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苦しい
「お尋ねしてもよろしいでしょうか」
躊躇いながらも、ヤミールはヘリオサを見上げた。憮然としてふたりを見下ろすヘリオサは、両手で膝を掴み、重たそうに唇を開く。
「許す」
「ありがとうございます」
礼を述べてから、ヤミールは隣に跪くカミールと一度目を合わせた。目元や、緩やかな鷲鼻の形、薄い唇やその位置まで、顔立ちは自分とそっくりだ。考えていることも、一緒だ。
「アトレイアへ侵攻するおつもりなのでしょうか」
率直な問いに、ヘリオサは気分を害した風もなく、黙って唇を引き結んでいた。下僕がそんなことを訊いてどうするのだという厳しい言葉も飛んでこない。
「ユリアーンは、アトレイアに早く報復すべきだと言っておりました」
「他の者も同意しておりました。ヘリオサもそのようにお考えなのでしょうか」
アトレイアが誓約を破った。ダイハンは侮辱されたのだ。誇り高い戦士の一族であるダイハンは貶められて黙っている愚か者ではない。
「俺はアトレイアでこう言い残してきた。ダイハンはアトレイアを決して許さない。必ず報復すると」
ならば次の行動は決まっている。ヘリオサはみなの前で宣言すればいいのだ。戦士たちの心構えはすでに十分だ。準備を整え、アトレイアへ向けて進軍すればいい。
「ならばお命じくださいませ。ダイハンの民のすべては、ヘリオサ・クバルに従います」
ダイハンの戦士たちは、民たちは、侮辱されたことに怒っている。ヘリオサの憤りも同様だ。だからアトレイアで、宣戦布告をしたのではないのか。
「みな、あなたの命令を待っています」
ヘリオサは口を閉ざしている。彼の表情に、憂いがあるようには見えない。憂いどころか、その他の感情も窺い知れない。
決断しているのに、どうして命令を下さないのか。洞窟の中に、王と女王の部屋に籠って民の前に姿を現さない理由は何か。
「躊躇っておいでですか」
おそるおそる尋ねたヤミールの言葉に、ヘリオサの眉間に皺が寄る。挑発ともとれる問いだったかもしれない、ヤミールはわずかに後悔し顔を伏せる。
「下僕ごときが、出すぎたことを口にしました」
「……構わない」
本当は、ヘリオサに問いたいことが沢山ある。躊躇っているのだとしたら、――なぜ? 理由は、アステレルラか? それとも別にあるのか? 思案を巡らせる兄の代わりに、カミールが恭しく口を開く。
「ヘリオサ。アステレルラの正体が偽りであると、いつどのようにして知ったのですか」
もはや女王の僕でなくなった者に、すべてを教える義理などない筈だが、ヘリオサは緩く弧を描く眉を顰めながらも重い唇を開いた。
「アトレイア王に――そのアトレイア王の正体も嘘だったが、奴に同盟を破棄すると宣言しに行った時だ。アトレイア王の口から直接聞いた」
「……正体を偽り誓約を破ったために同盟を破棄したのではないのですか?」
「……最初はそうじゃなかった」
「最初は……?」
途中で理由が変わることなどあるのだろうか。困惑を浮かべるふたりに、ヘリオサは淡々と告げた。
「アステレルラがアトレイアの貴族たちに暴行された」
「晩餐会の最中にそのようなことが許されるのですか?」
「薬を盛られて連れ去られ、凌辱された」
ヤミールは伏せていた顔を弾かれたように上げた。ヘリオサは、心を殺したように静かだ。
「どうしてアステレルラが、そんな目に遭わないといけないのです」
「知らない。理由などどうでもいい。……ダイハンへの侮辱には違いない。だから俺は、アトレイア王に会いに行った。アステレルラを傷つけた連中を殺した後に」
殺した。冷淡な響きに、ヤミールはカミールとそっと目を合わせた。
乾いた赤い大地で、ツチ族を始めとした敵を殺すのとは訳が違う。もちろん、アステレルラへの暴行は許しがたい行為だ。しかし招待された友好国で人を、それもきっと貴族や大臣といった高い身分の者を殺害して、ただで済む筈がないのだ。
思慮深いヘリオサならば、当然理解している。それなのに、殺してしまった。
「どうして」
思わず漏れたヤミールの声は、縋るような響きがあった。ヘリオサは無表情で「どうして?」と同じ言葉を繰り返す。
「今も言ったように、奴らが乱暴した理由はわからない。訊く前に、殺してしまった。気づいたら、全員殺していた」
我を忘れて、アステレルラを傷つけた連中を葬ったということか。ヤミールにはその時のヘリオサが、光景が、想像できない。
決闘で前のヘリオサを殺した時も、自らの両親を処刑した前のアステレルラを殺した時も、ヘリオサ・クバルは感情的になったりなどしなかった。当時、周囲の大人たちからそう伝え聞いている。私怨を引き合いには出さず、自らのすべきことをすべく、殺した。
