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決裂

 冷たい玉座の間は沈黙に支配されている。玉座の左右に向かい合って立ち並ぶ臣下たちの姿は今はなく、謁見を願う貴族や、跪き叙勲を待つ騎士もない。月光のみが差し込む静謐の空間には、明かりを補うように焚かれた松明の爆ぜるかすかな音だけが響く。  王として座る玉座は硬く冷たく、項の辺りから威圧感をもってシュオンの背後を包み込んだ。重圧を自覚しながら、肘掛けの先を強く握る。  玉座に腰かけたシュオンを、数段低い位置からクバルが見上げている。彼の横には武装した騎士が張りついていて、不審な行動を起こそうものなら即座にその剣が抜かれるのだ。 「私の臣下を惨殺したのはあなたか、クバル王」  相手が口を開く前に沈黙を破ったシュオンは、血を飛び散らせた衣服もそのままに堂々と聳える男の頭上に、硬い声を降らせた。  友好を結んだダイハンの王とは何度か相対していたが、彼と交わす初めてのまともな会話が、このような状況下であろうとは思いもしなかった。 「当然の報いだ」  肯定の言葉だ。彼は憤っていた。アトレイアの重臣や貴族や騎士を惨たらしく殺すほどに。シュオンはその理由を問いただし、対処しなければならなかった。いかなる理由があれ、彼が国賓であれ、複数の命を無惨に葬った事実に対し、相応の処断をしなければならない。 「事情を話してもらおう。彼らが何をしたというのです。あなたを怒らせ、命を絶たれるほどの行為をしたのか」 「俺にじゃない。アステレルラだ」  聞きなれない単語にシュオンが眉を顰めると、クバルは怪訝そうにしながら再び口を開いた。 「貴様の、弟のことだ。……知らない筈はない」 「知らないから訊いている」 「貴様の命令だろう。薬を盛り、女王を犯そうとした」 「……何?」  シュオンは細い顎を引き、冷たい背もたれからわずかに身体を離した。自分を睨み上げる男の苛烈な視線は緩むことがない。 「もう一度言わせる気か」  クバルの冷たい声に明確な苛立ちが滲んだ。  突拍子のない内容だった。何が目的でそんなおぞましいことを、と考える。いくらブラッドフォードを嫌っていようが、嫌がらせにしては度が過ぎており、容易には信じがたい。クバルは、そんな不気味でおぞましい行為を、シュオンが――アトレイア王ブラッドフォードが命じたと思っている。 「私の臣下が、私の弟を強姦した?」 「その前に俺が殺した。……貴様は、弟を疎んでいるだろう」 「例えそうだとしても、あなたの言うような下劣なことはさせない。客人へ手荒な真似をするなど、もってのほかだ」 「ならばなぜ、奴らはアステレルラを連れ出して襲った」 「理由を話せる者はあなたが殺してしまった。そもそも私の臣がシュオンに暴行を働いた証拠はあるのか」  ないとわかっていてあえて訊いた。現場に残されていたのは無惨に砕かれ裂かれた死体だけだった。  クバルの主張する内容は真実であるに違いない。そうでなければ彼がここまで憤る理由がない。だが彼の口から語られる言葉だけでは証明にはならないのだ。 「証拠がないのならあなたは理由なく無差別に殺人を犯したことになる」 「そう思われることはわかっている」  理解しているのなら、シュオンの前に堂々と現れる理由がわからない。自分が殺したのではないと主張するのならばともかく、シュオンの前に立つクバルの服は返り血もそのままだ。わざわざ、招かれた国で人を殺した、捕らえてくれと伝えに来るようなものだ。 「それに、彼らがシュオンに暴行を働く理由がない」  単なる嫌がらせではないことは確かだが、臣下たちはブラッドフォードを凌辱して何をなすつもりだったのか。  