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祈り

 扉が激しく開け放たれ、ひとりの兵士が駆け込んでくる。息を切らせながら、領主の前に報告した。 「ダイハン族の攻撃を受けています」  突拍子のない内容に、食卓の空気が凍りついた。オルセン候が椅子を引いて立ち上がり、兵士を睨みつける。 「この城が攻撃を受けているのか?」 「そうです閣下」 「ダイハン族はここから二時間の地点で野営している。我々の連合軍はそれを討ちに向かったんだぞ」  何かの間違いではないか。兵士からの報告は、とても信じがたい内容だった。オルセンとシルヴァの連合軍隊を退けて、あるいはその目から逃れて北上したというのか? だとしたら質の悪い冗談だと、候は眦をつり上げて詰問する。 「奴らが攻めてきたのは北側です。どうやって城壁を上ったのか、歩廊の巡回をしていた兵士が殺されました」 「北だと!?」  それもまた、突拍子のない内容だった。候は言葉を失ってしばし沈黙した後、焦りを抑えながら口を開いた。 「敵の数は」 「把握できておりません。雨で火が灯せず、視界も悪く全容は」 「……城中の兵をすべて赤の門へ。兵以外は地下道へ避難させろ。お前は逐一私に状況を報告するのだ」  兵は胸に手を当てて敬礼すると、踵を返して部屋を立ち去った。顔を真っ青にして縋るように立ち上がった夫人を抱き寄せ、候は言い聞かせる。 「心配ない、城の中には絶対に入れない。必ず食い止める」  諭すような穏やかな声音を聞きながら、ブラッドは手に持ったスプーンをクロスの上に置いた。  斥候の報告が誤りとは思えない。野営地は囮であり、城を襲撃している部隊が本隊である可能性が高い。  リドル城が城壁の内に敵の侵入を許した例はいまだかつてなかった。クバルの報復は本気だ。  脳裏には最後に見た彼の姿が思い浮かぶ。振り払うように息を吐いた。 「……雨は同条件だが、戦士は夜目がきく分こちらが不利だ」  予想だにしない奇襲を受けた兵士たちの士気は著しく乱れている筈だ。敵の全体数も不明、加えてこの悪天候では厳しい戦いになることは目に見えている。  ブラッドの指摘に、候は硬い表情のまま口を開く。 「奴らは攻城戦には慣れていない。サー・パトリックの帰還まで持ちこたえれば勝つ見込みはあるでしょう。不思議なのは、奇襲を許したことです。我々の目を欺いて北へ迂回したのでしょうか、それとも他に戦力があったということなのでしょうか」 「わからん。確かなのは、策略や謀とは無縁じゃないってことだけだろう」  アトレイアの軍隊に援軍が加わる。もしその情報を手に入れていたのなら、数で劣る彼らが先手を打とうとするのは至極当然の行動だ。 「急襲のために手薄になった城に奇襲をしかける。それくらいの策を講じる頭はある」 「あんたの夫だろう!? 奴が何人の蛮族を従えてどう動かすかくらいわかっていたんじゃないのか!」  椅子が姦しく音を立てる。勢いよく立ち上がったオーエンがテーブルに手を突いて騒ぎ立てた。 「もう夫じゃない。……何を考えているかなんて、俺にはわからねえよ」 「もし防衛が突破されて城の中に入られたらあんたも死ぬんだぞ、真っ先に殺されるんだ」 「……オルセン候、貴殿の息子は落ち着きが足りんな」 「は……申し訳ございません。よく躾ておきますゆえ、お許しください」  どうしてそんなに落ち着いていられるんだとでも言いたげな目で、オーエンは睨み下ろしてくる。  冷静で、落ち着いている訳ではない。足掻くことが、ブラッドにはもうできないのだ。 「おい、お前。南へ行ったサー・パトリックに伝令を飛ばせ。大至急だ」 「承知いたしました、閣下」  オルセン候の指示で、ひとりの騎士が部屋を出て行く。候は妻と幼い二番目の息子の背に手をやりながら、テーブルを回ってブラッドの横に立った。 「妻と息子たちとともに地下に身をお隠しください」 「ダイハン族を絶対に城の中には入れないんじゃなかったのか」 「万一の時のためです。騎士をつけますので、陛下のお手を煩わせることはありません」  妻と幼い子供は怯えを浮かべて夫と父を見上げていた。候はそんなふたりを抱き締めて、何も心配いらない、と囁く。 「オーエン、母上と弟を頼むぞ。陛下のこともよくお守りするんだ」  立ち尽くしたままのオーエンは、父の言葉に複雑な表情をしながらも頷く。 「わかりました。父上もご無事で」  部屋に残った騎士が歩み寄り、候に礼をする。夫人は候から身を離すと幼い息子を抱き寄せた。ブラッドは立ち上がり、彼らと一緒に中断された食卓を後にした。  ほの暗い城の通路を進む。冷たい石の壁に囲まれた回廊は、じとりと重たい湿気が漂っていた。激しい雨音だけが支配し、幸いにも甲高い剣戟の音や不安を煽る叫喚は聞こえてこない。ブラッドの前を歩く夫人の背は緊張に強張っていた。騎士は先頭で警戒しながら地下室へ至るまでの道を行く。 「母上、父上は一緒に来られないのですか?」  二番目の息子が夫人と手を繋ぎながら、その不安げな横顔を見上げる。 「リック、お父様は外で私たちを守ってくれるの。戦いが終わったら私たちのところへ戻ってきます」 「戦いはいつ終わるの?」 「敵を倒したらよ」 「お父様はすぐに帰ってくるんでしょう?」 「もちろんよ。敵は強くてとても恐ろしいけれど、お父様とお父様の兵士たちもよく訓練を積んだ強者たちです、敵の王様を倒してすぐに戻ってきます」  それまでみなで安全な場所で待っていましょう、と母が子を優しく見下ろすのを、ブラッドは背後から見つめていた。  