17 / 108
Three(3)
目を覚ますと、目の前に二コラの顔があった。ずっと抱き締められていたようだ。目を瞬かせ、二コラの寝顔を凝視する。
なんどなくだけれど、まだ喉と胸に違和感がある。微妙に痛む頭を押さえて、ユーリは意識が飛ぶ前のことを反芻した。
あれはなんだったのだろうか? 想定外だ。そもそもあんな不気味な男に見覚えはない。見覚えはないが、——。
鼻につくあのにおいを思い出したらまた嘔気がぶり返して来た。口元を押さえる。何度もえずくが吐くまでには至らない。また凍りつくような寒気が襲ってくる。
「大丈夫、ゆっくりと呼吸をして」
耳慣れない声に、ユーリは身体が跳ねるほど驚いた。声の主はユーリとは異なりややオレンジがかった茶色の髪にルビーのような赤い瞳をもつイル・セーラだ。ユーリは突然現れたイル・セーラの存在が理解できずに起き上がろうとしたが、二コラに抱きつかれているせいで身動きが取れない。
「えっ、はっ!? なんでっ!?」
ユーリにしては焦りの色が濃い声色で、声を上ずらせながら。二コラの腕の中で暴れたせいか、二コラが唸り、迷惑そうな声で「うるさい」と注意された。
「離せって、二コラ! 俺たち以外のイル・セーラがいる!」
今度は期待に胸を膨らませたような弾んだ声だ。二コラを起こそうと何度も頬を叩く。よほど疲れているのか、二コラは一向に目を覚ます気配がない。寝息だけが聞こえてくる。ユーリは自分の身体に絡む二コラの腕からすり抜け、ようやく体を起こした。
「急に体を動かさないほうがいい。フォルスの遺構に赴いたと聞いたよ。なにか嫌な記憶を想起したのかもしれない」
そう言われて、ユーリはどこか納得したように「なるほど」と頷いて、まだ違和感のある胸をさすった。嫌な記憶。収容所に連れて行かれる前後の、すっぽりと抜け落ちているものが関係しているのだろうか。思考を巡らせるだけでは、先ほどのようなせり上がるような嘔気は襲ってこないようだ。
「きちんと呼吸ができているなら問題ない。もしまた同じような症状が起きたら、これを」
そう言って、男がユーリにピルケースを差し出した。
「これは?」
「君は“ユーリ”の息子だろう? 父親がいつも使っていたものすら記憶にないのか?」
ユーリは申し訳なさそうに眉根を下げて、小さく頷いた。
「収容所に行く前とか、収容されている最中とか、ところどころ記憶がなくて」
「じゃあ俺のことも覚えていないのか。”ユーリ”とは旧知の仲だったし、君が小さい頃に何度も会っているんだが」
困ったなと男がぼやき、はらりと一房垂れた髪を撫でつける。
オレンジがかった茶色の髪のイル・セーラ。子どもの頃に会っているとしたら少しくらいは記憶に残っていてもいいはずだが、まったくと言っていいほど覚えていない。“ユーリ”と懇意だったなら紹介くらいはされているだろうし、そのうえで苦手だと思って隠れていたのか、それとも収容所に行くまでの数か月間に知り合った間柄なのか。あまりに注視していたからか、やがて男は軽く肩を竦めてみせた。
「そう警戒しないでくれ。俺はユリウスだ。ユリウス・シャルトラン……という名にも聞き覚えはないか?」
そう言われて、ユーリは素直に頷いた。聞き覚えがないどころか、はじめて聞く名だ。“ユーリ”の親友の名ではない。彼のことはクロードと呼んでいたし、自分たちと似たコバルトブルーとアイスブルーのダイクロイックアイだった。魚を釣るのが上手で、裏の小川や村から少し離れた川に時々釣りに連れて行ってくれていたのを覚えている。
「よく土産も持って行っていたんだが」
土産と反芻して、ユーリはあっと声を上げた。
「え……っと、もしかして船の模型くれたおじさん?」
そう尋ねると、ユリウスが安堵したような息と共に「思い出してくれたか」と笑った。
