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three(2)
目を覚ますと、目の前に二コラの顔があった。ずっと抱き締められていたようだ。目を瞬かせ、二コラの寝顔を凝視する。喉と胸に違和感がある。微妙に痛む頭を押さえ、ユーリは意識が飛ぶ前のことを反芻した。
あれはなんだったのだろうか? 想定外だ。そもそもあんな不気味な男に見覚えはない。見覚えはないが、——。
鼻につくあのにおいを思い出したらまた嘔気がぶり返して来た。口元を押さえる。何度もえずくが吐くまでには至らない。また凍りつくような寒気が襲ってくる。
「大丈夫、ゆっくりと呼吸をして」
耳慣れない声に、ユーリは身体が跳ねるほど驚いた。声の主はユーリとは異なりややオレンジがかった茶色の髪にルビーのような赤い瞳をもつイル・セーラだ。ユーリは突然現れたイル・セーラの存在が理解できずに起き上がろうとしたが、二コラに抱きつかれているせいで身動きが取れない。
「えっ、はっ!? なんでっ!?」
ユーリにしては焦りの色が濃い声色で、声を上ずらせながら。二コラの腕の中で暴れたせいか、二コラが唸り、迷惑そうな声でうるさいと注意された。
「離せって、二コラ! 俺たち以外のイル・セーラがいる!」
今度は期待に胸を膨らませたような弾んだ声だ。二コラを起こそうと何度も頬を叩く。よほど疲れているのか、二コラは一向に目を覚ます気配がない。ユーリは自分の身体に絡む二コラの腕からすり抜け、ようやく体を起こした。
「急に体を動かさないほうがいい。フォルスの遺構に赴いたと聞いたよ。なにか嫌な記憶を想起したのかもしれない」
そう言われて、ユーリはどこか納得したようになるほどと頷いて、まだ違和感のある胸をさすった。
「きちんと呼吸ができているなら問題ない。もしまた同じような症状が起きたら、これを」
そう言って、男がユーリにピルケースを手渡した。
「これは?」
「君は“ユーリ”の息子だろう? 父親がいつも使っていたものすら記憶にないのか?」
ユーリは申し訳なさそうに眉根を下げて、小さく頷いた。
「収容所に行く前とか、収容されている最中とか、ところどころ記憶がなくて」
「じゃあ俺のことも覚えていないのか。”ユーリ”とは旧知の仲だったし、君が小さい頃に何度も会っているんだが」
困ったなと男がぼやき、はらりと一房垂れた髪を撫でつける。
オレンジがかった茶色の髪のイル・セーラ。子どもの頃に会っているとしたら少しくらいは記憶に残っていてもいいはずだが、まったくと言っていいほど覚えていない。“ユーリ”と懇意だったなら紹介くらいはされているだろうし、そのうえで苦手だと思って隠れていたのか、それとも収容所に行くまでの数か月間に知り合った間柄なのか。あまりに注視していたからか、やがてユリウスは軽く肩を竦めてみせた。
「そう警戒しないでくれ。俺はユリウスだ。ユリウス・シャルトラン……という名にも聞き覚えはないか?」
そう言われて、ユーリは素直に頷いた。聞き覚えがないどころか、はじめて聞く名だ。“ユーリ”の親友の名ではない。彼は確かクロードだったし、自分たちとコバルトブルーの瞳だった。魚を釣るのが上手で、裏の小川や村から少し離れた川に時々釣りに連れて行ってくれていたのを覚えている。
「よく土産も持って行っていたんだが」
土産と反芻して、ユーリはあっと声を上げた。
「え……っと、もしかして船の模型くれたおじさん?」
そう尋ねると、ユリウスが安堵したような息と共に思い出してくれたかと笑った。
「そうだ、船の模型のおじさんだ。君は自分が薬草図鑑が欲しいと言っておきながら、サシャの船の模型を気に入ってしまってよく取り合いをしていただろう」
くっくっと楽しそうにユリウスが笑う。ユーリもつられてそうだったと気恥しそうに笑った。
そう言って、船の模型をくれた人はどんな容姿だったかを思い出す。本当に彼だったのかは覚えていない。外部からフォルスに来る知人は数多くいたが、大体がお忍びで来るために土産を持参するのはそう多くないからだ。
ユーリはベッドの枕元に置かれたコットンを手に取ってにおいをかいだあと、どこか困ったように肩を竦めた。気付けに使う香木の香りに交じって安定効果の高い香木の香りがする。ブラックアウトした後で暴れでもしたのだろうかと考える。
「しっかし。まさかこの俺に”繊細さ”なんてものが残っていたなんて考えもしなかった。
自分でも気づかなかっただけでダメージを受けていたんだろうか」
俺の辞書に繊細なんて言葉はないはずなんだがと独り言を言いながら口元を触る。
「香りは記憶と結びつきがあるともいわれます。なので特定のにおいを嗅いだことでその時に抱いた感情と記憶を呼び起こしたのではないでしょうか」
「…ああ、なんかそういう論文を読んだ記憶があるような気がする」
そう言いながらもユーリは信じられないとばかりに唸っている。
「ところで、フォルスには何をしに?」
