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Three(1)

 ナザリオは有言実行だった。  フォルスの遺構への入構許可が下りたのは、昨晩のことだ。許可証が二コラのもとに届けられ、ユーリに知らされた。ユーリはさっそく学長に交渉をし、フォルスの遺構に赴くことにした。  フォルスの遺構まで車で約16時間。天候や路面状況によっては18時間近くかかる。朝4時に市街を出発してはや10時間が経っていた。  本当ならナザリオに軍用車両で送ってもらう予定だったが、急遽外せない用ができたとこちらが申し訳なくなるほど謝罪され、その代わりに数日前にやっとミクシアに戻ってきたジャンカルロが護衛につくこととなった。ナザリオの計らいで幹部クラスしか乗れない軍用車を借りることができたのはラッキーとしか言いようがない。もちろん運転はジャンカルロだ。ユーリと二コラは広々とした軍用車両の後部座席に座り、ミクシアとは全く異なる風景を眺めていた。  ユーリの生まれ故郷のフォルス村は隣国・パドヴァンとの国境付近にある。パドヴァンは周辺国の中でも最も国力が低く財源も少ない。貧富の差も激しく内紛が絶えないと聞く。そのためかパドヴァンとの国境付近ともなると相当に辺鄙など田舎だ。ミクシア市街ではあり得ないほど牛や羊が放牧されている。あまりに長閑な光景を懐かしく思えてきて、ユーリは車の窓から身を乗り出した。 「おい、子どもじゃないんだから妙なはしゃぎ方をするな」  すぐさまニコラに襟元を掴まれて車の中に押し込められる。ユーリは不満げにニコラへと振り返ったが、見知った風景に歓喜の声をあげながら窓の外へと視線を戻した。 「あそこに村があるだろう、隣村と言いつつ20kmは離れてて、子どもの頃あそこに行くだけで小旅行気分だったんだ」  崖下に小さく見える村を指さしながら。珍しくユーリの声が弾む。無邪気にはしゃぐような姿を見るのは二コラやジャンカルロにとっては初めてだった。 「そんなに喜ぶ姿が見られるなら請け負って正解だったな。スカリア隊との一悶着があって以来妙に大人しかったと聞いていたから、心配していたんだぞ」  ジャンカルロがこちらへと振り返り、明朗に言う。二コラから「前を向け」と手厳しく突っ込まれても気にしない大らかさにずいぶんと救われた気がする。二コラと二人ではおそらくケンカばかりしていただろう。ユーリは眉を下げて笑った。 「ちょっと調べたいことがあったんだ。秘密裏に動いている時にピエタに取っ捕まりでもしたら、いろいろと困るじゃないか」  いけしゃあしゃあと言ってのけると、ジャンカルロが肩を揺らして笑った。 「ははは、大したやつだ」 「あまり調子づかせてくれるな、ジャンカルロ。ユーリのそれは性根が入らないと言うんだ」 「あっ、あそこの森にビターオレンジが自生してるんだ。帰りにちょっと寄っていこうぜ」  無邪気な声で、ユーリ。二コラはもはや返事をしなかった。呆れかえったような視線をよこし、白けた表情を隠そうともしない。 「なに、せっかくの休暇を俺に取られて怒ってんの?」  二コラに問う。風でなびく髪を結いなおしながら二コラを注視していると、やがて二コラは面倒くさそうに眉を顰めて、目的地までの地図に視線を落とした。 「そうではない。おまえこそフォルスに行きたがった理由を話さないだろう」 「それはさァ、ナザリオの手前言えないじゃん」  二コラの眉間の皺が深くなる。 「ほら、怒ってる。それとも、頼ってもらえなくて拗ねてんのかァ?」  冗談めかして言ったが、二コラは取り合いもせずに、地図に視線を落としたままジャンカルロに道順を指示する。 「怒っていないと言っているだろう。もしそうなら着いてこない。そもそもこれはナザリオから正式に依頼された俺の仕事でもある」 「休日にまで仕事かよ。ワーカホリックまっしぐらなんじゃねえの?」  茶化すようにユーリが言う。二コラがワーカホリック気味なのはユーリのチームメイトはみな感じていることだ。今回の休暇だって、働きすぎの二コラを心配したキアーラが二コラが休暇を取るための口実を作った。7月末にはキアーラが退職し、取れるはずの休暇がより取りにくくなる。