ブラッドフォードが被害を訴えたところで、信じる者はアトレイアにはいない。そもそも自尊心の高いあの兄が、男である自分が犯されたと公に、ましてやシュオンに言う訳がない。  だが、ダイハンは違うだろう。自らの女王が侮辱を受けたと知ろうものなら、彼らは黙ってはいない。  アトレイアとダイハンの間に亀裂を生むための計画だったのだろうか、とシュオンは考えた。ダイハンを毛嫌いする気持ちはシュオンも同様だが、彼らは最初から最後まで、ダイハンを招くことを承服していなかった。  そうだとしたら、彼らの目論見は成功したことになる。事実、シュオンはクバルに敵対視され、こうして対立している。  だが、自分たちに伴う危険と損失が大きすぎる。自分たちの行為が露見すれば、その立場やあるいは命が脅かされるだろうことを想像できない愚者ではない。事実、クバルに見つかり殺される羽目になったのだ。  そこまで考え至り、しかしまだ何か引っ掛かるとシュオンは思った。女王を犯してダイハンを挑発するのでは、たとえその卑劣な行為を無実であると否定したとしても、アトレイアという国の名誉に傷を残す恐れがある。そのような愚かな真似をしてはシュオンの失望を買うだろうことはわかっていた筈だ。関係が崩壊する要因はダイハン側にのみあるべきで、アトレイアから先に手を下すのが望ましい。ダイハンに、アトレイアを責め立てる大義名分を与えるのは賢くない。 「理由などどうでもいい。重要なのは、貴様らがアステレルラを傷つけたという事実だけだ」 「わかった。あなたの言葉を信じることにしよう。だが、あなたの行為を認めるか否かは別問題だ」  ダイハンでは罪を犯した者や裏切り者、掟を破った者への容赦は一切ないという。だがここはクバルの治めるダイハンではなく、シュオンの治めるアトレイアだ。 「私の臣下の罪が真実だとしても、ここでは私が王だ。罪を犯した者への処罰は私が決める。あなたではない。あなたのやったことは、怒りに任せた行き過ぎた行為だ」 「俺の妻を侮辱した連中への制裁は俺が行う。――貴様もだ」  クバルの横に張りついた騎士が剣を抜く。シュオンの脇に控えるサー・マーティンも、銀色の刃を鈍く光らせた。  ブラッドフォードへの暴行がシュオンの命令でも、そうでなかったとしても、クバルにとっては同等のことだった。ダイハンの女王がアトレイアに侮辱を受けた。王であるクバルは、それを許さないのだ。  太い首に宛がわれた刃を、クバルは素手で掴んだ。怯んだ騎士の腕を取り、関節を絡めて、本来曲がる方向とは逆向きに力を込める。苦痛に喘ぐ叫び声が高い天井まで響き渡るまでのクバルの行動は一瞬だった。  血だらけの手で奪った剣の切っ先を、倒れた騎士の目の先に置き、クバルは赤い瞳でシュオンを見上げる。 「貴様の差し金でも、そうじゃなくても、関係ない。貴様は奴らの王だ」 「彼らと同じように死をもって贖えとでも?」 「そうだ」  サー・マーティンが前に進み出ようとするのを、シュオンは細い腕で制した。自分に最も忠実なる騎士を信頼していないのではない。目の前の蛮族の王は、たとえ丸腰であろうが、アトレイアの騎士ふたりで抑えきれる男ではないのだと理解した。 「痛み分けにしませんか」 「……何だと?」   松明が爆ぜる。橙色の炎が大きくなり、クバルの影が大きく揺れた。 「私の臣下はダイハンの女王を貶めた。あなたは私の臣下を惨殺した。互いにこれ以上の損失は出したくないでしょう。あなたはアトレイアの無礼を許し、私はあなたを罪に問うことはしない。あなたはこのままダイハンへ帰ることができる」  炎に照らされた赤色が、ぎらりと煌めく。血濡れの手で握った剣が細かく震えていた。切っ先を突きつけられたままの騎士は、冷たい床に横臥しながら恐怖に息を殺していた。 