不意に問われ、ユーリは目を瞬かせてユリウスを注視した。髪の色や目の色は違うが、肌の色や薬草に詳しいことから察するにイル・セーラに違いはないだろう。ただ、なぜ彼は“無事”なのか。奴隷解放のあとでフォルス周辺に移り住んだのか、それとも最初から収容されなかったのかで出方が変わってくる。
本来イル・セーラは疑り深い。ユーリがイル・セーラにしては珍しく明け透けで人懐っこい性格をしているだけだ。同族を疑いたくはないが、収容所でも仲間を売るイル・セーラがいたことを思い出し、反射的に警戒心が生まれる。ユーリは気分が優れないふりをしてベッドに横たわった。
「思い出したら吐き気してきた」
気持ち悪いと呻いて見せる。足音が近づいてくる。そうかと思うとするりと背中を撫でられた。
「事の次第は横に眠っている彼に聞いた。俺が収容されなかったイル・セーラだということも、どうやら覚えていなさそうだな」
されなかった? 不審そうにユリウスを腕の隙間から覗き見る。どうしたものかなと言いながらユーリの背中を撫でていたユリウスは、ふと思い出したようにユーリの背中をぽんぽんとたたいた。
「C区……いや、F区の収容所だったかな、13歳未満の収容所は。そこでアプフェルシュトゥルーデルを食べたことを覚えていないか?」
「F区?」
ユーリが不審そうに言ったからだろう。ユリウスはだめかと苦笑しながら前髪を掻き上げた。
ユーリはそもそも自分がC区にいた時のことしか覚えていない。F区があったとは驚きだ。毎日性的なことを仕込まれていたのは断片的に覚えているが、それがF区のことなのだろうか。
「俺は国医で、オレガノ出身だということもあり収容されなかった。代わりに言語の異なるフォルスのイル・セーラたちの通訳をしていたのだが」
「あァ、もしかして初めて客を取らされた後にどさくさに紛れて俺のこと抱いていった、あの?」
ユリウスがあからさまに困った顔をした。語弊があるにもほどがあると唸るように言うのを見て、気を良くしたユーリが口元を持ち上げた。
あの医者になら覚えがある。ノルマ族からは乱暴に扱われていたが、彼はユーリをガラス細工でも扱うかのように丁寧に抱いた。そのおかげでセックスも悪くないなと初めて思えた相手だ。背中に触れられても不快な気がしないのは、そのためもあるのだろう。
「言っておくが、どさくさに紛れて抱いたわけではないぞ」
「わーかってるって。ユーフォリアの効果を薄めるためには、ある程度仕方ないもんな」
そう言いながらも、ユーリは“ユーリ”の研究室にあったソティアのことを思い出していた。あの頃にもうソティアが完成していたのだとしたら、”ユーリ”と自分たちが引き離されたのは、ソティアを開発したせいだとも考えられる。毎日ユーフォリアを打たれて何人もの男に乱暴されたことは憶えているが、催眠や暗示にも近い効果のあるユーフォリアのせいでその理由もなにもかもはっきりしない。誰に抱かれたかなどほぼわからない。ジャンカルロのことが記憶にあるのは、ある程度売春に慣れて好きなようにさせてもらっていたころの客だからだ。
「そういや、ジャンカルロは?」
ユーリが問うと、ユリウスは奥のベッドを指さした。
「あちらで眠っているよ。きみたちがここに来たとき、この村は強盗に襲われていてね。きみたちが来たおかげで強盗も捕まり、誰も殺されることなく済んだ。礼を言うよ」
「こんな辺鄙な場所に、強盗? 牛や馬でも盗みに来るのか?」
「きみは知らないだろうが、ここいらは地下鉱窟があって資源が豊富なんだ。ここは鉱夫たちのための村だが警備が行き届いていないせいで、うわさを聞き付けたならず者が襲いに来ることがあるらしい」
「へえ。じゃあ鉱夫たちのためにあんたがここにいるってこと?」
「うん?」
「掘削中にケガをしたりとか、ならず者に襲われたりもするからかと思ってた」
ユーリが言うと、ユリウスはまるで取り繕うかのようにそうだなと笑ってみせた。なにか嘘くさい笑顔だ。やはりこの男を手放しで信じるにはリスクがある。フォルスに行った理由は伝えないほうが無難な気がする。そう判断してユーリは敢えて違う話題を振った。
「ところで、この村の特産品はもう食べたか?」
ユリウスがきょとんとする。この反応から察するに、特産品がなにかも知らないのだろう。この村の人間たちは来訪者があると手塩にかけて育てたビターオレンジを自慢するが、イル・セーラとノルマのダブルが多いという性質上、怪しいと踏んだ相手にはビターオレンジの話すらしない。この村は昔からそうだ。フォルスの人間以上に疑り深く相手を信用しない節がある。それはつまり、ユリウスがこの村に歓迎されていないという証拠になる。
「特産品というのは?」
「知らないならいい」
「もしかして、俺は君に警戒されているのか?」
「警戒されないとでも思ったのか?」
冗談だろうと鼻で笑うと、ユリウスは困ったような表情でふうと息を吐いた。演技がかった表情にしか見えないのだ。国医としてこの村に駐在しているならまず村人がビターオレンジを持ってくる。そうでなく、たまたま立ち寄っただけだとしてもだ。ビターオレンジを知らないということは、オレガノ出身だということで警戒されたか、それ以外のなにかがあるかのどちらかに絞られる。
