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ツチ族の少年*流血描写

 アルの行為が不本意な選択ではなく、当初からダイハン族を襲うための手段としてヤミールとカミールを危険に晒したのなら。対処しなければならない。  何の対処か。名目だけの女王に何の権限があるのか。わずかに頭を過ったが、ブラッドは意志を持って刃を振り下ろす。  アルは身軽で身体の動きが速かった。両手に持った得物は手数も多く、つけいる隙がなければ防戦一方になる。だが、膂力だけはブラッドが勝っていた。 「ッ……!」  刃を受けた瞬間に、持てる最大の力で弾き返す。わずかに体勢を崩したアルに攻撃を畳み掛け、片方の得物を弾き飛ばす。 「囚われていたってのも嘘か」  短剣を構え直したアルの唇がぴくりと引き攣る。刃の切っ先をブラッドに向けながら、少年は場にそぐわない静謐な声音で語り始める。 「囚われていたのは本当だ。けれど、俺は本当のツチ族になった」 「鞍替えしたのか? どうしたってお前はダイハン人だろう」 「……俺はれっきとしたツチ族の一員だ。髪の毛を切り落として、誓いを立てた」 「お前の短髪の訳はそれか」 「髪の毛を切り落とすのは仲間と認められた証だ」 「……ツチ族としてダイハンを潰す気か。それとも支配するつもりか」 「潰すつもりも支配するつもりもない。俺は、ヘリオサ・クバルさえ殺せれば、それでいい!」  唐突に声を荒げて躍りかかったアルの苛烈な炎を灯した瞳は、ブラッドを通り越してクバルを見据えている。キン、と衝突した刃の硬い音が耳奥に響く。  アルは少年だが、確かに戦士だった。それも、そこらの成人にも劣らない腕の立つ戦士で、肝も座っている。でなければ単身で、殺したい相手であるヘリオサのもとへ乗り込むことなど不可能だろう。 「クバルを殺したいのは、お前個人としてか?」  どうしても、彼がクバルへの執着を見せるのは、ツチ族として敵対勢力を駆逐するためではない気がした。彼の、ブラッドの先にクバルを貫く秘めた激情は、殺したい相手のすぐ傍らまで接近しながらも命を奪う機会をたえ忍んだ我慢の反動というには重く、ひりついて酷く痛々しい。 「何だっていいだろう、あんたには関係ないことだ!」 「……曲がりなりにもあいつの妻なんだ、俺にも知る権利はある」  刃越しに柳眉を逆立てて吠える少年に、ブラッドは片頬を歪めてみせた。あの男の妻などと自ら口にするのは、笑えない冗談のようで奇妙な感覚だった。 「悪いがあいつに死なれると俺も困る。何があったか知らんが、個人的な報復は遠慮しろ」  ぶわり、と。音がしそうなほど、アルの纏う空気が急激に変わった気がした。皮膚をぴりぴりと刺すような苛烈なそれは、殺気だ。 「親を……両親を殺した男を放っておけと? 俺の邪魔をするな! 阻むならあんたも殺す!」  止めどない激流が迸るように叫び、アルは咆哮を上げる。刃を打ち付ける強さは先刻よりも格段に激しく、受け止めた剣から伝う振動が手首を震わせる。鍔迫り合いの状態のまま、ブラッドはアルの叫んだ言葉を反芻した。  クバルが、アルの両親を殺した?   意識が眼前の少年よりも、傍らでふたりの男を相手にしているダイハンの王へ向く。  ダイハンの民が傷つけられることを許さない、多くの民に慕われているクバルが。自分の民を殺した?  項が強張るような気がした。ブラッドのかすかな動揺を、アルは見逃さなかった。  アルがすかさず腰に回した手が、隠れていたもうひとつの得物を握る。不意打ちで現れた刃の煌めきに、ブラッドの脳内で警報が鳴り響く。  防ぐには遅すぎた。庇うように咄嗟に上げた腕に鋭い痛みが走り、血飛沫が大地へ飛んだ。 「ッ……!」  ついで襲うのは熱さ。斬りつけられた部分が酷く熱い。どくどくと傷口が脈打つ感覚に顔を顰めた直後、間髪なく訪れた次の衝撃で右手からファルカタが離れて数歩離れた先へ突き刺さった。  得物を取るために背中を向けようものなら、命はない。 「ヘリオサを殺す前に、まずはあんただ」  冷然とした激情が、昂りを抑えた声音に滲み出ている。武器を失ったブラッドを見据え、アルが刃を突きつける。  大人しく、ヤミールとカミールを保護してすぐにでも村へ引き返せばよかったのか。そもそも、夜営地まで下りてきたのが間違いだったのか。初めからグランの、クバルの言う通りにしていれば、報復しようとする少年に剣を突きつけられることもなかったかもしれない。  しかし、ここまで来なければ、ヤミールとカミールは炎に包まれて焼け死んでいただろう。クバルも、味方と認識していた少年の凶刃に倒れていたかもしれない。  僕のふたりはグランと逃げおおせただろう。増援を呼んでくれれば敵の隙をついて残されたダイハンの撤退も可能だろう。クバルは、アルと、男ふたりくらいならば何とか凌いで退避できるだろう。  刃が貫くまでの間に、ブラッドの頭の中に多くのものが駆け巡る。