それならいまのうちに各自1週間の休暇を取るようにというキアーラからの配慮という名の命令に近い。はじめは難色を示していた二コラだったが、「チームリーダーには逆らうなといつも自分が言っているくせに」とユーリとサシャとリズで散々言いくるめた結果、渋々休暇を取ることを了承したのだった。  二コラはユーリの挑発には乗らず、冷静な口調でジャンカルロにフォルスの遺構までの道筋を伝える。かの地が封鎖されて8年。軍部ですら国境警備兵数人しか近寄らないような場所だ。土砂崩れのあとすら補修されておらず、そこいらにむき出しの岩がある。悪路以外たとえがあるならばそちらを使いたくなるような、通常の悪路がかわいく見えるほど未整備の道がかれこれ数時間続いている。  不意になにかに乗り上げた。車体が大きく揺れる。ハンドルを取られかけたジャンカルロが慌てて軌道修正をしてブレーキを踏んだ。すぐ脇は断崖絶壁。下手をすれば谷底に真っ逆さまだった。 「あ、あっぶねえな。なんだ、いまの」  ブレーキを踏んで車を停め、ジャンカルロが身を乗り出して確認する。舌打ちが聞こえた。 「なあ、いまの」  見るなと険しい声でけん制される。すぐさま身を乗り出して後ろを確認しようとした。二コラが無言で服を引っ張ってきたが、ユーリは負けじと身を乗り出す。そこにあったのは遺体だった。ここを通る車に何度も轢かれたのだろう。かなり無残なことになっている。腐乱していいてノルマなのかイル・セーラなのかも区別がつかないが、遺体の頭もとには古ぼけた杭が打たれており、『奴隷の末路』と書かれたプレートがひっかけられていた。  胸の奥がムカムカとする感覚に襲われる。ユーリは車を出ようとドアレバーに手を掛けたが、ジャンカルロから厳しい口調で止められた。 「言いたいことはわかる。気持ちもわかる。だが手を出すな。それがこの国で生きていくということだ」  ユーリは答えなかった。車のシートに乱暴に体をうずめ、日よけのために持ってきていたキャップを目深にかぶった。ジャンカルロが車のエンジンをかけなおし、無言のまま発進すると、少しでも早くその場から離れるためかスピードを上げた。  ***  フォルスの遺構に着くまでの間、3人は無言だった。あのあと同様のいくつもの遺体を見つけた。真新しいものから白骨化したものまであった。なんのためのあのような処刑をしたのかと問いただしたくなるような凄惨さにさすがのユーリも冗談をいう気分ではなかった。  フォルスの遺構への軍用車の立ち入りは通常禁止だが、今回は特例として認められている。あくまでも軍部の保護下にあるイル・セーラ――つまりユーリの安全を考慮するためだ。  フォルスの遺構の一番奥。小高い丘の上にある、コンクリート製の建物の前に車をつけるよう指示し、ユーリは遺構の建物を白けた表情で眺めていた。煤けてところどころひびが入っているが手入れをすればまだ住めるほど原形をとどめている。建物の基礎が頑丈なのか、ほかの建物も全壊しているものはほぼ見られない。  ただ、村の入り口近辺にある、子どもの頃によく遊んでいた湖は枯れているし、誰がどんな目的で作ったのかわからないストーンヘンジも破壊されていた。正直に言ってどのような景色だったのかをサシャほど覚えてはいない。だから悲しいともなんとも思わなかった。遺構とは名ばかりだなと揶揄するように呟いて、かぶっていたキャップを脱いで車内に設置されているフックに掛けた。 「どこに住んでいたかは憶えているんだな」  二コラに問われ、ユーリは不満げな表情で二コラに視線だけを向ける。 「覚えてなきゃ、来たいって言わないだろ」  不機嫌さと不快さをそのままぶつけるような声色で吐き捨てる。ユーリと二コラの間に火花が飛び散りそうなことを悟ったのか、「そうカリカリするなよ」とジャンカルロが苦笑を漏らす。ひりひりと焼け付きそうな雰囲気をそのままに、ユーリはふんと鼻を鳴らして、車が止まったと同時にドアを開けて車を降りた。  建物の近くには既に枯れているが小川があったように見受けられる。裏側の森の木々もすべて枯れてしまっているが、昔はとても美しい場所だったのだろうと想像できる。