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杯を満たす

 零れた果実酒の滴がクロスの端を伝って膝に落ちる。赤色がじわりと滲むのを、やけに冴え渡った視界が捉えた。 「何が面白いのか言ってみろ」  冷えきった声が喉から這い出た。乾いた下唇を無意識に湿らせ、荒げそうになる声を抑える。誰かが間の抜けた声で「王弟殿下」と呼んだ。 「……賓客に辱しめを与えて楽しいか。アトレイアの国臣の品位が知れるな」 「いや、まったく、そのようなつもりは……」 「ならどうして笑った? 南から来たダイハンの王が、ナイフやフォークを上手く扱えないのが滑稽だと感じたか?」  下から睨め上げると、アンバー侯はわずかにたじろいで目線を逸らす。 「ダイハンの食事の仕方はアトレイアとは違う。まるで見世物にするように、無理に食わせて嘲笑する輩の方が恥ずかしい」  新王の耳にも届くよう声を張って言い放ち、誰も言葉を返す者がいないことを確認すると、ブラッドは柔らかく煮込まれた牛肉が入った皿に右手を突っ込んだ。  どよめきが湧いた。アステレルラ、と呼び止める声があるが、ブラッドは肉の塊を指先で掴み、汁がクロスの上に垂れるのも構わず口の中へ放り込んだ。油で汚れた手で杯を掴み、半分ほどまで注がれた果実酒を飲み干す。  みながナイフで綺麗に切り分けていた鶏肉の骨部分を鷲掴み、噛みついて食い千切る。不意に隣から褐色の手が伸びてきて、ざらついた親指の腹が、頬についていたらしい肉の油を拭う。見つめてくる強い赤色が、ふっと緩む。クバルは銀食器をテーブルの上に置き、倒れた杯も汚れの広がるクロスもそのままに、ブラッドと同様に皿の中に手を入れて指先で魚の身を掴み、口の中へ入れた。  周囲の者たちが沈黙を破れないでいる中、ブラッドは汚れた手をナプキンに拭いながら側で立ち尽くす男を見上げた。 「アンバー侯、貴殿の用事は済んだな」 「は……」  侯は呆気に取られた様子でふたりを凝視していた。 「出された料理に手をつけた。これで、無礼に当たることも、王の好意を無下にすることもないだろう」 「……ええ、ぜひ他の料理もお楽しみください」  立ち去れという言外の圧力を感じ取ったアンバー侯は、軽く会釈をし、新王へ向けて頭を下げてから場を離れて行った。立ち尽くすばかりだった諸侯たちも、思い出したように足を動かす。  ナプキンへ手を拭いながらシュオンを見やると、無表情でこちらを眺めていた。自身と同じ色をした瞳とぶつかると、王は口元にだけ笑みを張りつける。 「臣下が無礼を働いたこと、クバル王にはどうかお許し願いたい。新しい杯をご用意しよう」  シュオンが手を鳴らすと酌取りの従者が来て、手際よく倒れた杯を片付け、新たな杯に酒を注ぐ。沈黙が解け、硬直していた他国の使者たちも、緊張の尾を引きながら各々の食事や会話に戻っていく。 「……アステレルラ」  首を傾けると、緩んだ赤色の瞳と視線が交わる。 「少し、驚いた」 「……お前が侮辱されるのを黙って見ていられるかよ」 「アステレルラは、食べやすいように食べればいい。無理をすることはない」 「俺はもうダイハンの人間だ。お前と同じように食う」  迷いなく言い放てば、クバルの手が伸びてテーブルの上に置いたままのブラッドの指先を握り込んだ。すぐに離れ、食事を続ける手になる。  異変を感じ始めたのは、それから十数分経った頃だった。 「……どうした?」  俯いて食事の手をぴたりと止めたブラッドに、クバルが訝しげに声をかける。 「アステレルラ?」  こめかみから汗が伝って顎に溜まり、大きな滴が膝へと落ちるのを視界がぼんやりと捉える。ぞくぞくと、悪寒のような震えが背中を這う。口の中と、吐く吐息が異様に熱い。 「腹が痛いのか」 「……違う。何でもねえ」  細かに震える手を固く握り締める。急な発汗、風邪を引いたような悪寒と身体の熱っぽさ、震え。  これは毒か。ブラッドは何度か飲み干して空にした酒杯を見つめた。今は並々と注がれている果実酒。酌取りが注いでいる酒は国賓や王室の全員に同じものが振る舞われている。だとしたら、仕込まれたのは杯の方か。いつ、誰が。 「何でもなさそうには見えない」 「平気だ、すぐに――、ッ」  震える拳にクバルの指先が触れた途端、身体が過剰に反応して手を弾く。目を見開くクバルに罪悪感が胸を掠めることよりも、触れた箇所が痺れるように熱いことに驚く。  誰が、なんて。わかりきったことだ。仕込んだのが本人でなくとも、指示を与えて誰かに行動させた。その誰かは酌取りや、貴族たちや、アンバー侯でもありえる。  ブラッドは離れた位置に座る新王の姿を睨めつけた。燃える赤毛に王の宝冠を抱いた青年は、他国の使者と柔らかく談笑している。  遠くの南の地へ追放するだけでは足りないのか。ブラッドが彼の国にとって脅威となることはないのに、命を奪わなければ安心できないのか。それとも単なる意趣返しか。  視線に気づいた新王が、杯を傾けながらこちらに首を向ける。