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 ナザリオは有言実行だった。フォルスの遺構への入構許可が下りたのは、昨晩のことだ。許可証が二コラのもとに届けられ、ユーリに知らされた。ユーリはさっそく学長に交渉をし、フォルスの遺構に赴くことにした。  フォルスの遺構まで車で約14時間。朝5時に市街を出発してはや10時間が経っていた。  本当ならナザリオに軍用車両で送ってもらう予定だったが、急遽外せない用ができたとこちらが申し訳なくなるほど謝罪され、その代わりに数日前にやっとミクシアに戻ってきたジャンカルロに護衛につくこととなった。ナザリオの計らいで幹部クラスしか乗れない軍用車を借りることができ、もちろん運転はジャンカルロだ。ユーリと二コラは広々とした軍用車両の後部座席に座り、ミクシアとは全く異なる風景を眺めていた。  ユーリの生まれ故郷のフォルス村は隣国・パドヴァンとの国境付近にある。パドヴァンは周辺国の中でも最も国力が低く財源も少ない。貧富の差も激しく内紛が絶えないと聞く。そのためかパドヴァンとの国境付近ともなると相当に辺鄙など田舎だ。ミクシア市街ではあり得ないほど牛や羊が放牧されている。あまりに長閑な光景を懐かしく思ったのかユーリが車の窓から身を乗り出した。 「おい、子どもじゃないんだから妙なはしゃぎ方をするな」  すぐさまニコラに襟元を掴まれて車の中に押し込められる。ユーリは不満げにニコラへと振り返ったが、見知った風景に歓喜の声をあげながら窓の外へと視線を戻した。 「あそこに村があるだろう、隣村と言いつつ20kmは離れてて、子どもの頃あそこに行くだけで小旅行気分だったんだ」  珍しくユーリの声が弾む。無邪気にはしゃぐような姿を見るのは二コラやジャンカルロにとっては初めてだった。 「そんなに喜ぶ姿が見られるなら請け負って正解だったな。スカリア隊との一悶着があって以来妙に大人しかったと聞いていたから、心配していたんだぞ」  ジャンカルロがこちらへと振り返り、明朗に言う。二コラから前を向けと手厳しく突っ込まれても気にしない大らかさにずいぶんと救われた気がする。二コラと二人ではおそらくケンカばかりしていただろう。ユーリは眉を下げて笑った。 「ちょっと調べたいことがあったんだ。秘密裏に動いている時にピエタに取っ捕まりでもしたら、いろいろと困るじゃないか」  いけしゃあしゃあと言ってのけると、ジャンカルロが肩を揺らして笑った。 「ははは、大したやつだ」 「あまり調子づかせてくれるな、ジャンカルロ。ユーリのそれは性根が入らないと言うんだ」 「あっ、あそこの森にビターオレンジが自生してるんだ。帰りにちょっと寄っていこうぜ」  無邪気な声で、ユーリ。二コラはもはや返事をしなかった。呆れかえったような視線をよこし、白けた表情を隠そうともしない。 「なに、せっかくの休暇を俺に取られて怒ってんの?」  ユーリが振り返り、二コラに問う。風でなびく髪を結いなおしながら二コラを注視する。二コラは面倒くさそうに眉を顰めて目的地までの地図に視線を落とした。 「怒っているなら着いてこない。そもそもこれはナザリオから正式に依頼された俺の仕事でもある」 「休日にまで仕事かよ。ワーカーホリックまっしぐらなんじゃねえの?」  茶化すようにユーリが言う。二コラがワーカーホリック気味なのはユーリのチームメイトはみな感じていることだ。今回の休暇だって働きすぎの二コラを心配したキアーラが二コラが休暇を取るための口実を作った。夏にはキアーラが退職し、取れるはずの休暇がより取りにくくなる。それならいまのうちに1週間のバカンスを取るようにというキアーラからの配慮という名の命令に近い。