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午後0時のサボタージュ(3)
ラジオから流れるゆったりとした音楽を聞きながら、夜の街を走る。
助手席の理人さんは、窓の外を興味深そうに眺めていた。
そういえば、一緒に車でどこかに出かけるのは初めてだ。
次の信号が赤に変わるのが見えてブレーキを踏むと、徐々に速度が落ち始める。
軽くバウンドした車体が完全に止まると、理人さんが俺を振り返った。
「佐藤くんが運転できるの、知らなかった」
「自分の車がないから滅多にしないんですけどね。理人さんは?」
「俺も免許はあるけど、もうずっとペーパーだからな」
「そうなんですか」
「うん」
俺を見る理人さんは、いつになくニコニコしていて、なんだか楽しそうだ。
下はいつものジーンズだけど、今日は黒いシャツの上に黒い革ジャンを羽織っていて、なんだかいつもと雰囲気が違う。
もしかして、俺と出かけるから着替えた……とか?
「で?」
「えっ……?」
「ドライブって、どこ行くの?」
「あ、えーと、それはその、着いてからのお楽しみ……ってことで」
「ふぅん……?」
理人さんは不思議そうに言うと、また視線を窓の外に戻した。
その口元は、綺麗な弧を描いている。
これはやっぱり、けっこう喜んでくれてる……かも。
「佐藤くん、信号、青になってる」
「あ、は、はい」
心の奥の方が、罪悪感でチクリと痛んだ。
十分くらい走ったところで、ようやく目的地が見えてきた。
住宅地に入ってしばらく走り、カーナビが音声で注意を促してくるほど狭い道を通り抜ける。
すると、突然現れる場違いな大きな建物。
それが、明済会 病院だ。
この地域では誰もが知る有名な救急指定病院で、俺の兄の勤務先でもあった。
第一駐車場の電光掲示板に緑色の『空』の字が光っているのを確認して、ハンドルを切る。
駐車券を取って、ゆっくりと上がるバーをすり抜けた。
一番最初に目についた空きスペースに前から突っ込み、サイドブレーキをかける。
そこで初めて、理人さんが首をかしげて俺を見た。
訝しげな視線をスルーして、完全にエンジンを切り、シートベルトを外して鞄を掴む。
「着きました」
「え? でも、ここ、って……」
「行きましょう、理人さん」
「あ、う、うん……?」
俺の勢いに促されるように、理人さんもシートベルトを外す。
それを見届けてから運転席を抜け出ると、俺は急いで助手席側に回った。
理人さんが扉を開けて足を地面につけた瞬間、その左手を引っ張る。
「うわっ!? あ、ちょっ……」
「行きますよ」
「え、さ、佐藤くん!?」
つんのめってくる理人さんを受け止めつつ、助手席の扉を閉めつつ、車のロックをかけつつ、俺は歩を進めた。
ここは、あんまり深く考えさせちゃだめだ。
とにかく計画を先に進めなければ。
兄貴とは、あらかじめ電話して六時半に時間外出入口で待ち合わせてある。
時間はぴったり六時半。
時間外出入り口は……あ、あっちか。
鈍く光る看板を目指して、足を速める。
わけが分からずにいるだろう理人さんは、まるで転がるように俺の後ろを小走りしていた。
途切れがちな蛍光灯に照らされた『時間外出入口』の自動ドアを通り抜けると、すぐに白衣を着た長身の男が俺たちに気づいてこっちに歩いてきた。
「英瑠 、こっち」
「兄貴!」
掴んだままだった理人さんの左手を解放し、走り寄る。
そこにいたのは、この病院に外科医として勤務している俺の兄だった。
「ごめんな、無理言って」
「いいよ、気にすんな。今日はちょうど上がる時間だったし……ん?」
兄貴の瞳が、入り口で立ちすくんだままの理人さんの姿を捉える。
「あ、兄貴。この人が電話で話した……」
「こんばんは。英瑠の兄の佐藤葉瑠 です。いつも弟がお世話になってます」
俺の紹介が終わる前に兄貴がつかつかと歩み寄り、理人さんの目線に合わるように身を屈めた。
理人さんが、小さく一歩後ずさる。
「あ、いえ、こちらこそ……神崎理人です」
「よろしくね」