「そうだ、船の模型のおじさんだ。君は自分が薬草図鑑が欲しいと言っておきながら、サシャの船の模型を気に入ってしまって、よく取り合いをしていただろう」
くっくっと楽しそうにユリウスが笑う。ユーリもつられて「そうだった」と気恥しそうに笑った。
そう言って、船の模型をくれた人はどんな容姿だったかを思い出す。本当に彼だったのかは覚えていない。外部からフォルスに来る知人は数多くいたが、大体がお忍びで来るために土産を持参するのはそう多くないからだ。
ところどころ抜けている記憶をたどったが、やはりこの顔にも、声にも、髪の色にも覚えがない。ユーリは声とにおいで人を判断する部分があり、顔の印象がおぼろげなことが多かった。収容所に連れていかれた頃に、その癖を改めるよう誰かから徹底的に躾けられたために、いまは人の顔を覚えるのが得意だけれど。
そもそも“ユーリ”が生きているとしたら、たぶん40歳ちょいすぎくらいだ。ジャンカルロよりも年下だし、ユリウスはおじさんという部類に入るのかと思うほど若々しい。自分のことだから、ほんとうにユリウスが“ユーリ”と懇意なのだとしたら、ほかのイル・セーラと較べると舌足らずなステラ語でおじさんおじさんと人懐っこく纏わりついていたのだろうと思うものの、そんな記憶はない。
ユーリはベッドの枕元に置かれたコットンを手に取ってにおいをかいだあと、どこか困ったように肩を竦めた。気付けに使う香木の香りに交じって安定効果の高い香木の香りがする。ブラックアウトした後で暴れでもしたのだろうかと考える。
「このあたりで採れるものしか使っていないから、ヘンなものではない」
警戒していると思っているからなのか、ユリウスが苦笑を漏らしながら言った。
「それはわかってる。まさかこの俺に”繊細さ”なんてものが残っていたなんて考えもしなかったんだ。
自分でも気づかなかっただけでダメージを受けていたんだろうか」
俺の辞書に繊細なんて言葉はないはずなんだがと独り言を言いながら口元を触る。
「香りは記憶と結びつきがあるともいわれる。特定のにおいを嗅いだことでその時に抱いた感情と記憶を呼び起こした可能性があるな」
「……ああ、なんかそういう論文を読んだ記憶があるような気がする」
そう言いながらもユーリは信じられないとばかりに唸っている。正直思い出したくもないが、あんな香りを嗅いだことがあっただろうか。フォルスにはないハーブと花の香りが混じっていたのは嗅ぎ分けられたけれど、――。そこまで思った時、また喉が詰まるような感覚が押し寄せてきた。大袈裟におえっと声を出して、両手で顔を覆った。
「あー、やめたやめた。過去なんてあってないようなものを追憶したところでなんにもならない」
過去に縋るのは凡人の考えであって、格言を残した偉人たちは「未来とは現在である」とか
「われわれは現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから」とか、過去に執着しても時間の無駄だと述べている人が多い。なかにはそうでない考えの人もいるけれど、その考えは自分のポリシーにそぐわないためにいっそ覚えてなどいない。自分の感情を飲み込み封じ込めるようなことをしてさえいなければ、過去など所詮すべてを記憶することのできない脳が見せる“断片的な幻想”でしかない。
「ところで、フォルスには何をしに?」
自分の記憶がないことを、覚えておく必要がなかったからだと摩り替えているが、ときどき異様なまでの不安感が襲うことがある。サシャとの会話に整合性がなく、だいたい「なにも覚えていないな」とか「子どもだったから仕方がない」とか揶揄されて終わる。その齟齬はなんなのだろうかと考えていたときに不意に問われたこともあり、ユーリは目を瞬かせてユリウスを注視した。