はじめは難色を示していた二コラだったが、チームリーダーには逆らうなといつも自分が言っているくせにとユーリとサシャとリズで散々言いくるめた結果、休暇を取ることを了承したのだった。  二コラはユーリの挑発には乗らず、冷静な口調でジャンカルロにフォルスの遺構までの道筋を伝える。かの地が封鎖されて8年。軍部ですら国境の警備兵数人しか近寄らないような場所だ。土砂崩れのあとすら補修されておらず、そこいらにむき出しの岩がある。悪路以外たとえがあるならばそちらを使いたくなるような、通常の悪路がかわいく見えるほど未整備の道だ。  不意になにかに乗り上げた。車体が大きく揺れる。ハンドルを取られかけたジャンカルロが慌てて軌道修正をする。すぐ脇は断崖絶壁。下手をすれば谷底に真っ逆さまだった。 「あ、あっぶねえな。なんだ、いまの」  ブレーキを踏んで減速し、ジャンカルロが身を乗り出して確認する。舌打ちが聞こえた。 「なあ、いまの」  見るなと険しい声でけん制される。すぐさま身を乗り出して後ろを確認しようとした。二コラが無言で服を引っ張ってきたが、ユーリは負けじと身を乗り出す。そこにあったのは遺体だった。ここを通る車に何度も轢かれたのだろう。かなり無残なことになっている。腐乱していいてノルマなのかイル・セーラなのかも区別がつかないが、遺体の頭もとには古ぼけた杭が打たれており、『奴隷の末路』と書かれたプレートがひっかけられていた。  胸の奥がムカムカとする感覚に襲われる。ユーリは車を出ようとドアレバーに手を掛けたが、ジャンカルロから厳しい口調で止められた。 「言いたいことはわかる。気持ちもわかる。だが手を出すな。それがこの国で生きていくということだ」  ユーリは答えなかった。車のシートに乱暴に体をうずめ、日よけのために持ってきていたキャップを目深にかぶった。ジャンカルロが車のエンジンをかけなおし、無言のまま発進すると、少しでも早くその場から離れるためかスピードを上げた。  ***  フォルスの遺構に着くまでの間、3人は無言だった。あのあと同様のいくつもの遺体を見つけた。真新しいものから白骨化したものまであった。なんのためのあのような処刑をしたのかと問いただしたくなるような凄惨さにさすがのユーリも冗談をいう気分ではなかった。  フォルスの遺構への軍用車の立ち入りは通常禁止だが、今回は特例として認められている。あくまでも軍部の保護下にあるイル・セーラ――つまりユーリの安全を考慮するためだ。フォルスの遺構の一番奥。小高い丘の上にある、コンクリート製の建物の前に車をつけるよう指示し、ユーリは遺構の建物を白けた表情で眺めていた。煤けてところどころひびが入っているが手入れをすればまだ住めるほど原形をとどめている。建物の基礎が頑丈なのか、ほかの建物も全壊しているものはほぼ見られない。遺構とは名ばかりだなと揶揄するように呟いて、かぶっていたキャップを脱ぎ捨てて車内に設置されているフックに掛けた。 「どこに住んでいたかは憶えているんだな」  二コラに問われ、ユーリは不満げな表情で二コラに視線だけを向ける。 「覚えてなきゃ、来たいって言わないだろ」  そうカリカリするなよとジャンカルロが苦笑を漏らす。ひりひりと焼け付きそうな雰囲気を悟ったらしい。ユーリはふんと鼻を鳴らして、車が止まったと同時にドアを開けて車を降りた。  建物の近くには既に枯れているが小川があったように見受けられる。裏側の森の木々もすべて枯れてしまっているが、昔はとても美しい場所だったのだろう。ユーリは目的の建物に近づくと、入り口を厳重に守備している鎖につけられたダイヤル式のパッドロックを手に取った。