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アステレルラ

 熱い湯が凝り固まった身体の節々を解していく。岩の浴槽に張った湯にはいい香りのする植物の葉の汁が数滴混ぜられていて、ぱしゃりと水面を動かす度に、立ち上がった爽やかな香りがかすかに鼻孔を擽る。 「お湯加減はいかがですか」  浴槽の外に屈んだヤミールが、湯をたっぷり注ぎ入れた器を手に持ちながら言う。その隣ではカミールが、香料になる花の実と葉を磨り潰している。どちらも身体を洗う際に使うものだ。 「ちょうどいい。お前らは帰っていいぞ」  浴槽の縁に腕をかけて中に体重を預けながら僕の顔を見やると、ふたりは長い睫毛を瞬かせた。 「お前らの今日の仕事は終わりだ。帰って休め。命令だ」  すぐに首を縦には振らないだろうことを見越して女王の命令だと念押しすると、ふたりは手にしていた入浴道具を浴槽の外に置いて、ブラッドに頭を下げた。 「失礼します。また明日の朝参ります、アステレルラ」  ブラッドの使う湯浴み場は女王の部屋の奥に位置している。僕のふたりは布一枚で隔てられた隣り合う部屋へ姿を消した。彼ら女王の僕の住まいは、同じ洞窟の中でも離れた位置にある。  ふたりの気配が女王の部屋から消え去った後、ブラッドは瞼を伏せて長い嘆息を零した。身体の力を抜くと、この数日間で溜まった疲労が湯の中に溶け出ていくような気がした。  二日間馬を走らせ、ヘリオススへ帰還したのは今日の夕刻だった。戦士の数は半数へと減ってしまったが、幸いにも道中何者にも襲撃されることはなかった。  ツチ族との戦闘で負った傷の痛みと疲労はまだ癒えておらず、ヘリオススへ到着した屈強な戦士たちはみな満身創痍で、帰還を喜んだヘリオススの民たちは彼らの様子と出発当初から減った戦士の数を見て悟った。死んだ者の家族は嘆き悲しみ、魂が無事に太陽のもとへ辿り着いて新しい命として再び大地へ戻ることを祈った。  やっと馬の背から下りて休める。安堵したのも束の間、ブラッドは大勢の民に囲まれてしまった。誰が言い触らした、アステレルラがヘリオサの命を救ったとヘリオスス中の民に知れ渡り、女王を称えるために押し寄せたのだった。  称賛する民たちからやっとのことで逃れ女王の部屋へと久しぶりに入ったブラッドは、巡回した村々で宛がわれたものよりも広いベッドに倒れ込んだ。今日だけは食事のために部屋から出なくてもいいとヤミールに言われ、部屋の中で軽食を摂った。休息の後、湯浴みをさせられたのだった。  ヤミールとカミールにも同様の休息が必要だった。彼らはヘリオススに着いてから、身体の痛みも癒えていないだろうに普段と同様にブラッドの側に控えて何かと世話を焼いている。 いつもであれば湯浴みも何から何まで面倒を見てブラッドには一切手を出させないのだが、表情には出さない彼らも疲れていない訳はないのだ。帰れと言えば素直に帰った。 「……、っ」  処置を受けた腕の傷がズキリと痛む。頬の傷は掠り傷程度だが腕の切創は案外に深く、縫わなければならない程ではないものの、傷跡は残りそうだ。すでに出血も収まり傷口は乾き始めているが、鋭い痛みを伴う。  なるべく水に濡らさないようにして身体を洗うと、布で適当に水気を拭き取って腰に巻きつけ、女王の部屋へ戻った。  ベッドの縁に腰かけている人影を認め、ブラッドを一瞬足を止めた。幾重にも傷が走る背中は見慣れたものだった。  戻った気配には気づいていたのだろう、ブラッドが傍まで寄るとおもむろに首をもたげ見上げてくる。  どうしてクバルがブラッドの部屋にいるのか。巡行の間までは不本意にも「夜の務め」のために同じベッドに入るなどしたが、それは以前の話だ。  今は――変わった、ように思う。クバルは、ブラッドを支配し自由を奪うためだけに犯していた。今は、ツチ族との一件があって以来、その考え方は変わったのだと思っていた。 「……何しに来た?」  戸惑いを隠しながら問いを落とすと、クバルの赤い瞳と視線がぶつかる。蝋燭のほの暗い灯りに揺らめく赤い光に、どうしてか胸がざわりと騒ぐ。得体の知れない感覚を誤魔化すように、テーブルの上に備えられていた水を杯に注ぎ、火照った身体を冷ますよう喉に注ぎ込んだ。 「お前も狩りに行くか」  クバルが返した言葉は問いに答えていないうえに、見当もしていないものだった。ブラッドは一瞬呼吸を忘れ、「……狩り?」と同じ言葉をようやっと返し、濡れた唇を親指の先で拭った。 「それは、なぜだ?」  外へ出ることも、剣を持つことも許されなかった。