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正しいこと
鼻につく臭いが乾いた風に乗って流れてくる。肉が焼ける臭いだった。昨夜も、喉が張り裂けんばかりの断末魔とともに同じ臭いが辺りに充満していた。
大小様々な石を積み上げて形成した大きな円の中で、炎が天高くまで上っている。燃え上がる炎の中には、命を落としたばかりの戦士たちの身体がいくつも横たわっていた。
昨夜戦闘があった野営地の付近で、動ける戦士たちは亡くなった同胞の魂を弔っていた。亡くなった者の遺体をすべて回収することはできなかった。昨夜死んだ戦士の中には、燃える天幕の下敷きになった者もいる。そういった者たちを判別し探し出すことは困難だった。
火葬文化を持つダイハンでは、太陽神の末裔を名乗る彼らの魂は炎に巻かれ煙となって空へ帰って行くという。太陽のもとで再生された魂は再び地上に戻って新たな命として生まれる。魂が帰り道を失わないように、炎の傍では祈祷師の女が両手を広げながらダイハンのまじないを唱えていた。
炎の前で佇むクバルの後ろ姿を、ブラッドは離れた場所から見つめていた。戦士たちの身体に火を放った後も、自分の身に火の粉が飛ぶのも構わずその場から離れなかった。彼らの王として、魂が空へ上るのを見守っているかのように。
クバルがブラッドのもとへ戻って来たのは、炎の勢いが収まり始めた頃だった。
相変わらず感情の読めない端整な顔は、しかしようやく同胞たちの死を弔うことができた安堵が表れているようにも見えた。隣に立ち、いまだ燃え続ける炎を見つめる王に、ブラッドは問いかけた。
「ユリアーンは、何て言ってたんだ」
クバルの赤い瞳がブラッドを一瞥し、再び炎に向けられる。
「奴は、多くの戦士が死んだのはアステレルラと僕のふたりのせいだと言っていた」
繕わず率直に告げられた内容に、ブラッドはすぐに言葉を返すことができなかった。
「助けに行ったのは間違いだと。見捨てておけば、戦士たちは死ななかったと怒っていた」
「……」
「同胞を助けに行くのは当然のことだ。アステレルラに言われずとも、俺はふたりを探すつもりでいた。それよりも、裏切り者を身内に抱え続ける方が危険だ」
「俺が、グランの制止を振りきって行ったからアルの正体が知れた訳だ」
「戦わないという約束も」
ブラッドは喉を上下させて王を見やったが、彼の表情は平静だった。
「咎めるつもりはない。お前の判断は正しい」
「……そうか」
「ユリアーンとあの場にいた者たちにはこう告げた。多くの戦士が死んだのはアステレルラのせいでもヤミールたちのせいでもない。アステレルラたちを責める者はヘリオサ・クバルが許さないと」
いつになくクバルは言葉数が多かった。ブラッドは今まで、クバルとまともに会話を続けたことがなかった。それは互いに会話の意思を持っていなかったからだ。
「多くの犠牲を出した原因は誰にもない。アルを迎え入れたことだけが間違いだった」
クバルの瞳が、縁取る濃い睫毛に閉ざされる。逡巡しながらも、ブラッドはクバルに確かめたいことがあった。
「アルが、お前に両親を殺されたと言っていた」
クバルの赤い瞳がゆっくりと現れる。
その真偽を知ってどうするのかと問われれば、上手く答えることはできないが。民が傷つけられることを厭うヘリオサ・クバルが、どのような道を辿って王たり得ているのか、知っていてもいいだろうと思うのだ。
ややあって、クバルは重い口を開いた。
「五年前……男を殺した。ヘリオススの戦士で、彼はツチ族との戦闘中に連れ去られた。捜索隊を出したが、見つけることはできなかった。だが数日経って男は逃げ帰ってきて、……俺や他の戦士を殺そうとした。だから斬った」
ダイハン族は何より掟と誓いを重視し、破った者に容赦を与えることはない。ブラッドがダイハンへ嫁いできた日、戦闘から帰還した戦士たちの先頭を走るクバルの馬から伸びる縄には、ひとりの戦士が繋がれていた。乾いた大地に肉が削り取られ、人の形を保っていなかった。
「その男の妻は翌日、死体の傍らで死んでいた。……そのふたりの子どもについては何も知らない」
