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帰れない
眠っているのか、起きているのか、わからない。頭が酷く痛くて、眼球の奥を針で突き刺されているようだった。時折、目を開いては部屋に自分ひとりであることを確認する。頭痛と身体の倦怠感のために簡単に意識を手放すことはできないが、少しだけ瞼の裏に幻影を見た。
ブラッドは少し色が煤けてしまった自分の馬に乗り、乾いた赤い大地を駆ける。弓を手にし、南方に生息する鱗の獣を追う。少し遅れて、葦毛を駆るグランが追従してくる。弓をしならせ矢を放とうとした瞬間、目の前を走っていた獣がびくんと動きを止め、身体を大地に横たえた。側面に刺さった矢はブラッドが射たものではない。矢が飛んできた方向を見ると、大地から盛り上がった岩の上に、逞しい黒馬に跨がったクバルがいた。
風で吹き上がる土埃と、赤くひび割れた大地と、王の姿を見る。ここはアトレイアではなく、ダイハンだ。即位の儀も、晩餐会も、終わったのか。
安堵した瞬間、光景が黒く変色して現実に戻される。
長く、重い息を吐き出した。こめかみがずきずきと痛み始め、浮かんだ血管が痙攣する感覚がある。身動きを取るのが億劫なほど怠くて、掛布の中で身体を丸める。
短い夢を見た後は、重苦しい不安に駆られた。待っていろと言い残して出て行ったクバルの安否が気にかかってたまらず、できるものならば意識を手放して思考を捨ててしまいたかった。そうして戻ってきたクバルの声で目覚めることができればいいのにと念じながら、長すぎる時間をやり過ごす。
行き先は告げなかったが、クバルがシュオンに会いに行ったことは明白だった。人を殺してしまった。もう後には引けない。会いに行っては無事で済まないだろうことは理解していた筈なのに、きっと彼の選択肢はひとつしかなかったのだ。女王を、ダイハンを侮辱されて黙している王ではない。
「クバル……」
薄暗闇の中で、彼の名を口にする。戻ってきてくれと、かすかな願いを込める。祈るのは苦手だった。祈ったところで現状が変わる訳ではない。これまでも、何かを成し遂げるために信用できるものは自分の力と行動だけだった。
だが今はその慣れない行為で、騒ぐ胸の内を押さえつけるのが唯一できることだった。気休めにもならないが、一握り分もない希望に縋るしかないのだ。
突如姦しい音を立てて部屋の扉が開かれ、複数の重い金属が擦れる音が脳味噌を掻き回す。腕をついて上体を起こせば、入り口から五人の甲冑を纏った騎士が押し入って、寝台の周囲を取り囲んだ。
「王のもとへ連行する」
うちひとりがブラッドの腕を掴み、ベッドから引き摺り下ろした。指示通りに動かない身体は足を縺れさせ、すぐに直立することは叶わない。
「無礼だぞ。俺はお前たちの主の、客人だ」
騎士たちは声を上げない。
すべてが明らかになったのだと察し、無意識に唾を飲み込んだ。ブラッドの旧私室の惨状が、クバルが重臣たちを殺したことが発覚したのだ。
無理矢理に立たせようとする騎士の手を乱暴に振り払った。目眩を感じながらも足裏に力を込めて立ち、乱れた服の留め具を直す。
左右をがっちりと固められ、長く歩いた。薬を盛られた後、晩餐会の会場から連れられた時は自分が城のどこを歩いているのか皆目見当もつかない状態だったが、薬の症状から解放された今はどこへ向かっているのか予想がつく。
辿り着いた場所にクバルはいた。二本の足で、立っていた。
「クバル」
掠れた声は小さくても、天井の高い玉座の間に響いた。階段を上った先の玉座にはやはりシュオンが腰掛け、段の下には無事を願っていた男が背を向けて佇んでいる。
「無事だったか……」
クバルは拘束されてはいなかった。玉座の間にいる騎士の数も必要最低限で、今すぐに身柄をどうにかしようという緊迫した雰囲気はない。