勝手知ったるようにパッドロックのフックを上側に引っ張り、3桁のダイヤルのうち下段から合わせ始めた。目を閉じ慎重に回していく。中段、上段も同様に確かめるようにして回すとガチリと重い音がして開錠した。 「鍵の番号を覚えていたのか」  いつの間にかそばに来ていたらしい二コラが感心したように言う。ユーリは目を眇めて二コラを見て、にやりと口元をゆがめた。 「だとしたら俺は相当な記憶力の持ち主だなァ」  その言葉の真意に気づいたのか、二コラの表情が呆れたものへとすり替わる。 「そもそもこのへんで犯罪なんて起きなかったから、鍵なんて掛けたことねぇよ」  ユーリの言っていることが本当だとすると、このパッドロックは軍部が掛けたものか、ノルマ至上主義者が掛けたものかのどちらかに絞られる。二コラはやれやれと言わんばかりの苦い顔をして肩を竦めた。 「いまのは見なかったことにする。もし軍部の警備兵に出くわしたら、ナザリオから番号を聞いたと言え」 「番号なんて誰も知らないって言ってたぞ」  悪びれた様子もなく言ってのけ、ドアハンドルに絡みつくさびたくさりを外していく。片方のドアハンドルにくさりをひっかけてドアを開ける。カビと誇り臭さの混じった独特の臭気が鼻を衝いた。むせかえるようなそれを吸い込むより早くユーリは腕で口と鼻を覆った。  室内は荒らされた様子がなかった。81㎡(約50畳)はありそうな広々とした空間が広がり、右手にはキッチンやキャビネットが、左手には暖炉やソファーが置かれている。奥のほうはデザイン性の高いシェードウォールで仕切られておりわからないが、かなり広い家だ。  生活感の残る部屋に不釣り合いな黒いしみが広範囲にわたって床に広がっている。おそらく血のあとだろう。入り口に向かって這っていったのがわかるほどはっきりと血の痕が残っている。  ユーリはそれにかまわずすたすたと建物に入り、シェードウォールを動かすとその奥に続く部屋へと入っていった。奥は書斎だったのか、空っぽになった本棚がいくつも残っている。奥側にある可動式の本棚の手前側を動かし、ユーリがそこに座り込む。顎に手を当ててなにかを考えるようなしぐさを見せた後、奥行きがかなりある本棚の奥まで四つん這いで入っていった。 「お、おい、ユーリ」 「すまん、ジャンカルロ。外を見張っててくれ。こんな辺鄙な場所に軍用車両が来たと分かれば、警備兵がすぐにでも飛んでくるだろう。調査を任されたとでも言って適当にかわしてほしい」  そう言い残すと、ユーリは首から下げている懐中時計を本棚の奥にあるレリーフに押し付けた。軽快な音のあと、レンガがこすれるような音と共に本棚の奥の壁が動く。ユーリは勝手知ったるように本棚の奥と地下室への階段を隔てる隠し扉を開け、階段を下りて行った。  地下室のなかは相変わらずだった。長い間開けていなかったせいかかび臭くそこらじゅう蜘蛛の巣だらけだが、懐かしい感じがする。地下室の隅に無造作に置かれた毛布は、ここで寝るときに使っていたものだ。傍には愛読していた薬草図鑑がある。 「ずいぶん広い地下室だな」  二コラが下りてきた。ユーリは頷いて埃まみれの薬草図鑑を拾い上げた。 「小さい頃は人見知りで、来客があると決まって相手が帰るまでここに閉じこもっていたんだ。ここには俺の宝物が置いてある」  宝物と言ってもそのほとんどが本だ。なかには子どもらしく木製の船のおもちゃが転がっていて、船体にはへたくそな字で大きくサシャと書いてある。ユーリはそれを懐かしそうに眺めた後で毛布の下に隠された木製のミリタリーボックスの上に置いた。 「それは?」 「今日の目的はこれだ」  明朗に答えるユーリとは逆に二コラは怪訝そうな顔をした。 「確かめたいことがあったのでは?」 