辛うじて、崖から見える滝は生きているが、まるでいまのフォルス村の現状を反映しているかのように、細々としたものだった。  ユーリは目的の建物に近づくと、入り口を厳重に守備している鎖につけられたダイヤル式のパッドロックを手に取った。勝手知ったるようにパッドロックのフックを上側に引っ張り、3桁のダイヤルのうち下段から合わせ始めた。目を閉じ慎重に回していく。中段、上段も同様に確かめるようにして回すとガチリと重い音がして開錠した。 「鍵の番号を覚えていたのか」  いつの間にかそばに来ていたらしい二コラが感心したように言う。ユーリは目を眇めて二コラを見て、にやりと口元をゆがめた。 「だとしたら俺は相当な記憶力の持ち主だなァ」  その言葉の真意に気づいたのか、二コラの表情が呆れたものへとすり替わる。 「そもそもこのへんで犯罪なんて起きなかったから、鍵なんて掛けたことねぇよ」  ユーリの言っていることが本当だとすると、このパッドロックは軍部が掛けたものか、ノルマ至上主義者が掛けたものかのどちらかに絞られる。二コラはやれやれと言わんばかりの苦い顔をして肩を竦めた。 「いまのは見なかったことにする。もし軍部の警備兵に出くわしたら、ナザリオから番号を聞いたと言え」 「番号なんて誰も知らないって言ってたぞ」  悪びれた様子もなく言ってのけ、ドアハンドルに絡みつくさびたくさりを外していく。片方のドアハンドルにくさりをひっかけてドアを開ける。カビと誇り臭さの混じった独特の臭気が鼻を衝いた。むせかえるようなそれを吸い込むより早くユーリは腕で口と鼻を覆った。  室内は荒らされた様子がなかった。81㎡(約50畳)はありそうな広々とした空間が広がり、右手にはキッチンやキャビネットが、左手には暖炉やソファーが置かれている。奥のほうはデザイン性の高いシェードウォールで仕切られておりわからないが、かなり広い家だ。  生活感の残る部屋に不釣り合いな黒いしみが広範囲にわたって床に広がっている。おそらく血のあとだろう。入り口に向かって這ってきたのか、それとも引きずられてきたのかがわかるほどはっきりと血の痕が残っている。  ユーリはそれにかまわずすたすたと建物に入り、シェードウォールを動かすとその奥に続く部屋へと入っていった。奥は書斎だったのか、空っぽになった本棚がいくつも残っている。奥側にある可動式の本棚の手前側を動かし、ユーリがそこに座り込む。顎に手を当ててなにかを考えるようなしぐさを見せた後、奥行きがかなりある本棚の奥まで四つん這いで入っていった。 「お、おい、ユーリ」 「すまん、ジャンカルロ。外を見張っててくれ。こんな辺鄙な場所に軍用車両が来たと分かれば、警備兵がすぐにでも飛んでくるだろう。調査を任されたとでも言って適当にかわしてほしい」  そう言い残すと、ユーリは首から下げている懐中時計を本棚の奥にあるレリーフに押し付けた。軽快な音のあと、レンガがこすれるような音と共に本棚の奥の壁が動く。ユーリは勝手知ったるように本棚の奥と地下室への階段を隔てる隠し扉を開け、階段を下りて行った。  地下室のなかは相変わらずだった。長い間開けていなかったせいかかび臭くそこらじゅう蜘蛛の巣だらけだが、懐かしい感じがする。地下室の隅に無造作に置かれた毛布は、ここで寝るときに使っていたものだ。傍には愛読していた薬草図鑑がある。 「ずいぶん広い地下室だな」  二コラが下りてきた。ユーリは頷いて埃まみれの薬草図鑑を拾い上げた。 「小さい頃は人見知りで、来客があると決まって相手が帰るまでここに閉じこもっていたんだ。ここには俺の宝物が置いてある」  宝物と言ってもそのほとんどが本だ。なかには子どもらしく木製の船のおもちゃが転がっていて、船体にはへたくそな字で大きくサシャと書いてある。ユーリはそれを懐かしそうに眺めた後で毛布の下に隠された木製のミリタリーボックスの上に置いた。 「それは?」 「今日の目的はこれだ」  明朗に答えるユーリとは逆に二コラは怪訝そうな顔をした。 「確かめたいことがあったのでは?」 「たぶんこれのなかにある」  二コラの眉間の皺が深くなったのを笑いながら、ユーリが大袈裟に両手を広げて見せた。 