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 噎せ返るほど濃厚な血の匂いに、礼服の袖で口と鼻を覆う。それでも繊維の隙間を通って鼻へ喉へと流れ込んでくる匂いに、目を覆いたくなる部屋の惨状に、頭が痛くなる。細い眉の間に深く皺を刻むシュオンを、赤く濡れた床に膝をついて調べていた騎士が厳しい表情で仰いだ。 「全員、深く切られて死んでいます」 「そんなもの、見ればわかる」 「頭に剣を受けて、頭蓋が割れている者も」  どんな豪腕を振るえば人の頭が潰れるというのか。どす黒い血と脳味噌を飛び散らせた騎士の、眼窩から飛び出た目玉がシュオンを見ている。衝動に任せた行為であることは、無惨に転がされたもの言わぬ死体たちの有り様を見れば想像に容易い。  刃に突かれて潰れた脳天。深い一太刀で裂かれた喉笛。細やかな刺繍をあしらった上質な衣装に身を包んだ男たちが、血溜まりの中に倒れている。得物は彼らの血と、血に塗れた手形がついたまま無造作に放り出されていた。  死体の中にはシュオンの探していた、宰相の姿もあった。 「招待客を全員、部屋へ帰さないよう手配しますか」 「その必要はない」  背後に控えるサー・マーティンの問いに、シュオンは首を振った。  晩餐会の途中、小用を足すと断って席を立った宰相がしばらくしても戻らないことを不審に思い、数名の騎士に捜索を命じていた。  時間はかかったが、宰相が見つかった。報告を受け駆けつけると、この惨状だった。彼はもの言わぬ、冷たい身体となっていた。その他、招待していた数名の貴族たちの身体も。晩餐会で、ダイハンの王に食事を勧めていたアンバー家の当主も。  彼らを死体へと変えた者の正体は、予想がついている。 「ダイハンの王と、女王を探せ。城に見つからないなら外に捜索隊を出せ。まだ遠くへは行っていない筈だ」  硬い声で命じると、シュオンは長い裾を翻し部屋を後にした。  血塗れとなった部屋は、かつて兄のブラッドフォードの私室であった場所だった。 「一度晩餐会へ戻る」 「はい」 「そろそろいい時間だろう。客たちを部屋へ帰す。別の騒ぎが起きる前に」  サー・マーティンを連れて長い回廊を歩く。忠実な騎士は何も言わずにシュオンの後を追従する。  シュオンの兄は一時退席した後、長らく会場へ戻らなかった。訪れる客の相手をしているうちに、ダイハンの王の姿がないことにも気づいた。兄はずっと退席したそうにしていたから、着替えついでに消えたのだろうと。クバルも、兄を追ったのだろうと思った。無礼は不問にするつもりで黙認していたのだ。  だが、事は単純ではないようだ。宰相がシュオンの傍から姿を消したこと、ブラッドフォードとクバルの姿がないことには関連がある。わざわざ晩餐会の会場から遠く離れた城の上階、王室の者の部屋がある棟の、今は使用されていない旧私室で、何かがあった。人死にが出る事態に発展する何かが。 「ダイハンの王と、女王が殺したのでしょうか」 「おそらくは。ただ、無作為ではない。何らかの報復で殺したのだろう」  臣下が、兄やクバルに対して何らかの企みがあった。でなければこんな遠く離れた兄の旧私室に足を運ぶ理由などない。非文明の地のダイハンの王に恥を掻かせる以外に、殺されるほどの何かがあったとしか思えなかった。  彼らがどれだけブラッドフォードに、そしてダイハンに良い心象を抱いていないかは知っていた。それゆえに臣下たちは評議会の場で、即位の式典にダイハンの王と彼の伴侶となったブラッドフォードを招くことに反対した。野蛮な獣たちが王都サラディの地を踏むことなどあってはならない、追放した男をどうして呼び戻すのかと喚く男たちに、シュオンは諭した。対外的な体裁の面からも、王位継承の祝いに元王室の肉親を招待しないのは賢明ではない。  それに、王となった自分に向ける兄の視線がどんなものか、関心もあった。本来は自らが戴く筈だった宝冠を、座る筈だった玉座を、奪われた自らの名前で得たシュオンを見てどんな反応をするか知りたい思いもあった。想像すると灰暗い喜びが胸を満たした。――実際は、想像したほど愉快なものではなかった。  顔を歪ませて嫉心を滾らせるでもなく、憎悪を露わにするでもなく、居心地が悪そうにしながらも彼は黙って座っていた。伴侶となったダイハンの王の隣で。  かえって不愉快なものを見せられた。蛮族さながらに素手を器に突っ込んで料理を口に運び、辱しめを与えようとする貴族の男を退けた。アトレイアの形式を破ることにいささかの躊躇いもなく、あの堂々と行った行為がダイハンの王を守るためのものであったことは察するに容易い。  兄は案外に、埃と馬糞に塗れた南の地と、野蛮で残酷な蛮族の王に適応している。アトレイアから遠く離れた南方で、汚辱と苦痛に満ちた日々を送っているのではないことは、事実らしい。そのことが、シュオンには理解できなかった。 「死んだ者から話は聞けない。ダイハンの王と女王を見つけ、問いただす必要がある」  自分を出し抜いた臣下たちの行動に気づかなかったのは完全なる失態だ。結果、賓客を招く即位の祝いの最中に、慄然とするほどの惨劇が起きてしまった。彼らを御することができなかった非は、自分の至らなさにあるとシュオンは自覚もしている。 「城外へ逃亡した可能性が高いのではないでしょうか」 「逃げたのなら、自分たちが殺したと証明することになる」  滅多に作らない皺を眉間に刻みながら、シュオンは重い息を吐いて足を進める。まさかこんなことになるとは――事は穏便には済まない。  晩餐会の会場まで辿り着くと、扉を警護する騎士の前にひとりの男の後ろ姿があった。広い背中に垂らされた編んだ黒髪は、まさしく今シュオンが探している人物のものだった。騎士は中に押し入ろうとする男の前に立ち塞がりながら説得を試みていたが、シュオンの存在を認めると「陛下」と声を上げる。  クバルが振り返る。  無愛想な男というのが、シュオンの彼に対する印象だった。婚儀を祝うためダイハンを訪れた際も礼を見せることなく仏頂面で黙っていたし、今回アトレイアで出迎えた際も、無表情をしたままシュオンに祝いを述べることはなかった。今も表情こそない。だが彼の視線の苛烈さや首筋に浮き出た血管からは、静かな興奮が伝わってくる。真っ直ぐに突き刺さる鮮血の色をした瞳は、初めて見た時から本能的に苦手だった。  相対した彼の衣服は赤黒い飛沫が散っていて、やはり間違いないと確信した。サー・マーティンが、シュオンを守るように前に出る。  彼から放たれる殺気は、じりじりと顔の皮膚の表面を焼くようだった。今にも掴みかかってきそうな覇気だったが、剣の柄に手をかけたサー・マーティンが立ち塞がっているためか、クバルが衝動に駆られて手を出してくることはない。 「貴様に用があった」  野生の獣が低く唸り声を上げる。爛々と赤く光る瞳で、獲物であるシュオンを見据えている。 「私もあなたを探していた、クバル王。ここで立ち話をするには適切な内容じゃない。場所を変えよう」

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