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午後0時のサボタージュ(5)
「英瑠」
「あ、兄貴」
「理人くんは?」
「トイレで拗ねてる」
「はあ?」
これでもかと眉を寄せる兄貴に肩をすくめて応え、スマートフォンをポケットにしまう。
薄暗い廊下の奥の方で、ふ……と電気がひとつ消えるのが見えた。
「副反応がなさそうなら、もう帰っていいぞ」
「わかった」
「これ、領収証な。会社に提出するんだろ?」
「ああ、ありがと」
念のため……と内容を確認していると、細長い影が一歩俺に近づく。
「お前さ」
「ん?」
「あ、いや……」
「言いたいことは分かってる」
「……」
「こういう形は予想外だったけど、いずれちゃんと話すつもりではいた」
兄貴が、俺とよく似た目元を強張らせる。
「本気、なんだな」
「自分でも驚くくらいには」
「ま、こういうのは理屈じゃないからなあ……」
俺と同じくせっ毛の髪を、兄貴はガシガシと乱暴にかき乱した。
なにかを考える時の癖だ。
きっと言いたいことは次から次へと浮かんでいるんだろうけれど、俺のために言葉を選んでいるに違いない。
「びっくりするくらいのイケメンだしな。モテるだろ」
「ああ、なんかギャップ萌え? らしいよ」
「それにしても、なあ。あの怖がり方、うちの五歳児よりすごかったぞ?」
「俺も驚いてる」
三枝さんから理人さんの注射嫌いは『筋金入り』だと聞いてはいたけれど、まさか本当にあそこまでだとは思わなかった。
「英瑠」
「ん?」
「話、聞いてやれよ」
「え……?」
「注射とか痛いのが嫌いなのもあるんだろうが……あの子はきっと根本的にこの空間が怖いんだろ。過去に病院 で誰か大事な人を亡くしたりしたんじゃないか?」
大事な人。
もしかして、ご両親が亡くなったこととなにか関係があるんだろうか。
マンションの奥の部屋に祭壇があるのを、前にチラッと見たことがある。
毎晩寝る前に必ず手を合わせているのは知っていたけれど、なんとなく聞いてはいけないことのような気がして、俺からはなにも切り出せていなかった。
「ま、その……あれだ。なんかあったらいつでも連絡しろよ」
「サンキュ」
「おう、またな」
気をつけて帰れよ。
野菜食べろよ。
そんなことを振り返るたびに言い残しながら、兄貴は去っていった。
白い背中が角を曲がるのを見届けたところで、くん、と服が突っ張る。
振り返った先には、頬を膨らませ、唇で富士山を描いた理人さん。
「……佐藤くんなんか嫌いだ」
盛大に吹き出しそうになるのを堪え、すっかり冷えてしまった左手を巻き込んだ。
「気分はどうですか? 頭痛いとか、息苦しいとかないですか?」
「……ない」
「じゃあ、帰りましょうか」
「ん……あ、お兄さ、佐藤先せ……葉瑠先生、は?」
「もう帰りました」
領収証は預かったので、と白い紙を見せると一瞬だけ表情が安堵し、でもすぐに険しさを増す。
「大丈夫、だったのか」
「なにがですか?」
「その……キス……見せた、だろ。お兄さ、先生に……」
「ああ、とりあえずは応援してくれるみたいです」
「……よかった」
「え?」
「俺のせいで佐藤くんの家族のつながり壊したりしたくない、から……」
ああ、もう。
また、この人は。
「行きましょう」
「……うん」
指の間を埋める体温が、愛おしい。
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