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オルセン領

 ダイハンとの国境に程近いオルセン候の治める領地は、同盟崩壊の知らせを受けて動揺が走ることとなった。  オルセン領リドル城は両者が友好を結ぶ以前、争いにおけるアトレイア軍の拠点となっており、オルセン候有する軍兵が常駐していた。南の乾いた大地に近く、土地は豊かとは言えない。降水は少なく、大地は岩が剥き出しになった山肌がほとんどで凹凸が激しい。作物は実りにくく、生活するには向かない。ゆえに領地とは名ばかりで領民はおらず、領内に住むのは候に仕える兵士とその家族、そして王都から派遣される軍隊のみだった。  アトレイアとダイハンが友好を結んだことにより付近での武力衝突が減り、主に他の蛮族の暴動を鎮圧する任務についていたオルセン領は、王都からの早馬を受けて急遽軍備を厚くした。  ダイハンからアトレイアの内地へ至るには、必ずオルセン領を通過しなければならない。つまり報復を約束したダイハン族が最初に攻撃する場所となる。  一度目の攻撃があったのは、ダイハンが宣戦布告したという即位の式典の日から八日を過ぎた頃であった。リドル城から南へ数時間馬を走らせた地点で、ダイハンの戦士とオルセンの兵士は衝突した。一度は撃退したものの、受けた被害は小さくなかった。王都から兵数千余りの軍団が援軍として南へ向けて進軍を開始した。  リドル城に常駐していた五百の騎士と歩兵、そこに千余の援軍が加わる予定である。貧しい土地において兵の数が増えると難儀するのは兵糧の確保だったが、王都からは戦力だけでなく、大量の物資も運ばれる。周辺の領地からも兵糧が運ばれる手筈になり、敵によって道を断たれない限りは飢え死にをする心配はない。  しかし兵のすべてを収容するだけの部屋はなく、城壁の内側に天幕を張って兵士たちは敵の襲撃に備えることになった。  城内の警備、城壁の歩廊の見張り、壁の外の哨戒、斥候、食事の用意といった任務を交代で行う。城壁内では飯炊きがされ、数ヵ所から煙が上がる。  その日、夜明けの哨戒から戻った部隊には休息が与えられ、炊事係の兵士たちから木製の器とパンを受け取るとみな散り散りになった。  早く睡眠を取るためその場で立ったまま飯を掻き込む者、荷車の車輪に腰かけて親しい友と猥雑な応酬をする者。短い食事を済ませると、昼間から商売のために周辺の町からやってきた娼婦を買いに行く者もいる。  哨戒から帰還したひとりの男は、飯の列に並びながら、急いで飯を掻き込む同僚たちの様子を見渡した。彼はオルセン候が所有する軍団に所属する一兵卒で、オルセン領の貧しい家に生まれ、剣が持てる年になってから十数年間ずっとオルセン候に仕えてきた。男の父もオルセン候に仕え、南の蛮族と戦って死んだ。父も自分も兵士として生きたが、自分の息子には兵士として生きる以外の選択があることが喜ばしかった。  なぜなら間もなく南から敵が一掃されるからである。  アトレイア国王はダイハン族からの宣戦布告を受け、ダイハン族の掃討、および南に蔓延る諸民族を討ち、南方の驚異を完全に消し去ると宣言した。  長年刃を交えていた南方の異民族はダイハン族だけではない。アトレイアとダイハンが再び敵対関係に戻った今、乗じて害をなそうとする他の蛮族もまた駆逐すべきであると王と評議会は判断した。  アトレイアに反抗的な異民族すべてを掃討し驚異が消え去れば、軍兵を常駐させる必要はない。もっと豊かな内地に移住し、商いや畑を耕して生活することも可能になる。男だけでなく、他の兵士も少なからずその未来を思い描いていた。 「何かみな浮き足だっていないか?」  炊事係の兵士からスープの入った椀とパンを受け取りながら男は尋ねた。炊事係は次の椀に塩と玉ねぎのスープを乱雑に注ぎながら、素早く飯を掻き込む兵士たちを見渡す。 「間もなく援軍が到着するんだとよ」 「王都からの援軍がもう到着するのか?」 「ああ。予定より一日早いがな。国王陛下自ら率いてご加勢くださるんだと」 「陛下がわざわざお越しになるのか?」 「陛下は直接ダイハンの王から喧嘩を売られたって話だ。きっと陛下の名のもと、連中に粛清を下すつもりでおられるんだ。何にせよ士気が上がる分にはいいだろ。赤の門にお越しになるから手すきの奴は集合しろとお達しだ。……ほら、邪魔ださっさと行きな」  手で追い払われ、男は列から抜けて近くの荷台に腰を下ろした。  王自らが紋章を掲げ軍団を率いて加勢してくださる。炊事係の兵士が言った通り、王がいることで軍団の士気が高まるのは真実だろう。  