単純な会話の流れなのだろうとはわかる。わかるけれど、なぜか違和感を懐く。髪の色や目の色は違うが、肌の色や薬草に詳しいことから察するにイル・セーラであることに違いはないだろう。ではなぜ彼は“無事”なのか。奴隷解放のあとでフォルス周辺に移り住んだのか、それとも最初から収容されなかったのかで出方が変わってくる。
本来イル・セーラは疑り深い。ユーリがイル・セーラにしては珍しく明け透けで人懐っこい性格をしているだけだ。同族を疑いたくはないが、収容所でも仲間を売るイル・セーラがいたことを思い出し、反射的に警戒心が生まれる。ユーリは気分が優れないふりをしてベッドに横たわった。
「思い出したら吐き気してきた」
「気持ち悪い」と呻いて見せる。足音が近づいてくる。そうかと思うとするりと頭を撫でられた。
「事の次第は横に眠っている彼に聞いた。俺が収容されなかったイル・セーラだということも、どうやら覚えていなさそうだな」
されなかった? 不審そうにユリウスを腕の隙間から覗き見る。どうしたものかなと言いながらユーリの頭を撫でていたユリウスは、ふと思い出したようにユーリの頭をぽんぽんと軽くたたいた。
「C区……いや、F区の収容所だったかな、13歳未満の収容所は。そこでアプフェルシュトゥルーデルを食べたことを覚えていないか?」
「F区?」
ユーリが不審そうに言ったからだろう。ユリウスはだめかと苦笑しながら前髪を掻き上げた。
ユーリはそもそも自分がC区にいた時のことしか覚えていない。F区があったとは驚きだ。毎日性的なことを仕込まれていたのは断片的に覚えているが、それがF区のことなのだろうか。
「俺は国医で、オレガノ出身だということもあり収容されなかった。代わりに言語の異なるフォルスのイル・セーラたちの通訳のためにF区の収容所に行くよう指示をされたが、君とサシャが既にその役を担っていたんだ」
「イル・セーラがノルマ語を喋れるのって、そんな珍しいの?」
あんたも喋ってんじゃねえかとユーリが詰る。ユリウスは困ったように笑ったあとでホールドアップした。
「オレガノ出身だと言っただろ。オレガノはミクシアとは言語が異なる。だからこちらに移り住んだ時に覚えたんだ。細かいニュアンス等は“ユーリ”に教わった」
ふうんと眉を顰める。“ユーリ”は自分よりも探求心旺盛で、周辺諸国の言語は大体網羅していた。地下室の研究室に入るとあらゆる言語の辞書や書物があったし、法則さえ理解すれば言語を読み解くのも理解するのも、またイントネーションやアクセント、下の使い方をマスターすれば、言語なんてただの誤差だと笑って言っていたのを思い出す。そのおかげでユーリもサシャもポリグロット (マルチリンガルの中でも、特に複数の言語を流暢に話せる人を指す)だ。ただひとつ、舌が長いわけではないユーリにとっては、パドヴァンやエスペリよりもさらに遠く離れた位置にあるなんとかという国の言葉だけは習得できなかった。あいつらは絶対に蛇より舌が長いと未だに思っている。
「どういえばいいかな。収容所で君と再会したとき、君は通常15歳以下には使わないようにと指定されていた薬物を打たれて、かなり混乱していたけれど」
「あァ、もしかして初めて客を取らされた後にどさくさに紛れて俺のこと抱いていった、あの?」
ユリウスがあからさまに困った顔をした。「語弊があるにもほどがある」と唸るように言うのを見て、気を良くしたユーリが口元を持ち上げた。
あの医者になら覚えがある。ノルマ族からは乱暴に扱われていたが、彼はユーリをガラス細工でも扱うかのように丁寧に抱いた。薬が抜けきるまで傍にいてくれて、おかげでゲストとのプレイ中のの声に中てられた看守に嬲られずに済んだ。体に触れられても不快な気がしないのは、そのためもあるのだろうか。
「言っておくが、どさくさに紛れて抱いたわけではないぞ」