衝動的な行為に走るほど、ヘリオサは心を乱したのか。アステレルラが傷つけられて心を乱すほどに、彼の存在は大きかったのか。ならばどうして彼をアトレイアに置いてきたのか。
「ヘリオサ……たとえ誓約破りだとしても、彼はもう我々のアステレルラです。私とカミールを、命懸けで救ってくださった。ヘリオサも、アステレルラを認めていました。もう一度――」
「お前は、ダイハンの名誉を蔑ろにするのか?」
感情を抑圧したような低い声が、ヤミールの肩を押さえつけた。じっとりを見下ろす鮮烈な赤い瞳に、背筋が冷える。
「アトレイアは誓約を破った。アステレルラは――あの男は、ずっと俺たちに嘘を吐いていた。この侮辱を許せと言うのか?」
「……アステレルラも、望んで我々を騙していたとは思えません」
「もうアステレルラじゃない。あの男の名は、ブラッドフォードだ」
「ブラッドフォード……」
その名前はもちろん知っていた。つまりアステレルラは、アトレイアの前王の庶子ではなく、正統な王位後継者として王位を継ぐ存在だったということだ。
「前に一度、家族の話を尋ねたことがある」
ヤミールは、淡々としたヘリオサの声に口を閉ざして耳を傾けた。
「あの男は当然のように嘘を吐いた。自分は娼婦の腹から生まれた落とし子だと言った。兄のブラッドフォードから疎まれていると。和平のための婚姻に自分を差し出すことを決めたのは兄であると」
「……」
「だがそれは、あの男本人のことだった」
ヘリオサの声には詰るような色も、怒りも、悲しみもない。
「前王が生きている時は、王に従い戦のために民を苦しめていたと聞いた。和平を結ぶまではダイハンを支配しようともしていた。弟を追いやるために、俺たちと手を結んだ――卑劣な男だ」
「ヘリオサ……」
まるで自らに言い聞かせるようにアステレルラのことを語るヘリオサを見上げ、ヤミールは胸の辺りに何かつっかえたように苦しくなる。
「そんな酷い男が、一時でもダイハンの女王で、俺の妻だった。最初は気に食わなかった。だが、女王として信頼に値する男だとわかった。だから自由を与えて、戦いや狩りも許した。名目ではなく、妻として毎晩抱いた。アトレイアの晩餐会の席では、俺の名誉を守ろうとした。本当の妻として、女王として、ともにダイハンを守っていけると思った。望まない結婚だったが、愛せると思った」
ならば、とヤミールの唇から溢れた声は震えていた。ヘリオサが異国から嫁いだアステレルラを伴侶として認めようとしていたことは、ヤミールの思い違いではない。確信する一方、ヘリオサの語る内容に反して彼の瞳は、この部屋に足を踏み入れた時からずっと空虚のままだった。絞められたように苦しい喉で唾を飲み込み、ヤミールはヘリオサに縋った。
「……ならば、アステレルラに会いに行きましょう。ヘリオサの中でそれほどに大切な存在なのであれば、もう一度迎えるべきです。アステレルラの本当の正体など、どうでもいい。アステレルラはアステレルラです。私たちの見たアステレルラの姿が、彼のすべてです」
彼が自分の正体を偽っていたことや、彼が祖国であるアトレイアで何を行ったかなどは、言及すべき問題ではない。たとえ誰かに謗られるような男であったとしても、ヤミールたちにとっては誇り高きダイハンの女王だった。媚びることもおもねることもせず、冷酷で支配的に振る舞う王に反抗し、自らの手で自由を得た。敵に捕らわれ拉致されたヤミールとカミールを、炎の中危険を省みず救出した。自分の僕ばかりか、裏切り者の刃からヘリオサの命をも救った。
ヤミールたちにとっては、それがアステレルラの、ブラッドフォードのすべてだった。
「ヘリオサ」
王の足元で懇願した。たかが僕に進言する権利などない。それでも乞わずにはいられなかった。
「俺にはわからない。何が本当だったのか」
ヘリオサは目を伏せて、ゆっくりと首を横に振った。
毛皮からおもむろに立ち上がった王を見上げることはできず、ヤミールは履き物に包まれた爪先を、目の縁を広げてじっと見つめていた。
「――戦士たちに命令を下す。外にみなを集めろ」
王の声で指示を下したヘリオサは、入り口の垂れ幕の先に姿を消した。
隣に膝をつくカミールが、目の縁に滴を浮かべながら途方に暮れたように「兄さん」とヤミールの手を握った。別れの挨拶すら叶わなかったアステレルラの姿を思い浮かべながら、ヤミールは強張った空っぽの拳を見つめることしかできなかった。
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