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雷鳴

 城の西側の地下道に通じる回廊を歩いていた。等間隔に灯る火があってようやく周囲の様子がわかる程度の薄暗さ、前方を見やると先頭を行く騎士が剣を抜き、夫人が息を飲む。  みなが息を殺せば強い雨音だけが支配した。空気は重たい湿気を孕み、不快感と危機感が首筋に纏わりつく。 「引き返してください」  雨音に掻き消されて聞こえない声で騎士が言った。  途端、数歩先の曲がり角からふたつの人影が飛び出してきた。  そのうちのひとりが振りかざした煌めきを、騎士が剣で受け止める。 「引き返して!」  騎士は今度は叫んだ。  夫人が幼子の手を引き、振り返る。ブラッドが見たのは、騎士によって刃を跳ね返されるダイハンの戦士の姿だった。  夫人がドレスの裾を握って石の床を蹴った。オーエンは夫人から弟を奪いその小さな身体を抱き上げる。ブラッドは咄嗟に夫人の手を掴んで走った。  背後で金属が打ち合う音が雨に混じって聞こえる。緊張と恐怖を煽るその音も間もなく消え行く。それが距離が離れたことで聞こえなくなったのか、それとも打ち合う必要がなくなったからなのか、なるべく想像はしないようにした。  もう、城の中に入り込んだのか――侵入したのはふたりだけか。北側の防衛はどうなったのか。オルセン候は無事か。息を切らせながら、来た道を辿る。 「他に地下道に行く経路はあるのか!」  先を行くオーエンの背に叫んだ。青年は弟を抱えて正面を向いたまま「向かってる!」と返す。背後を振り返るが追っ手の気配はまだない。ブラッドに腕を引かれ、時折足を縺れさせながら駆ける夫人の血の気のない真っ白な頬には、こめかみから流れた汗が浮いていた。 「祈ったんだろう」 「ええ――そうです、祈りましたわ、陛下」  大丈夫だとも、きっと祈りが通じるとも、ブラッドには励ましの言葉は言えなかった。保証はなく、同情を持つこともできないからだ。ブラッドの祈りは別のところにある。  無言のまま、オーエンの背を追って走る。夫人は苦しそうに呼吸をするが気にしてはいられない。ここで足を止めてしまったら敵に、ダイハンの戦士に追いつかれる可能性がある。  しかし、角を曲がってすぐ、オーエンは足を止めた。道の先に人影がある。甲冑を纏わない、湾曲した剣を持つ姿格好はオルセンの兵士ではない。  その戦士がこちらの存在を認識したことがわかった。オーエンは弟の身体を地に下ろし、腰に佩いた剣をゆっくりと抜く。子供の身体を抱えて、あるいは夫人の手を引いて走ったところで身軽の戦士の足に敵わないことは明白だった。ブラッドは青年の肩を掴んで叫んだ。 「剣を俺に貸せ」 「何を言う、父上に家族を守れと言われたんだ」 「扱えるのか、お前じゃあいつに勝てねえぞ」 「俺は父上から直に習ったんだ」  応酬の間にも戦士は迫っていた。この青年では戦士にはとても太刀打ちできない、肩を掴む手に力を込めると彼の肩によってブラッドは弾き飛ばされ、冷たい石の壁に背を打ちつけた。呻きながら愚かな青年を見上げると、彼の剣は戦士のファルカタをすでに受けていたが、二合目で容易に弾き飛ばされ、その次の攻撃はオーエン自身が受け止めていた。胸から腹にかけて深く斬られ、鮮血が飛び散って戦士の身体を濡らす。  悲鳴を上げた幼い弟の頭上に戦士の刃が振り下ろされようとした時、夫人が咄嗟に守るように子の身体に覆い被さる。すでに長男の血に濡れていた刃は夫人の首と肩を斬り、新たな血を吸った。びくびくと痙攣する母に抱かれながら訳のわからないまま立ち尽くす子供の胸にゆっくりと剣が刺さり、小さな口から濁った音とともに赤が溢れ出した。 「だから剣を貸せと言っただろうが!」  薄闇で光る戦士の赤い目がブラッドを向く。オーエンの手から離れて落ちた剣を素早く拾い上げ、先を戦士に向けた。裸の上体と顔を赤に染めた戦士は、わずかばかりの松明の明かりに照らされたブラッドの顔を見て眉を顰め、次の瞬間には大きく口を開けてダイハンの言葉を叫んだ。  怒鳴った言葉はブラッドには理解できた。裏切り者、と叫んだのだ。  湾曲した剣の軌道が見え、胸の前で重い一撃を受けた。上腕に力を込めて押し返し弾く。切り返し打ちつける刃を剣の側面で受け、流す。相手に隙ができた瞬間、間合いに踏み込みその屈強な身体に上体をぶつけた。密着したまま壁に追いやった戦士の脇腹に刃を突き刺すと、獣のような唸り声を上げた。 「悪いな……、ッ」  太腿の側面に鋭い痛みが走った。戦士の手に握られたままのファルカタに斬りつけられたのだ。瞬時に身を離すと戦士の手から得物が落ちてカランと音を立てた。戦士は鮮血の瞳でブラッドを睨みつけながら、壁に背を預けたままその場に崩れた。  