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アトレイア国王
アトレイアとダイハンの決裂が成立し、ダイハンの王クバルが戦士と従者を引き連れ南へ引き返した後、騎士によって拘束されたブラッドは、客室の一室に閉じ込められ軟禁状態となった。
食事は日に二度、小間使いではなく騎士が運んできてテーブルの上に無造作に置いていく。腹が空いても食欲はなく、舌で味わう余裕もない。三回ほど手をつけずに回収させたところでサー・マーティンがやってきて「食べ終わらない限り出て行かない」と扉の前に張りついた。さすがに弟の守護者である男の気配を一日中感じ続けるのは苦痛であり、ブラッドは仕方なく冷めた食事を口に運んだのだった。
部屋には柔らかなベッドも、広いソファも、夏の緑や花々が繁る中庭を見下ろせる小窓も、テーブルの上には果実酒とレモン水もあったが、精神を安らかにするものは何ひとつなかった。閉塞した空間にひとり閉じ込められ、考える時間だけが無限にあった。だから心は徐々に疲弊していった。
クバルの強張った硬い表情が脳裏に浮かぶ。冷たく見据える強烈な赤色と、厚い唇から放たれた拒絶の言葉も。
自分にどうすることができただろうと、詮ないことばかり考える。
騙すつもりはなかった。そんな言い訳は通用しない。彼らダイハン族にとって、誓約破りと裏切りこそが悪で、子細の事情など関係ない。何を口にして取り繕っても、避けることはできなかった。
いずれは明かさなければならないと、思っていた。ブラッドフォードの名を捨てて正体を偽り続け、いつか自分でない者の名で呼ばれるよりは。背徳感と虚無感に苛まれるよりは、真実を打ち明けてしまった方がいいのではないか。たとえ怒りや軽蔑を向けられたとしても。
そう思っていたが、いざクバルに凍った血色の目で見られると、足が震え、胸が引き裂かれたように痛かった。身体の中心にぽっかりと大穴が空いてしまったかのような空虚さに包まれた。
アトレイアを追放された時に一度すべてを失い、そして再びダイハンで得たものを、また失った。始めからわかっていた。なるべくしてなった結果だと言い聞かせなければ、喪失感に押し潰されてしまう。
部屋を訪れる者は食事を運ぶ騎士と、風呂の準備をしていくだけの小間使い。閉ざされた空間で時間だけが無為に過ぎていく。漠然とした焦燥を募らせ始めた頃になって、最も憎い男がようやくブラッドのもとへ足を運んだ。
「……俺の処刑の準備ができたのか?」
サー・マーティンを連れて現れたシュオンは、窓辺に立ってやつれた顔で問うブラッドを見て頬を歪めた。
警戒してじっと睨みつけるブラッドの視線を振り払い、ゆっくりとした足取りで進み柔らかいソファに腰かけた。その背後にサー・マーティンが聳え立つ。
「あまり眠れていないようですね。酷い顔だ」
「誰のせいだと思っている」
ささくれ立った神経が、声を荒げようとする。
「誰のせいでもないですよ。私のせいでも、兄上のせいでもない。こちらに来て座っていただけませんか」
シュオンが低いテーブルを挟んだ正面のソファを指し示した。頼みではなく命令なのだと察して、ブラッドは嫌悪を示しながらも弟の正面に腰かけた。
シュオンはテーブルの端にあった瓶を引いて、金色が眩く光る杯へ傾けた。なみなみと注ぎ、ブラッドの前に差し出す。
「お前に注がれた酒を飲むと思うか」
「兄上は私の杯に注いでくださったでしょう」
「満たす前に取り落としたがな」
薬に冒され震える手で王の杯を満たそうとした記憶が甦る。あの出来事がなければ、退屈で不愉快な晩餐会をやり過ごして、翌日にはダイハンへ戻れたのでないか。実現しなかった過去に思いを馳せたがる気持ちを振り払い、ブラッドは差し出された杯を粗雑に押し戻した。シュオンは目の前の杯を一瞥し手に取って一口含むと、大きな瞳で再度ブラッドを見据えた。
