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女王の僕

 ダイハンへ帰る。  従者や戦士たちに宛てがわれた部屋にヘリオサ・クバルは突然やってきて、告げた。  寝入っていた者たちは身を起こし、すぐさま出立の準備に取りかかった。腹心の戦士たちがヘリオサに理由を問うても、王は答えなかった。だが、従者や戦士は王に従う。闇に満ちた真夜中、ダイハンの一行はアトレイア王国の王城を後にした。  城下は、真夜中だというのに露天が立ち並んでいて、酒を酌み交わす人々に溢れていた。その中を馬に跨がった異民族が横断しても、祝い酒に酔った人々は何事かと見上げはするもののすぐに飽きてしまう。奏でられる音楽に合わせて千鳥足で踊り始めた。  ダイハンに到着するまで、ヘリオサは何も言葉を与えなかった。従者は普段と変わらず王に仕え、また戦士たちもそうした。ヤミールとカミールも立場上、自分から尋ねることはできない。  だが、目に明らかな事実は無視できなかった。  アステレルラがいない。  晩餐会の夜、従者たちの前に現れたのはヘリオサただひとりだった。ともに出席していた筈のアステレルラの姿はない。ヘリオサは誰の目に見てもわかる事実に触れることなく、出立を命じたのだ。  アステレルラはどうされたのか。ヘリオサの身に纏うアトレイアの衣服には血も飛んでいる。何も話さないヘリオサに、ヤミールはたえきれず尋ねてしまった。何か大変な事態でも起こってしまったのか。ヤミールの不安に、ヘリオサは答えを与えなかった。機嫌を損ねた様子もなく、彼はただ口を噤んだ。    三日間、馬を歩かせ、時折休憩を挟み、夜は野営をする。その間ヘリオサが感情を見せることは一切なく、彼が一体何を考えているのか、誰にもわからなかった。  まるで以前のようだと、ヤミールは思った。以前というのは、アトレイアから王子が嫁いでくる前のことだ。  ヘリオサ・クバルは基本的に情動を露にしない。不意をついた敵襲があろうが、ヘリオススでめでたく赤子が生まれようが、常に冷静沈着で表情を崩さない。  人道的な感情が抜け落ちているとか、冷酷である訳ではない。彼はダイハン族を統べ、ダイハンの民を守る王であり、その責任を常に果たそうとしているだけなのだと、ヤミールは知っている。  ヘリオサ・クバルはみなに尊敬されている。少年の頃に、前のヘリオサとアステレルラを殺したからだ。前のヘリオサとアステレルラは、不当な理由をつけて戦士や従者や、戦士でない女子どもさえも殺すことがあった。ヘリオサ・クバルが決闘で前の王を殺して自らが王になったことを、民は勇敢であると称えている。  また同時に畏怖もされている。彼は公正で、決して親しい戦士や仲間を贔屓にはしない。盗みを犯した者や、夫のいる女と性行した者がいようものなら、たとえ腹心の戦士であっても容赦はない。掟を破り重大な罪を犯したのであれば、迎えるのは死のみだ。  敵との戦いでは、他のどの戦士よりも勇猛に戦う。自分より屈強な体躯の男を相手にしても怯むことなく立ち向かい、必ずその首を討ち取る。戦いで誰よりも多くの敵を殺しても、傲ることはない。民に称賛されても、笑みを浮かべることさえない。  一見すると感情を露にしないヘリオサ・クバルだったが、アステレルラが来てからは違ったように思えた。  ヤミールとカミールは女王の僕に任命される以前も、ヘリオススの南で暮らしていた。ヘリオススはふたつの三日月のような形の巨岩から成っており、その内側に守るようにして住居がある。南の三日月には王やそれに近しい者たちが暮らしており、ヤミールとカミールは、幼い頃に家族を亡くした後、ヘリオサに仕事を与えられて北から南に移り住んだ。  ヘリオサの側仕えの従者や腹心の戦士ほどではないが、王の家である洞窟の中への出入りを許可されていたので、ヘリオサの姿を見る機会は多くあった。アステレルラの僕を命じられてからは、ヘリオサと接する時間は長くなった。  アステレルラを迎え入れてから、ふとした瞬間にヘリオサの情動を感じる場面があった。その多くは苛立ちであったり、不信感であったりしたが、以前は負の感情すら見せなかったため、驚いた。見逃してしまいそうなほど些細な機微で、アステレルラは知りえなかっただろうが、ヤミールとカミールは気づいていた。  ツチ族の襲撃に遭遇した際に、ヘリオサから酷い言葉を投げつけられたアステレルラが彼に手を上げた時、一瞬ではあったがヘリオサは酷く驚いていた。瞬時に平然とした様子に戻り、戦士にアステレルラを連れて行くよう命じていたが、ヤミールは確かにヘリオサの瞳が見開かれているのを見た。  ふたりがさらに驚かされたのは、その後の出来事だった。夜伽の手解きをし、その夜はヘリオサとアステレルラのふたりきり。ヤミールとカミールはアステレルラに湯浴みをさせた後、村の東へと向かうアルを追い、ツチ族に拉致された。