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後日談(1)
弟に『彼氏』ができた。
「理人 くん」
「……」
「手を、離してくれないかな?」
「……やだ」
これが、弟の彼氏らしい神崎 理人くん。
男の俺でも思わず目を奪われてしまうくらいのイケメンなのに、うちの五歳の娘も真っ青になるほどの注射嫌い。
今日も弟の英瑠 に連れられて、健康診断を受けに……もとい、健康診断のうち会社でボイコットしたらしい血液検査を受けにきた。
「俺は健康です」
「それを証明するための血液検査だろ?」
「で、でも……!」
「でもじゃない」
「だ、だって……!」
「だってでもない」
「……」
「やっぱり呼ぶ?」
「やだ!」
まるで幼い子どものように全力で駄々をこねる理人くんは……理人くんは……ああ、これが〝ただしイケメンに限る〟ってやつか。
……じゃなくて。
ほとんど英瑠に突き出される形で診察室に入ってきた理人くんをとりあえず椅子に座らせ、腕まくりさせ、親指を中に入れて拳を作らせ、「あれ、今回はやけに素直だな」なんてうっかり感心したのがざっと十分前。
自分の認識が甘かったと思い知らされたのが、そのわずか一秒後。
それからはもう、俺の手首を抑える理人くんが力尽きるのが先か、俺が医師という立場を忘れてブチ切れるのが先か、という不毛すぎる攻防を続けている。
壁の時計を見ると、十一時五十五分。
土曜日の今日は、あと五分で外来が終わる。
このままじゃ俺の貴重なランチタイムが……じゃなくて、埒が明かないからと一旦注射器を置いて、理人くんに向き直った。
「理人くん、なにがあったの」
「えっ」
「なにかあったんだろ。病院 で」
「べ、別になにもっ……」
「だったらいいよね? はい、ちょっとチクッとするよー」
「あ、ちょ、やっ――」
「ま・さ・と・さ・ん……?」
低く不気味な声が響いた瞬間、理人くんの全身が跳ね上がった。
目線を上げると、診察室の扉がわずかにスライドされ、隙間から英瑠が覗いている。
じとーっと粘っこい眼差しで。
「さ、佐藤くっ……」
「俺、言いましたよね? 十分経っても出てこなかったら問答無用で羽交い締めにするって」
「じゅ、十分なんてまだっ……」
「経ちました。てことで、はい」
「や、やだ、やめろ! はなしっ……」
「理人くん」
「ひっ!?」
「今動いたら、理人くんの腕の中で注射針が折れて、その先の方が抜けなくなって、メスを入れるなんてことにもなりかねないよ……?」
「メ、メス……?」
「うまく取れればいいけど、下手したらそのまま|手術《オペ》ってことになって、まあ俺は外科医だから執刀くらいしてあげるけど、万が一理人くんが麻酔効きにくい体質だったとしても遠慮なくそのままグサっ……といっちゃうけど、いいのかな?」
「……」
「うん、いい子だ」
英瑠の腕の中ですっかり大人しくなってしまった理人くんの頭を撫で、椅子に座り直した。
「もう一回消毒するね。アルコールは入ってないから」
「……」
「じゃ、チクッとするけど、頑張って我慢しような?」
「……んっ」
「よし、入った。もう手、楽にしていいよ」
駆血帯を緩めても、理人くんは目も唇もぎゅっと結んで、ついでに手もギュッと握り込んだままただ首を横に振る。
ピューピューと飛び出てくる赤黒い血液を眺めながらどうしたものかと思っていると、理人くんの右手よりひと回り大きな手が、うしろからそっと包み込んだ。
うーん、人生ってのは本当にわからないもんだな。
まさか、弟のラブシーンをこんな至近距離で見せられることになるとは。
「はい、おしまい」
「……」
「泣かずによく頑張ったな」
大人の男に向かって吐いているとは思わない台詞で、理人くんを労る。
すると当の彼は蚊の鳴くような声で礼を言うなり、診察室の隅っこまで一気に退避した。
「ちょっと、理人さん。なんで距離取るんですか」
「うるさい、裏切り者!」
「大袈裟だなあ、もう」
「佐藤くんの言うことなんてもう絶対信じないからな……!」
英瑠はいったい、なにを餌に彼をここまで引きずってきたんだろう。
少しばかり理人くんに同情しながら、イチャイチャから一転、今度は目の前で繰り広げられる痴話喧嘩に、俺はこっそり頭を抱えたのだった。
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