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新王

 乾いた赤い大地からおよそ三日、野営を挟みながら北上し、ダイハンからの一行はアトレイア王国の王都へと到着した。時刻は太陽が沈んだ後で、市場のある大通りでは客を呼び込む商人の姿はなく、ほとんどが店仕舞いをして閑散としている。すでに住まいの中で食卓を囲んでいるのか、南からの見慣れない一行を見上げる民の顔も少ない。目深に被った外套のフードをわずかに上げながら、暗闇に包まれ始めた王都の様子を窺う。 「ここがアステレルラの故郷か」 「城下に出ることはほとんどなかったがな」  ヘリオススの戦士や従者が連なる列の前方で、クバルは王都の街並みを見渡した。南の地で非文明的な生活を送るダイハンの民にとっては珍しいものばかりなのか、クバルだけでなく屈強な戦士たちも周囲を見回している。 「建物はすべて背が高い」 「そうか? これくらいは普通だぞ」 「通ってきた村のものはもう少し小さかった」 「そりゃ辺境の村と王都は違うさ」 「あれは何だ。塔から水が吹き出ている」  クバルが指差したのは街の中央にある噴水だった。水源も見当たらないのに勝手に水が湧き出ているのが不思議らしく、怪訝そうに眉根を寄せている。ブラッドからすれば、ヘリオススの洞窟の奥から水が湧いている方が不思議だった。 「塔から吹き出てる訳じゃない。水路を利用してる」 「……、そうなのか」 「水路も知らないだろ。他国に行った時に見たことないか?」 「他の国へ行ったことはない」 「初めてダイハンを出たのか?」  目を瞬かせながら問うたブラッドに、クバルは無言で浅く頷いた。 「俺の役目はダイハンを統治し民を守ることだ。そのために異国へ行く必要も理由もない」 「アトレイアと争っていたのも国境付近だったな」 「戦い方は知っていても暮らしは知らない」  ヘリオススでしばらく生活して気づいたが、ダイハンは他民族や他国と争うことはあっても、外交をしている様子はない。一部親交のある部族はあるようだが、ブラッドがヘリオススへ来て以降、その存在を感じたことはなかった。  大通りを馬で闊歩していると、街の聖堂の屋根の上から、背の高い塔が露わになる。アトレイアの王城が徐々に近づいてきた。  かつてブラッドが住んでいた場所で、あの日弟の策略にかかり、引き摺られるようにして追い出された場所だ。薄暗闇に浮かぶ巨大な影に目を細める。 「アステレルラ。俺たちの姿はおかしいか」 「は? いつもと変わらねえだろ」 「アトレイアの民たちがずっと見ている」  灰色の城から視線を周囲に移すと、まばらに歩く民たちが馬上のブラッドたちを興味深そうに見上げている。連れ合いと顔を見合わせては低く囁く者もいた。 「異民族の客を迎えるのは初めてだから珍しいんだろうよ」 「服を着ていないからかと思った」 「明日の式典では着た方がいいな」  今は閑散としているこの大通りも、明日になれば新王の即位をことほぐ大勢の人で溢れ返るだろう。城下はお祭り騒ぎだ。すでに通りの両脇には王家の印を描いた旗がいくつも連なって立っており、きっと早朝には街中に装飾が施されるはずだ。王都以外からも国民が集まり、店を開く商人の数は普段の比ではない。昼は太鼓の音や音楽が鳴り響き、夜は余韻を惜しむように酒を酌み交わす者で溢れる。  うら寂しい通りに賑やかな様を描きながら眺めていると、馬上を見上げる人の影に気づく。店を閉じて帰宅する最中らしいその女は、じっとブラッドだけを見つめているようだった。 「――……」  ブラッドは咄嗟に顔を背け、女の視線から逃れた。そろりと再び目を配せると、女は首を捻りながら帰途につきブラッドたちとは逆方向に歩いて行く。  日が落ちて、人の姿の造形など目を凝らすか近くで見なければわからない。訝られたが気づかれた様子はなかった。  国民は知っているのだろうか。友好のためダイハン族へ嫁いだ者の正体は第二王子シュオンではなく、第一王子ブラッドフォードであると。即位する者の正体はブラッドフォードではなくシュオンであると。  