クバルが部屋から出て行った時、彼がしたことの凄惨さを思えば、二度と戻らないのではないかと思った。有無を言わさず断罪されて、もう会えないのではないかと思った。
だが彼は自由を許されて立っている。逸る気持ちを抑えながら、左右を固める騎士に連れられ、より玉座の近くへと歩みを進める。彼の右の拳から血が滴っているのが確認できたが、それ以外に外傷はない。大理石の床には、騎士が帯剣している筈の得物が突き刺さっていた。何が起こったかは多少の想像がつく。
今のところは生かされている。もっとも、今後の展開によっては、シュオンの勅命によってブラッドもクバルもただでは済まされないだろう。
この場所に来ると否が応でも記憶が甦る。あの日、座る筈だった玉座から引き摺り下ろされ、名前を奪われ、祖国から追い出された時の屈辱を。
だが、もはや未練は消え失せている。ブラッドの弟が腰かけている玉座も、宝冠も、この城も、今となってはすべてがどうでもいい。
ブラッドは、アステレルラとして、クバルの伴侶として、ダイハンで生きていく。それしか道はなく、そうあるべきだ。
すべては、アトレイアを生きて出られたらの話だった。
玉座に座る弟は口を閉ざして眼下を見下ろしていた。彼にも追及したいことはあるが、王同士の間で何らかの結論を出したのであれば、まずはその帰結をクバルの口から聞きたかった。
「クバル」
隣で足を止める。ブラッドの呼びかけに、クバルは反応を返さず、口を閉ざして正面を見据えている。その瞳は、シュオンを捉えているようにも見えなかった。ここではない、どこか遠くを見ているように思え、再度声をかけることは躊躇われた。
「……ああ」
間を置いてようやくブラッドに向いたクバルの表情からは何も読み取れなかった。猛禽のような鋭い眼力は、どうしてか初めて会った時のことを思い出させる。引き結んだ厚い唇を開き、クバルは宣言した。
「ダイハンはアトレイアとの和平を破棄する」
一切の迷いのない声だった。
「……そうか」
やはり、と思った。ブラッドを置いて部屋を出て行く時の、覚悟を決めたように眇めた眼差しの真意は。予想はしていたのだ。誇り高いダイハンの王は、必ず然るべき方法でけじめをつけると。
取り返しはつかない。思惑とは多少過程が違えど、死んでしまったアンバー候や大臣たちの望む通りになった。ダイハンとアトレイアは再び敵対する。以前と違うのは、ブラッドはダイハンの女王としてダイハンの戦士たちとともに戦うということだけだった。
もはやアトレイアにいる必要もない。招かれざる客となったブラッドたちは即刻国を立ち去るべきだ。
だがクバルの感情を削ぎ落としたような表情と声音は、彼の決意の表れにしては淡々とし過ぎた。同時に、腿の横で力強く握られた両の拳は、その冷淡さとは相容れないもののようにも感じた。
きっと気にしすぎだ。余計な思考を振り払う。
「クバル……お前の判断に俺は従う。帰ろう、ダイハンに」
「……」
「……クバル?」
クバルは言葉を返さなかった。両の目でブラッドを見据えながら、口は開かない。下げた拳がさらに硬く握られるのが目に入った。
「何か……問題があるのか」
「……」
無言だ。ブラッドは、当初想定していた最悪の結末を思い浮かべる。
侮辱されたという理由があれど、親交国の重臣を殺害したことは釣りが返ってくるほど行き過ぎた行為。しかもことほぐべき祝宴の最中に起こったことだ。普通なら厳罰は免れないどころか、処刑されてもおかしくない――。
たえかねて、ブラッドは懇願するように言った。
「……頼む、言ってくれ」
「……故郷には帰れる。だが、お前とはここで別れだ。 ――ブラッドフォード」
世界から音がなくなる。
松明の炎がぐらりと揺れ、自分の影がそれに伴ってぶれた。
「……な、に」
乾いて引き攣った音が出た。
心臓が打ち始める。静寂だった世界で、どく、どく、と血液を送る音が耳の横で急激に大きく聞こえるのだ。
