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綻び

 柔らかい毛皮に顔を埋めながら、荒ぶる息を収めるように深く呼吸を繰り返す。火照って朱が差した首筋を、つう、と汗が一筋流れていった。身体の内側から広がる曖昧な刺激に、ブラッドは思わず後孔を締めつける。 「っう、……」  ぐちゅり、と中を掻き出す男の指が、一度収まった微熱を不本意に煽る。無論、当人にそのつもりはないが、何度も中に吐き出された精液を掻き出すのに、腫れ上がって敏感になったブラッドの身体の内側はどうしても反応を示してしまう。  中で折り曲げたクバルの指が外へ抜け出ると、どろりとした白濁が赤く腫れた穴の縁から溢れ出る。失禁してしまったような感覚に背筋を震わせるブラッドの秘部を、クバルが布で拭い取った。  安堵の息を吐いて全身の力を抜いたブラッドの傍らに、クバルがそっと横たわる。顔を向けたブラッドの額に滲む汗を、無言のまま指先で拭った。 「お前が後始末までする必要はない……」  それは王の仕事ではない。射精して、一物を抜いたら、出ていけばいいものを。痰の絡んだ声で指摘する。 「前にも一度、アステレルラが眠っている間に」 「は……?」 「気づいていなかったか」  まだ頭の奥が痺れていて思考はうまく回らない。軽く衝撃を受けた頭で過去を思い返すが、クバルの口にする前がいつのことなのか思い当たらない。 「お前が俺の上に乗ってきた夜だ」 「ああ……いや、待て」  あの夜は途中から記憶が途切れ、翌朝目覚めると身体の不快感はなく清められた状態だった。ブラッドが眠っている間に僕のふたりが後始末をしてくれたのだと思っていた。しかしよく考えてみれば、ふたりはブラッドに入浴をさせて女王の天幕を出た後、村の東でツチ族に攫われたのだと言っていた。ならば中の残滓を掻き出し身体を清めたのはふたりではないのだ。 「ヤミールとカミールだと思ってた……」  眠っている間にクバルに身体の内側を触れられていたとは思わなかった。何か変な反応をしなかっただろうかと不安と羞恥が込み上げる。 「とにかく、お前はこんなことしなくていいんだ」 「お前は俺のアステレルラだ。当然だ」  クバルの腕が伸びて、息を詰めたブラッドの首筋に触れた。しゃら、と小気味良い音を立てたのは白い小さな石だ。受け取ったばかりの、大切な者へ贈るものだという首飾り。クバルの死んだ母親の形見だ。 「これからもそうする」 「これからもって……」 「お前を毎日抱くと言っただろう」  骨ばった手の甲が首筋をなぞり上げ、熱を帯びる頬を撫でる。熱い掌に顔を引き寄せられ、汗の引いた額に乾いた唇が触れた。 「……っ」 「ヤミールとカミールにも、夜は暇を出す。俺たちふたりだけだ」  こんな風に、誰かに触れられたことなんてない。死んだ父にも、死んだ母にも、これまで身体を重ねた女にも。  不意に喉が絞まる息苦しさを覚え、誤魔化すようにブラッドはクバルに尋ねようと思っていたことを口にした。 「お前の両親のことを聞いてもいいか」  顔を離したクバルが訝しげに眉を顰める。 「……政略婚とはいえ、仮にも女王なのにお前のことを何も知らねえ。嫌なら話さなくてもいい」  クバルがダイハンの王になったのは、両親を処刑した女王と王を殺したからだ。その事実以外、ブラッドが彼について知っていることはない。どういう生い立ちで、少年でありながら王になったクバルはどのようにしてダイハンを導いてきたのか。  ブラッドには、王について知る権利がある。  クバルは逡巡を見せたが、寝かせた肘に頭を預けながらおもむろに口を開いた。 「俺の両親は、ヘリオススのまじない師だった。俺の前のヘリオサとアステレルラの側に仕えていた。重用されていた」  ヤミールからは、クバルの両親は処刑されたのだと聞いた。他にも大勢が、アステレルラによって処刑されたと。 「まじない師か。お前のような戦士とは違うのか」 「戦のために呪術や、負傷した戦士への蘇生術を行っていた。ヘリオススに水が絶えないように祈ったりもする」 「クバルは使えないのか」 「習う前に両親は死んでしまった」 「……どうして処刑された」 「アステレルラが、両親に禁呪を要求した。死者を使役する呪いだ。ダイハンでは認めない。拒んだら、反逆の罪で殺された」  クバルの声音に沈痛な響きはない。感情の浮かばない表情で淡々と語る。 「庇おうとしたが、祖父に止められた。俺も殺されてしまうからと。ふたりが生きたまま焼かれるのをただ見ているしかなかった」  両親が理不尽に、無惨に殺される様を見せられた少年は何を思ったのか、想像が及ばない。安易な慰めを口にするのは間違いだ。ブラッドは口を噤んで耳を傾けた。 「アステレルラに殺されたのは俺の両親だけじゃない。アステレルラは、自分の望みを叶えない者に罪を与えて処刑した。女も子どもも関係なくだ。ヘリオサは何も言わずにアステレルラの行為を認めていた。俺は十五になって成人として認められてすぐ、ヘリオサに決闘を申し込んだ」  ダイハンの民はヘリオサ・クバルに敬服していると、以前ヤミールが言っていた。それはクバルが王の地位にあるから慕っているのではないと、今ならば理解できる。王がクバルだから敬服しているのだ。 「半日戦って、ヘリオサを殺した。