酒に濡れた上唇を舐めて、呼んだ。 「シュオン」  今や自分のものとなった弟の名前。凛とした少し高めの声音がぞわりと背筋を撫で、感じていた違和感が増した。王の発言に、場の全員が注目する。  毒ならば、身体を痙攣させ泡を吹いて卒倒してもおかしくない。遅効性の毒だとしても、現時点でそれらの症状が出る気配がないのはどうしてか。肌の上を這うようなこのもどかしい熱は何か。 「弟シュオンよ。改めて私たちの再会を喜ぼう。私のもとまで来て杯を満たしてはくれないか」  身体の奥が熱く疼く。これは、毒じゃない。 「アトレイア王。妻は身体の調子が良くない。遠慮する」 「シュオン、そうであったならなぜ早く申し出ない。衛生兵を呼ぶものを」 「――問題ありません、兄上」  恐らくは、催淫剤だ。  身体の内側をじりじりと焼く熱。小さく宿った悦楽の炎が、身体の奥と下腹を重く痺れさせる。  蹲ってしまいたい。蹲って、自分の思うように、熱を解放したい。ちかちかと点滅し始めた頭の片隅にある欲望に固く目を瞑り、ブラッドは拳を握り締め、ガタ、と椅子を引いた。 「アステレルラ、行かなくていい」 「……そういう訳には、いかねえ」  兄弟で語らおうという新王の要求を押し退けることはできない。 「大丈夫だ、酒を注いだらすぐに戻る」  訝しむ赤色へ向け薄く笑みを見せ、ゆらりと緩慢に立ち上がる。一瞬、視界が黒く点滅するが、固く目を瞑って再び開くと景色は元通りになっていた。クバルの視線を背中に受けながら、テーブルの反対側に回ってシュオンのもとまで歩く。  王室の人間や、国賓たちの視線が集まるのも気にならないほど、ブラッドの神経は身体を苛む熱に集中していた。皮膚の下で這いずり回る快楽が表に露見してしまわないよう。一歩足を進めるごとに衣服が肌へ擦れるのも辛く、固く奥歯を噛み締めながらやけに遠く感じる弟のもとへ、ぎこちないながらもゆっくりと歩みを進める。  なんて悪趣味なものを飲ませやがった。潤む瞳に険を込めて視線の先にいるシュオンを睨みつけるが、本人は素知らぬ顔でゆったりと椅子の肘掛けに肘を置き、待っている。  テーブルを挟んでシュオンの前まで辿り着き、ブラッドは改めて彼の姿を見据えた。王となった弟の頭には、式典の時のみ着用する宝冠を戴いている。燃えるような赤毛にプラチナの輝きは美しく映え、端正な顔立ちをより引き立てている。  本来はブラッドが手にするものだったそれを、自分に成り代わった弟が手にしていることに、もはや強い憤りを感じることはない。今後一切関わらないから、お前も俺やダイハンには関与するなと、願うのはたったそれだけだった。これを最後に、二度と顔を見たくないと、朦朧とする意識の片隅で思った。 「……兄上」  絞り出した声は不自然に揺れ、痰が絡んでしゃがれた音になった。 「改めて、お祝い申し上げます。兄上のもとで、アトレイアの繁栄が長く続きますよう」 「ありがとう、シュオン。お前も、南の地で健やかにあるよう」  互いに思ってもいないことを述べて、ブラッドは酌取りから手渡された果実酒の入った陶器を、シュオンは手元の空いた杯を取った。  シュオンの傾けた杯に、ゆっくりと赤紫の果実酒を注ぐ。みながその様子を見つめている。酌を受けている者の視線が下から覗き込んでくる。手が震え、膝が砕けそうになるのをこらえ、溢さぬよう静かに注ぐ。  だが、ぶれた。カチャン、と小気味良い音が鳴って、水差しとぶつかった杯が持ち主の手を離れた。真っ白なテーブルクロスと、側まで寄っていたブラッドの衣服を赤く染め、杯はテーブルを転がって床へ落ち、足元で止まった。 「っ……申し訳、ありません」  震える声で詫び、杯を拾おうと膝を折る。中身の消えた杯を手に取り立ち上がろうとするが、できなかった。人形の糸がぷつりと切れてしまったように、まるで足に力が入らない。 「シュオン?」  額に浮き出た汗が、ぽたりと床に落ちる。早まる呼吸を落ち着けようと深く息を吸うが、完全に立てなくなってしまった。 「服が汚れてしまったな。着替えを用意させよう。サー・ブレダン」 「畏まりました」  耳に届く会話の音も遠く、ブラッドには自らの呼吸の音しか聞こえない。何者かの手が肩に触れ、おもむろに見上げるとひとりの騎士に腕を取られる。 「シュオン様、こちらへ。お着替えがございますので」  支えられるようにしてようやっと立ち上がり、ブラッドは周囲を見渡した。  不審、不安、関心。様々な感情の入り交じった視線が集中する中で、ひとつ殺気立ったものを見つけた。今にもテーブルを飛び越えてきそうに席を立ったクバルの側へ別の騎士が寄り、何か話しかけている。  心配しなくても、汚れた服を着替えたらすぐにお前のところへ戻る。つい先程も同じようなことを言ったなと首を傾げながら、焼けつくような赤色を向けるクバルを残してブラッドはふらふらと歩き出した。

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