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罪を犯す
覚束ない自身の足元を見つめながら、騎士に連れられるままに城内を歩く。長年過ごした場所、広大な敷地内でも知らぬ道などなかったが、今のブラッドには自分が一体どこを移動しているのか見当もつかなかった。
朦朧としながらも辿り着いた部屋の扉には、見慣れた装飾が施されていた。肩を支える騎士の腕が扉を押し開け、崩れ落ちるように中へ入る。
記憶とは大きく異なり部屋の中にあった筈の家具や調度品はことごとく取り払われていたが、ここは確かにブラッドの私室だった場所だ。書棚があった壁のわずかな黴や、小窓の桟の軋みには覚えがあった。前室は執務室で、奥が寝室になっている。
自分の部屋を懐かしむよりもとにかく身体を休ませたかったブラッドは、残されていた長椅子へ腰を下ろした。
内側を回る熱が全身を震わせる。揺れる自身の肩を両腕で抱き、大きな身体を丸めながらブラッドは戦慄く唇を開いた。
「着替え……あるんだろ。置いてとっとと出て行け」
胸中は急いていた。早くひとりになりたかった。ひとりになれば、本物の毒のように全身を駆け巡って苛む熱を解くことができる。
ブラッドの問いにサー・ブレダンは言葉を返さなかった。その代わりに部屋の扉が軽くノックされ、騎士が扉へ向かうのを目で追う。
開かれた隙間から現れたのは、つい先程まで言葉を交わし、ダイハンの王に恥をかかせようとした貴族の男。そして、よく見知った顔の宰相、大臣たちだった。
「……どういうことだ」
途端に広がる不穏な空気に、鼻梁に皺を寄せる。唸るブラッドの前に立って、頬の痩けた男が口を開いた。
「本当の名前でお呼びして構わないかな、ブラッドフォード殿下」
「あいつの……シュオンの企みか」
憎悪のこもった声音で紡がれた問いに、アンバー候はくつくつと喉を鳴らし、首を横に振った。
「いいや、陛下はご存じではない。私たちの意思でやっていることだ」
「薬を仕込んだのもか」
「お気に召したか?」
「……あいつは思ったより悪趣味じゃないらしいな」
頬を歪ませて放った皮肉を、候は鼻を鳴らして受け止めた。
「陛下は殿下のことを愛されている。だから此度の式典に招待なさったのだ」
「面白くない冗談だ」
「私どもはみな反対したのだ。蛮族に王都の地を踏ませるなんて。一度追放した男を呼ぶなんてと」
「王になった姿を俺に見せたかったんだろうよ。想像通り、愉快なもんじゃなかった」
聖堂で王の宝冠を戴き、王室の杖を手にしたシュオンは、色硝子から差し込む光を受けてまさに神々から祝福された男だった。多くの臣下が彼の足元に跪き、頭を垂れ、畏れ敬っていたのだ。
「それで、貴様らの目的は何だ? 俺が動けないように薬を使ってまで何を企んでいる」
燻り続ける熱を腕で押さえつけ、自分を見下ろす男たちを上目に睨む。
アンバー候は姿勢を正し、頬の痩けた顔を深刻そうに顰めて口を開いた。
「我々は、こう思っている。あなたと、ダイハン族には虫酸が走る。王を筆頭にあんな汚ならしい野蛮な獣たちと友好関係にあるのは耐えがたい。国の品位が落ち、隣国に蛮族と馴れ合う国家だと思われる」
憎悪を繕わずに放たれた内容に、ブラッドのこめかみがわずかに引き攣った。
「同盟を解消したいと言うのか? 貴様らの一存ではどうともならん」
愚かな考えだ、と熱い吐息とともに吐き捨てる。
「そうだとも。陛下には申し上げたが、我々とはお考えが異なるようだ」
シュオンは大臣や騎士を始めとした国臣の大部分を、自らの賛同者、あるいは共謀者とし、ブラッドを策略にかけダイハンへ追いやるに至り、王となった。だが彼もすべての臣下の統率を取れている訳ではないようだ。制御下を離れこうも勝手な行動を許している。