「あなたの処遇が決定しましたので、お伝えしに来ました」
「俺が死ぬのは、いつだ?」
「処刑などしません」
シュオンの答えに、ブラッドはわずかに片眉を上げた。
「宰相やアンバー候たちの死はどう始末をつけるつもりだ」
ブラッドを暴行しダイハンの王に粛清された者たち。だがアトレイアの者にとっては、彼らが惨殺された理由など加害者の処罰を一考する要因にはなりえないだろうし、そもそも知らされることもないだろう。南からやってきた蛮族に、祝いの席で無惨に殺された。彼らの身内は、殺した罪人に厳しい処罰が下されることを望む。
「クバル王の行った行為の罪はあなたが代わって負うべきだというのが、評議会の過半数の意見です」
シュオンの口からダイハンの王の名前が放たれ、苦々しいものが喉を落ちていった。
「……なら、そうするべきだ」
「しかしあなたはもうクバル王の伴侶ではなく、ダイハンの女王ではない」
――お前はもう、アステレルラじゃない。
玉座の間で放たれたクバルの声が甦る。
「女王でなくなったあなたが王の責任を負うことはない。それに、顔も知らない母を除けば唯一の肉親であるあなたを処刑するのはさすがに気が引ける」
容易に挫かれそうな気持ちを誤魔化すように、ブラッドは鼻を鳴らして頬を歪めた。
「国王陛下が、まさか俺に温情をかけてくださるとは思いもしなかった」
卑屈の言葉にシュオンは反応せず、果実酒を一口含んで兄の自嘲をじっと見つめていた。
「だがそんなお優しい考えが通用するとは思えない。評議会の貴族たちは納得するか?」
「彼らの望みは、煩わしいダイハンと一緒にあなたも葬り去ることです。あなたが王都でこのままのうのうと暮らすことはもちろん許されない」
処刑でなければ、残される選択肢は限られる。投獄され牢の中で罪人たちの呻きを聞きながら一生を過ごすか。あるいは船に乗せられアトレイアから遠く離れた異国に送られるか。
「兄上には、南へ赴いていただきます」
「……南?」
南と聞いて頭に浮かべた情景は、乾いた赤い大地だった。ギラギラと照りつける太陽に晒されひび割れた赤土、道を阻むように突き出る巨岩。乾いた風に舞い上がる土埃。巨大なふたつの三日月。……ヘリオスス。
「オルセン領です」
シュオンの凛とした声が、無意識の期待を殺す。ブラッドはダイハンを思い浮かべた自分を嗤った。ダイハンへ行ったところで制裁として死を与えられるだけだ。愚かな想像で、絶対にあり得ないことだった。
「そこで、俺に何をしろと?」
ブラッドは、シュオンとしてダイハンへ嫁いだ。だがすべてが明らかになった今、シュオンを名乗る必要はない。ブラッドフォードという本来の名はすでに弟が纏っている。自分は一体何者なのか。何者でもない自分が、南のオルセン領で何の役割があるのか。
「昨日、オルセン領内にてダイハン族の部隊とオルセン候下の兵が衝突しました。撃退はしましたが、こちらも予想以上の被害を受けた。正直、彼らを見くびっていました」
ダイハンの戦士たちが、クバルが動いた。ブラッドは動揺を悟られないよう、固く口を引き結んだ。
アトレイアを許さない。必ず報復する。あの言葉は紛れもない真実だった。
「この戦いを長引かせるつもりはありません。長引くほど、ダイハン族外の蛮族の狼藉を許してしまう可能性が高まり、また敵国にもつけいる隙を与えてしまう。南に援軍を送り、火種が小さなうちに決着をつけます」
「……俺に、王都の兵とともに従軍しろと?」
「いいえ。王都を空にはできません。シルヴァから軍隊を借り受けます」
シルヴァ。その国の名を聞き、ブラッドは言葉を失った。そして、何て恥知らずな男だと胸の内で罵倒した。
「本気で言っているのか」
「もちろん。五年前、あなたが渓谷の砦を奪取したシルヴァです」