血が溢れる腹を押さえ荒い呼吸をしながらも、射殺さんとする鋭さで見上げてくる。深い傷だが、処置をすれば助かる。 「……裏切り者か」  彼らにとってはそうなのだ。正体を偽り嘘を吐いたことは、ダイハンを侮辱するのと同じこと。ダイハンの誇り高い戦士たちにとって、ブラッドは憎むべき存在だ。ともにツチ族と戦ったことはもはや過去だ。  城の中に少なからず侵入を許しているということは、外の状況は芳しくなく、期待はしない方がいい。戦士に姿が見つかれば、ブラッドは間違いなく殺される。  長く同じ場所にいるのは危険だろう。血溜まりの中に伏せた母子三人の身体を見下ろしながら、これからどうするべきか考えた。地下へ行く道に限らず城内には戦士がいて、安全とは言えない。城に仕える使用人たちの安否もわからない。オルセン候ともし会えたら妻と息子たちの死をどう伝えたらいいか。そもそも彼が無事である可能性も低い。生き延びるにはリドル城から離れるべきではないか? サー・パトリックの率いる連合軍に身を寄せるべきだ。  湿った床を蹴るような音がして、ブラッドは息を殺した。意識を保とうともがく戦士と、地に転がる三人を一瞥してその場を離れた。  城の外に出るまでの道中、戦士たちと鉢合わせそうになったが、身を隠しながら移動した。相手がひとりであれば対処できるが、ふたりやそれ以上となると逃走は不可能に近い。殺意を持って対峙されたら確実に斬り伏せられる。  城の厨房の、使用人が使うひっそりとした木の扉から、外の様子を窺いながら慎重に外郭に出た。周囲は真っ暗闇で、大粒の雨が痛いほどに額を打ち、目を開けることさえ億劫だったが、周囲に人の気配がないことだけはわかった。ザアザアと雨の音がうるさく、激しい剣戟の音や雄叫びは、遠くから聞こえてくる。  暗闇に目が慣れると、幸運にも厩舎はすぐに見つかった。石造りの厩舎は大きくはなく、戦用ではない遠乗りや馬車馬の厩舎と思われた。  木の扉を身体で押し、中を窺う。人の気配がないことを確認し、素早く身体を滑らせた。容赦なく身体を打ちつける雨から逃れ、ようやく息を吐く。頭頂から滴が流れ、束になった睫毛に吸い込まれ目の中に入る。全身びしょ濡れで、冷えきっていた。暖炉があれば火を起こすところだが、ここは厩舎で、湿気を含んだ木材しかない。  中は暗闇で、時折鳴る雷だけが照らし出した。二頭の馬が繋がれていた。それ以上の頭数が管理できるようになっていたが、連れられた後のようだった。ぽたぽたと滴を落としながら近づくと、栗毛の馬が大きな瞳で見つめてくる。その隣の葦毛の馬は、首を下ろして枯れ草を貪っている。 「お前たちは運が悪いな」  濡れて張りついた短い前髪を掻き上げる。栗毛の馬に近づき、太い首を撫でる。見つかればただでは済まないブラッドを豪雨の中乗せて走ることになるのだ。ダイハン族に奪われていた方が、彼らにとっては楽な道だっただろう。  闇雲に南へ走っても、サー・パトリックの部隊と合流できるかは定かではない。だがこのまま城に残っていても戦士に見つかり殺される羽目になる。  生き延びようが命尽きようが、王都にいるシュオンにとっては同じことだろう。いずれにせよブラッドフォードは戦死する。リドル城を奇襲したダイハン族の凶刃に倒れ、王の位を後継したシュオンが兄の仇を取ろうとするだろう。  あいつのために死んでなどやるものか。生き延びたとしても、南の地に幽閉されるくらいなら異国の知らない地へ行ってやる。  壁際はすべて棚になっており、馬具が保管されていた。馬から離れ、暗い視界の中、鐙を手に取ると、背後で突然馬が嘶いた。  振り返ると、二頭とも忙しなく前足を鳴らして荒い鼻息を吐いている。逃げ出そうともがくが、留め具に繋がれていて叶わず悲痛の声を出す。 「……どうした、落ち着け」  突然の興奮状態に、ブラッドは剣を再度握り締め警戒を強めた。何かを感じ取っている。おそらく、殺気のようなものを。  棚から離れ、小さな窓からそっと外の様子を窺った。上から水が流れ続ける硝子越しに見えたのは、降り続ける雨だけだった。身を屈め、音を立てずに厩舎の扉まで歩く。馬は騒いだままだった。扉のすぐ横の壁に背中をつけ、息を殺した。  ギギ、と扉の隙間が作られると外の轟音が流れ込んできた。相手の足元が見えたと同時に、ブラッドは躍り出て剣を叩き込んだ。  キン、と甲高い音が耳の奥をつく。受け止められた――ばかりでなく、強い力で弾き返され、後退する羽目になったブラッドは舌を打って相手の姿を捉えた。  開け放たれた扉の向こうで、白い光が散った。目の前に聳え立つ男の容貌を見て、息を飲んだ。

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