「こう見えて、兄貴はここの医者なんですよ」
「ふぅん……?」
理人さんが、首をかしげる。
兄貴は背筋を伸ばすと、理人さんの頭にポンと手を置いた。
「それじゃあ早速準備するので、この問診票に記入して、検温して待っててください」
「え、俺……?」
兄貴に紙の挟まったバインダーと体温計を差し出されて、理人さんが目を見開く。
あ、しまった。
これはやばい。
「あ、兄貴! 俺が書くから!」
「いいけど、最後の署名だけは神崎くん本人じゃなきゃだめだぞ。そこの椅子、使っていいから」
「わ、わかった、サンキュ!」
兄貴は白衣の胸ポケットからボールペンを一本取り出し俺に渡すと、『診察室6』と書かれた部屋の扉をスライドさせて、中に入っていった。
すぐにパチンと音がして、真っ暗だった診察室が、磨りガラス越しに明るくなる。
俺は、ゆっくりと理人さんに向き直った。
理人さんは、さっきと同じ位置で立っていた。
唇がお手本のようなへの字を描いている。
「あの、理人さん。熱、測ってください」
「……なんで?」
「それは、えーと……あっ」
理人さんが、俺の手からバインダーを奪い取った。
「インフルエンザ予防接種問診票……なにこれ?」
やっぱり、バレたか。
まさかバレないとは思っていなかったけれど、タイミングとしてはもうちょっと知らないでいてほしかった。
でもこうなったら仕方ない。
俺は、理人さんにすべてを話した。
三枝さんがものすごく怒っていたこと。
それ以上にものすごく困っていたこと。
俺が手伝いを申し出たこと。
とりあえず予防接種ができれば場所は問わないからと言われ、兄貴に今日これからここで打ってもらえるよう頼んだこと。
そこまで話し終える頃には、理人さんの眉間に深い皺が寄っていた。
「……なんで佐藤くんが三枝の話するんだよ」
「昼休みに理人さんを探して、コンビニ に乗り込んできました」
「……なんだそれ」
理人さんが決まり悪そうに顔を背けた。
やっぱり口がへの字に曲がっている。
「三枝さんから聞きました」
「……なにを」
「五年前の冬、社員が次々とインフルエンザにやられてしまった時、理人さんが三枝さんと一緒にあちこちの部署の仕事を必死に回した」
「……」
「途中から三枝さんもダウンしちゃったから、一番大変なところを理人さんがひとりでやるしかなかった」
「……」
「その時の仕事ぶりが評価されて理人さんの昇進に繋がったから結果オーライではあるけど、理人さんは淡々と仕事をこなしながらも時々本当にしんどそうだったから、今でも申し訳なく思ってる……って」
「……そんなの別に、俺の力だけじゃないだろ。他にも人はいた」
「それでも三枝さんは、あの時は理人さんがいなかったら本当にヤバかった、いてくれてよかった、って言ってました」
「……」
「会社の集団予防接種は、そんな思いをする社員を出したくないからできるだけ全員が受けられるように、って三枝さんが提案したんだそうですよ」
「……それは、知ってる」
「とは言ってもインフルエンザはあくまで任意接種だから強制はできませんけど、三枝さん曰く、受けないと社内出入り禁止! ……らしいです」
「……なんだ、それ」
「それくらい、理人さんのことが大事ってことだと思います」
「……」
「理人さん?」
理人さんは、肺の空気を残らず吐き出そうとするかのように、長いため息を吐いた。
そして、長椅子にドカっと座り、俺に左手を差し出す。
「……体温計、貸して」
「え?」
「熱、測る、から」
「……はい」
理人さんは俺から体温計を受け取ると、ムスッとした顔で一瞥してからシャツの下に潜り込ませた。
俺のいない方の空間に顔を向けて、腕を押さえる。
すぐに、ピピッと高い電子音がした。
「何度ですか?」
「八度四分」
「本当は?」
「……六度四分」
「プッ」
「笑うな、裏切り者」
「あ、ひどい」
我慢できずに噴き出した時、診察室の扉がスルリと滑った。
「おーい、準備できたぞ」
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