「そもそもアトレイアとダイハンの和平は、あなたが公にブラッドフォードだった時に王の代理人として結んだもの。今の陛下がお決めになったことではない。あなたがダイハンの妻となりこちらの人間ではなくなった時点で、同盟を破棄してもアトレイアの面目が潰れることはなく、我々に何の問題も不利益もないのだ」
「不利益がないだと? 同盟を破れば、ダイハンはアトレイアを再び敵視するぞ」
「陛下が決心なさらないのは、それだ。戦による国の疲弊を危惧しておられる。再び南で蛮族と戦を繰り返すことを恐れているのだ」
至極真っ当な判断なのだろう。ブラッドは国を立ち去ることになった日、無意味な戦で兵を疲弊させ民を困窮させたとシュオンに糾弾された。意味のない戦などなかったと信じているが、シュオンは必要以上に他国と争うことを忌避していた。国の繁栄と安寧を守る王であれば、誤った判断は許されない。慎重な彼が容易に臣下らの上奏に首を縦に振らないのはもっともだった。
「陛下はどうやら臆病であらせられる。対外においての決断に限っては、あなたの方がいささか優れていらっしゃった」
「それは、俺の方が貴様らにとって都合が良かったという意味か」
「率直な表現の仕方をすればそうなりますな。何を恐れることがあろうか。王都の精鋭たちを派兵すれば、文明を持たぬ蛮族など簡単に蹴散らせる。南の辺境の凡兵が手こずっていたのは当然よ」
黙って聞いていたが、アンバー候らの考えは危険だった。シュオンが式典に自分たちを招き、表面上だけでも友好国として快く接しているのは、国の権威を示すよりも国民の安全の保有を優先しているからだろう。
すでにアトレイアの人間ではないブラッドには、彼らの国の外政に口出しする立場になく、その権利も資格も、関係もない。
ダイハンとの関係を更地に戻すことが目的なのであれば、ブラッドを使って何を企もうというのか。
「――それで? 俺には和平を解消する手立てがあると思っているのか。……俺を使って説得でもさせる気なら、馬鹿げた考えだ。承知のうえだろう」
「そのような愚かで無意味なことはしない。どうしてあなたに薬を盛ってここへ連れてきたのか。関係が決裂せざるを得ない状況を作るためだ」
候がサー・ブレダンに目配せをする。動きを見せた騎士に警戒するが、今の身体の状態ではまともな抵抗など不可能だ。騎士は背を丸めて長椅子に座るブラッドの背後へ動き、腕を掴み上げた。両手首を首の後ろに固定され、固い布で縛られる。
熱を落ち着かせようとことさらゆっくりと深く呼吸をしながら、目の前の男を睨め上げる。
「ダイハンの女王が、友好国で罪を犯せばいい」
笑みを深めた目元が歪んだ。
「……何?」
「どうして催淫剤など下品な薬を使ったと思う。あなたを連れてくるだけなら痺れ薬や睡眠薬で十分だっただろう」
目の前の男を睨んでも、その真意は見えてこない。
「アイリーン様をお呼びしろ」
候の側に控えていた別の騎士は頷き、部屋を後にする。その背中を送ってから、嫌な予感が腹の底から這い上がってくる。
「貴様ら……」
「我慢なさっているが、身体が辛いだろう」
「ッ……」
「女の身体を抱かせてさしあげよう」
内側に燻る熱とは裏腹に、ぞっとするような寒気が背筋を這う。明らかになった彼らの目的に、不愉快を煮詰めて濾したような嫌悪感で顔が歪む。
「よくもそんな下衆な考えが思いつく」
「あなたには最適だろう。アイリーン様はタリオン家のご子息と婚約されている身。婚前の清い乙女を穢した罪で断罪されていただこうか」
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