その後ふたりの救助に駆けつけたのは、アステレルラだったのだ。ヘリオサがそれを許可したというのだから、ヤミールは驚愕した。  どういう感情の変化があって、アステレルラに剣を持つことを許したのか。見当もつかないが、ヘリオサがアステレルラに夜の務め以外の行動の許可を出した事実は大きかった。今までのヘリオサの頑なな態度からすれば、絶対にあり得ないことだったのだ。  ヘリオススに帰還してから、ヤミールとカミールが夜に王と女王の部屋に呼ばれることはなくなった。行為自体がなくなったのではない。ヘリオサは自らの意思でアステレルラを抱いている。  アステレルラが気づいていたかどうかはわからないが、アトレイアから新王即位の知らせが届き、ヘリオススを出立するまで、そしてアトレイアまでの道のりでも、ふとした瞬間にヘリオサの赤い瞳が緩むのを感じた。  無慈悲にアステレルラを組み敷き犯していたヘリオサが変わった。ともすれば見過ごしてしまいそうな、かすかに瞳に乗る色は、信頼とか、愛しいとか思う感情ではないかとヤミールは思っていた。  今のヘリオサは何を考えているのかわからない。ヘリオススに帰還するまで口を閉ざしたきり、みなが疑問に思っているだろうアステレルラの不在について何も語らなかった。  アトレイアを発って三日。ヘリオススに到着すると、ヘリオサは驚くべき内容を口にした。  ――アトレイアとの和平を破棄した、と。  戸惑い理由を尋ねる戦士たちに、ヘリオサはアトレイアの背信のためだと告げた。和平の条件であった、ダイハンに嫁いだ者の正体が誓約とは異なる人物であったと――。  誓約破りは、ダイハンに対する侮辱。戦士たちは怒り狂った。今すぐアトレイアへ攻め入ろうと騒ぎ、王に迫った。だがヘリオサ・クバルは戦士たちに背を向け、王と女王の家である洞窟の中に籠った。  ヘリオサは洞窟の中から出てこなかった。毎朝、戦士を伴って狩りへ出かけるのが日課であったがそれもなく、三日が経過しようとしている。彼の従者は食事や入浴のために出入りするが、それ以外は遠ざけられている。  ヘリオサが姿を見せないことに一番最初に痺れを切らしたのは、彼の腹心であるユリアーンだった。肩を怒らせて洞窟の中に入っていったが、十数分後に戻ってきた。 「何を話しても取り合わねえ。アトレイアに報復すると、みなに早く言えばいいものを」  それ以外に俺たちがすべきことはあるか? 苛立つユリアーンに他の戦士たちも同意を示している。  正体を偽っていたというあの男も、アトレイアに攻め込んだら見つけ出して殺すべきだ――過激な言葉に、背筋が凍った。  アステレルラを殺す? 冗談じゃない。彼は、ヘリオサの妻で、ダイハンの女王だ。  花嫁の正体が偽であろうが、アステレルラはアステレルラだ。ダイハンで彼はアステレルラの役目を果たしていたし、その正体はさしたる問題ではないのではないか――ヤミールはそう思ったが、とても口にはできなかった。その権利もないし、言おうものなら戦士たちに射殺されてしまう。  ヘリオサがアステレルラを認めていたように思うのは勘違いではない。一番近くでふたりを見ていたからこそ、ヤミールには自信があった。  躊躇しつつも、ヤミールとカミールは洞窟に足を踏み入れた。冷気の漂う通路を進み、王の部屋の前で足を止める。声をかけ、絹の幕を分けて覗き見るが、そこにヘリオサの姿はなかった。壁に飾られた獣の頭蓋が、空洞の瞳でこちらを見ているだけだった。  女王の僕を任じられて最初の頃、夜伽の準備のために何度も通った王と女王の部屋へ足を運ぶ。 「……ヘリオサ。ヤミールと、カミールです」  返事はなかったが、気配はある。  無礼を承知で、ふたりは絹を分けて中へ足を進めた。平常であれば罰せられるに違いない。だがヘリオサから叱責が飛ぶことはなかった。 「……ヘリオサ」  岩に獣の毛皮を敷き詰めたベッドに腰を落とし、視線は足元に落ちていた。いつからそうしていたのかはわからない。ヤミールとカミールが傍へ寄ると、感情の見えない赤い瞳が向いた。  王より目線が高いのは無礼だ。ふたりはヘリオサの足元に跪いた。 「お前たちの、女王の僕の任を解く」  無許可の入室を責めるでもなく、開口一番にヘリオサは冷たい声で命じた。 「……はい。ですが」 「口答えをする必要はあるか。女王はもういない」  獣の頭蓋の真っ黒な瞳のように、底が見えない。自分たちと同じ色の筈の、虚ろを湛えたその瞳に見つめられると、背筋が冷たくなった。 「新しい務めは与えてやる。今は暇を出す」 「……感謝いたします」  本当は新しい務めなどいらない。自分たちの役目は、アステレルラの僕だ。アステレルラの身の回りの世話をすることなのだ。  だがヘリオサの命令に異を唱えることは許されない。ヘリオサが決めたのなら、ふたりはそれに従うだけだ。

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