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決意

 声は流れ込む雨の音で掻き消された。こめかみを大きな雨粒が流れて、顎から落ちた。  暗くてもわかった。ブラッドがそうしたように、相手も赤い瞳を大きく見開いて、ファルカタの先を向けたまましばし立ち尽くした。轟音が流れ込んでくる扉が勢いよく閉まり、雨音が小さくなる。するとそれ以外の音も、聞こえるようになる。 「なぜ……お前がここにいる」  相手の声は混乱を圧し殺したような色をしていた。剥き出しになった褐色の肌はブラッドと同じようにずぶ濡れで、履き物は水を吸って重そうだった。濡れて束になった艶やかな前髪から、顔を水が流れていく。剣先が下ろされ、刃は雨に流されて汚れてはいなかった。  なぜ、とクバルはもう一度言った。  ブラッドは唇を噛み締めた。  顔を見れば、熱い塊が喉へせり上がってくる。後悔と罪悪感と、それ以外の自分でも把握できない感情がない交ぜになって、苦しくなる。  会いたくなどなかったと、彼の顔を見た瞬間に思った。 「どこにいる」  ブラッドが問いに答えないことを理解したクバルは、再び静かに口を開いた。 「あの男はどこにいる」  異物がつっかえたように苦しい喉へ唾を無理矢理落とし、ブラッドは浅く息を吸った。  クバルの関心が自分ではなく他にあることに、どうしてか打ちのめされた気分になる。  目の前にいる男は、アトレイアと敵対しているダイハン族の王であり、それ以外の何者でもない。余計な感情を振り払い、正面からクバルと相対した。 「誰のことだ」 「赤毛の、お前の弟のことだ」  クバルの目的はアトレイア国王の命だった。アトレイアに必ず報復すると、王の前で誓ったのだ。  ブラッドは緊張で乾く唇を開き、厳然と言った。 「ここには来ていない」 「いない? 援軍を率いてきた国王が、この城にいるだろう」 「その国王は、俺のことだ」  外で雷が光った。すぐに轟音が鳴り響き、厩舎の窓が揺れる。混乱する馬たちが悲痛な嘶きを上げている。 「俺を殺しに来たんだろう、ダイハンの王」  震える手に力を込め、剣の柄を固く握り締める。  相手の表情の機微は窺えない。赤い瞳だけがじっとこちらを見ていた。  剣先をクバルの首へ向ける。 「北の城壁はもう落ちたのか。他愛もなかっただろう」  クバルは口を閉ざしていた。ブラッドが国王を名乗る理由も尋ねない。 「どうやってオルセンの軍団の目から逃れた? 南の野営地は囮か?」 「……そうだ。二日も前から、すでに城の北へ抜けていた」 「オリア山を通ったのか。何人いる?」  警戒しているのか、クバルは答えなかった。 「馬でも奪いに来たのか? 運が良かったな、逃亡を図る敵の王を見つけることができた」 「ああ」 「俺を殺せば、戦士たちが喜ぶぞ」 「そうだな」  短い相槌を返すクバルを睨みつける。剣先を足元に下ろしたまま、様子を窺うようにこちらを見ている。唐突に訪れた虚しさを誤魔化すように、ブラッドは前へ踏み込んで相手の首目掛けて刃を突き出した。  甲高い音とともに防がれる。当然、阻まれることは予測していた。刃の上を刃が滑り、しゃらんと小気味良い音を立てる。  流された剣をそのまま勢いをつけて打ちつけると、手首の骨がびりびりと震えた。弾き返され少し間合いを取るが、クバルは踏み込んできた。 「ッ……!」  速い。クバルの一撃は想像通り重く、骨が軋んだ。暗闇にも目が順応し、鍔越しにクバルの顔が傍にある。出会った頃と同じように、何を考えているのかわからない。無慈悲で冷酷な王の顔がそこにある。  ――もう、アステレルラじゃない。そう宣告した声が脳裏に甦る。  怒りも、軽蔑も、失意もない声は、深く胸を穿った。立ち去る背を見ることもできなかった。足を止めてくれと心で叫びながら、崩れ落ちそうな自分の足元だけを見つめていた。そしてクバルはブラッドを置いて姿を消した。  あの時のことを思い返すと、自己嫌悪に囚われる。記憶を振り払い、押し返した。感情に支配される時ではない。  そこから二合、三合、四合目に身を翻し、交わした攻撃の隙をついて肩を狙う、しかし咄嗟の動きで防がれる。横に薙げば上体を反らして回避され、足を払おうとすれば軽いステップで飛びすさる。  クバルと戦うのは初めてだった。血が飛び散るほどの間近で決闘を見て、ともにツチ族に立ち向かったことはあれど、刃を交えたことは当然ない。  城の中で対峙した戦士とは比べものにならない重さで、続け様に打ちつけてくる。受け止め、流し、ブラッドも仕掛ける。腕には自信がある方だが、クバルはダイハン族の中で最も優れた戦士だ。