「うるさいぞ、ユーリ」
ううんと唸りながら二コラが毛布の中に埋もれていく。よほど疲れているのか、起きる気配がない。
「珍し。いつも俺に寝穢いっていうくせに」
言いながら二コラを足でつつく。二コラが使っている枕から独特な香りがするのに気付いた。安眠効果のある鎮静剤。それに交じって別の薬品のにおいだ。ユーリはそれに気づかないふりをして、体を起こしてユリウスに向き直った。
きっと少々騒いだ程度ではジャンカルロも二コラも起きないだろう。眠っているのではない。眠らされているのだ。疲れ切って昂ったせいで眠れないときにもこの薬剤を使うことは確かにある。けれどそれはあくまで香木単品で使う場合だ。それに嗅ぎなれない薬品を混ぜるような使い方を“ユーリ”はしていなかった。ユリウス自身がオレガノ出身だと言っていたから、オレガノでは一般的なのかもしれないが、これはまるで“一服盛った”ようなものだ。
収容所にいたころ、隠れ里に残った仲間を頼って脱獄したはずが、食事を与えられた後のことは憶えておらず、気が付いたら収容所に戻されていた――という話を聞いたことがあるのを思い出した。同族だと思っていたがそうじゃなかったと嘆いていた彼は、見せしめのためにユーリたちの目の前で惨殺された。その時に検視をしていたのは、イル・セーラではなかっただろうか? ユリウスと同じ、オレンジがかった茶色の髪をした、黒いローブに身を包んだ男。
反芻した途端、またざわりとした悪寒が襲ってきた。その反応に気づいたのか、ユリウスがユーリの腕を掴んだ。体の芯から凍えるような、恐怖にも似た感情が蘇ってくる。
「ユーリ、大丈夫か?」
ユーリはとっさにユリウスの腕を振り払った。思いの外体に力が入らず、勢い余って二コラの上に倒れこんだ。ううんと二コラが唸るが、起きる気配がない。
「二コラ、起きろ! 起きろって!」
「落ち着け、ユーリ。なにもしない」
ユリウスがホールドアップして見せるが、断片的な記憶がユリウスの影をちらつかせる。なぜ忘れていたのだろうか。あのとき、ユーリとおなじフォルス出身のイル・セーラの最年長者だったシリルが殺されたとき、傍にいたのは紛れもなくユリウスだった。
ユーリは額を押さえ、ぐっとシーツを握りこんだ。
「これは幻覚か? それとも本当の記憶なのか?」
「思い出さなくていい。忘れていいんだ、ユーリ。おまえはなにも知らないでいい」
「あんたは、なにを知っているっていうんだ?」
ユリウスは穏やかに笑って、目を伏せた。
「俺も何も知らないよ、ユーリ。すべて終わった。きみたちは解放された。もう奴隷ではない。だから“奴隷だったころ”のことなど知らなくていい」
ユリウスはひどく悲しい顔をしている。それに気づかないユーリではない。けれどどこか演技がかった気配すらある態度が気になった。きっとユリウスはなにかを知っている。ここにいたのも偶然かもしれないが、偶然ではないのかもしれない。ふいにシリルが死ぬ前の日の記憶がよみがえる。
赤い目のイル・セーラは決して信用するな。信用していいのは一族の瞳を持つ者とそれに似た瞳を持つ者のみ。イル・セーラはほとんどがアイスブルーだったりコバルトブルーの瞳を持つものだと思っていたが、ユリウスを見てそうではなかったことを思い出した。シリルがなぜあんなことを言ったのかはわからないが、シリルの死に際にユリウスがそばにいたことだけは間違いない。追求してもユリウスははぐらかすだろう。それにこの状況では圧倒的に自分が不利だ。そう算段したユーリは、それ以上ユリウスに話しかけることなくベッドに横たわった。
「いい子だ」
ユリウスの手が頭を撫でていく。不快感はない。むしろ懐かしい気がして、ユーリはもぞもぞと体を動かしてユリウスに視線を向けた。
「二コラたちはいつ起きる?」
「少し眠っているだけだ、心配はいらない。それより、きみは寝るときにカルマを常用しているな?」
そう言われて、ユーリはふんと鼻で笑った。なるほど、そういうことか。なにか裏の意図があって眠らされているのだと思っていたけれど、そういえばどうしても眠れないときに一度だけ香木とカルマを使った睡眠香で強制的に眠らされた記憶がある。気が高ぶっていたであろう二人を気遣った善意だったのかもしれない。
「カルマの常用はよくないぞ。もうとっくに奴隷解放されたんだ、なにを不安がる必要がある?」
「べつに不安はないけど」
「それならいいが、ほどほどにするんだな。カルマを常用しすぎるといざというときにたたなくなるぞ」
マジで!? とユーリが素っ頓狂な声を上げた。そんな副作用は初めて聞いた。目を瞬かせるユーリを笑って、ユリウスはいたずらっぽく肩を竦めた。
「そんなに食いつくとは思わなかったが、騒ぎすぎだぞ」
ユリウスが言う。そりゃあ驚きもすると反論しようとしたとき、頭にゴンと衝撃が走った。
「やかましい、安眠妨害だ」
どうやら二コラに殴られたらしい。体を起こして二コラを睨む。
「暴力反対っ」
「黙れ、おまえこそ目が覚めたのならまず俺に謝罪しろ」
