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弟の即位

 新王即位の儀は大聖堂にて執り行われた。神々の御前で、王家に代々受け継がれてきた宝冠と杖の禅譲を宰相から受け、ブラッドの弟は正式にアトレイア王国の王として認められた。聖堂の周囲には王都の民が押し寄せたが、騎士団が出動し規制を敷いたため式はつつがなく進行し、大きな事件もなく式典は終了した。  数少ない友好国から訪れた来賓の中には、当然他国の要人と接する機会の多かったブラッドの知る顔もあった。彼らの多くは異民族と連れ立ったブラッドの姿を見て、同情とも嘲笑ともつかない、曖昧な表情を浮かべた。庶子である第二王子が、正当な後継者である第一王子の名で即位する事情を知っているらしい。  アトレイアに仕える者も当然、知らぬ筈はない。政務を執り行う大臣、城内を警備する騎士、領地を持つ公爵家、貴人に仕える従者から下働きの侍女まで。偽りはもはや真実となる。誰もがシュオンを新王ブラッドフォードとし、ブラッドを新王の弟シュオンとした。知らないのはダイハンの人間のみだった。  本物のブラッドフォードだ。  よくも堂々とアトレイアまで来られたものだ。  シュオン様も人が好すぎる。あの兄君を招待なさるなんて。  真実を知る者の目が語っていた。式典の間、参列した公爵家の者や国臣からの非難の視線は感じていたが、晩餐会が始まった今も、視線は四方から突き刺さって痛いほどだった。  露骨に凝視して囁くような者はいないものの、側を通り過ぎれば含みのある視線が向けられる。出席せずとも良いのであれば今すぐ退席したいところだが、国と王の顔に泥を塗る訳にはいかない。  無数のテーブルが設置され、色とりどりの料理が並べられた大広間の中を、人々は自由に行き来し楽しんでいる。お喋りに花を咲かせる婦人がいる一方で、他国や国内各地からの来客がある中人脈を築こうとしている者、これを機に交渉を進める者の姿もある。  王自らが招いた国賓、そして王室の者だけは広間の最奥、どの場所からも見えるよう高く築かれた壇上で、腰を落ち着けて食事を取っていた。 「……殿下。ご気分が優れませんか」  背後に控えるグランの耳打ちに、ブラッドは緩やかに首を横に振った。 「大丈夫だ。問題ない」 「ご無理なさらず、部屋へ戻られてもよろしいのでは」 「新王の弟が消える訳にはいかないだろう」  壇上の席に着くのは王となったシュオン、王の補佐をする宰相、ブラッドの亡き母の妹である叔母夫婦、その娘である従妹のアイリーン、前王の従兄弟たち、招待された友好国の使者たち、そしてブラッドとクバル。従者を背後に控えさせ食事を楽しむ。主役であるシュオンのもとへは来客が途切れず、ひっきりなしに誰かしらが挨拶をしに訪れている。  衣服を身に纏うクバルの姿は初めて見た。普段晒している褐色の肌は黒を基調とした絹の上着に包まれ、無造作に結うだけだった長い黒髪は均等に編んでまとめ背中に垂らしている。  一日中行動をともにしているが、いまだに違う男が隣にいるようで慣れない。慣れないのは本人も同じのようで、首もとまである上着の留め具が窮屈そうに手をやっている。 「緩めてもいいんだぞ」 「……やり方がわからない」 「少しこっち向け」  顰め面を向けるクバルの首に手を伸ばし、小さな金属の留め具をひとつ外してやる。拘束が緩くなっても、首に布が当たるのが嫌なのか不愉快そうにしている。 「服を着たのに見られるのはなぜだ。まだどこか変か」 「それはお前が目立つからだろうな」  昨夜王都で向けられたものとは異なる視線が、朝から幾重にも絡みついている。本当に蛮族の王かと見紛うほど洗練されたクバルの姿に、無意識に向けられる婦人の視線は式典の最中からいくつもあったのだ。  クバルは腑に落ちない表情で、薄い金属でできた酒杯を傾けた。目の前に並べられた料理には一切手をつけず、時折飲み物の杯を空にするだけだ。 「目立ちたくない。この会は……人が大勢いる。いつもこうなのか」 「今日は特別だ。新王が誕生したんだからな」 「やはり居心地が良くないか」 「そう……だな」  アトレイアはブラッドの祖国で、この城はブラッドが育った場所だ。この広間も父や自分の命名式、年間の行事で何度も使った馴染みの深い場所。だが今は居心地の悪さしか感じられない。身を長く置くほど、自分が異物であることを再確認する。誰も彼もが自分の存在を忌避し、あるいは腫れ物のように扱う。顔を知る大臣も騎士も自分をシュオンと呼び、決して目を合わせない。  