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食事

 アイリーンとともに広間へ戻り壇上へ上がると、ブラッドの席にはすでにひとりの男が座ってクバルと顔を向き合わせていた。周囲には即位した新王へ挨拶をしにきた貴族の当主たちが、杯を手にし集まっている。 「アンバー侯。ダイハンの王に何かご用か?」  王都から離れた港町を治めるアンバー家の当主は、ブラッドの姿を認めるとほんの一瞬であったがわずかに眉根を寄せ、ブラッドへ譲るように席を立った。 「シュオン王弟殿下」  侯が佇んだその周囲に見慣れた大柄な女の姿はなく、代わりにいるのは上質な絹の装束に身を包んだ中年の男たちだ。ブラッドは側にいたアイリーンに目配せし、自分の席へ戻るよう促した。 「俺の従者がどこへ行ったかわかるか?」 「サー・グラントリー……いや、もうサーではありませんでしたね。彼女ならかつての同僚たちと下へ降りられました」 「騎士は護衛や警備の任務があるだろう」 「陛下がお許しになられました。一時くらいは楽しんでも問題ないだろうと」  グランはあの時確かに強く頷いた。彼女がクバルをひとり残し自ら望んでこの場を離れたとは思えない。会場を見渡すが、大勢の招待客や貴族たちに溢れた中、質素な皮鎧を纏った従者の姿を見つけるのは困難だった。 「少しの間、護衛などいなくても問題ありません。国賓の命を狙う輩などいませんから」 「当然だ。招いておいて殺傷沙汰があろうものなら、アトレイアの国名に傷がつくぞ」  クバルの隣に再び腰掛けその表情を窺い見ると、仏頂面でブラッドと侯の会話を見守っている。ブラッドは手元の果実酒を一口含んでから、不愉快そうに唇を歪めている侯を鋭い眼光で見上げ、再び問うた。 「それで、アンバー侯は何のご用か」 「……陛下が心配しておられると、申し上げに参ったのですよ」  数人離れた場所で客の対応をしている弟の姿を一瞥する。「陛下」だ。この国で最も強い権力を持つ人物になってしまった。 「何を?」 「先程からクバル殿はお食事に一切手をつけておられない。お口に合わないのかと」  目の前に並べられたアトレイアの料理。国内で獲れたハーブや野菜を使って煮込んだ牛肉、穀類を丁寧にすり潰して作った滑らかなスープ、幾層も包んだ甘いピーチパイ。  テーブルクロスの上には丹念に磨かれた銀色のナイフとフォークが置かれているが、ダイハンではそれらを使って食事をしない。城下にあった噴水のように、ダイハンの人間にとっては初めて見るものだろうし、使い方さえわからないだろう。  そのことにようやく気がついた。遅すぎるくらいだった。杯を傾けてばかりいるのは、食べたくないからではなく食べ方を知らないからだ。 「城の料理長がこの日のために腕によりをかけて作ったのです。折角陛下がご用意させたのだから、一口くらい召し上がってもよろしいのでは?」  アンバー侯はわずかに頬のこけた面長の顔に、押しつけがましい笑みを載せた。シュオンに視線をやれば、ちょうど来客が途切れた合間らしく、ゆっくりと果実酒を飲みながらこちらの様子を窺っている。 「このような些末事で、あなたが体を張って築いてくださったアトレイアとダイハンの関係を壊す訳にはいかないでしょう」  テーブルに置いた手がぴくりと揺れる。 「このような些末事で壊れるような関係ではないと思うが?」 「だとしても、招かれた先で食事に手をつけないのは失礼に当たる行為かと」 「そちらから指摘されるとは思わなかった。クバルはわざと拒んでいる訳じゃない」 「――アステレルラ。いい」  静かな声の主に目を向け、ブラッドはわずかに目を見開いた。 「彼の言う通りだ」  金の刺繍が這う黒地の袖から出る褐色の手が、手元にあった銀色のナイフとフォークをゆっくりと掴む。大きな手にはいささか小さい銀食器の柄の部分を、初めて食事をする子どものように握り拳で。  それを見て、傍らのアンバー侯がかすかに息を漏らして笑った。 「そちらの白身魚はとても柔らかくてとても美味しいですよ」  ふっくらとした白身魚の上に、輪切りのレモンと溶けかけのバターの塊が載っている。細かく切った根菜とガーリックのソースの中に身が浸っている。魚は王都では滅多に食べない。ブラッドも、記憶にあるのは二、三回程度だ。  離れた場所から、シュオンが悠然と口を開いた。 「その魚は港町を領するアンバー侯が本日のために持ってきてくださった」 「多くは運んで来られませんでしたので、国賓のみなさま方だけに振る舞わせていただいています」  満足げな笑みを小さな唇に浮かべながら、新王は「食べないのはもったいない」と赤毛を揺らした。  クバルは見よう見まねで魚の身にナイフを入れるが、その手つきはぎこちなく、持つ手さえもアトレイアの様式とは真逆だった。  諸侯が笑う。それにつられ、国賓として招かれた他国の使者も。クバルは気に留める様子もなく、耳障りな金属音を立てながら魚の身を剥ぐ。腹を割かれた魚は、皿の上に細かく肉を散らす。バラバラにされた魚はもとの見る影もなく、バターとレモン、ソースの水溜まりに浸かっている。  細かくなった身の上にフォークを刺すが、当然捕まらない。ガチャン、と音を立てながらフォークの腹で掬い、ぽろぽろと溢しながら口へ運ぶ様子に、ブラッドはテーブルに置いた拳を固く握り締めた。  口に入れて、おそるおそる咀嚼し、控え目に噎せる。淡白な白身魚とはいえ、口にしたことのない食材。慣れない味付け。他の立ち会い客なら喜んで食べるであろう料理に、クバルは一瞬だけ眉を顰め、やっと嚥下した。  再び身を掬って口へ運ぼうとするが、逆手に持ったナイフが杯を倒し、赤紫色の液体が広がる。真っ白なテーブルクロスはみるみる赤く染まり出す。  耳障りな笑い声が聞こえる。低いさざめきが聞こえる。三日月の形に歪む目と、小馬鹿にするように歪んだ口が酷く不愉快で。  ブラッドは思わず、握った拳をテーブルに叩きつけた。 「――何がおかしい」  がちゃん、と陶器が震える音のあとに沈黙が広がり、その場にいた者たちの視線が集まった。

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