散々心配させやがってと耳を引っ張られる。痛い痛いと二コラの手を振り払う。二コラはまだ眠そうな表情をそのままに、のそのそと起き上がった。眉間を押さえ、深い溜息をつく。まだすこし朦朧としているように感じるのは、カルマと香木のせいだ。
「よく眠れましたか?」
ユリウスが声をかける。
「ああ、すまない。世話になったな、ユリウス」
いえとユリウスが笑う。二コラはどうやらユリウスのことをそこまで警戒していないようだ。
「そういえば、強盗たちを市街に移送することはできるが、被害届等の庶務は村の者が直接訴えたほうがいい。誰か市街に赴くことはできるだろうか?」
「わかりました、村長にはこちらから話しておきます」
「ああ、頼んだ。ユーリ、おまえ身体はもういいのか?」
「そんな心配するんなら殴るなよ」
恨みがましく言うと、二コラはすまんと申し訳なさそうに言った。寝起きが悪いのはいつものことだ。迷惑をかけたという自覚はないが、ブラックアウトしてから意識を取り戻すまで二コラは休まずに看病してくれたのだろうと察する。
「話は変わるが、おまえに国医の知人がいるとは知らなかった。国医志望だと言っていただろう。ユリウスの推薦があれば叶うかもしれないな」
そういう二コラがどことなく不満そうなことに気づく。ユリウスがどこまで話したのかは知らないが、きっと収容所でのことを少しは話しているだろう。ユーリはにっと口元を持ち上げた。
「へえ、じゃああのこと水に流してやるから俺のこと推薦してよ」
「言い方」
「だってそうだろ。こいつは俺が初めて客を取らされた後に、どさくさに紛れて俺を抱いて」
そこまで言い終える前に、ユリウスがユーリの口を手で覆った。あからさまに慌てているユリウスと、怪訝な顔をしたあとに気まずそうに視線をそらす二コラ。ユーリは新しいおもちゃを見つけたとばかりにしたり顔になる。
「誤解しないでくれ、緊急の措置だったんだ」
言い訳がましくユリウスが言う。昔のことだ。ユーリはさほど気にしていないが、ユリウスや二コラの反応がおもしろくてつい引き合いに出してしまう。
「収容所で使用できる薬品には限りがあったから、それで」
「じゃあ補液で中和すればよかったんだ」
ユリウスの手をずらし、揶揄するように言ってやる。するとユリウスは体の中の空気をすべて吐き出すかのように大きな息を吐き、きっとユーリを睨みつけた。
「言っておくが、きみが抱いてくれとせがんだんだ」
今度は二コラがあからさまにイラついた表情をみせた。どう見ても嫉妬している。そうだったっけとあっけらかんとした口調で言ってのけたあと、ユーリは満足げに笑みを深めて二コラに抱き着いた。
「妬くなよ、ダーリン」
「黙れ、誰が妬くか。まるで他人事のように言いやがって」
ぴしゃりとはねつけるように言われ、ユーリは思わず苦笑を漏らした。
「まあそのおかげで生き延びられたわけだし、俺の命の恩人だな」
さきほどのセリフを突っ込まれないようにごまかすように言う。二コラは鬱陶しそうにユーリを引き離そうとしたが、ユーリは負けじと二コラにしがみついた。
「ガキの頃の話だ。いまは抱かれるならあんたがいい」
「どうせジャンカルロにもおなじことを言っているんだろう。生憎俺は嫉妬深くてな、不特定多数の相手と寝るふしだらさを改めない限りおまえの相手などお断りだ」
二コラの嫉妬深さはよく知っている。ユーリは気を良くして二コラの分厚い胸板に頬ずりをした。
「じゃあ俺が満足するように毎日抱いてくれよ」
それならジャンカルロにも色目を使わない。そう言ったら、二コラは心底呆れたようなため息をついて、引き離すことをあきらめたように両手を下ろした。
「下品なジョークで人の神経を逆なでするのが得意なんだ、気を悪くしないでくれ」
二コラはユーリには取り合わず、ユリウスに声をかける。随分な言い方だ。苛立って二コラの尻をつねってやったが、思うような反応は得られなかった。
「おい、ジャンカルロ、起きろ。そろそろ経つぞ」
ジャンカルロが情けない声でうーんと唸る。頭をガシガシと搔きながら体を起こし、背伸びをした。
「大丈夫か、ユーリ?」
ユーリは二コラから離れ、素直に頷いた。
「なにがあったか覚えてないけど、悪かった」
「まあわからねえでもないがな。護衛がナザリオがじゃなくて逆によかったかもしれない」
ジャンカルロが神妙そうな面持ちで無精ひげを撫でた。
「風のうわさで聞いたことがあるが、あれはSig.オブリって呼ばれているやつじゃあねえかと思う」
「Sig.オブリ?」
ユーリと二コラが同時に発した。どうやら二コラも知らないようだ。あくまでもうわさだぞとジャンカルロが念を押すように言う。
「フォルスがノルマ至上主義者と中立派の内紛で戦場になったと前に話したろう? Sig.オブリは中立派の先導者だったが、彼が抜けたせいで内紛が起きたとされている」
「抜けたって、どういうこと?」
「俺も詳しくは知らねえが、なんでも大事にしていた犬に買い手がついたとかで、精神を病んだのだとか」
二コラとユーリは思わず顔を見合わせた。犬に買い手がつくというのは暗喩なのか、それともストレートに考えるべきなのだろうか。あの異様な雰囲気は精神を病んでいると言うにふさわしい気もするし、そうでもないような気もする。とにかく不気味で思い出すのも尻込みするほどなのは確かだ。