今日が終わればもうアトレイアに戻ることはなく、アステレルラとしてダイハンで生きるのだから、何も構うことはない。今ではもうダイハンの方が居心地が良いだろう。  あと数時間、新王即位を祝賀する空気の中で、この所在なさをやり過ごせばいいだけのこと。今日が終わればもはや苦痛を感じることはなくなる。 「……少し用を足してくる」  椅子を引いて立ち上がると、クバルは杯を持つ手に力を込めて見上げ、眉根を寄せつつも頷いた。 「殿下、私もついていきます」 「すぐ戻るから大丈夫だ。グランはここにいろ」  何事も起こらないだろうが、晩餐会に追従させることができる従者の数が限られ、ダイハンから連れてきた戦士や従者がいない今、頼れるのはグランだけだ。  グランが唇を引いて強く頷いたのを確認し、ブラッドは会話に熱中している国賓や王室の側を離れ壇上から降りた。煌びやかな装束の人々の間を抜け、広間から出る。  用を足して厠から出たところに、小さな人影があることに気づいた。ブラッドを待っていたらしいその人物は、こちらに気がつくと小さな歩幅で近寄ってくる。 「ブラッドお兄様!」  からんと鈴が鳴るような声音で彼女は名前を読んだ。大人の女になる一歩手前の少女はふっくらとした頬に粉を入れ、小さな唇に紅を引いて美しく飾っている。嬉々とした表情を浮かべる彼女に相対し、ブラッドは声を潜めて言った。 「シュオンだ。ブラッドじゃなく、シュオン」  従妹のアイリーンは自分の失言に気づき、指先で口を覆って辺りを見回した。幸いにも人の気配はないが、用心に越したことはない。 「失礼しました……事情があっておふたりは互いの名前を名乗っているのでしたね」 「そうだ。アトレイアの臣下にとって、俺は新王の弟のシュオンだ。本当の名前では呼ぶな」  強く言い聞かせるとアイリーンは確と頷いた。  彼女は何も知らなかった。ブラッドとシュオンの間の確執も、政治や戦についても、臣下の間でブラッドがどのように評価されていたかも、ブラッドのシュオンに対する企みも、それを逆手に取ったシュオンの策略も。  ブラッドとも、そして血縁関係ではないシュオンとも良好な関係を築いていた彼女に、彼女の母親は何も告げなかったらしい。ただ、複雑な事情があるとだけ。 「昨日も、式典の時もご挨拶できませんでしたので……追いかけてきてしまいました。お兄様が国を出る時もお会いできず、後からダイハンへ嫁いだと聞かされて驚きました」 「ああ、急な話だったからな。誰にも言わずにアトレイアを出た……心配をかけてすまないな」 「お元気そうで安心しましたが、ずっと心配していたのです。戦と関係があるのでしょうか? ダイハンなんかに行かれるなんて……」  アイリーンは緩やかに弧を描く眉を潜め、不安そうにブラッドを見上げた。 「ダイハンは酷い場所だと聞いていましたから。アトレイアより暑く、水もなく、みな小さな幌の家に住んでいるのでしょう? 埃が舞って汚い場所だって。シュ……即位されたブラッドお兄様がそう話されていました」 「……そうでもない。慣れれば思ったより快適なところだよ」 「そうなのですか? ブラッドお兄様はシュオンお兄様のことをずっと心配されていたんです」 「あいつが?」 「ええ。やはり兄弟想いのお優しい方です」  そう感じているのは王城に身を置く者の中でもアイリーンくらいなものだろう。他の誰もが、ブラッドとシュオンの間に起こったことを知っている。 「お前の方はどうだ? 婚約しているタリオン家の長男とは上手くいっているのか」 「もちろんです。とても素敵なお方なんです。生憎、今日は彼とは一緒に食事はできないのですが……。来月、式を挙げることになりました」 「そうか、いよいよだな」 「はい。お兄様もまたダイハンからいらしてくださいますか?」  逡巡し、ブラッドはぎこちなく首肯した。もちろんだと。  可愛い従妹のためとはいえ、アトレイアには二度と戻りたくないというのが本音だった。シュオンも、アトレイアの臣下もそれを望んでいる。ブラッドをダイハンへ嫁がせたのは追放するためなのだから。 「お前の綺麗な花嫁姿を見に来るよ。……さあそろそろ戻るか。腹でも下したのかと思われちまう」  ブラッドは従妹の華奢な肩に手をかけ、人々が行き交う大広間へ歩き出す。何も知らないアイリーンは、愛らしい顔に従兄と久々に再会できた喜びを浮かべていた。

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