考えるのはダイハンと今回のことばかりで、心底うんざりした。ダイハンの王に嫁いで乾いた赤い大地で過ごしたのはこれまでの人生のうちのほんのわずかな時間でしかないのに、アトレイアのことなど微塵も浮かばないのだ。ただ、自分が死んだらアトレイアにいるシュオンや高官たちはさぞ喜ぶだろうと、それだけを思って捩れた笑いが零れそうになった。 「アステレルラ!」  大地を割る地響きのような叫びが、ブラッドの意識を殴打した。  ざざざ、と乾いた土を擦って足元に血濡れの剣が滑ってくる。咄嗟にブラッドは屈んで剣を拾い――斜め上へ突き上げた。  ざく、と肉を裂く感触が鍔を通して伝わってくる。何が起きているのか理解できない――と赤い瞳を目一杯見開いて硬直したアルの胸の中心を、ブラッドが手に握った剣が背中まで貫いていた。 「え……?」  無垢な子どものような声を上げた後、アルは口からゴボリと鮮血を溢れさせる。言葉をなすこともなく、次々と溢れる血と胸に刺さった剣の柄を見下ろし、戸惑ったように立ち尽くす。  少年を見据えたまま、ブラッドは柄から手を離して立ち上がり、一歩、二歩、後退した。支えを失った少年の身体はぐらりと傾き、倒れ伏す。  血混じりに低く喘ぎを続けていたがやがてそれも聞こえなくなり、地面を引っ掻くように蠢いていた指先もぴたりと止まって動かなくなる。  ブラッドは肩で荒い息を吐きながら、うつ伏せに倒れた身体から生えた剣先を見下ろした。形容しがたい後味の悪さを打ち消すように、血を流し続ける腕の傷口を、痛みを伴うほど掌で強く押さえつける。  どさり、と重い音がしておもむろに振り返ると、ファルカタを手にしたクバルがひとり立ち尽くしていた。足元にはふたりの男が転がっている。 「……」  生きている。クバルも、自分も。そのことを手放しで喜べるほど、単純な心中ではない。  クバルが肩で息をしながら歩み寄って来る。彼の表情は硬く、何を思っているのか知れない。  戦わないと約束した。絶対に剣を持たないと。それが条件だったのに、ブラッドはクバルとの約束を破った。ブラッドの前で止まったクバルは、それに憤怒しているのか、何も言わずに唇を引き結んでいる。  クバルの得物を掴んでいない方の腕が持ち上がり、ブラッドへ伸びる。殴られるのか、と無意識に硬く身構えるが、予想していた衝撃は訪れなかった。 「……?」  クバルの大きな掌が、乾燥してかさついた頬に触れた。拍子抜けしてただ目を瞬かせることしかできないブラッドの目の下を、ざらついた親指の腹が撫でる。そういえば頬に傷を負ったのだったか。肌を濡らしていた血を拭い取った手は、それなのに頬に添えられたままだった。  どう反応していいのかわからず、ただただ立ち尽くすことしかできない。下を見ると、骸になった少年の身体から溢れる血液が目に入り、ちくちくと胸を刺す痛みが鬱陶しい。見上げると、眇められたクバルの赤い目と視線がぶつかる。赤の中に、想像していた怒りの影は見えない。表情の強張りが解け、静かに息を吐き出した。怒りとはまったく正反対の……安堵のようなものが見てとれ、不覚にも動揺が走る。  とりあえず、何か言わなければ。思考を巡らせながら口を開こうとした時、 「撤退だ」  重苦しい響きでクバルが先に言葉を発した。同時に、頬に添えられていた手も離れていき、なぜかほっとする。 「あ……ああ」 「戦っている戦士を援護しろ。時機を見て離脱する」 「……援護? 俺がか?」  ツチ族から逃れるために剣を持てと――つまり戦えということだ。にわかには信じられなかった。非常事態であるとはいえ、頑なにブラッドに戦うことを禁じたクバルの口から出た言葉だ。 「多くの戦士が倒れた。残っている者だけでも無事に退くにはお前の力が必要だ」  炎の這う野営地を見渡したクバルが、そこかしこに染み込んだ濃厚な血の匂いや肉の焼ける匂いに双眸を顰める。味方と敵の死体が入り交じっている。 「死んだ仲間を弔うのは、退いた後だ」 「……裏切り者はどうするんだ?」  クバルの目が、うつ伏せに倒れた少年の身体を一瞥する。敵の血に塗れた王はそれに関しては何も言わず、「俺が撤退の合図をするまで生き延びろ」とだけ言い残し、踵を返した。  両親を殺した男を放っておけと?  アルの発した叫びが頭にこびりついたままだった。  クバルが同胞を殺したのが真実だとして、アルの両親であったことまでは本人の知り得るところではなさそうだ。その理由は、ブラッドの知るところではない。  クバル個人について、何も知らない。今まで知る必要はないと思っていた。  とにかく今は、撤退を最優先に行動しなければならない。転がったツチ族の少年の死体に一瞥をくれ、彼がしっかりと握り込んでいた短剣を手の中から取った。ツチ族の男が落とした剣を拾い、戦闘中の戦士のもとへ急ぐ。クバルにすべてを聞くのは、無事に帰還してからだ。

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