女王の、ブラッドの役目はヘリオススの中で王の帰りを待ち、夜の相手をするだけだと告げられた。ヘリオススの戦士とともに馬を駆って狩りへ出ることや、敵対する他民族との戦闘に参加するなどもってのほかだった。 「一日中ヘリオススの中で退屈だろう」  それが女王の役目だったのだ。一日中、洞窟の中で時間を無為に過ごすことこそが、ブラッドに与えられた役目だと。当然、憤慨していた。だが、禁じた当人の口からこうもあっさりと覆されると拍子抜けしてしまう。 「いいのか? お前は、俺が外に出るのも武器を持つのも禁じてただろう。俺が……ダイハンの民を傷つけるんじゃないかって」  ブラッドが民を害するのではないかとクバルが危惧していたことは、本人の口からではなくヤミールから聞いたことだった。 「先代の女王はそうだったんだろ。……お前の両親を処刑したと聞いた」  感情の読めない瞳が、じっと見つめてくる。 「そうだ。アステレルラに権力を与えてもろくなことにならない。アステレルラは飾りだけの存在でいい。だからお前から自由を奪った。アトレイアから来た男というのも、信用できなかった」  初めて相対した時の、初めて組み敷かれて犯された時の、底冷えするような冷酷な視線を思い出す。有無を言わさず圧倒的な力で捩じ伏せる、残酷で暴力的な男だった。今のクバルには、あの時のような印象は抱かない。 「だが、お前は証明した。ダイハンの民と俺を救った。お前は俺の両親を殺したアステレルラとは違う」  クバルの太い腕が伸びて、ブラッドの手に触れる。ざらついた指先が、アルによって斬られた傷口の側を優しくなぞる。  振り払うことができずにいると軽く腕を引かれ、クバルの隣に腰かけた。クバルはブラッドの、湯から上がったばかりで温かい手を包み込んだまま、真正面から見据えてくる。 「もう、お前の自由を縛ることはしない。狩りでも、敵との戦闘でも、お前が行きたいのであれば許す」  そう宣言して、クバルは腰元の小物入れから何かを取り出した。大きな掌を開くと、そこには細い紐に繋がれた小さな白い石が輝いていた。 「……首飾り、か?」  よく見ると細かく編まれた紐は丈夫そうだった。中心の小さな白い石は、蝋燭の灯りしかない部屋の中で不思議な色彩を放っている。 「アステレルラにこれを」 「これも、王が女王へ贈る慣習のひとつか? あの花みたいに」 「王は関係ない。俺個人がお前に贈るものだ」  個人が、と言われ掌に落としていた視線を目の前の王へと移す。冗談でも戯れでもなく、クバルは至って真剣のようだった。  女がつけるような小振りな首飾りだという点は些細な問題に過ぎない。  あのクバルが、贈り物を、自分に。婚礼の祝宴で白い花を贈った時は視線ひとつ合わせず、花嫁の存在など完全に視界の外に追いやっていたクバルが。どうして今になってと思う。クバルがブラッドを認めたということなのだろうか。物を贈るという行為は目の前の王には酷く不釣り合いに思えた。 「つけたくなかったらつけなくてもいい。持っていろ」 「いいのか。大事なもの……じゃねえのか」 「死んだ母からもらったものだ」 「なおさら、何で俺なんかに。形見だろ」 「母は大事な人に贈れと言っていた。そうして受け継がれてきた。俺の妻、アステレルラに贈る」  アステレルラ。その言葉とともに細い首飾りが、ブラッドの手の中に落ちてくる。小さな石が掌に転がった。 「何で……」  足元からいたたまれなさが這い上がってくる。どうしてか首筋がこそばゆいのを誤魔化すように、手の中の首飾りを無言でつけると、中心の白い石がひんやりと肌に触れる。見下ろした色彩は石の中で灰色や青色が入り交じっているようにも見え、奇妙な揺らめきは美しかった。 「……俺も戦士たちと狩りに出る。いいんだな?」 「構わない」 「今までの女王と同じ振る舞いを許すということでいいか?」 「そうだ。お前の行動を縛ることはしない」 「じゃあ……夜の相手も」  なしということでいいんだよな、と。躊躇いがちに視線で問うた。  毎夜ブラッドを犯すのは、ブラッドの尊厳と矜持を砕くため。王の支配下にあるのだと理解させるため。ブラッドを認めた今では、夜の務めを強要する必要もなくなった。暴力とも呼べるあの行為は、もうないのだろうと――思った瞬間、ベッドに敷かれた毛皮の柔らかな表面に背中が触れていた。ブラッドの視界は、蝋燭の灯りに凹凸の影が揺らめく洞窟の天井を映していたのだった。

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