「だってああでも言わなきゃフォルスに来られないじゃん」 「サシャは燃やされたと言っていなかったか?」 「そう、燃やされたの。上の本棚にあったダミーの本は」  「アレだってそれなりに貴重な本だったのに」と笑うユーリの前に二コラが勢いよくしゃがみこんだ。 「こんな大量の本をどうやって申請しろというんだ?」 「申請?」 「ここから持ち帰ったものはすべて報告するようにと言われている」  ユーリは驚いたような顔で二コラを見下ろし、短い髪をわしわしと両手で乱した。 「言わなきゃいいんじゃん」 「言うと思ったが、それはできない」 「じゃああっち行ってて。見なきゃいい」 「絶対になにかするつもりだろう」  「まさか」と笑いながら、ユーリが演技がかった表情で頭を斜めに傾けた。 「そもそも政府が俺がここに来ることを許可したのは、『ここにフェルマペネムの調合法が置いてあるかもしれない』って下心があったからこそ、すべて報告をしろって言ったわけだろ?  サシャが言っていたように、ないと思うよ。“ユーリ”ってさ、俺が言うのもアレだけど、俺が二人分いるんじゃないかって思うくらい大雑把だし、そもそもたぶんアルマの特効薬程度がすごいものだなんて思っていない。あんなの、“ユーリ”にとっては4割くらい効くそこそこのものっていう認識だったんでしょ。  だから書き残していないし、情報をほいほい軍部に渡しちゃって狙われたんじゃないかって、俺はそう思っているんだけど」  二コラが目を見張った。 「あの薬効で? とすると、この本の中にはフェルマペネム以上に薬効がある薬の調合法が書かれている可能性がある、と?」 「そう。興味ない?」  「おんなじ専門分野じゃん」と甘えた声で二コラに問う。 「例えばだけど、モルフィンとかステアゾラム以上の麻酔薬の応用薬があるかもしれないし、俺が覚えているのは、このミリタリーボックスの中のどれかに、いまはもう作れない『ヴィンコール』の調合法があるはず」  「気になるだろう、麻薬医さん」と強かそうな笑みを深めて言ってのける。二コラはしゃがみ込んだまま両手で顔を覆ったあとで、聞いたこともないような大きな溜息を吐いた。 「どこまで見て見ぬふりをできるかは保証しないぞ」  かなりの沈黙の後で、喉の奥から声を絞り出すかのように二コラが言った。責務と興味との間で気持ちが揺れ動き、葛藤していたのだろう。その言葉を聞いて、ユーリはやったと声を弾ませた。 「さすがニコラ。気になるよなァ、俺だって気になる。もしコンフェジオン以上の麻酔薬があるとしたら、それを仕込んで東側に行けば怖いものなしじゃん」  からりと笑いながら言うと、二コラにデニムの裾を掴まれた。 「そういった用途に使うなら協力しないぞ」 「え、じゃあ俺がまたマワされてもいいっていうの?」 「そもそも一人で東側のスラムに降りる前提で話しているだろう」  そうだけどと、ユーリがきょとんとした顔で言う。 「だってナザリオが来たらみんな蜘蛛の子を散らすみたいに逃げちゃうし、なんかしらんけどみんなあんたのことも怖がってるじゃん。ジャンカルロが着いてきてくれる時以外、まともな診療できなくて困ってんだけど」  いけしゃあしゃあと言ってのける。でもと口元に手を宛がった。 「どのルートから情報が流れるかわからないから、しばらくは大人しくしておく」  にひっと笑ってみせると、二コラが「しばらく」と反芻して、また溜息を吐いた。 「キアーラが退職するまでは大人しくしておくように」 「ええっ、7月末じゃん! 何か月あると思ってんだよ」  ハロじいちゃん死んじゃうじゃんと大袈裟な声を上げる。産まれたばかりの子どももいるし、ネイロとアリエッテだって完全に治っているわけではない。それ以外にも大病ではないけどへんな中毒症状を起こしている人はたくさんいるから、一週間降りていないだけでもものすごく我慢しているほうだと告げると、二コラは苦い顔をそのままにすっくと立ちあがった。 「わかった、その本を貸してくれるなら付き合ってやる」  ユーリが人懐っこい笑みを浮かべて二コラに勢いよく抱き着いた。 「それでこそニコラ」  でもまあ、たぶん読めないけどねとは言わない。