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蛮族

 暗闇を映す窓の外では雨が降っていた。稀に見る大雨で、時折雷鳴の音が硝子を叩く。大粒の雨は干からびた土をぬかるませるほどに潤し、吹きつける風は兵士たちの天幕を激しく揺らす。  王都サラディでもこんな雨は滅多に経験しない。乾いた南部であればなおのことだ。オルセン領に暮らす人々にとっては貴重な恵みに違いないが、喜べるのは平常時だけだろう。  日が落ちる前、オルセンの兵とシルヴァの黒い鎧を纏った軍団は、候の信頼を受ける騎士を指揮官とし南へ向かった。ダイハン族の野営地の情報が斥候よりもたらされ、夜間に急襲をしかけることとなったのだ。  千の兵士が南へ行った。斥候の情報によると、野営地の人数は三百に満たず、周辺数キロに渡り他に敵の影はない。兵数にこれだけの開きがあれば、容易に叩ける。  ダイハン族全体の人口は千五百から二千だと、ダイハンへ嫁いだ日にブラッドは聞いた。武器を持てる戦士の総数がいくらかは知らないが、野営している三百は乾いた赤い大地中の村から集めた戦士のうちの一部だということしかブラッドには推測できない。  それでも三百を失えば敵にとっては大きな損失であると判断したオルセン候は、アトレイア国王ブラッドフォードの名のもと、候に仕える騎士パトリックを指揮官に任じて兵を率いらせた。  ブラッドは暗闇だけを映す窓の外を見つめた。雷鳴に揺れ、黒い硝子が細かく震えている。  雨が降り始めたのは軍団が出発し日が沈んでしばらくしてからだった。この雨で、兵士たちは喜びながらも嘆いているだろう。滅多にない天からの恵みだが、戦うには向かない。足元も視界も悪く、体温を奪っていく。  ダイハンの戦士たちにとっても同様だろう。  当然、ダイハンで雨を見たことは一度もなかった。今夜は稀に見る豪雨だ、ヘリオススにも降っているのだろうか――考えて憂鬱になる。 「お食事が喉を通りませんか」  正面に座っているオルセン候の声で、ブラッドは視線をテーブルの上に戻した。皿の上の食事は出された時の状態のままだ。干し肉と乾燥したトマトを煮込んだスープと、イチジクとレーズンのパイ、固すぎるパン。王城で与えられていた食事とも、ダイハンの食事とも異なる。  リドル城の一室で、オルセン候と彼の妻、ふたりの息子とともに食卓を囲んでいた。蝋燭の炎が部屋を照らし、扉の前にはふたりの騎士が立っている。重苦しい雨の音と、静謐な話し声だけが響く。 「ご安心ください、陛下。我が兵たちが幾度もダイハンの蛮族と刃を交えた猛者であることはご存じでしょう。陛下がお連れになった東の軍団も優れた兵士たちです。彼らは必ず蛮族を蹴散らして帰還しますし、この城が落とされることもありません」  オルセン候は峻厳な顔つきをわずかに緩め、灰色の髭で笑んだ。候はオルセン家の当主として戦場に立ち続けてきた武人であり、優秀な槍の使い手である。年は五十代半ばで、短い頭髪や髭には白いものが混じる。  彼は、ブラッドがシュオンの名でダイハンへ嫁いだことも知っているし、国王として援軍を率いて南部へ来たのはシュオンの命であることも知っている。候の所有する兵士たちはブラッドを国王と信じて疑わないが、オルセン候と彼の家族は真相を把握していた。  戦が終われば、候には新王シュオンから褒章が与えられる手筈になっていた。ゆえに彼の、ブラッドを陛下と呼んでへりくだる態度は慇懃に思えた。 「父上、陛下のお口には合わないのでしょう。アトレイアの南端であるこの地よりも南で暮らして、南のものを召し上がられていたのです」  揶揄を含んだ声は、候の上の息子であるオーエンだった。年の頃は二十を過ぎた若い男だ。ブラッドの隣の席のオーエンの発言に、父親は鋭い目つきをさらに厳しくするが、咎め立てまでする様子はない。オルセン候は咳払いをして、再度食事を勧めてくる。 「疑っておられるのでしたら、毒は入っておりません。あなたのことは弟君から丁重に扱うよう命じられています」 「俺を殺す時まで丁重に、だろう」 「リドル城におられる間、そのようなことは起こりえません。あの方にあなたを殺める意思などありません」  候は武人らしい険しい目つきで真っ直ぐに見つめてくる。毒が入っていると警戒している訳ではない。シュオンに本当に自分を殺すつもりがないことは理解している。苦痛と屈辱を与えたいだけなのだ。  ブラッドは止まったままの手を動かし、朱色のスープを掬って口へ運んだ。隣でオーエンが「餓死は免れましたね」と笑う。 「申し訳ありません。愚息の無礼をお許しください」 「構わん。