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変わっていく
太陽が地平線の向こうにまだ姿を隠す時間帯、薄暗い光にぼんやりと包まれた赤い巨岩群の周辺は少し肌寒かった。薄手の上着を掻き合わせながら、大柄な女は巨大な岩に背を預けながらじっと地平を見つめて待っていた。
やがて、目線の先に小さな影が現れる。複数の影は徐々に接近し、静寂の中かすかな馬蹄の音が耳に届く。グランは岩から背を離し、ヘリオススへと向かい来る影の方へ歩いて行った。
馬上に乗る人物の姿が認識できるまでの距離に近づくと、白馬にまたがったグランの主は彼女の姿を認めて速度を落とす。主であるブラッドの隣で黒馬を駆っていた王は、ブラッドと短く言葉を交わすと、後ろに連れていた数名の戦士たちとともにグランを過ぎてヘリオススの方向へと駆けて行った。
「殿下、もしや狩りに出ていたのですか」
グランが見上げると、ブラッドは鞍から下りて手綱を引きながら従者の女に近づいた。
「ああ。ここよりずっと南で鱗の獣を狩ったぞ」
珍しく自慢気な声音で言うブラッドの馬の背には、茶褐色の硬い鱗に体を覆われた動物が括りつけられている。人が両腕を広げたほどの大きさだ。
「心配していたのです。ヤミールとカミールが、お部屋に殿下の姿がないと早朝から不安がっています。ヘリオサもいないから、ふたりで外へ行かれたのだとは思っていましたが」
グランが踵を返すと、少し冷たい空気に皮膚の表面を撫でられながらふたりは並んでヘリオススへと歩き始めた。
「……ヘリオサがお許しに?」
怪訝そうに口を曲げてグランがブラッドを見やる。
「側を離れないのが条件だがな」
「よく許可が下りましたね。ヘリオススの外には出さなかったのに」
「あいつから誘われたんだ」
「そうだったのですか」
両眉を上げたグランの視線が、ブラッドの首元に纏わりつく。
「殿下、先日から着けていらっしゃるそれは」
「ああ、これは……もらった」
「ヘリオサから?」
「そうだが」
従者の追及に唸るように肯定すると、グランはやや間を置いて「へえ」と空気の抜けた声を出した。凝視する従者の視線が居心地悪く、ブラッドは無意識に首の裏を擦った。胸元で揺れる小さな白い石が熱を帯びているような気がする。
「何だよ。へえ、って」
「失礼しました、感心したのです。仲良くなられたようで、大変よろしいことです」
「別に仲良くはなってねえよ」
仏頂面を繕わずに否定を返すが、どこか楽しげな従者は目元の細かな皺を深めた。ゆるりと安堵の息を漏らすグランは、ブラッドのむっつりと引き結んだ唇とは反対に口元を綻ばせた。
「ヘリオサも殿下も変わられましたね」
「俺は別に変わってねえ。変わったのはクバルだけだ」
「殿下も柔らかくなられましたよ。お部屋に、花が飾ってあるのも見ました」
「花?」
「婚姻の時に、ヘリオサから贈られた白い花です」
言われ、茎も葉も花弁も白い奇異な見た目の花の存在を思い出した。カミールに頼んで、器に差して女王の部屋の壁際に置かせたのだ。
「あれは、いつまでも放っておくのもと思って飾らせたんだ。貴重なものらしいしな」
おざなりに部屋の片隅に放置していたが、クバルから首飾りを贈られた時にその存在を思い出したのだった。水を差さずとも枯れることがないというヤミールの言葉通り、手折ったというのに、白く細かな繊維に覆われた茎はまだ芯が通っており、白い花弁と葉は先までぴんと張って、乾いた大地に生きる生命力の強さを見せつけていた。幾日たっても変わらなく美しい花だった。
「殿下が歩み寄ろうとされているのはわかりますよ」
たおやかな、子を見る母親のように従者は目を細めた。
「王の機嫌を取りながら洞窟の中で静かに暮らすことはあなたの幸せではない。ヘリオサに、ダイハンの女王として認められたのは殿下ご自身の力によるものです」
確かに、クバルにはダイハンのアステレルラたる資格を持つ者として認められたのだろう。ともに狩りに出て、敵対する他民族からダイハンを守り、村々のいさかいを鎮め、民の平穏な暮らしを守る。ブラッドは、クバルとともにそれを行っていく。
「ダイハンの女王、か。俺はこの先……クバルとともにダイハンを治めていくと思うか」
「そのつもりではないのですか?」
そもそも女王になるつもりなど、毛頭なかった。この屈辱的な立場から抜け出すことができたらどんなにいいだろうかと思うことはあれど。
だが、王の機嫌を取りながら洞窟の中で静かに暮らすのでないとしたら、王の伴侶として、クバルを支えながらともにダイハンを統治するのが役目だ。
「……どうだろうな」
その姿が想像できない。クバルに真実を隠したまま、彼の隣に立ち続ける姿が。
「いつかは、本当のことを言わなきゃならねえだろう」
低く落とした呟きに、グランは前方に見えるヘリオススの巨大な岩を見据えながら硬い声を出した。
「あなたの、名前と身分についてですか」
「そうだ」
「偽ったままではならないのですか。もし真実を告げたら、ダイハンとアトレイアの間に亀裂が入るやもしれません」
掟と誓約を何よりも重視するダイハンが真実を知れば、彼等が怒りを表明するだろうことは間違いない。敵対関係を再び築くことになるだろう。
そして、亀裂が入るのは国と国との間だけではない。
「このままシュオンとして生きることは可能だろう。いつか、俺のものじゃない名前を呼ばれる時が来る」
たえることができるか、わからない。忌み嫌う弟の名で呼ばれる屈辱と、嘘を吐き続ける後ろめたさと、他人の名で呼ばれる虚しさに。
真実を告げたら、クバルはどんな反応をするだろうか。騙されたことにダイハンが侮辱されたと怒り、ブラッドを軽蔑するかもしれない。それでも、嘘を吐き続けて背徳感と虚無感に襲われるよりは、ずっといいとも思う。
「あいつが見てるのは本当の俺じゃない」
女王として自分を偽りながらクバルの隣に立つのか。騙した罪を責められダイハンから追放されるのか。決断するには大きな躊躇がある。
東から太陽が顔を見せ始め、顔に差した眩しさにブラッドは険しく顔を顰めた。グランは光から逃れるように、悲しげに目を伏せる。赤い巨岩に日光が照りつけ始め、朝が訪れた。ヘリオススの中へ着く頃には、先に到着したクバルから事情を聞いて安堵したヤミールとカミールが、食事の準備を進めていた。
ブラッドの祖国アトレイアから、新王即位の式典の知らせを携えた使者が到着したのは、その日の夜のことだった。
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