ゆえに王なのだ。 「手加減してるんじゃねえだろうな」  互いに荒い息を吐き始め、間合いを取って牽制し合う。クバルも疲弊しているように見えるが、彼の実力はこんなものではないと勘が騒いでいた。  彼が本気を出せば斬り伏せられると知っていた。自分よりも一回り大きな体躯の男を決闘で倒し、複数のツチ族を一度に相手して斬り伏せ、アトレイアの王城の一室で貴族や騎士を手際よく殺した男だ。ブラッドが渡り合える筈はない。  無性に腹が立って、剣を打ちつけながら叫んだ。 「手を抜きやがったら、許さねえ」 「っ……」 「俺をあしらうくらい訳ないだろう、お前はこんなところでくたばったりしない。アトレイアに負けて、死んだりなどしない!」  振り下ろした攻撃を受け止めたファルカタが、火花を散らしたように見えた。クバルの剥き出しの肩に力がこもるのがわかった。押し返されたブラッドは、次の攻撃を防ぐため胸の前に剣を構えた。  クバルは刃を横に薙いだ。刃と刃が触れた瞬間、耳障りな音とともに何かが弾け飛んだ。どうしてか力の行き場をなくしたブラッドは、崩れそうになった体勢を押し止めた。手元の剣を見やれば、剣身の中央から先が消えていた。折れたのだ。脆弱な刃だと、舌を打った。 「っ!」  顎の先に、硬く冷たい感触が触れた。ファルカタの先端が、眼前にあった。視線をその先へ滑らせれば、ブラッドと同じように肩で息をするクバルの姿があった。  口の中が酷く乾いていた。呼吸を繰り返し、作った唾を無理矢理飲み込む。 「殺せ」  掠れた声で促した。やはり、強い。やろうと思えば本当に訳ないのだ。  だから彼は王たりえる。勇猛で、獰猛な戦士たちを率いているのだと、身をもって知る。ブラッドなど、足元にも及ばない。 「早く、やれ」  尖った刃の先が、首の皮膚に食い込む感触がした。彼なら躊躇なくやれる。王として、殺すべき相手を迷いなく殺すことができる。目を伏せて時を待った。  恐怖はなかった。刃を向けられて然るべきだ。戦の最中で戦士に殺されるより、混乱の中で間者に刺されるより、クバルの一太刀に処断される方がずっといい。 「――……っ」  その王を、敵との戦いの中、救いに走ったこともあったと、思い返した。従者である女騎士の制止を振り払い、裏切り者の手から救った。  その身体を押し倒したこともあった。僕である双子から手解きを受け、彼の歪む顔を見下ろした。  熟むような暑い夜の間中、組み敷かれたこともあった。支配するのではなく、まるで慈しむかのように身体を抱かれた。  伴侶として、女王として、信頼を受けた。結果として、それに背を向けることになった。  どうして今、クバルに剣を向けられているのか、不思議で堪らなかった。こうなって当然なのだと理解している筈なのに、感情はついていかない。恐怖の代わりに、たったひとつ後悔だけが残っている。  剣を向けるよう仕向けたのは自分自身だ。相反する心がおかしくて、唇の端が捩れる。とどめを促すために、瞼を上げて目の前の相手を再度捉えた。 「……どうして、そんな顔をするんだ」  思わず口から零れ落ちていた。ブラッドの首を捉えるクバルの刃がかすかに揺れる。  彼の瞳に苛烈な争いの炎は見当たらない。唇をこらえ、眉根を寄せて痛みをこらえるようにしている。まるで、葛藤しているかのように。 「お前が、泣きそうな顔をしているからだろう」  どうしてわかるのだろう。自分でもわからないのに。  頬の内側を噛んでクバルの悲痛な表情を睨んだ。重量の減った不完全な剣の柄を握り締める。自分に向けられたファルカタは欠けた刃の先で容易に払うことができた。相手の懐に飛び込むが受け止められ、押し返される。  思い出したように脚が痛み出した。斬りつけられた大腿がじくじくと熱い。雨で洗い流されたが、何の処置もしていない傷口は剥き出しのままだ。  痛みが顔に出てしまったのか、クバルの動きは止んだ。隙を突いて殺してしまえばすべてが終わる筈なのに、彼は剣先を下へ向けている。 「怪我をしているのか」  どうして、まるで心配しているような声を出すのかわからなかった。唇を歪め、低く笑った。 「ああ……お前には都合がいいだろ」 「どうして」 「俺は、敵なんだ。隙を突いて斬ればいい」 「……できない」  クバルの言葉に唇を噛み締め、こらえていたものを飲み込んだ。 「できないだと?」  まるで戦意のないクバルに接近し、間合いに踏み込んだ。早く剣を構えろと促すように。俺を殺さなければお前が死ぬのだとわからせてやりたかった。  カラン、と硬く冷たい空虚な音がした。クバルのファルカタが地に落ちた。  