隠蔽しようにも限りなく困難であることは明らかだ。王が民の前に姿を現せば一目瞭然だ。永遠に隠れて生きることも不可能だ。真相が知れれば非難されることは必至で、隠蔽するリスクはあまりにも大きすぎる。  ならば最初から真実を明かした方が賢い。謀略を巡らせていた兄を、臣下の協力を得て欺いた。民を苦しめるであろう兄に自分の名を与え、僻地に追いやり民を救った。ブラッドを悪者として説明することは簡単なことだろう。シュオンが、兄に不当な扱いを受ける哀れな弟であり、国民を想う懸命な王子であることも。 「アステレルラ」  クバルの声に意識を引き戻される。 「やはり緊張しているのか」 「何も問題ねえよ。……ああ、この階段を上れば門だ」  怪訝そうなクバルを誤魔化し、ブラッドは目の前に現れた石段を見上げた。わずかな月の光に照らされた王城は厳めしく、どこか余所者を寄せ付けない雰囲気があった。そう感じる時点で自分は余所者になってしまったのだと自覚しながら、ブラッドは立ち止まった馬の手綱を引いた。  階段の終わりに差し掛かり、ブラッドは巨大な門の前に数人の人影があることに気づいた。よく見知ったその姿に舌を打ちそうになるのをこらえ、ダイハンの一行を引き連れて門前まで馬を歩かせる。  明日に新王となるその青年と、その近衛騎士と従者を前にして馬から下り、ブラッドはなるべく平然を貼りつけた顔で進み出る。燃える赤毛の青年は、ブラッドを一瞥しそして隣のダイハンの王へ向けて微笑んだ。 「お待ちしていました、ダイハンの王クバル。我が弟シュオン」  何の含みもない人好きのする笑みを浮かべ、ブラッドを称するシュオンは賓客の到着を喜んだ。  ブラッドは乾いた喉で、声を絞り出した。 「兄上自らがわざわざ出迎えてくださるとは」 「大切な弟と義弟だから、一刻も早く会いたかったのだ」  嫌いな弟を兄と呼ぶ気持ち悪さと、平然と白々しい言葉を口にする実弟に、吐き気が胃から込み上げてくる。無理矢理飲み込んで、ブラッドは再び口を開いて引き攣りそうになる舌に言葉を乗せた。まるで茶番を演じているようだ。 「この度のご即位、お祝い申し上げます」  まったく顔立ちの似ない弟は、祝いの言葉を受けて緩やかに微笑んだ。 「私も、無事に明日を迎えられることを喜ばしく思う」  ブラッドはクバルを横目で見やるが、彼が口を開く気配はなく、他国の王となる男を前にして挨拶すらない。シュオンはクバルを一瞥しただけで、何も言及はしなかった。 「ダイハンからの長旅でお疲れでしょう。あなた方が最後の賓客です。部屋へ案内させます」  シュオンに追従していた従者が、こちらへどうぞと門の先へ促し先導し始める。ダイハンの戦士や従者たちは馬を預け、ブラッドたちとは別方向へ案内されて行った。城の従者に案内されてついていくクバルの後ろをブラッドは歩く。横に並んだ揺れる赤毛に、ゆっくりと視線をずらした。 「……兄上。城下ではすでに明日の即位を祝うための準備がされていました。民にも姿を見せるのでしょう」 「いや。実は体調があまり優れないため、城下へは下りないつもりでいる」 「そうですか。民も新王の姿を見たがっているでしょうに、残念ですね」 「それよりも、シュオン。クバル王に言葉が通じないのは承知しているが、他の賓客にもあの態度だと困る」 「いや。あいつは共通語を解します。会話も可能です。俺からよく言って聞かせますのでご安心を。無礼な態度は取らせませんので」 「……そうか。無口なのは言葉がわからないからだと思っていたよ」  単純に私のことが嫌いか? とシュオンは声を潜めて囁いた。おそらく前方のクバルの耳にも入っているが、反応は示さず歩き続けている。 「言葉はわかりますので発言にお気をつけください、兄上」 「ああ、その通りだ、シュオン。互いに、うっかり口を滑らせないよう」  じとりと横目で睨むと、まるで聞き慣れない話し方をする弟は、ブラッドがアトレイアを追い出されたあの日と同じ目で視線を返したのだった。

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