気にしていない。それよりオルセン候、お前は出陣しなくてよかったのか」 「サー・パトリックに指揮を任せましたので問題ありません。三百程度の蛮族であれば私が出るまでもない」 「俺の監視を命じられたから城を出ることができないんだろう」  スープを啜りながら視線を向けると、候は「とんでもございません」と慇懃に否定した。 「俺が勝手な行動をしないよう見張っている。案じなくても、俺がダイハンと通じて協力することはないし、アトレイアの不利に働くようなことはしない」  ブラッドは候の目を見て断言した。不可能なのだ。仮にブラッドが望んだとしても、ダイハンはブラッドを許さない。絶対に許されないと、言われた。 「三百程度と侮っていると痛い目を見るぞ、オルセン候。ダイハンの戦士はみな、命知らずで、勇猛だ」 「獰猛な獣の間違いでは? 陛下」  オーエンがパイを頬張りながら口を挟んだ。 「奴らが汚らわしいけだものであることは、ともに生活していた陛下であればご存知でしょう」  青年の細められた視線が不快感を煽るが、ブラッドは眉を顰めるだけにとどめた。  彼らは汚らわしい獣ではなかった。そうは思っても、青年の露骨な嫌悪と侮蔑に対して怒りを露にするだけの気力は、今はない。 「ダイハン族は、誇り高い戦士の一族だ。獣じゃない」  オーエンは片眉を上げ、口の中のものを嚥下すると興味深そうに油に塗れた唇を開いた。 「奴らと暮らしてそのようにお考えが変わられたのでしょうね。それとも奴らの王と寝床をともにして情が移られたのか」 「好きに想像しろ。ダイハンのことでお前に話すことは何もない」  最初こそダイハン族は汚ならしい野蛮な獣と思っていた。土埃の舞う厳しい大地に住み、狩った獣を食らう。オーエンの言う通り獰猛で、戦いを好む。婚姻の祝いの最中に決闘を繰り広げ、民は血を見て興奮し喜ぶ。同胞の首を容赦なく飛ばすし、残酷な方法で制裁する。こんな土と血と馬糞ばかりの場所で、まるで捕囚のように押さえつけられて、一生を過ごすのかと絶望したのだ。 「晩餐会の夜の話は聞いています。招かれたダイハンの王は、いったい何が気に障ったのか、宰相閣下や出席の貴族と騎士数名を惨たらしく虐殺したのだとか。そのような見境のない野獣が三百と思えば確かに恐ろしい。何を考えているか我々には想像もつきませんからね。舐めてかかるのはいけないでしょう」  だが、ダイハン族は野蛮なだけではないとブラッドは知った。それをこの生意気な子どもに説明してやろうという気は起きない。彼らが彼らの王を敬っていること、同胞の死を大切にすること、名誉と誇りを重んじること。彼らと生活をともにしたブラッドにしか理解できない。 「獰猛で凶暴ですが、浅慮で劣った民族です。策略や謀などとは無縁でしょう。殺すことと馬に乗ることしか能のない連中を蹴散らす程度、我々の兵士なら難なくやってのけるしょう。奴らの王の首もすぐです」 「確かによく訓練された兵士たちで囲い込めば勝てるだろう。だがもし今ここにダイハン族が城に乗り込んできたとしたら、お前は抵抗もできずに真っ先に喉を掻っ切られるだろうな。領主の息子だろうが、後で利用できる身分の者だろうが、それこそお前の言う通り見境なく殺す連中だ」  侮られたのが気に障ったのか、オーエンはテーブルに握り締めた拳を置き、食い入るようにブラッドの冷めた横顔を見つめた。 「そんなことは、ありえない」 「お前の喉を裂き、腸を引き摺り出してこの部屋の壁に飾るくらいは当然するだろう。お前の思う通りの凶暴な蛮族なら」 「そうなる前に騎士たちが守ってくれる。真っ先に殺されるとしたらあなただ」 「だといいな。だがその前に俺がナイフでお前の喉を掻き切る」 「何……」 「その口を閉じないと今すぐやるぞ」  青年が息を飲むのがわかった。食事を続けながら伏し目に正面を窺うと青年の父は苦い顔で沈黙を守り、その隣の妻は固唾を飲んで両手を胸の前で握り締めている。もうひとりの十を過ぎたばかりの息子だけが、食器を鳴らしてパイを切っている。 「いいか、王都にいる弟の命だろうが何だろうが俺は今、国王だ。辺境の一諸侯の馬鹿息子の首を刎ねるくらいは訳ない。兵たちに命令すれば喜んで従うだろう。俺を挑発したいのか知らないが、国王に無礼を働いていることを理解しろ。わかったなら大人しく口を閉じていろ、坊や」  わずかに首を傾けて、血の気を引かせた青年の顔に視線を向けると、彼はぎこちなく首肯した。  すると突然、激しい雨音に混じって鐘の音が窓の外で鳴り響いた。

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