前王の崩御、第一王子の王の代理人就任、新王即位、これらの知らせはアトレイアの南端であるオルセンにも早馬で伝えられている。しかし男にとって王都は遠い場所だった。オルセンに生まれオルセンに生きる者にとって、裕福な者でなければ一度や二度足を運ぶことすら難しい。前王の顔も、今の王の顔も男は見たことがない。領地に立ち寄る商人が話してくれる王都の噂話ですら実感がなかった。 「あんた王のお姿を見たことあるか?」  近くの荷車に腰かけて皮の水筒の葡萄酒を呷っている兵士に声をかけた。兵士は袖で口もとを拭い、首を横に振る。 「王のことは話でしか聞いたことがないよ」  ブラッドフォード・ロス・サーバルド。王の名は知っている。前王の嫡子である彼は、王子であった頃から自ら軍団を率いて敵国の軍隊を蹴散らし戦功を上げていた。騎士で彼より武勇に勝る者はそういないのではないかという話も聞こえてくる。 「東のシルヴァとの戦いに何度も出兵されていたな。王子であらせられた時に」 「砦を落とした話なら俺も聞いたことがある。有名だ」  一方で彼の悪い噂も時折聞こえてくる。槍試合で騎士を殺しただとか、軽微な罪を犯した者を死罪に処しただとか、重くなった税を払えない者を王都から追放したとか。商人が話す噂なのでいつも話半分にしか聞いていないし、離れたオルセンに暮らす自分には関係のないことだと実感もなかった。  兵士は悪い噂に関しては何も話さなかった。どこで誰が何を聞いているかわからないからだ。 「下手な貴族上がりの騎士長が来るより、百戦錬磨の王がお越しになる方がいいだろう」  水分ばかりを奪っていく固すぎるパンを噛みちぎりながら話していると、辺りに太鼓の音が鳴り響いた。援軍の到着を知らせる音だ。  男は味気のないスープを喉に流し込むと、膝に手を拭って立ち上がり赤の門へ急いだ。  リドル城は四方を堅牢な城壁に囲まれている。北に位置する赤の門はすでに開かれ、門の前には王を迎えるように帯剣した兵士たちが背筋を正して整列している。  歩兵が入城する。続いて騎士が。だが、彼らの纏う甲冑の色はオルセン領の兵士が纏う銀色とは異なり、深い黒色をしていた。奇抜に映るのは見慣れないからだろうかと思うが、王都の兵士の鎧が黒だとは聞いたことがない。王家の紋章もどこにも掲げていなかった。  男は隊列の中に馬車を探すが、門を潜るのは帯剣した歩兵、槍を手にした騎士、兵糧や物資を運ぶ荷車ばかり。王が乗っている車は見えない。  まさか王は来られなくなったか、あるいは誤った情報だったのか。初めて拝見する王の姿への期待が萎みかけた時、黒の軍団に混じってひとり銀の胸当てをした男が白い馬に騎乗して入城した。  門の外には入城しきれない軍団がいたが、隊列は停止した。白馬の男が下馬する。領主であるオルセン候がその場に跪いたのを見て、候のすべての兵士が同様に膝をついて顔を伏せた。男も慌てて跪いた。  国王陛下だ。馬車ではなく、騎乗して来られたのか。到着が予定より早いのはそのためか。 「あれが陛下か」  隣の兵士が低く囁くのを聞いて、男はそっと上目に王を窺い見た。  自ら戦場に立つ勇猛な王と聞いたから、槌を振り回すような巨体の男を想像していたが、実際には違った。 「陛下」  オルセン候が恭しく胸に手を置いて王を見上げた。王は領主の存在を認め、威圧的にも思える厳しい視線を向けながら軽く頷くと、候が立ち上がった。候の前まで、王は歩く。  背丈が高く立派な体躯をしているが、巨体というほどではない。朝の光が城壁の外から差して、短いプラチナブロンドが眩く見える。眉間には深い皺が刻まれているが、両の瞳は翡翠を思わせる鮮やかなグリーン。骨太で、男らしく精悍な顔立ち。  槍の名手であり武人として名高いオルセン候に並んでも、決して遜色ない雄姿だろう。 「お待ちしておりました。我が領の者はすべて、末端の一兵卒に至るまで、陛下のお越しを歓迎いたします」  王が群衆に視線を向ける。  兵たちを見渡す目は、どこか憂いを帯びているように男の目には映った。いや、憂いというよりは、胡乱なものを見るような、眇められた眼差しだった。 「陛下自らこのような辺境の地においでくださるとは恐縮です。長旅でお疲れでしょう」 「――南の蛮族を討ち滅ぼすためなら、どうということはない」  王の低い声音が、重々しく響く。 「陛下がご加勢くださるのなら、必ず奴らを一網打尽にできます。ともに恩知らずのダイハン族を掃討しましょう」  喜色ばむ候に、王はほの暗く翳った緑の目を細め、頷いた。

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