「たぶんこれのなかにある。二コラ、悪いけどこれを車に運んでもらえるか? 俺はもう一個大事なものを持っていく」  言いながらユーリが別のミリタリーボックスを手に取った。その上にはいくつもの古ぼけた書物が乗っている。ユーリがミリタリーボックスを次々と地下室の階段に積み上げていく。それをすべて持っていくつもりかという表情の二コラを横目に見て、ユーリはおどけたように肩を竦めた。 「ここは元々俺の家だからな。いまの所有者がどうなっているのかはわからないけど、ナザリオからも少しの荷物なら持ち帰っていいと許可をもらっている」  少しの概念が間違っている気がするがと、二コラ。気にしない気にしないと明るい声で言いながら、ユーリがミリタリーボックスを抱えた。階段を上がり、狭い出入り口から先にミリタリーボックスを出すと、それを押し出すようにしながら四つん這いで外に出る。子どもの頃は難なく通れていたが、やはり大人になると厳しいものがあるなとおどけて言う。先に出入り口を抜けたユーリは二コラに任せたいくつものミリタリーボックスを引っ張りだし、二コラがスムースに通れるようにしてやった。 「ジャンカルロ、これを車まで運んでもらえないか?」 「全部か?」  声をひっくり返し、驚きを隠せない様子で、ジャンカルロ。 「そう、全部」  まだあるけどと言いながら、二コラが地下室から押し出してくるコンテナを2,3箱引きずり出す。ジャンカルロは明朗に笑い、「少しねぇ」と言いながら言われたとおりにミリタリーボックスやコンテナを軍用車へと運んでくれた。  すべてのコンテナを押し出すと、二コラが地下室の入り口から張って出てきた。肩や頭に蜘蛛の巣やほこりが付着している。 「これですべてか?」 「いまのところは」  服をはたいているニコラにご苦労と言い残し、ユーリは再び地下室へと戻った。二コラが後を追ってこないよう、入り口からひょこりと顔をのぞかせる。 「二コラも、ジャンカルロと一緒にコンテナを車に積んでくれないか? さすがにここから逃げやしねえよ」  二コラに揶揄されないように怪しい笑みを深めると、二コラはふんと笑ってコンテナを軽々と抱えた。 「ナザリオにはコンテナをいくつ持ち帰ったと申請すればいい?」  二コラの言葉に、ユーリは驚いたように目を見開いた。まさか二コラが加担してくれるとは思わなかったからだ。すぐに人懐っこい笑みを浮かべ、首を斜めに傾けた。 「最初の薬草図鑑一冊と、船の模型だけ」  さすがの二コラも慌てたような表情になったが、ユーリは前言撤回するなよと笑いながら地下室へと降りた。  毛布で隠されたコンテナやミリタリーボックスはすべて軍用車の移動させた。ほかにもめぼしいものがないかと見回りながら、ユーリは地下室の奥の壁にあるキャンドルホルダーへと近づき、そのホルダーの根元に懐中時計のレリーフを押し付けた。重い金属音のあと、わずかに壁が動く。ユーリは口元をゆがめ、壁の奥へと入った。  奥の部屋は“ユーリ”の研究室だ。無造作に置かれた資料や、瓶に入った薬草などがデスク上に散乱している。ユーリはそれを自分が背負っていた軍用カバンから使い古したレザーホルダーを取り出して、“ユーリ”が残した書類を一枚残らずレザーホルダーに挟み込み、鞄に押し込んだ。デスクに付属している引き出しを開け、中にある書類もすべて別のレザーホルダーに挟み込む。貴重そうな薬品や薬草の類も割れないようにカバンの中にいれていた薬品箱に丁寧に入れていく。その中のひとつに見覚えのあるものがあった。『ソティア』と記されている。ユーフォリアの中和剤だ。部屋の奥の小さな水路で”ユーリ”が栽培していた薬木は、小川が枯れたせいかさすがに枯れていたが、ユーリはいくつかの彼木を鉢ごと抱えて部屋を出た。  