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午後0時のサボタージュ(4)
「うん、大丈夫。熱もないし、胸の音も綺麗だ。これなら接種できるな」
兄貴は笑顔だったけれど、対面する理人さんの顔は絶望に打ちひしがれていた。
デスクの上に用意されている注射器をチラチラ気にしながら、時折部屋の隅っこに立つ俺に意味深な視線を送ってくる。
その視線の意味をなんとなく理解しつつも、その健気な感じに流されそうになりつつも、俺は必死に自分を抑えつける。
ようやくこの作戦の最終局面までたどり着いたんだ。
ここは、心を鬼にするしかない。
「座ってでも寝てでもできるけど、どっちがいいかな?」
「……」
「寝た方がいいんじゃないですか? リラックスできるし」
「……うん」
「じゃあ、寝てやろうか。あ、利き腕はどっち?」
「左、です」
「そうか。じゃあ、右に打とう」
「……」
「こっち頭にして仰向けに寝てね」
「……」
「理人さん」
「……」
「ま・さ・と・さん」
俺を横目で睨んでから、理人さんが渋々立ち上がる。
そして渋々歩き、渋々靴を脱ぎ、渋々ベッドに横になった。
「あ、右の袖だけまくっておいてくれるかな? 二の腕半分くらいでいいから」
「……」
「理人さん」
「……」
理人さんが緩慢とした動作で上半身を起こし、革ジャンを脱ぐ。
足元にバサッと投げると、渋々袖をまくった。
また渋々ベッドに横たわった理人さんの横に、兄貴が椅子をスライドさせながら移動してくる。
そして、銀色のトレイの乗ったワゴンを引き寄せた。
トレイの上に準備された注射器を見つけて、理人さんの喉仏が上下に動く。
「アルコール消毒は大丈夫?」
理人さんが、素早く首を横に振る。
「あ、兄貴。理人さんはアルコールダメなんだ」
「了解」
兄貴が、左手で理人さんの右腕をとる。
右手で小さなガーゼを軽く絞ってから、理人さんを見下ろして表情を和らげた。
「じゃあ、ちょっとヒヤッとし……」
「や……っ!」
「え?」
「いや、だ!」
「えー……っと?」
理人さんは、全身を硬くしてぎゅっと目を瞑っている。
その震える口元は、いつもより角度の鋭いへの字になっていた。
どうやら、三枝さんが言っていた『筋金入りの注射嫌い』モードが発動してしまったらしい。
兄貴が俺を振り返って、どういうことだと視線で訴えてくる。
細かい事情を説明するのはなんとなく躊躇われて、兄貴には、会社の摂取日に受け損ねた友達がいるから頼む、としか伝えていなかった。
「理人さん、打たなきゃだめですって」
「……やだ」
「会社で決められてるんでしょう?」
「……打ったって、インフルエンザかかる時はかかるだろ」
「そりゃそうですけど……」
「確かに百パーセント回避することはできないけど、かかってしまった時に重症化を防げるから効果はあるよ」
医者 の意見に、理人さんがたじろぐ。
「三枝さんが、理人さんが万が一にでも一週間とか会社に出られなくなったらいろんな意味でヤバい、って心配してました」
「……」
「もちろん、俺も心配です」
「……っ」
「それに、もし普通にかかっちゃったら辛いのは理人さん自身だし」
「そうそう。大人がインフルエンザにかかると相当辛いからね」
経験者は語る、と兄貴が続ける。
理人さんは一瞬視線を彷徨わせて、でもすぐにまた首を振った。
「……やだ」
「もう、理人さーん……終わったらアイス買ってあげますから」
「……いらない」
「むしろクリームソーダでも……」
「いらない!」
……あ、なんだろう、この感じ。
ものすごく腹が立ってきた。
今なら三枝さんの気持ちがものすごくわかる。
この人、ものすごくめんどくさい……!
「理人さん! いい加減にっ……」
「英瑠」
「兄貴……?」
思わず声を荒げた俺を、兄貴が硬い声で制した。
一度俺に目配せしてから、手に持っていたガーゼを置いて椅子を引く。
理人さんの目線に合わせるように身体を傾けて、ゆっくりと語りかけた。
「理人くん、何が怖い?」
「……っ」
「白衣?」
「……」
「針かな?」
「……」
「全然痛くない、とは言えないけど、極力痛くないようにはするよ」
「……か」
「うん?」
「かえりたい……っ」
「うーん、そうかあ。これ終わったら帰れるんだけどなあ……」
兄貴が、ぽりぽりと頭をかいた。
理人さんは、相変わらずへの字のままの唇をぐっと噛み締めている。
その瞳には、うっすらと涙すら浮かべていた。
……ああもう。
本当に、めんどくさい。
「……葉瑠 兄 」
「ん?」
「今から見ること、誰にも言わないでほしい」
「どういう意……英瑠……?」
俺は戸惑いを露わにした兄貴の視線を感じながら、靴を脱いでベッドに上がった。
理人さんの身体を足の間に挟み、顔の両脇に手をつく。
怯えて瞳を震わせる理人さんを見下ろし、そして、
「んっ……!?」
口付けた。
「んっ……んんっ……」
「……っは、理人さん」
そのまま上からギュッと抱きしめると、理人さんがビクッと全身を硬ばらせる。
「大丈夫。俺がついてます」
「さ、とうく……」
「だから、がんばって」
そのまま抱きしめる腕に力を込めると、小さく震える手が俺の背中の服をきゅっと握ってきた。
溢れそうになる笑みを飲み込んで、理人さんの頭をそっと撫でる。
「兄貴、いいよ」
「お? お、おう」
兄貴がハッと我に返り、慌てて動きを再開する。
俺の背中に回ったままの右腕にササッと消毒を済ませ、注射器を手に取った。
微かな音にも反応して怯える理人さんの頭を、俺は、強く抱きすくめた。
「じゃあちょっとチクっとするよー」
「んっ」
「お薬入れるからねー。少し痛むかもしれないけど、動かないで」
「……う」
「すぐ終わるから、がまんがまん」
「ううぅー……っ」
「はい、おしまい」
「んっ」
「理人さん、大丈夫……?」
ゆっくりと身体を離すと、理人さんのアーモンド型の瞳は、涙でいっぱいだった。
「英瑠、押さえて」
「ここ?」
「揉まなくていい。1分経ったら捨てていいから」
兄貴と場所を入れ替わり、理人さんの右腕を湿ったガーゼで押さえる。
「会計の手続きしてくるからしばらく待ってろ。もし副反応が出たらすぐに呼べよ」
「わかった」
「……ん?」
書類を持って出ていこうとした兄貴が、白衣を翻して振り返る。
いつの間にか、理人さんの指が白衣の端っこを摘んでいた。
「理人くん?」
「……あの」
「ん?」
「ありがとう……ございました」
兄貴はこれでもかと目を見開いてから、一気に破顔した。
「よくできました」
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