同胞へ害をなした男の子どもがヘリオススを出たとしても、クバルを恨んで殺そうとしていたとしても、それは王が関知することではないのだろう。
たとえ男が、ツチ族に脅迫されて凶行に至ったのだとしても、ダイハン族にとって彼の行為は紛れもない裏切りだ。裏切りを決して許さないダイハン族の王は、男を殺した。
裏切り者に制裁を与える掟を、子どもは知らない訳ではなかっただろう。しかし突然両親を奪われた子どもは、受け入れられなかった。父親が王によって理不尽に殺され、母親はその後を追った。それがアルの中の真実だった。
「男を殺した時のことはよく覚えている。初めて同胞を斬ったのが、あの時だ」
ダイハン族は、誓約破りや裏切りを決して許さない。覆すことのできない堅い掟だ。
「アルという少年が、あの時の男の息子だったのか」
誰にでもなく、クバルが低く呟いた。ブラッドは目を眇めてダイハンの戦士たちが焼かれている炎を見つめる。炎は徐々に小さくなり始めている。
あの炎の中に、アルの亡骸はない。裏切り者を弔うことは許されないのだ。否、彼はダイハン族ではなく、ツチ族の男だった。彼の身体は他のツチ族の死体と同じように岩の影に打ち捨てられ、肉を狙う猛禽に啄まれながら朽ちていく。
「あの時男を殺したことを後悔はしていない。裏切り者を殺すのは掟だ」
太陽が昇り熱気を孕み始めた風が強く吹きつけ、大気を舞う土埃にクバルは目を眇めた。
「そうだな。お前は何も悪くねえよ」
猫のような目を大きく見開いて硬直したアルは、自分が刃に貫かれていることに気づいていない様子だった。喉からせり上がる血液と身体から生えた剣の柄に困惑している間に力尽き、息絶えた。地面に倒れ徐々に薄れていく意識の中、彼が何を考えていたのか、ブラッドにはわからない。ヘリオサ・クバルへの呪詛か、ブラッドへの呪詛か、それとも別の何かか。
「アステレルラ。お前も悪くはない」
「……あ?」
クバルが身体を向ける。淡々とした話し方は、普段のクバルそのものだった。
「お前がアルを殺したのは、正しいことだった」
「別に……俺も後悔なんざしていない」
誤魔化しではなく、本当に後悔はしていなかった。後味の悪さは残るが、必要なことだった。アルを殺さなければ自分が死んでいたし、クバルの命も危うかったかもしれない。
「礼を言う」
弾かれたように、ブラッドは深い緑の瞳で隣の男を凝視した。
聞き間違いではなく、確かにクバルの口から出た言葉だった。それは、初めて聞く言葉だった。
足元から這い上がる居心地の悪さを押し切り、ブラッドは声を絞り出す。
「は……何でお前が俺に礼を言うんだ」
「アステレルラが来なければ俺は死んでいたかもしれない。ヤミールとカミールもだ。ダイハンの民たちはツチ族に蹂躙されていたかもしれない」
王の目には、当初ブラッドに向けていたような威圧や懐疑といった感情は見当たらず、余計に居心地の悪さを助長させた。
「別に俺は……お前が死ぬと困るから、行ったんだ」
クバルが怪訝そうに顎を傾ける。
「勘違いするなよ。お前が死んだら、一応女王である俺の身柄も、どうなるかわからなかったからな」
「……そうか。感謝する」
無意識に自分の項に手を触れ、落ち着かない感情を誤魔化すように強く擦った。口の中で言葉を探しながら、小さくなってゆく炎が爆ぜる音を聞く。戦士たちの魂は太陽のもとへ帰って行っただろうか。
「俺も、お前に礼を言う。あの時、剣を寄越してくれなければ、俺は……」
「妻を救うのは、当然のことだ」
赤い瞳の小さな瞳孔の中に映る自分の姿に、不覚にも動揺して視線を逸らした。皮肉でも何でもない、そのままの意味の言葉だった。
そうか。当然なのか、と。以前であればぞっとして辟易する単語も、今はただ意味が飲み込めなくて、クバルの本心がわからない。
それからクバルは言葉を発しなかった。ふたりの間に佇む沈黙がむず痒くて、ブラッドも弔いの炎が鎮火するまで口を噤んで眺めていた。
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