ふと車のエンジン音が近づいてくるのに気付いた。ユーリはすぐさま研究室から出ると、キャンドルホルダーをもとの位置に戻し、二コラを呼んだ。地下室を覗いた二コラはユーリが持っているものを目にしてさすがに驚きを隠せない様子だったが、乗り掛かった舟だと言わんばかりにこちらへ寄越せと手を出してきた。鉢をいくつか二コラに渡し、鞄を先に地下室から押し出した後で小さな入り口を滑り出る。本棚の奥の壁を戻し、それが動かないことを確認すると、ユーリは自分が背負っていた軍用カバンもついでに車に持って行ってくれとジャンカルロに押し付けた。  部屋の本棚には何もない。何もないが、――。 「ユーリ、車が来るぞ」  ジャンカルロの声がする。ユーリは生返事をして、空っぽの本棚を少し離れた位置で注視した。自分たちが生かされていた意味。そして“ユーリ”が追われた理由はなんなのか。ここに来ればなにかの手がかりがつかめると思っていたが、思い過ごしだったのだろうか。 「そろそろ離れたほうがいい。おそらく国境警備隊だ」  二コラが声をかけてくる。タイムリミットだ。ユーリは大袈裟なため息をつき、わかったわかったと言いながら踵を返した。ふいにユーリが動きを止めた。見慣れたレリーフが本棚の足元に隠れているのが見えたからだ。 「二コラ」  二コラが不審そうに声をかけてくる。 「帰ったらなんでもする、足止めをしてくれ」  そう言って、ユーリは二コラが止めるのも聞かずに本棚をずらし、懐中時計のレリーフをそこに押し込んだ。可動式の本棚をずらすとレンガ調の壁の奥に部屋があるのが見えた。この部屋に見覚えはない。たぶん入ったこともない。おそるおそるその部屋を覗き込み、ユーリは目を見張った。部屋の奥にあるのは祭壇だ。それも旧王朝の物の作りによく似ている。  さすがにここには何もないだろうと思ったが、用心深い“ユーリ”のことだ。地下室が暴かれた時のためにここになにかを隠しているに違いない。ユーリの読みは当たっていた。薄暗くてよく見えなかったが、床には分厚い本が3冊ほど転がっている。決して几帳面とはいえない“ユーリ”だが、本を床に置くことだけはしなかった。つまりこれは、“ユーリ”が危機を察して投げ入れたものなのではないか。ユーリはそれを別の鞄に押し込んだあと、名残惜しい気持ちを飲み込んで部屋を後にした。  可動式の本棚を戻して玄関まで急いだ。窓から覗き見るとジャンカルロが双眼鏡で国境警備隊と思しき連中の動きを探っているようだ。二コラが軍用車に荷物を積み込んでいるのが見えた。ユーリはシェードウォールを閉め、玄関を出たあとで手早くドアハンドルに鎖を巻きつけてパッドロックを閉め直す。 「ジャンカルロ、連中は?」 「巡回の時間のようだな。廃屋を覗いて回っている」  双眼鏡で様子見をしながら、ジャンカルロ。このあたりはどうしても警備が手薄になりやすい。ゴロツキやレジスタンスの溜まり場になっていないかと注意深く探っているのだろう。ユーリはホッとしたようなため息を付いた。 「ここの国境警備隊に連絡をしていたなかったのかね、ナザリオは」  ぼやくようにジャンカルロが言う。ナザリオに限ってそれはないだろう。ミクシア市からはるか離れた場所に配備されるとしたら、よほど忠誠心が強い者、或いはイル・セーラへの差別意識が強く左遷された者以外いない。リスクを最小限に抑えるためなら寝る間も惜しまないのがナザリオだ。 「ユーリ、荷物はすべて軍用車に置いておけ」  ニコラに指摘され、ユーリはすぐにタクティカルバッグを軍用車の荷台に置いてあった毛布の下に押し込んだ。車のドアを閉め、二コラたちの元に戻るとき、一人の兵士がこちらに歩いてくるのが見えた。