折れた剣の断面が皮膚を裂く感触が手に伝わってくる。 「……!」  何を馬鹿なことを。故意に落とされた得物と、血が溢れ出した肩を見て、瞬間的に息を飲む。  手首を強引に捕まれて、血を吸った不完全な刃が掌から離れて落ちた。気を取られている間に、強い力で引き寄せられ雨に濡れた身体が触れた。  不規則に呼吸をしながら、ブラッドはクバルの脈を聞いていた。顔に触れた首筋が、どくどくと打っている。濡れて肌に貼りついた衣服越しに、冷たい体温が伝わってくる。  酷く戸惑った。背に回った大きな掌に力がこもるのがわかった。 「お前を、許せない」  ブラッドを抱き締めながらクバルは言った。 「許せないんだ」  その声は酷く苦しげで、言葉とは裏腹のように思えた。  低い声の振動が触れた胸から伝わってくる。クバルの声を聞いて、ブラッドも息が詰まったように苦しくなる。 「誓約を破った者には制裁を与えなければならない」 「なら、そうすればいい」 「できない。……お前を許したいと思ってしまう」  心臓の上を拳で打たれたように、気持ちが揺らいだ。不意の高ぶりを抑え込むため、唇をこらえる。 「王なら責任を果たすべきだろう」 「そうだ。……だから俺はここまで来た。報復すると言った誓いを果たしに」  本当に、そうするつもりだったのだろう。アトレイアの南の領地であるオルセンを踏み、リドル城を落とし、のこのこと援軍を率いてやってきた国王を殺す。それが可能な筈だった。 「決意して来た。ヤミールたちに説得されたが、ヘリオサとしての責任を果たすべきだと思った。アトレイアを許すことは、これまでの自分の行動と民たちへの裏切りだと」  その通りだろう。ダイハンへ背を向けた者に許しを与えるのは王の行動ではない。これまで行ってきた同胞への制裁とは切り離して考えるべきではない。同様に対処しなければ王の責任と信頼と権威は揺らぐ。  触れた肩がわずかに離れる。濡れた額同士がぶつかり、眼前には伏し目になった赤い宝石が光っていた。雨粒が目頭を通って鼻筋へ流れていく。 「今、お前の顔を見るまではそう思っていた」  ブラッドの背を離れた大きな手が、頬を包み込んだ。 「ここで会うとは思っていなかった。お前は俺の決意を挫く……ブラッドフォード」  その温度に、感触に、悲しくはないのに胸が深く抉られたように痛くて、苦しくて、そして高揚した。  おそるおそる掌を重ねた。確かめたくて、強張る唇を開く。 「俺はお前に嘘を吐いた。ずっと隠していた。それを許すのか」 「……聞こうと思っていた。何が嘘で、何が本当だったのか」  深い赤色が、奥底を探ろうと覗き込んでくる。お前の言葉のどこまでが真実かわからないと、あの時は言っていた。冴え冴えとした赤色からたえきれずに目を背けた。今度は片時も逸らさなかった。 「俺はお前を信頼していた。お前もそうだと思っていた。違ったのか」 「何も、違わねえよ」 「家族の話をした時、お前は嘘を吐いた」 「言える訳ねえだろ……俺は、ブラッドフォードだって。ブラッドフォードは実の弟を自分のために売り飛ばすような男で、ダイハンの王の伴侶には値しない……」 「お前の過去など、本当はどうでもいい」  心臓が大きく鼓動する。強い光を放つ赤色に捕らわれたように目を離せない。 「お前はツチ族からダイハンの民を救った。俺の命も救った。食事の席で俺の名誉を守った。少なくともそれが、俺の知っているブラッドフォードだ。出会ってからのお前がすべてだ」 「いいのか、それで」 「俺はお前を信頼している。愛しいと思う。お前はどうだ」 「……クバル、俺は」 「本当のことを言え」  大地を穿つような雨音が支配する。外で激しく雷鳴が轟いている。  かすかに聞こえるほどの声音で、ブラッドはそっと言葉を落とした。  口を塞がれる。触れた鼻先も、合わせた唇も、冷たい雨に晒されていたためにひやりとしている。頬張るように食まれ、苦しさに顔を逸らそうとするが、首の後ろを捉えられ叶わない。  密着した身体の表面は濡れていて冷たい。吐息を奪うように激しく吸われた。唇のあわいを抉じ開けられ、身体とは反対に熱い舌がねっとりと絡みつく。  逃げようと思えば逃げられる。暴れて押し返すこともブラッドなら可能だった。だが、しなかった。 「……ん……クバ、ル……っ」  名前を呼ぶと赤い瞳が開いた。冷えた鼻先を触れ合わせ、唇を交わらせている間、薄く開いた視界で見つめていた。体温が上がり、呼吸も荒くなる。濡れそぼった身体が寒さに震えた。じわりと心の中で何かが溶け出すような感覚がした。

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