「あの、Sig.オブリをご存じなのですか?」
ユリウスが問うてくる。
「詳しくはしらねえよ。そうじゃないかっていうだけのことだ。
もし本当にあれがSig.オブリなら、国境警備にあたっている。フォルスに行けば会えると思うぞ」
ジャンカルロが言うと、ユリウスは険しい表情をして首を横に振った。
「ユーリ、きみもSig.オブリに会ったのか?」
そう問われ、ユーリは眉根を寄せて頷いた。あの不気味な男が本当にSig.オブリなのだとしたら、会ったことを否定はできないからだ。
「そういや、ユーリのことがあって話していなかったな。
フォルスでユーリが倒れたのは、そいつが部下を射殺してからなんだよ」
ユリウスが怪訝な顔をする。
「部下を、ですか? 本当に?」
「そりゃどういう意味だ?」
ジャンカルロが問うたが、ユリウスはしばし考えるように目を伏せた。腕を組み、ひじのあたりを右手の人差し指でトントンと叩く。しばらく考え込んでいる様子だったが、ユリウスは意を決したように顔をあげた。
「賊の引き渡しは俺が行きます。一緒に連れて行ってもらえますか?」
「そりゃ構わんが、あんたはここに駐在しているのでは?」
「この村の周辺に自生する薬草を採りに来ただけですし、ここは俺を歓迎してくれないようなので」
自嘲気味にユリウスが言う。どうやら歓迎されていないことに気付いていたようだ。
「それならいい。あんた、コレはいけるクチかい?」
言って、カクテルを飲むジェスチャーをする。
「ミクシアにはラッテ・ディ・ソッチラが飲めるバーがあると聞きましたが」
ジャンカルロがいいねえと豪快に笑った。ミクシアに帰ったら飲みに行こうとジャンカルロがナチュラルにユリウスを誘う。
ジャンカルロの誰とでも仲良くなるおおらかな気質を二コラに分けてやってほしい。おまえはユリウスの慎ましやかな性格を見習え。ユーリと二コラはお互いに憎まれ口を叩きあいながら街に戻る支度を始めた。
***
街に戻ったその足で、賊たちはナザリオに引き渡した。
道中の会話で発覚したが、ユーリは丸一日眠っていたらしい。帰都が遅くなる旨を二コラが報告していたようで、ナザリオからはやはり俺も行くべきでしたと何度も頭を下げられた。どうもきな臭い。詳細が伏せられているのか、ナザリオはユーリが倒れたことは知っていたが、Sig.オブリと思しき人物が部下を射殺したことは伝わっていないようだ。
ユーリはジャンカルロと二コラと交互に顔を見合わせる。いまはナザリオになにも告げないほうがいいと踏んで、目配せをする。
ユリウスの入国審査など諸々の手続きを終えたあとでユーリたちは大学に戻った。フォルスに行った理由を二コラがぽろりと話したせいで、ユリウスが手伝うと言い出したからだ。いつもは二コラのほうが弁えているというのに、自分よりも年長者の、ユーリの世話をできそうな人物に出会えたからなのかいつになく饒舌だ。ユリウスが国医だというのもあるかもしれない。ミクシア外でも医療措置のできるユリウスなら、もしかするとフェルマペネムの代替品を作るうえで様々な知識を持っているかもしれないからだろう。いつものように軽口を言いながら研究室に向かっていると、途中にある仮眠室からサシャがひょこりと顔をのぞかせた。
「頼むから静かにしてくれ、3徹明けなんだ」
青白くげっそりとした表情で、サシャ。ユーリはすぐにサシャに駆け寄った。
「戻ったぜ、サシャ。勤務変わってもらって悪かったな」
それよりと会話を続けようとしたときだ。サシャがはっとしたように目を見開いた。
「国医をやっているっていうイル・セーラに出会ったんだ。代替品を作るのに協力してくれるっていうから、大学内を見学したいってことで同行してもらったんだけど」
すべてを言い終えるよりも早く、サシャがユーリの腕を勢いよく引っ張った。うわっと素っ頓狂な声が上がる。サシャはユーリを自分の後ろに下がらせた後で、まるでユーリを保護するかように手を広げた。これ以上近付くなと言っているかのようだ。
「今更なんの用だ」
普段聞いたことがないほどの、地を這うような低い声だ。ユーリと比較すると穏やかでおとなしいサシャが他人にここまでの口調で物を言うことはない。
「サシャ、彼は俺を助けてくれて」
「おまえは黙っていろ、なにも覚えていないくせに口を挟むな」
ユーリはムッとしてサシャの腕をつかんだが、目にしたことがないほど険しい表情でユリウスを睨んでいるのを見て、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
「ユーリになにをした」
「誤解だ、サシャ。彼は本当にユーリの応急処置をしてくれただけで」
「二コラには聞いていない!」
サシャが大声を出すことはほとんどない。二コラに至っては初めて聞いた強い憎悪のこもった声だ。ユリウスを睨みつけ、肩で息をするほど震えている。
「ユーリを助けただと? 誰のせいでそうなったと思ってるんだ、ふざけんな!」
「サシャ!」