不審に思われたのかこちらに向けてアサルトライフルを構えている。 「貴様ら、何者だ」  張りのある野太い声で威嚇するかのように言う。やはりミクシアの軍部の制服を纏っている。腕章はないが煌びやかな装飾が施されたベルトをしており、辺鄙な場所を警備する人間がいかに優遇されているかを見せつけられているかのようだ。いかつい風貌の見るからに疑り深そうな顔の男が野太い眉を跳ね上げてこちらに睨みをきかせてくる。 「ここの現状を確認しておくようにと要請され、赴いた次第です。私はスパツィオ大学栄位クラスのカンパネッリと申します」  ユーリが声を出すよりも早く、ニコラが言う。男は怪訝そうに眉を潜めて鼻で笑った。 「栄位クラスのエリート様がなんの用だ? そのイル・セーラと迷彩服の男も栄位クラスの者か?」 「イル・セーラはそうですが、彼は護衛のために雇った傭兵です。軍部から許可を得てこちらに伺ったのですが、なにか行き違いでも?」  男はなにかを考えるように3人を代わる代わる眺めたあとで、アサルトライフルをおろして背中に背負い直すと、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら近づいてきた。 「ちょうどいい。貴様は残ってこちらの派出所に来い。我らの相手をしろ」  男はユーリのそばまでくると無理やり顎を掴んで顔を上げさせた。  値踏みでもするようにいやらしい視線をユーリに向け、ひゅうと口笛を吹く。 「見覚えがある。C区にいたかなり高値で色を売っていたイル・セーラだな」 「お待ち下さい、彼は私の同僚です。それにイル・セーラへの売春の強要は軍議にかけられ懲罰ものですよ」 「黙れ。イル・セーラごときが栄位クラスに入れるわけがない。どうせ貴様の色なのだろう。  貴様らの命と引き換えだ。そのイル・セーラが進んで抱かれにくるのだから強要にはなるまい」  男はユーリの胸倉をつかみ、顔を近付けた。火薬とタバコのにおいがする。微かにドラッグのにおいも混じっている。ミクシア市には出回っていないタイプの違法薬物かもしれない。 「友人や護衛を死なせたくなければ大人しくこちらに来い。なに、悪いようにはせん」  ユーリは冷めた目で男を見上げて自嘲気味に笑った。 「解放宣言から4年も経っているのに、懲りないことで」  挑発するかのような言い方に男が不快そうに眉を寄せた。 「ふん、そんなものが通用するのは市街だけだ。ここに来るまでに転がっていた同胞のようになりたくなければ、素直に従うんだな」  同胞と言われて、ユーリはまた腹の奥がむかむかとする感覚に襲われた。道中に放置されていた遺体はやはりイル・セーラだったのだ。 「あの遺体はなんの為に? 素直に足を開かなかったからか?」 「それもあるが、――。くく、まあ一種の余興よ」  言って、男はユーリの胸倉をつかんだままひきずるようにしてその場を離れようとした。 「私は軍医団第二部所属のドン・フィオーレから捕縛権を与えられていますので、彼を連行するというのであれば、戦闘も辞さない所存ですが」  二コラが言うと、男はふんと鼻で笑ってユーリの首に腕を回して、首が閉まらんばかりに腕を締めた。 「そこをどけ。なに、これが死のうが俺は構わんぞ。死んでもなお犯す価値があるからな」  言いながら男がユーリの腹部をまさぐる。片手で器用にユーリのベルトを緩めながら男が下品に笑った。 「友人と護衛を死なせたくなかったら、派手に喘いでみせろよ」  ユーリは焦るそぶりなどみせずに口の中で笑うと、男の腿をするりと撫でた。 「人前で抱かれるのは趣味じゃないんだよなァ」  ごくりとつばを飲む音が耳元で響く。 