ユーリとサシャがナチュラルにノルマ語をしゃべっていることもあり、二コラは通常のイル・セーラとは言語が異なることを失念しているようだ。翻訳を引き合いに出して別のことをお願いしようと心の中で企みながら、手前にあるミリタリーボックス以外にも存在している、別のミリタリーボックスに引っかけられた毛布を剥ぎ取って回った。二コラがおいと後ろから突っ込んでくるが、無視だ。 「読みたいんでしょ、“ユーリ”が書いた本」  にいっと笑みを深める。二コラは天を仰いでノルマ独特のパラロッチャを吐き捨てたあとで舌打ちをした。 「わかった、俺の負けだ。人の好奇心を煽るようなことばかり言いやがって」 「人のせいにしないでくれる? 負けて煽られたのは自分じゃん」 「おまえは医師じゃなきゃペテン師にでもなっていたかもしれないな」 「二コラ、これ持ってって」  ニコラの嫌味には取り合わず、ユーリが先ほどのミリタリーボックスの上に別のミリタリーボックスを重ねていく。その上にいくつもの古ぼけた書物を乗せ、「落とさないでね」と注意を促す。  呆気にとられたような表情の二コラをよそに、ユーリはミリタリーボックスを次々と地下室の階段に積み上げていく。それをすべて持っていくつもりかという表情の二コラを横目に見て、ユーリはおどけたように肩を竦めた。 「ここは元々俺の家だからな。いまの所有者がどうなっているのかはわからないけど、ナザリオからも少しの荷物なら持ち帰っていいと許可をもらっている」  「少しの概念が間違っている気がするが」と、二コラ。「気にしない気にしない」と明るい声で言いながら、ユーリがミリタリーボックスを抱えた。階段を上がり、狭い出入り口から先にミリタリーボックスを出すと、それを押し出すようにしながら四つん這いで外に出る。子どもの頃は難なく通れていたが、やはり大人になると厳しいものがあるなとおどけて言う。先に出入り口を抜けたユーリは二コラに任せたいくつものミリタリーボックスを引っ張りだし、二コラがスムースに通れるようにしてやった。 「ジャンカルロ、これを車まで運んでもらえないか?」 「全部か?」  声をひっくり返し、驚きを隠せない様子で、ジャンカルロ。 「そう、全部」  まだあるけどと言いながら、二コラが地下室から押し出してくるコンテナを2,3箱引きずり出す。ジャンカルロは明朗に笑い、「少しねぇ」と言いながら言われたとおりにミリタリーボックスやコンテナを軍用車へと運んでくれた。  すべてのコンテナを押し出すと、二コラが地下室の入り口から張って出てきた。肩や頭に蜘蛛の巣やほこりが付着している。 「これですべてか?」 「いまのところは」  服をはたいているニコラにご苦労と言い残し、ユーリは再び地下室へと戻った。二コラが後を追ってこないよう、入り口からひょこりと顔をのぞかせる。 「二コラも、ジャンカルロと一緒にコンテナを車に積んでくれない? さすがにここから逃げやしねえよ」  二コラに揶揄されないように怪しい笑みを深めると、二コラはふんと笑ってコンテナを軽々と抱えた。 「ナザリオにはコンテナをいくつ持ち帰ったと申請すればいい?」  二コラの言葉に、ユーリは驚いたように目を見開いた。まさか本当に二コラが加担してくれるとは思わなかったからだ。すぐに人懐っこい笑みを浮かべ、首を斜めに傾けた。 「最初の薬草図鑑一冊と、船の模型だけ」  さすがの二コラも慌てたような表情になったが、ユーリは前言撤回するなよと笑いながら地下室へと降りた。  毛布で隠されたコンテナやミリタリーボックスはすべて軍用車の移動させた。ほかにもめぼしいものがないかと見回りながら、ユーリは地下室の奥の壁にあるキャンドルホルダーへと近づき、そのホルダーの根元に懐中時計のレリーフを押し付けた。重い金属音のあと、わずかに壁が動く。ユーリは口元をゆがめ、壁の奥へと入った。  奥の部屋は“ユーリ”の研究室だ。無造作に置かれた資料や、瓶に入った薬草などがデスク上に散乱している。ユーリはそれを自分が背負っていたタクティカルバッグから使い古したレザーホルダーを取り出して、“ユーリ”が残した書類を一枚残らずレザーホルダーに挟み込み、鞄に押し込んだ。デスクに付属している引き出しを開け、中にある書類もすべて別のレザーホルダーに挟み込む。