「……帰ることができる?」  低い声に滲んだ怒りは、凪いでいたが鋭利だった。  シュオンは息を飲む。斜め前で剣を構えるサー・マーティンの警戒が増した。 「痛み分けだと? そんな話をしているんじゃない。過ちを犯したのは貴様らだ。奴らを殺しただけでは足りない」  鋭利な切っ先が、シュオンに向いた。掌から伝った血が、先端から滴り硬い床へ一滴落ちる。 「ダイハンは、アトレイアとの和平を破棄する。裏切ったのは貴様らだ。ダイハンは、女王を侮辱したアトレイアを許さない」  殺意に満ちた低い声は、はっきりとシュオンの耳に届いた。 「貴様も死をもって贖えと言ったが、それは今じゃない、アトレイア王ブラッドフォード。俺は貴様の名を、忌むべきものとして刻みつける。俺は必ず、貴様を殺しにくる」  クバルが血に濡れた剣を垂直に振り下ろす。甲高い音とともに刃が突き刺さる。大理石に亀裂を作った得物の柄から手を離し、彼は編んだ長髪を翻して背を向けた。握った拳から垂れた血が、床に痕を作っていく。  シュオンは硬い玉座から立ち上がった。 「お待ちください、クバル王」  男はゆっくりと歩みを止めたが、振り返ることはしない。 「撤回はしない。ダイハンは裏切りを許さない。必ず報復をする」  彼の後ろ姿は決意に固まっていた。その強固な意思は、何者にも崩すことはできないだろう。どれだけシュオンが説得しようが、幾人の騎士で取り囲み捕縛しようが、絶対に変わることはない。 「私の提案を退けるというのなら、このまま帰す訳にはいかない」  ダイハンと和平を結んだのは兄だった。シュオンとしては、父に倣って戦を推し進めていた彼の唯一の功績ではないかと思えた。たとえその陰に、シュオンを自分から遠く離れた地に追いやりたいという歪んだ感情が絡んでいたとしても。  南方を併合する目的で蛮族討伐の隊を当初編成させたのは死んだ父王だった。シュオンがまだ幼年であった頃だった。それから長い敵対関係が続いた。国境付近で繰り返されていた小競り合い程度の争いは、当初よりも激しさの程度を増した。  また戻ってしまう。まさに、臣下たちの目論見通りなのではないか。彼らは死をもって成し遂げたのだ。アトレイアとダイハンの決裂を。 「俺を殺すのか?」 「いいえ」  兄の存在が頭の隅に浮かび上がった。ダイハンの王が憤怒するのは、彼の妻、ダイハンの女王、シュオンの憎き兄のためだった。兄はこの男に愛されているのだとシュオンは理解した。だがその理由まではわからない。  なぜあの兄が。民を顧みず、シュオンを蔑ろにし、不当に遠ざけようとした傲慢な兄が。追放した筈の南の乾いた大地で、静かな激しさを持つ異民族の男と、この先の余生を幸福に過ごすというのか。そんなことが、許されるのだろうか。 「――あなたの女王の名誉のために我々に刃を向けるというのであれば、あなたの行動は完全なる誤りで、見当違いも甚だしい」  クバルはようやく身体をこちらに向けた。攻撃的なシュオンの言葉に、顔を硬くして怒りをたたえている。 「誤りかどうかを決めるのは貴様じゃない」 「私は、あなたのもとに嫁ぎ女王となった者の、存在自体の話をしたい。あなたがアトレイアとの同盟を解消するというのなら、和平の条件であるこちらが送った花嫁について、我々は秘密を保つ必要がなくなった」  シュオンの放った突発的な話題に、クバルはわずかに苛立ちを緩め、玉座の前に立つシュオンを黙って見つめた。 「詫びたところで許されることではないですが、あなたには最後に伝えておきましょう。ダイハンの王、クバル」  松明が爆ぜる。シュオンの影が大きく揺らめいていた。

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