「どうせならふかふかのベッドの上で喘がせてくれよ、あんたのコレで」  言いながらユーリは男の腿、鼠径部、そして股間をするすると撫でる。鼻息を荒くした男はユーリの首から腕を離してユーリの身体を軍用車のボンネットに背中から押さえつけた。 「煽ったのは貴様だぞ。なにをされても文句は言わさんからな」 「煽ったつもりはないけど、その気になったのはあんただろ?  言っておくけど、俺は軍部預かりの身だ。町に戻ったら“何事もなかったか”の身体検査が待っている」 「だからなんだと言うんだ?」 「そっちの二人は規律正しく、俺にハメるはずがない。つまり、だ」  男は舌打ちをしてユーリを解放しようとしたが、なにかろくでもないことを思いついたと言わんばかりの悪意に満ちた笑みを浮かべてユーリの両足を持ち上げた。後頭部を強かにボンネットに打ち付け呻くユーリをよそに、男はユーリのベルトとデニムのトップボタンを外す。 「貴様を犯して殺されるなら悔いはない。ヤリ損ねたのをずっと後悔していたんだ」  なるほど、そうきたかとユーリが口の中で呟く。大人しく引き下がるような相手ではなさそうだったが、思い通りに動いてくれて笑いが出そうになるのを押さえながら、二コラに合図をしようとした時だ。発砲音がした。男から悲鳴が上がり、男がその場に倒れ込んだ。  ジャンカルロが咄嗟にユーリとニコラの前に立ちはだかった。男は左腿を打たれたらしく顔を青くして血が吹き出る傷口を押さえてのたうちまわる。ニコラが止血をしようとしゃがみ込む。ユーリも乱された衣服を整えながら、軍用車の助手席の足元に置いてある処置箱を取ろうと助手席のドアを開けた。処置箱に手をかけた時、別の足音が近づいてくるのが耳に入った。  体を起こし、足元の主を確認する。男と同じ制服を纏う、明らかに不気味な雰囲気の男が近づいてくる。先程男を打ったと思われるハンドガンを右手に。硝煙があがるそれとは不釣り合いなほど臆病そうな風貌だが、目の奥には得体の知れない威圧感がある。 「ユーリ、早く!」  二コラに声を掛けられ、ユーリははたと正気に戻ったように処置箱を開けて、止血帯をアルコールで濡らして二コラに手渡した。 「動くな、失血死するぞ」  痛みに呻き声を上げながらのたうち回る男の腿を押さえつけて止血をしようとするが、男は打たれたことでパニックになっているのか、二コラの声が聞こえていないようだった。 「シレンツィオの量が足りなかったかな」  言いながらユーリが指にはめた指輪を注視する。細工指輪には刺されても痛みを感じない程度の針がついていて、それにはシレンツィオ(即効性の鎮静剤)が塗布してある。武器の携帯を許可されていないユーリがよく使う手だ。 「お、おまえなあっ」 「あーあー、うるせえなァ。ここの警備隊が常識の通用するお上品な連中ならこんなもの仕込んでねえよ」  さっきの礼だと、ユーリがシレンツィオが染み込んだガーゼで男の鼻と口を覆う。うめき声をあげながら暴れていたが、ものの数秒で大人しくなった。ユーリはもう一度指輪を見下ろして、くそったれがとパラロッチャを吐き捨てる。 「とんだ不良品じゃねえか」  次に見つけたら問い詰めてやると口の中で呟くユーリを庇うようにジャンカルロが立ちはだかる。先ほどの男がすぐそばまでやってきているのだ。 「軍医団二部所属のドン・フィオーレから入構許可を頂いているんだが、そちらに通知は行っていなかったか?」  ジャンカルロが不審そうに話しかける。すると男は倒れている男に鋭い視線を浴びせた後でジャンカルロに視線を戻した。 「部下が失礼しました。二度と粗相のないよう躾けておきますのでどうぞご容赦ください」  冷静な口調がなんとも言えない不気味さを醸し出す。