俺がヘリオサになって、それからアステレルラも殺した。民たちは喜んだ」  クバルの語り口からは、復讐や仇討ちの意図があったかどうかは読み取れない。わかるのは、ヘリオサとアステレルラを殺すことが、クバルのやるべきことだったということだけだ。  血に塗れた悲惨な過去だ。思えば、ヘリオススで初めて邂逅した時から、彼の手は他の者の血で真っ赤に濡れていた。婚姻の祝宴でも血を被っていた。クバルはずっと誰かの血に濡れ、自身も血を流し続けている。  王である限り、流血は避けられない。クバルもいつかは王の座を狙う者に決闘の場で殺される。 「両親のことは、ほとんど覚えていない。顔も声も思い出せない。唯一が、その首飾りだ」 「もう一度聞くが、俺がもらってしまっていいのか」 「俺はお前を認めている。アステレルラとして、妻として、戦士として」 「俺と一緒にいても不毛だぞ。女を娶って子孫を残すべきじゃねえのか」 「王に血縁は関係ないから、子は残さなくてもいい。お前が欲しいと言うなら、まじないで男でも子を成せる身体にはなれる」 「いや……そこまではいい」  クバルから認められたのは、ヤミールとカミールというダイハンの民を救い、そしてクバル自身の命を窮地から救ったからだ。それ以外ブラッドに、認められる部分などない。  首にかかる紐に指を絡めながら、逡巡する。首飾りをもらう価値が自分にあるのか。 「お前の家族はどうだ」  真っ直ぐな赤い瞳に貫かれ、言葉が詰まる。 「アトレイアでのお前はどうだった。俺もお前のことを何も知らない」  三十年近く過ごしてきた祖国の名を聞けば、苦いものが喉に落ちていく。  生前弟に愛を注いでいた父と、嫉妬に狂い死んでいった母と、忌み嫌っていた弟。家族などと呼べるものはアトレイアにはなかった。臣下と呼べるものも、ひとりとしていなかったことに気づいた。 「俺は……」  一体、誰なのだろう。  自分のことを話そうとして、言葉が胸につかえる。  ブラッドフォード・ロス・サーバルドではない。  その名前は弟に奪われ、代わりにシュオン・ロス・サーバルドの名を与えられた。ダイハンの王のもとへ嫁いだのはブラッドフォード王子ではなく、シュオン王子だ。  真実ではないが、事実だ。  祝宴のために訪れたシュオンがアトレイアへ帰還して以降、誰にも名前を呼ばれる機会がなかった。ダイハンの女王、アステレルラでありさえすればよかったのだ。 「――俺は、落とし子だ。王だった父が娼婦を孕ませて生まれたのが俺だ。兄や継母には疎まれたが、父だけは認めてくれた。正当な王族と変わりない扱いをしてくれた」  口にしながら、胃の底から吐き気が込み上げてくる。自分ではない、弟の話をしながら、今すぐ真実をぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。  本当は、第二王子シュオンではなく、第一王子ブラッドフォードなのだと。  だがそれは和平を結んだ誓約とは相反する真実だ。掟や誓約を重視するダイハン族に、花嫁の正体が別の人物であると知れてしまったら制裁は免れない。当事者間だけの問題ではないのだ。 「父が死んで……今は兄が王の代理だ。じきに即位するだろう。ダイハンとの和平の証に王族を嫁がせると決めたのは兄だ」 「祝宴の日に会ったきりだが、お前の兄は酷い男だと聞いている。名前を……ブラッドフォードといったか」  目の前の男の口から自分の名が紡がれた時、ぐっと心臓を鷲掴みにされたようだった。血管の張り巡る臓器を握り潰される息苦しさ。ブラッドは手元の毛皮を手繰り寄せ指先できつく握った。 「戦のために民を苦しめたと聞いた。お前も酷い扱いを受けていたのだろう」  否定のしようのない言葉が容赦なく胸を刺す。民を苦しめたつもりはなかった。自分がやってきたことは、すべて国のためだった。しかし、弟も口にした「民を顧みなかった」という言葉は、おそらく真実だったのだろう。 「和平を結ぶまでは、俺たちダイハンを支配しようとしていた。悪く言うつもりはないが、華奢な見た目によらない男だ」  透明な研がれた刃で、ひやりと首筋を撫でられたような気がした。無意識に、渇いた喉で唾を嚥下する。 「嫌がるお前を無理矢理嫁がせた」  ブラッドは、シュオンを遥か南の蛮族のもとへ追放してしまおうと画策をしていた。そうすれば嫌いな弟の顔を見ることなく、神経を掻き乱されることなく玉座に座っていられると。  すべて本当のことなのだ。ブラッドフォードが酷い男であるのは。  これ以上、ブラッドフォードの話をしたくない。――いずれは真実を話すべきなのだとしても、今は、クバルの口から放たれる鋭利な苦痛から逃れたかった。 「今は、ここに来たのを嫌だとは思ってねえよ」  震える頬の筋肉を、ぎこちなく動く唇を、引き攣れた声音を、誤魔化せたかはわからない。躊躇いながら、ほとんど大きさの変わらないクバルの手に自分の手を重ねてみると、クバルは穏やかな声音で呟いた。 「本当か」 「……本当だ。クバルは、嫌か」  軽く瞼を伏せ、クバルがゆるりと首を横に振る。温かい手に強く握り込まれ、ブラッドは不自然に強張る手でそれを握り返した。

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