ユーリが止めに入ろうとしたが、サシャはユーリが止めるのも聞かずにユリウスの胸倉に掴みかかった。
「大丈夫だ、ユーリ。こうして責められることは覚悟していた」
「覚悟だ? 覚悟がないから俺たちを捨てて逃げたんじゃないのか?」
「それは違う。オレガノに除名嘆願をするためだったんだ」
「じゃあなぜその除名嘆願は適わなかった? なぜ今頃姿を現した? ユーリを救ったという口実でもう一度俺たちに近づこうという魂胆があった、違うか?」
ユリウスは答えない。ただ寂しそうに目を伏せている。
「しかも、国医だと? ずいぶん出世したじゃないか。本当にそうかも疑わしいけどな」
「聞いてください、サシャ」
「気安くその名前を呼ぶな!」
サシャは自分の手に添えられたユリウスの手を払いのけ、すごい勢いでユリウスを押しのけた。ユリウスが大きくぐらつき倒れそうになったのを慌てて二コラが支える。サシャがここまで激高するのを誰も見たことがなかった。二コラすら驚いて口を挟めないほどだ。はあはあと肩で息をしながらもう一度ユリウスを睨みつける。
「いいか、今後一切俺たちの前に姿を現すな。もし次にユーリに触れてみろ、俺の命に代えてでもあんたを告発し、葬り去ってやる」
そう吐き捨てると、サシャはユーリの腕を乱暴に引っ張って仮眠室へと戻ろうとした。
「ちょっ、待てってサシャ」
「うるさい、いいから来い!」
ユーリを仮眠室に押し込め、乱暴にドアを閉めた。その勢いで鍵をかけ、ドアに体を預ける。まるで力が抜けたかのような嘆息をつき、やってしまったという気持ちと安堵した気持ちが入り混じったような声を出しながら両手で顔を覆った。
サシャを呼ぶが、返事がない。ドアに背中を預けたままずるずると崩れ落ち、床に座りこんだ。
「ユリウスは本当にただ俺の応急処置をしてくれただけなんだ。途中の村でたまたま出くわして」
「そんなことはどうでもいい」
はねつけるように言われ、ユーリはムッとして眉を顰めた。
「あんな言い方ないと思うけど。サシャらしくない」
なにを言っても反論されるだろうと思いつつも、冷静な口調でぼやくように言う。本当にサシャらしくない。二人の喧嘩はいつだってユーリが一方的にへそを曲げるだけで、サシャからあんなふうに怒鳴られたことはいままで一度もなかった。
どのくらい経っただろうか。サシャが鬱屈した気持ちを吐き出すような大息をついた。決して晴れやかではないものの顔を上げ、ユーリを注視する。さきほどまでの怒りに満ちた目ではなく、その場に取り残されて不安で仕方がない子どものように悲しそうな眼をしていた。
「ユーリ、こっちへ」
言われるがままにサシャに近づく。サシャはユーリを抱き寄せた。
「怒鳴って悪かった。気が高ぶっていたんだ」
後悔と胸がふさがるような切なさが入り混じったような、申し訳なさそうな声だ。子どもの頃によくしてくれていたように強く抱きしめられる。ユーリ自身不慣れなことが起きて内心不安を抱いていたが、サシャに触れられると気持ちの肩を預けたような安心感を覚えた。髪を撫でられる。何度も何度も慈しむかのように撫でられる。
「金輪際あいつに関わらないと約束してくれ」
サシャの声は震えている。涙声だ。ユーリはサシャが人知れず抱えていたものの正体に気づいた。恐れだ。ユーリにとっても同じだが、血族はもう自分とサシャの二人しか残っていない。仮に親族が生きていたとしても自分たちを庇護してくれるとは到底思えないし、信頼して背中を預けられるのはお互いだけなのだ。ユリウスとサシャの関係は不明だが、明確にユリウスに対して恐れを抱いている。ただの怒りではないと思ったのは間違いではなかったようだ。
「言いたくないなら言わなくていい。どうしてあんなことを?」
サシャは答えなかった。言いたくないなら言わなくていいと言ったのは自分だ。腹も立たない。こうしていると小さい頃の記憶がぼんやりとよみがえってくる。
ユーリは幼いころ自宅に来客があると決まって地下室に逃げ込んでいたが、そのなかでも一人だけ声を聞くのも嫌なほど嫌いな相手がいた。なにかをされたわけではない。“ユーリ”と言い争っているのを聞いたわけでもない。ただどういうわけかその相手がくると体中の血液が逆流するほどの恐怖を覚えて、泣きじゃくりながらサシャにしがみついていたのだけははっきりと覚えている。その相手が帰るまでの間、文句も言わずにずっと自分を抱きしめてくれていた。
いまだから思うのだが、サシャももしかしたらその相手のことを嫌っていたのかもしれない。得体のしれない不気味さと全身を貫かれるような鋭い怖さを持った相手だということだけは覚えているが、彼の声もそして姿もどういうわけかちっとも思い出せなかった。
不意にサシャが笑った。ユーリが考えていたことが伝わったのか、おかしいのを堪えるかのようにくすくすと笑いだす。
「懐かしいな。昔はこうやってお前が泣き止むのを待ってたっけ」
うなずく。サシャの手が頬を撫でた。
「おまえは憶えていないと思う。俺もすべてを見たわけじゃないから、本当にそうだとは限らない」
そう前置きをして、サシャは意を決したかのように話しはじめた。