敵の王様は――クバルはどうしているだろう。まさか戦士を率いてリドル城まで? 敵の王が援軍を率いてやってきたと聞いて、自分は大人しく待っているような男ではない。  クバルが、ダイハン族がリドル城を陥落させたら、オルセン候の兵士や家族はみな死ぬだろう。情けをかける謂われはない。当然、ブラッド自身もだ。オーエンの言う通り、殺されるに決まっている。これは国取りや金銭が目的の戦ではない。報復なのだ。  あるいは、オルセンの兵士たちがダイハンの急襲部隊を撃退するか。  南へ行った部隊には先刻伝令が走った。よほど南の野営地で手こずっていない限りは夜の間に帰還する筈である。早期にリドル城を奪取し門壁を閉ざさない限り、逆境に立たされるのはダイハンだ。  戦では金と数が物を言う。選りすぐりの優れた戦士であっても、倍の人数に打ち勝つことは困難だ。サー・パトリックが帰還すればダイハンは一網打尽、多くの戦士が死ぬだろう。その中に、ダイハンの王も含まれるかもしれない。  クバルが死ぬ。想像もできない。だが、ありえないことではない。 「敵の王様は強いの?」 「きっと、とても恐ろしいわ。けれどお父様が必ず倒しますから、何も心配いらない。私たちはお祈りを捧げながら待っていましょうね」 「……あいつは、死なない」  夫人が目を丸くして振り向いたことで、知らずと口に出していたことに気づいた。誤魔化しのできない苦い空気が流れ、夫人は再び前を向く。先頭を行く騎士の背を見つめ、ひたすらと歩く。外で戦う兵士たちを打っているだろう雨の音だけが流れた。しばらくして、夫人が深く息を吸った。 「陛下は、ダイハンの王を愛していらっしゃったのですか」  彼女は振り向かないまま、先頭を行く騎士と、最後尾につく長男の耳には届かないくらいの静謐な、そして緊張の滲んだ声で言った。 「……何?」  ブラッドの怪訝を感じ取った瞬間、「無礼を申し訳ありません」と怯えを滲ませて瞬時に謝罪する。 「……構わない。どうしてそう思う」  夫人の緊張した背がわずかに緩み、再び静かに口を開いた。 「恐れながらお尋ねいたしますが……先程、愚息の言葉にお怒りになっていらっしゃっいました」 「怒っているように見えたか」 「はい……喉を掻き切ると、本気のように思えました」 「不愉快だったのは確かだが、それは彼の発言に慎みがないからだ。お前の思うような理由じゃない」 「余計な詮索を……申し訳ござません」  夫人の謝罪を聞きながら、食卓でのオーエンの発言を思い返した。彼の口を閉じさせたのは、たとえ仮初めであっても王に取るべき態度とはほど遠かったからで、ダイハンの王を侮辱されたことに憤ったからではない。そうだろう、自分に問う。 「独り言だと思ってお聞き流しください。……私は、今でこそ夫を深く愛していますが、望んでオルセン家の女になったのではありません」  恐る恐る口にする夫人の言葉を、ブラッドはその背を見つめながら黙って聞いた。 「もはや家名しかない貧しい貴族の娘だった私は、援助を得るためにオルセンへ嫁がされたのです。乾いた南の辺境の地になど冗談だろうと思いましたが、今は夫と結婚して幸せだったと感じています。出会ってから時間をかけて築く愛もございます」  ダイハンへ嫁いだ頃、グランが口にした提案の内容を思い出す。ヘリオサと仲を深めてみてはどうかと。政略結婚から本当の夫婦になる者もいると、ブラッドを気にかける女騎士は言っていた。その時は唾棄すべき、馬鹿げた提案だと思った。 「嫁いだ当初は、もし戦場に出るこの人が死んでしまったら私の家はまた路頭に迷うことになってしまうと、そればかりを気にしていたものですが、今はただ夫が無事であることを祈るだけです。愛する者の死は何よりもたえがたく苦しい。……ですから、必ずダイハンを撃退して帰ってきて欲しい。たとえ陛下がダイハンの王に死んで欲しくないと願っていても、私は祈らずにはいられないのです。今ここで行われている戦いだけではありません、どれだけ時間がかかろうと、ダイハンを滅ぼして、そしてもう戦地へ行くことがないように」  夫人の言葉は神々に祈るような切実な響きがあった。 「愚かな女の戯れ言です。どうかご無礼をお許しください、陛下」  愛しているかなど、考えたこともない。だが、死ぬのは見たくない。死んだと聞かされるのも、酷く苦しいだろう。たとえリドル城が陥落することなく、味方の兵がダイハン族を撃退し、オルセン候の家族やブラッドの命が守られたとしても、ダイハンがアトレイアによって敗北し、滅亡に追いやられ、ダイハンの王が、クバルが死んだと聞かされるのは、苦痛を伴う。自身の命の保証と、このオルセンの地で残された時間を静かに過ごすことの代償にしては、あまりに大きすぎる。  だから、目の前を進む女と同じ内容を祈ることはブラッドにはできないだろう。オルセンがダイハンを打ち破るよう願うことは、できない。  それが夫人の言うように、愛する者の死が何よりもたえがたく苦しいからなのか――クバルを愛しく思っているからなのかどうかは、ブラッドにはわからない。 「……俺は」  目的を持たずに発した声は、夫人の歩みが止まったことで飲み込むこととなった。  彼女が足を止めたのは、その前を行く騎士が制止したからだった。

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