貴重そうな薬品や薬草の類も割れないようにカバンの中にいれていた薬品箱に丁寧に入れていく。その中のひとつに見覚えのあるものがあった。『ソティア』と記されている。ユーフォリアの中和剤だ。部屋の奥の小さな水路で”ユーリ”が栽培していた薬木は、小川が枯れたせいかさすがに枯れていたが、ユーリはいくつかの枯れ木を鉢ごと抱えて部屋を出た。  ふと車のエンジン音が近づいてくるのに気付いた。ユーリはすぐさま研究室から出ると、キャンドルホルダーをもとの位置に戻し、二コラを呼んだ。地下室を覗いた二コラはユーリが持っているものを目にしてさすがに驚きを隠せない様子だったが、乗り掛かった舟だと言わんばかりにこちらへ寄越せと手を出してきた。鉢をいくつか二コラに渡し、鞄を先に地下室から押し出した後で小さな入り口を滑り出る。本棚の奥の壁を戻し、それが動かないことを確認すると、ユーリは自分が背負っていたタクティカルバッグもついでに車に持って行ってくれとジャンカルロに押し付けた。  部屋の本棚には何もない。何もないが、――。 「ユーリ、車が来るぞ」  ジャンカルロの声がする。ユーリは生返事をして、空っぽの本棚を少し離れた位置で注視した。自分たちが生かされていた意味。そして“ユーリ”が追われた理由はなんなのか。ここに来ればなにかの手がかりがつかめると思っていたが、思い過ごしだったのだろうか。 「そろそろ離れたほうがいい。おそらく国境警備隊だ」  二コラが声をかけてくる。タイムリミットだ。ユーリは大袈裟なため息をつき、わかったわかったと言いながら踵を返した。ふいにユーリが動きを止めた。見慣れたレリーフが本棚の足元に隠れているのが見えたからだ。 「二コラ」  二コラが不審そうに声をかけてくる。 「帰ったらなんでもする、足止めをしてくれ」  そう言って、ユーリは二コラが止めるのも聞かずに本棚をずらし、懐中時計のレリーフをそこに押し込んだ。可動式の本棚をずらすとレンガ調の壁の奥に部屋があるのが見えた。この部屋に見覚えはない。たぶん入ったこともない。おそるおそるその部屋を覗き込み、ユーリは目を見張った。部屋の奥にあるのは祭壇だ。それも旧王朝の物の作りによく似ている。  さすがにここには何もないだろうと思ったが、用心深い“ユーリ”のことだ。地下室が暴かれた時のためにここになにかを隠しているに違いない。ユーリの読みは当たっていた。薄暗くてよく見えなかったが、床には分厚い本が3冊ほど転がっている。決して几帳面とはいえない“ユーリ”だが、本を床に置くことだけはしなかった。つまりこれは、“ユーリ”が危機を察して投げ入れたものなのではないか。ユーリはそれを別の鞄に押し込んだ。  地下室とは異なる空気が漂っている。室内はかび臭いが、それとはべつの風がどこかから吹き込んでいることに気づく。その風は祭壇から吹いてきているように感じる。この古ぼけた祭壇は、なにを意味しているのだろうか。なにを告げたいのだろうか。ユーリは風化してところどころ崩れている、イル・セーラの象徴的な女神像に手を触れた。 女神像の足元に、見知ったレリーフが刻印されていることに気づく。ユーリはそれを指でなぞったあとで別の手を口元に宛がった。  そういえば、幼い頃不思議に思っていたことがある。夜も更けたころに“ユーリ”を尋ねてきた相手がいたが、外は大雨が降っていたというのに足元が少しも濡れていなかった。ユーリはサシャと一緒に“ユーリ”の寝室で眠ることが多かったが、その日は遊び疲れてリビングで眠っていたし、途中で雷の音に驚いてサシャにしがみついて怯えていた。それなのに彼はいつのまにか室内にいた。眠っていたサシャとは違い、毛布にくるまっていた自分の耳に、玄関のドアが開く音は聞こえなかった。  あれは、もしかして、――。ユーリがレリーフに懐中時計を合わせようとした時だ。 二コラが焦れたように呼ぶ声がした。もう少し調査をしてみたかったが、警備隊にこの場所が露見するのは頂けない。名残惜しい気持ちを飲み込んで、ユーリは部屋を後にした。

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