「ユリウスは身分を国医だと言っていたけど、国医だったのは“ユーリ”だ。18年前に突如として現れた感染症の対処をするためにオレガノに出かけ、あいつ――ユリウスを連れてきた」
そうだったのかと内心する。小さい頃にユリウスと会った記憶はないが、あの雰囲気には覚えがあった。妙な安心感を抱いたのも事実だ。
「対処の結果はまあ世間でいうように水際対策の失敗を論われて、“ユーリ”は追われる羽目になった。そしてフォルスは旧軍部の奴らに囲まれ、関係のないイル・セーラたちも“ユーリ”を匿った大罪人として捕まった。
あいつは“ユーリ”を身代わりに逃げて、俺たちをノルマに売った。結果として俺たちが収容所に連れていかれたのも、“ユーリ”が死んだのも、あいつのせいなんだ。あいつだけが何事もなく生きている。オレガノ出身だからという理由で迫害を逃れることができた」
サシャの声が震えている。
「俺は“ユーリ”からお前を託された。守る義務がある。だから、頼むからあいつに関わらないでくれ」
サシャの腕に力がこもっていく。おまえを死なせるわけにはいかないんだと、サシャが震える声で言った。
イル・セーラの掟として年少者が父親の名を継ぐ。父親の死、或いは成人をきっかけに名を継ぐのが一般的だ。家業を守るためにそうしてきたのだと以前“ユーリ”から聞いたことがあった。その話を聞かされたあと一か月も経たないうちに旧軍部が押し入ってきた。血まみれの父親の安否もわからず収容所に連れていかれたのだ。気丈にふるまっていたが心にほころびが生じないわけがない。ステッキに絡みつく蛇が刻印された濃紺の制服を纏った男たちが脳裏に浮かぶ。ユーリはわかったと素直にうなずいて、いつかサシャがしてくれていたようにぽんぽんと背中を叩いた。
「サシャがそういうなら、近づかない」
サシャの腕の力が少しずつ弱まっていく。
「サシャ?」
数十秒の間もなく、寝息が聞こえてくる。よほど疲れていたうえに、めったに怒らないのに怒って電池切れでも起こしたのだろうか。ユーリは寝入っているサシャを抱え上げてベッドに運んでやった。
ベッドに寝かせ、サシャの前髪をさらりと梳く。いつも以上に顔色が悪い。ああやってユリウスに怒鳴ったのもだいぶ無理をしていたのだと推察される。収容所にいたころはそうでもなかったが、大学の仮眠室にいるときのサシャは、寝入ってしまえばなかなか起きない。サシャを呼び、眠っていることを確認する。ユーリはサシャの額にキスをして、くしゃくしゃと前髪を乱した。
「まァ、大事なところで寝たんだから、俺がなにしても文句は言えねえよなァ」
ニヤリと口元をゆがめて、肩を竦める。ユーリはサシャを置いて仮眠室を出ると、急いで二コラのあとを追った。
さすがの二コラもユリウスを研究室に招くことはしなかったようだ。ユーリたちの研究班が使う応接室にユリウスを迎え入れるのが見えた。
ユーリが応接室に入ると、二コラはその行動を読んでいたかのように呆れた表情をしていた。
「ハァイ、ユリウス。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「サシャを怒らせて気を引きたいのか? ガキより質が悪いな」
「俺を留まらせたかったら縛ってから寝ればいいものを、寝落ちしたのは向こうだからな。フリーだからなにをしようが関係ない、俺の意思だ」
二コラがため息を吐く。呆れて物も言えないとばかりに右手で額を押さえた二コラをよそに、ユーリはユリウスが座っているソファーのひじおきに腰を下ろした。
「ご聡明なあんたなら、俺が聞きたいことくらい想像がついているのでは?」
ユリウスは腕を組んで、首を横に振って見せた。
「どのことを聞きたいのか、見当がつかないな」
「あんたが本当に助命嘆願に行ったのなら、フェルマペネムの代替品の調合方法を知っているんだろ? だからヴェッキオ周辺の薬草を採りに行き、村人に嫌厭された」
ユリウスはなにも言わない。目を伏せ、腕にかかる指に力がこもっていくのが分かる。
「どこに助命嘆願に行ったのか知らないが、助命嘆願は受け入れられず、代わりにフェルマペネムの代替品を作れと脅された。それで”ユーリ”に調合法を聞き出そうとしたけれど、”ユーリ”は決して答えなかった。だから俺たちを売ったんだ。尾を振りたい相手がいたから」
「そうだと言ったら?」
目を伏せたまま、ユリウスが言う。瞳の動きで動揺を悟られまいとしているようだ。
「いまもまだフェルマペネムの代替品の作り方が分からない、だから協力するふりをして情報を引き出そうとしている。或いは、その尻尾を振りたい相手に脅されて、俺たちが作ろうとしている代替品の代替品を作って妨害しようとしている――どっちだ?」
ユリウスはなにも答えない。代わりに二コラがユーリを呼んだ。
「失礼だろう、ユーリ。ユリウスはオレガノ政府から正式に調査を依頼されているんだぞ」
「へえ、オレガノ政府にねぇ」