「奴らに頭を下げたのか? 蛮族を倒すために兵を貸してくれと?」
「相応の金銭を払いました。アンバー家やアーリス家が多額の援助をしてくださった。シルヴァは千の兵士を貸してくれるそうです。金と見返りさえあれば何でもする連中だ。彼の精鋭たちがいればダイハンだけでなく南の蛮族すべてを掃討することも可能になるでしょう」
「その見返りは」
「南の蛮族を滅ぼした暁には、五年前にアトレイアのものになった砦を引き渡せという要求です」
平然と喪失を口にするシュオンに、怒りが湧き上がってくる。前のめりにブラッドは食らいついた。
「どれだけの犠牲を払って手に入れたと思ってる。易々と返していいものじゃない。東の要衝を渡してしまったら、連中はいずれ攻め込んでくるぞ」
シュオンが不快げに大きな目を細めたのを見て、ブラッドは言葉の先を飲んだ。ダイハンの人間でもなければアトレイアの人間でもない自分には、意見を述べる権利はない。
「あの地の重要性は私も理解しています。ですから南との戦いが終わっても引き渡しはしません」
「要求を飲まなかったのか」
「いいえ、承諾しました。ですが、ともに行くアトレイア国王を戦死させてしまったとしたら、報奨は与えられないでしょう」
「……どういうことだ」
「そのままの意味です。シルヴァから借り受けた軍隊を率い南へ進軍したアトレイア国王ブラッドフォードは戦死するのです。我らの偉大なる国王陛下を死なせたシルヴァに、砦を渡す義理はありません」
謀を描くシュオンを睨みつけた。これまでの話から、彼が画策していることのある程度は推測ができる。
「俺に、ブラッドフォードとして他国の軍を率いらせるつもりか」
「さすが兄上、察しが早い」
シュオンは片手に遊んでいた杯をテーブルに下ろし、同じ色をした瞳でブラッドを改まって見据えた。
「アトレイア国王ブラッドフォードは、自らダイハン族を粛清すべくシルヴァの軍とともに南へ進軍する。オルセンとシルヴァの連合軍の奮戦でダイハン族、南の蛮族どもは滅ぶが、戦いの最中に受けた矢傷がもとでブラッドフォードは凱旋中に死亡。ダイハン族とすでに縁を切り王都に戻っていた弟シュオンが、後を継いで王となります。戦の後の采配はシュオンが行います」
「その筋書きに出てくるシュオンは、本物のシュオンということだな」
「そうです。ですから兄上は、ただブラッドフォードとして軍を率いる役割だけ果たせばいい」
「そして背後からお前の送った間者にでも射られるのか?」
「まさか。あくまで表向きです。兄上はリドル城の中に籠って身を守られるといい。戦場に出ればダイハン族は裏切り者のあなたを真っ先に殺そうとするでしょう」
ブラッドは露骨に眉を顰めた。今のシュオンの言い方では、ブラッドは生かされようとしている。
「疑っていらっしゃいますね」
「当然だ」
「先程も申し上げた通り、唯一の肉親を殺すほど非情ではありませんよ。戦が終われば、名前を変えてそのままリドル城に残られるといい。オルセン候と彼の兵隊たちは、不幸にも彼らの王を失うが、ダイハン族を始めとした南の蛮族を滅ぼすことに成功する。彼らは王都に召し上げられる。あなたには数人の騎士と召し使いを与えます。王都から遠く離れた静かな土地で、滅んだダイハンを思いながら余生を過ごすといいでしょう」
さもこれ以上の情けはないとでも言いたげに、シュオンは愛想の良い笑みを張りつけた。
「万一、南で勝手な行動をしてアトレイアに不利に働くようなことがあれば――その時は、名実ともに死を迎えるかもしれませんがね」
確かに、これ以上の屈辱はないだろう。シュオンの描いた筋書きの上で演じるのだ。自分を――アトレイア国王ブラッドフォードを。
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