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怒り

 身体に触れるシーツの肌触りが違うと、目覚めると同時に違和感に気づく。  頭の奥を鋭利な刃物で突かれるような痛みが走り、伏せたままの目元を大きく顰めることになる。 「う……」 「……気づいたか」  短く刈ったブロンドを大きな掌が撫でて行く。眼球の奥の痛みにたえながら緑を開くと、うつ伏せに横たわる自身の傍にクバルが腰かけていた。 「身体はもう、平気か」  意識が判然としてくる。どれほどの間抱かれていたのかわからない。ダイハンの暑い夜に、じっとりと汗が滲むほど長い時間をかけてゆっくり交わるのとは違い、性急に求め、尽きない情欲を昇華するためにクバルは飽くことなく何度も抱いてくれた。惨劇が広げられた血濡れの部屋のすぐ隣で。普段は絶対に望まないことを情けない声で哀願し、彼の腕に縋った。  落とされた問いに、ブラッドはわずかに顎を引いて答えた。あれほど身体を苛んでいた淫欲の熱は鎮火し、強烈な性衝動は引いている。代わりに呻きを上げたくなるほどの激痛が頭を襲い、全身に濃い倦怠感があった。名残と呼ぶには鮮明で確かな違和感が腰と股関節にある。それほど時間が経過していないだろうことはわかった。  クバルは赤い飛沫の散った上着を再び羽織っていた。まだ霞む視界を巡らせると、今いる場所がかつてブラッドの私室であった部屋ではなく、此度の式典でふたりに宛てがわれた客室だと悟る。  「今は……、っ」  口から出た声は酷く掠れていて、乾いた喉に走るわずかな痛みに軽く咳き込む。望むものを与えられ、抑えることもできず絶えず声を上げていた記憶がある。  首を捻って小窓を見やれば、外は暗闇に包まれていた。 「まだ日は変わっていない」 「……何で、俺の居場所がわかった」  しゃがれた声にクバルは緩く弧を描く眉をわずかに寄せ、まだ熱を帯びる指先で頬を撫ぜていく。 「アステレルラが連れて行かれた時、追おうとしたが、止められた。……しばらくしてからひとりの騎士が来て、娘に声をかけるのが聞こえた。シュオン様がお呼びだと」  クバルの口から出たシュオンの名は、すなわち自分のことだった。クバルはブラッドのことを「アステレルラ」と女王の名で呼ぶが、当然ながらシュオンという男が自分のことであると認識している。  ブラッドは無意識に唾を飲み、続く話を聞いた。祝宴から抜け出せたクバルは、騎士と娘――アイリーンの後をつけたという。 「人気もないほど随分離れたところまで歩き、おかしいと思った。着替えをするためだけにこんな場所まで来たのかと。娘も不安がって騎士に尋ねていたが、はぐらかされた。俺が出て行くと、騎士は動揺していた。嫌な予感がして、娘は自分の部屋へ帰らせた」 「そうか……」  アイリーンの身が無事であることに、胸を撫で下ろす。万が一にもクバルが現れず、あのおぞましい部屋へ辿り着いていたらと思うとぞっとする。 「娘は、アステレルラの何だ」 「……従妹だ。無事で良かった。お前のおかげだ」 「奴らが何を企んでいたのか知らないが、アステレルラは無事ではなかった」  クバルの深紅には、抑え込んだ憤りが灯っている。薬の副作用なのか、つきつきと痛む頭に顔を顰めながら、ブラッドはつい先刻のこの男の憤怒する様を思い起こした。 「騎士にアステレルラの居所を吐かせて向かわなければ、お前は」  クバルはその先の言葉を紡がなかった。  重量のある甲冑を纏った騎士を片手で引き摺り現れたクバルが、ブラッドの姿を認めた瞬間、見えない空気が硬く張り詰めた。憎悪と殺意が空間を切り裂き、ビリビリと肌を乱暴に撫でた。その場にいた男たちは、ブラッドよりも如実に感じたことだろう。  激情に駆られ、しかしどこまでも冷淡に手際よく男たちを殺したクバルは、赤い大地で初めて相対した、冷酷で残虐なダイハンの王だった。掟破りの戦士を馬に繋いで引き、自身へ決闘を挑んだ男の首を豪腕で刎ね飛ばした王だ。  純粋に畏怖を抱くとともに、あの惨劇は自分のための怒りであることを思うと、単純に形容できない感情で胸が苦しくなる。 「お前が来てくれて、助かった」  掠れた声で礼を述べるが、クバルはゆっくりと首を左右に振り、寝台を軋ませて立ち上がった。見上げれば、その目は凪いだ憤りと、ブラッドには計れない秘めた覚悟で澄みきっていた。 「クバル」 「お前は、ここにいろ」  その言葉に、ブラッドは倦怠感の拭えない腕を無意識に動かしていた。男の服の裾を掴みかけるが、やんわりと解かれる。 「どこに行く」 「……待っていろ」  行かせてはならない。  脳が警告を発していた。クバルは、騎士を含め、アトレイアの重臣たちを殺した。あの部屋の惨状は、鮮明に思い起こせる。理由を訴えたところで取り合うことなく罪に問われるのは確実だ。ブラッドが強姦されそうになったなど、誰が信じるというのか。  クバルがどこへ向かおうとしているのか、誰と会おうとしているのか、わかるゆえに無為に危険を冒させる訳にはいかなかった。 「駄目だ、クバル」  なぜか、酷く焦燥に駆られていた。しゃがれた声で呼び止めるが、クバルは心を変えず背を向ける。  行かせてはならない。行かせたら――戻ってこない気がする。  腕を伸ばすがもう届きはしない。がんがんと頭蓋の内側から殴られる激痛と、全身の倦怠感には抗えなかった。立ち去る背中に縋ることもできず、ブラッドは息を詰まらせて見つめることしかできなかった。

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