ますます怪しい。本当にオレガノから直々に頼まれているのであれば、わざわざヴェッキオに赴かなくとも、本国で作ればいいだけの話だ。ユリウスがくれた薬草図鑑には自生地も記されており、フェルマペネムの代替品に使用する香木、薬木はすべてオレガノにも自生している。それに土壌の成分によって薬効が変わることがあるため、その土地でとれた香木、薬木を使用するようにと“ユーリ”からは言われている。それを知らないわけではないだろうとユーリは楽しそうに口元を怪しくゆがめ、八重歯をのぞかせた。
「なァ、ユリウス。聞かせてくれよ。あんた、なにが目的なんだ?」
ユリウスは大きく息を吐くと、数秒ののちにゆっくりと目を開いた。そしてユーリに視線をやると、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「やはり親子だな。無鉄砲で要らんことに首を突っ込みたがるところがよく似ている」
「そりゃどうも。俺からしたらあんたも大概だと思うけどね」
「そうかもしれないな。特使様に媚びを売っておきたくてヴェッキオに行ったんだが、生憎と彼らは薬木の場所を教えてくれなかった」
特使と言われて、ユーリは目をまん丸くさせた。
「特使って、オレガノの?」
「そうだ。きみの言うとおり、フェルマペネムの代替品の調合法を研究している。“ユーリ”がなにも吐かなかったものでね。なにもわからないんだ。
Sig.オブリのことも特使様が探っておられる。だからきみが首を突っ込むことではない。軍部に任せておけ。いいな」
強い口調でユリウスが言う。ユーリはきょとんとした表情のまま、こくんと首を傾げた。
「なんでオレガノの特使がSig.オブリのことを探る必要があるんだ?」
ユリウスと二コラが同時にため息をついた。
「首を突っ込むなと今しがた言われたばかりだろう。舌の根の乾かぬ内におまえは」
二コラが呆れたような声色で声を荒らげた。
「いや、だって、おかしいだろ。ジャンカルロですら風のうわさだって言っていた人物を、なんでオレガノの特使やユリウスが知ってるんだよ? 二コラでさえ知らなかったじゃないか」
ユーリが言うと、二コラは苛立ったように自分が座っているソファーの横を叩いた。どうやらここに座れと言っているらしい。指示されたとおりに二コラの横に腰を下ろす。二コラに声をかけようとした途端、耳をグイっと引っ張られた。
「いいか、おまえの勝手耳をこじ開けてよく聞け。このことは機密事項に設定された。つまり、俺やおまえ、ユリウスも本来耳に入れることがないはずの事態だ。わかるか? 首を突っ込めば最悪処刑だぞ」
「それって軍部が緘口令を敷いた……ってこと?」
「そうだ。Sig.オブリはコードネームのようなもので、その独裁的かつ支配者のような気質を持つ者を指す。フォルスで会った彼が本当にそうなのだとしたら、国家の危機なんだ」
ユーリは理解しがたいという表情だ。二コラを見上げ、少し唇を尖らせる。
「俺にわかるように説明して」
「十分にわかるように説明してやっているだろうが。フォルスで会ったあの男が本当にSig.オブリ本人なのだとしたら、国家転覆ならびに叛逆の可能性がある。だから一般人である俺やユリウスが関わるような事件でもなければ、そもそも軍部の保護下にあるおまえは絶対に首を突っ込むなと言っているんだ」
叛逆とユーリがつぶやく。いまいち的を射ない様子のユーリを見て、二コラが大袈裟に舌打ちをした。
「その叛逆って、どの立場で言ってる?」
「なに?」
「ミクシアに対する叛逆か、オレガノに対する叛逆か、ってこと」
二コラがため息をつきながらソファーの背もたれに身体を預けた。首を突っ込むなと壊れた機械人形のようなか細い声で言うのを聞きながら、ユーリはユリウスに視線をやった。
「双方に対する叛逆として考えるなら、その人物はオレガノにもミクシアにも影響力がある人物ってことにならないか?」
「正体が分かれば苦労しないよ。彼がどのような立場の人間で、どのような危険思想を持っているかが定かではないため、一般人は関わるなということだ。先ほどピエタの部隊長殿も言っていたけれど、ユーリとサシャ、俺にもしばらくの間護衛をつけるそうだ」
「俺の護衛は二コラ限定で」
「残念だったな、お前の護衛はエリゼだ」
マジかと口の中で呟く。エリゼとはあの一件以来顔を合わせていないが、ナザリオが最も信頼を寄せ、且つ危険が差し迫った時に利き腕にできる相手だ。二コラやジャンカルロではなくエリゼが護衛につくということは、ナザリオは相当に警戒しているということなのだろう。ユーリは観念したようにホールドアップして見せた。
「はいはい、首突っ込まなきゃいいんだろ。大人しくフェルマペネムの代替品の研究にとりかかりまぁす」
おどけたように言って、ユーリはすっくと立ちあがった。明らかに疑いのまなざしを向けているニコラに視線を落とし、にっと笑って耳元でささめく。
「もし俺が約束破ったら、あんたの好きな騎乗位で泣くまで責め立てさせてやるよ」
二コラの顔が赤くなる。その反応をせせら笑って、ユーリは手をひらひらと振って部屋を後にした。
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