躾けるもなにも、腿の動脈を銃で狙うなど殺意があったとしか思えない方法だ。緊張が走る。ジャンカルロはユーリに車に乗るよう手で合図をする。 「軍医団二部所属のドン・フィオーレ、並びに軍医団長であるドン・クリステンから無線が入っていましたが、生憎彼はこちらの車両が賊軍のものではないかと疑っておりましたので」 「賊軍?」  二コラが問うと、男はええと表情ひとつ変えずに言う。 「最近パドヴァンの西の孤島を経由し、フィッチからこちらに違法薬物を密輸する輩がいるのです。貴方がたも道中に転がされていた遺体を見たでしょう? その賊軍を手引きしたイル・セーラの遺体です」  男の視線はジャンカルロや二コラではなく、ジャンカルロの陰に隠れているユーリに向いている。まるで試すかのようなセリフだ。そんなのは嘘だと言いたかったが、男の不気味な雰囲気のせいか言葉が出て行かない。 「彼が私に隠れて吸っていたであろう葉巻も、その違法薬物で作られたものでして。困ったものですよ」    言って、男が手にしていたハンドガンを構えた。  警戒したジャンカルロがすぐさまレッグホルスターの銃に手をかけたが、男のハンドガンの照準は倒れた男に向いている。二コラが止める間もなく、無表情のままで男のこめかみに銃口を押し付けた。 「イル・セーラへの性的暴行は収監対象、違法薬物の使用は処刑だ。貴様が余計なことをすると私の査定がさがる」  無能は要らん。そう聞こえたと同時に銃声がした。血飛沫が上がる。男は返り血を浴びたまま立ち上がり、まだ硝煙立ち込める銃を男に向かって投げた。 「不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。処置に使われた物品費の請求は、ドン・コスタ隊にお願いします」  男を悼む様子もなく言ってのける。さすがの二コラも面食らったのか、二の句を継げない様子だ。 「おや、そちらのイル・セーラは」  男がユーリへと向き直った。香り高い香のようなオリエンタルなにおいがする。風向きのせいか先ほどまでそんなに香らなかったが、嫌味のないそれが鼻をくすぐる。ユーリは突然背中に氷でも入れられたかのようにダイレクトな寒気を感じた。足の先まで凍りつくような感覚。突如として嘔気が押し寄せ口元を押さえた。  ジャンカルロがいち早く異変に気付いた。ユーリへと振り返り、肩を抱いて震えるユーリに声をかけた。 「どうした?」  声が出ない。ユーリは首を横に振ってジャンカルロにしがみついた。ぐいぐいと腕を引き車に戻ろうと催促をする。ジャンカルロは的を射ない様子で目を白黒させながら頭をかいた。 「すまないが仲間の気分が優れないようだ。いまのはさすがに刺激が強かったのかも知れない」  暗に男を非難するように言いながらジャンカルロがユーリを庇うように抱きしめる。震えが止まらない。目の前で人が死ぬことなど慣れているはずだし、血も見慣れているはずだ。それなのにこんな拒絶するかのような反応はおかしすぎる。ニコラもまた異変に気づいたようにユーリを見やり、長居は禁物だと悟ったのか男に向けて敬礼をした。 「一刻も早く彼を休ませたいのでこのあたりで失礼します。市街に戻るまでに半日以上かかりますので」 「そうですか。気分を害するようなものを見せてすみませんでした。仲間の死を思い出させてしまったのかもしれませんね」  言いながら男がユーリの肩に手を伸ばしてくる。途端に大袈裟なほど身体が跳ねた。ひゅっと喉が鳴る。首を絞められたかのような息苦しさと不快感が押し寄せてきたと同時に、目の前が暗転した。

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