブラッド個人としては王の死など関心の範疇になかった。クバルはブラッドの自由を奪い、支配し、蹂躙するだけの存在だからだ。  それなのに剣を握り締め、ツチ族を殺しながら、必死に周囲を探している。もし、すでにクバルが息絶えていたら――想像すると、どうしてか喉が引き攣れた。  きっと、自分が王の妻であるからだ。もし、クバルが死んだら、ヘリオサの地位はどうなるのか。誰かが新しい王になるのか。それともツチ族に支配されるのか。その時、ブラッドの身柄はどうなるのか。  どちらにせよ、女王でなくなる。すでにアトレイアの王子でもない。女王でも王子でもないブラッドは、この縁のない赤い大地において何者なのか。新しい王にとって、ダイハンにとって、生かしておく、庇護する理由はあるのか。  だから、クバルを死なせる訳にはいかない。名ばかりとはいえ、ブラッドはクバルの妻で、ダイハンの女王なのだ。クバルを助力しに行く理由はそこに尽きる。  自らに強く言い聞かせながら、ブラッドは地を蹴る。濡れた顔が不快で袖で拭うと、汗と血の混じった液体がべったりと付着する。屠った敵の血だ。  父王の存命時、ブラッドは隣国との戦で自ら戦場に立ち剣を振るっていた。アトレイアの王子として、国のため、父のため、少なくともそう信じて敵を屠り続けた。  今は――何のために戦っているのだろう。 「どこだ……クバル」  ツチ族の野営地はそれほど広くはない。剣戟の合間をすり抜けながら王の姿を探し続け――程なくして地を裂くような悲痛な叫び声が背後から耳を突く。  振り返ると十数歩ほど先で、半分ほど焼き崩れた天幕へ弾き飛ばされたツチ族の男が、喉が張り裂けるほどの悲鳴を上げてのたうち回っている。身体に火を纏って無秩序に躍りながら大地を転げ、やがて喉元を真上から突き刺されて間もなく息絶えた。  突き刺さった剣を握っていたのは、ブラッドが探していた男だった。手際よくファルカタを引き抜き、振り返り様に躍りかかった敵の刃を受け止める。真横から別の男が斬りかかるのを、身を屈めて回避し、距離を取る。  クバルの身のこなしは荒々しく、容赦なく、だが無駄がなかった。攻撃を受け止め、蹴りつけ、剣を払う。自分以外のものをすべて蹴散らすような覇気を纏って戦う姿は、いっそ美しかった。思わず息を詰めて見つめてしまうほど。  助太刀に入ろうと接近するブラッドの目は、もうひとつの人影を捉えていた。ふたりの男を正面に相手をするクバルの死角から刃の煌めきが見え、思わず叫んでいた。 「後ろだ!」  刹那、ブラッドの存在に気づいたクバルの赤い瞳が大きく見開かれる。なぜここへ。驚愕と、ついで非難の孕んだ視線と交錯したのも束の間、クバルは不意打ちの攻撃を、地面に転がって回避した。  体勢を整え直したクバルが対峙したのは、ツチ族の男ふたりと、一対の短剣を両手に構える少年だった。黒い髪の毛、赤い瞳、褐色の肌は、クバルをヘリオサに仰ぐダイハン族である証。忠誠を誓うべき王へ刃を向けていることのみが異質であった。  互いに牽制しあったまま、ダイハン族らしからぬ短い頭髪の少年――アルは、クバルを捉えていた視線をブラッドへ移し、苦々しげに口を開いたのだった。 「どうしてあんたがでしゃばってくるんだ?」  おそらく同じ内容を問い質したい男もいるだろうが、クバルはツチ族とアルを視線で捉えたまま警戒を崩さない。  村の東で痕跡を発見したのはアルだった。なぜ、見つけられたのか。武器庫と厩舎しかない場所へ朝方赴く理由は何なのか。あの時は、少年の手に載せられた黒い毛束の不吉な予感に支配され、疑問さえ抱かなかった。 「俺も聞きたい。どうして嘘を吐いた?」  熟れきった空気の熱さに、背中と掌と額からじっとりと汗が滲み出る。水分を吸って濡れた衣服が皮膚に貼りついて不快だった。額から伝って落ちてくる汗が睫毛を越えて目の中に入ろうとするが、拭うことのできないまま睨み合いは続く。  「嘘?」  初めて会った時の溌剌さは微塵もなく、ブラッドを捉えるアルの瞳は冷えきっていた。クバルを殺す邪魔をされたことへの苛立ちか、繰り返した言葉はささくれだっていて地面へ吐き捨てられた。 「ツチ族が攫った者の頭髪を切り落とすっていうのは嘘だろう? 村に残していった髪の毛も偽物だな」 「――あのふたりが盗み聞きさえしていなければ、こんな面倒なことをせずに済んだのに」  アルがブラッドの問いには答えず、険のある声音でひとりごちるのを聞いて、疑いは徐々に確信へと変わっていく。 「もしお前が、何らかの事情でツチ族に脅迫されて奴らに荷担しているだけなら、まだチャンスはある」  ヤミールとカミールが拉致され危険な目に遭った原因は、目の前の少年にある。決して許されることではない。しかし、彼の愚かな行為が必要に迫られて望まぬ選択をした結果だったとしたら。この場でブラッドやクバルに刃を向ける義理はない。  そんな淡い希望を、アルは薄い唇に嘲笑を載せて手折ったのだった。 「チャンスというのは何のチャンス? 生かしてもらうチャンス? そんなものは必要ない。俺は……ダイハン族ではなく、ツチ族だ」  初動は素速かった。  繰り出された短剣の刃が、盾にしたファルカタを滑ってブラッドの頬を裂く。咄嗟に防がなければ斬られていたのは顔ではなく首だっただろう。  間合いを取ったアルは姿勢を低く得物を構えながら、獣が威嚇するようにブラッドを見据えていた。彼の攻撃が合図となり、ふたりのツチ族の男も動き出す。視界の端でクバルが相手をしていた。

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