口内が乾上がって、舌が震える。無理矢理に唾を溜めて、それを飲み込んだ。
「何を言ってる」
ブラッドを見据えるクバルの表情からは、やはり感情は窺えない。多く語らない血色の瞳を向けられると、鳩尾の辺りが空っぽになったような感じがした。
クバルは確かにブラッドフォードと口にした。玉座に座る青年ではなく、ブラッド自身を見て。
「俺を……ブラッドフォードと呼んだのか?」
自分自身の言葉に、唇の端が引き攣る感覚がした。
違う。ブラッドフォードは、そこで玉座に座っている青年の名前だ。俺はその弟の、シュオン・ロス・サーバルドだ。
乾く唇を開くが、嘘偽りの言葉は喉につっかえたように出てこない。周囲の酸素が薄くなってしまったように息苦しい。いつの間にか硬く握り締めていた両の拳の中が、じっとりと汗に濡れていく。
すべて見透かすような赤い瞳を前にすると視線を逸らすこともできなくて、ブラッドはただ言葉を失くして立ち尽くした。
「和平のための婚姻だった。和平が破れた以上、花嫁がダイハンに留まる理由も、その正体を隠す必要もない」
耳障りの良い少し高めの声音で端的に言った者を、ブラッドはぎこちない首を廻らせてゆっくりと見上げた。青年は玉座で背筋をぴんと正している。
「そうでしょう、兄上」
「……お前」
玉座に座っている王は――シュオンは、すべてを明かしたのだ。
彼は、先王の第一子ブラッドフォードではなく、第二子シュオンであること。ダイハンへ嫁いだのは、シュオンの名を騙るブラッドフォードであること。きっと、そこまでに至る理由も。
「……話したのか」
「ダイハンを離れることができて良かったではないですか。忌避していたでしょう」
笑みさえ湛えてこちらを見下ろすシュオンの言葉に、さっと血の気が引いていく。
違う。今は、そうは思っていない。否定したかったが、咄嗟には言葉が出てこなかった。
「本当は自分が嫁ぐ筈じゃなかった。野蛮な蛮族のもとで暮らすのは疎ましい弟である筈だったのにと、思わない日はなかったでしょう。ようやく解放される。喜ばしいではないですか」
「口を、閉じろ」
「あなたに代わって私がすべて説明し、お詫びした」
「……」
「クバル王は私の臣下が女王を凌辱したことに大変お怒りで、我々の同盟を解消すると仰った。ですから最後にお詫び申し上げたのです。今までずっと騙っていたことを」
クバルの顔を見るのが怖かった。ただならぬ憤りを表しているのではないか。軽蔑の視線を向けられるのではないか。失望したと言われるのではないか。想像すると、手足の先が氷のように冷たくなっていく。
「――アトレイアは嘘を吐いた。誓約を破った」
恐れながら、視線を向ける。クバルの顔には、何の感情も浮かんでいなかった。怒りも、軽蔑も、失意もない。淡々と言葉を紡いだ。
「再度、お詫び申し上げます」
「詫びても何も変わらない。貴様は黙っていろ」
突き放したクバルの態度に、シュオンは鼻を鳴らして細い脚を組み替えた。そうしてふたりを、玉座から見下ろしている。
「……お前は、弟を遠くへ追いやるために俺たちと和平を結んだのか」
「それは、違う」
切羽詰まった硬い声で否定する。
責めるような口調ではなく、淡々と確認するような静けさがある分、なおさらこたえた。
シュオンを追放するためだけに、ダイハンと手を結んだのではない。確かに歪んだ嫉心もあったが、南方の戦から手を引こうとしたことは偽りではない。
説明しようとしても、きっと苦しい言い訳にしか聞こえない。それに、今のクバルを前にして上手く言葉を紡げる自信がない。彼の視線に晒されたまま、平静さを保っていられる自信がない。だから、ただ「違う」としか口にできなかった。
一体シュオンから、どこまで聞かされたのだろうか。項がきりきりと冷えて、薬の副作用で苛んでいた頭痛の感覚などわからなくなってしまった。
「弟を遠ざけようとしたことは真実だろう。だが臣下に裏切られ、お前自身が嫁ぐことになった」
裏切られるような男だったのか。非難の色はなくとも、そう責められているように聞こえた。否定はできない。クバルの言葉は真実だからだ。
「お前はずっと俺に嘘を吐いていたのか。ダイハンにいるのも嫌じゃないと言ったのも、嘘か」
「クバル、聞いてくれ……すべてが嘘じゃない」
「じゃあ、何が嘘で何が真実なんだ。お前の言葉の、どこまでが真実かわからない。信じられない。以前お前自身のことを尋ねた時、なぜ本当のことを言わなかった」
言葉に詰まった。交わった後、ベッドで寄り添いながら互いの生い立ちや家族の話をした時のことを思い出す。
「言える訳、ないだろう。俺は……」
あの時語った内容は嘘だったが、真実でもあった。自身がシュオンであると、娼婦の腹から生まれた落とし子であると、兄や継母に疎まれていたと。シュオンの目から見た真実を語った。
シュオンである自分を労り、シュオンの兄を非難したクバルの言葉が甦る。
戦のために民を苦しめた。お前に酷い扱いを強いていた。嫌がるお前を無理矢理嫁がせた。
紛れもない真実だ。兄のブラッドフォードは酷い男であると、それは自分のことであると――否定したい真実を、言える訳がない。
「本当のことを言ったら……お前は俺をどうした?」
力ない問いに、クバルは答えを返さずに唇を引き結んだ。
「嘘を吐いて誓約を破った俺を、ダイハンに背いた俺を、許して受け入れたのか? それとも……首を斬って、アトレイアに送りつけたか?」
声がどうしようもなく震えてしまって、それが情けなくて滑稽に思えて、頬が捩れる。きっと卑屈な笑みになった筈だ。クバルの両眉の間に皺が刻まれたのを見て、確信する。
「たとえお前の信頼を得ていたって、俺は誓約を破った裏切り者だ。ダイハンは裏切りを許さない。それにお前の言う通り、弟を遠ざけようとして逆に自分が追放された愚かな男だ……そうだろう」
クバルに初めて会った日、彼の跨がる黒馬に縄で繋がれ、硬い大地を引かれて戻った戦士を思い出す。ダイハンの戦士たちの信頼や絆は強固。ゆえに裏切りや掟破りは、絶対に許されない。
破ったら、俺もああなるか。摩擦で皮膚が剥がれ、剥き出しになった肉さえも削れてただの赤い塊となった男の姿を見て、そう呟いたことを思い出す。
「……その通りだ。ダイハンは、裏切りを許さない」
クバルは断言をした。
「絶対に許されない」
お前を許さない。そう言われているようだった。
「お前がブラッドフォードだろうが、シュオンだろうが、もうどうでもいい。だがダイハンを裏切った事実は無視できない」
クバルは薄く息を吐く。冴え冴えとした赤色から、ブラッドはたえきれずに顔を背けた。
「お前はもう、アステレルラじゃない」
その言葉は酷く胸を抉った。
――行かせたら、戻ってこない気がする。あの時、部屋を立ち去るクバルの背中を見て思った。
予感は現実にはなり得なかった。クバルは今、ブラッドの前に立っている。ただ、ブラッドの望む――ブラッドにとって都合の良いクバルではなかった。
そして、再び去って行く。
顔を見ることができなくて、奥歯を噛み締めたまま俯いていた。足元を映す視界の中で、クバルの身体が動いた。硬く握った拳が細かく震え、血を滴らせながら、彼の影が消える。遠退いていく気配を、止める者の存在はない。
誰か、止めてくれ。心が叫ぶ。
足元が崩れ落ちてしまいそうな虚脱感。足裏に必死で力を込めて、ようやく立っている。少しでも気を緩めたら、すぐにでも膝をついてしまいそうだった。
遠くで軋む扉が閉まる音を聞いて、ブラッドは理解した。
クバルは行ってしまった。
そして、自分は――帰れないのだと。
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