「わーかってるって。ユーフォリアの効果を薄めるためには、ある程度仕方ないもんな」
そう言いながらも、ユーリは“ユーリ”の研究室にあったソティアのことを思い出していた。あの頃にもうソティアが完成していたのだとしたら、”ユーリ”と自分たちが引き離されたのは、ソティアを開発したせいだとも考えられる。毎日ユーフォリアを打たれて何人もの男に乱暴されたことは憶えているが、催眠や暗示にも近い効果のあるユーフォリアのせいでその理由もなにもかもはっきりしない。誰に抱かれたかなどほぼわからない。ジャンカルロのことが記憶にあるのは、ある程度売春に慣れて好きなようにさせてもらっていたころの客だからだ。
「そういや、ジャンカルロは?」
ユーリが問うと、ユリウスは奥のベッドを指さした。奥のベッドで寝息を立てて眠っているのが見える。
「きみたちがここに来たとき、この村は強盗に襲われていてね。きみたちが来たおかげで強盗も捕まり、誰も殺されることなく済んだ。礼を言うよ」
「こんな辺鄙な場所に、強盗? 牛や馬でも盗みに来るのか?」
「きみは知らないだろうが、ここいらは地下鉱窟があって資源が豊富なんだ。ここは鉱夫たちのための村だが警備が行き届いていないせいで、うわさを聞き付けたならず者が襲いに来ることがあるらしい」
「へえ。じゃあ鉱夫たちのためにあんたがここにいるってこと?」
ユーリの問いに、ユリウスが首を傾げた。
「掘削中にケガをしたりとか、ならず者に襲われたりもするからかと思ってた」
ユーリが言うと、ユリウスはまるで取り繕うかのようにそうだなと笑ってみせた。なにか嘘くさい笑顔だ。やはりこの男を手放しで信じるにはリスクがある。フォルスに行った理由は伝えないほうが無難な気がする。そう判断してユーリは敢えて違う話題を振った。
「ところで、この村の特産品はもう食べたか?」
ユリウスがきょとんとする。この反応から察するに、特産品がなにかも知らないのだろう。この村の人間たちは来訪者があると手塩にかけて育てたビターオレンジを自慢するが、イル・セーラとノルマのダブルが多いという性質上、怪しいと踏んだ相手にはビターオレンジの話すらしない。この村は昔からそうだ。フォルスの人間以上に疑り深く相手を信用しない節がある。それはつまり、ユリウスがこの村に歓迎されていないという証拠になる。
「特産品というのは?」
「知らないならいい」
「やはり俺は君に警戒されているのか?」
「警戒されないとでも思ったのか?」
冗談だろうと鼻で笑うと、ユリウスは困ったような表情でふうと息を吐いた。演技がかった表情にしか見えないのだ。国医としてこの村に駐在しているなら、まず村人がビターオレンジを持ってくる。そうでなく、たまたま立ち寄っただけだとしてもだ。ビターオレンジを知らないということは、オレガノ出身だということで警戒されたか、それ以外のなにかがあるかのどちらかに絞られる。
「うるさいぞ、ユーリ」
ううんと唸りながら二コラが毛布の中に埋もれていく。よほど疲れているのか、起きる気配がない。
「珍し。いつも俺に寝穢いっていうくせに」
言いながら二コラを足でつつく。二コラが使っている枕から独特な香りがするのに気付いた。安眠効果のある鎮静剤。それに交じって別の薬品のにおいだ。ユーリはそれに気づかないふりをして、体を起こしてユリウスに向き直った。
きっと少々騒いだ程度ではジャンカルロも二コラも起きないだろう。眠っているのではない。眠らされているのだ。疲れ切って昂ったせいで眠れないときにもこの薬剤を使うことは確かにある。けれどそれはあくまで香木単品で使う場合だ。それに嗅ぎなれない薬品を混ぜるような使い方を“ユーリ”はしていなかった。ユリウス自身がオレガノ出身だと言っていたから、オレガノでは一般的なのかもしれないが、これはまるで“一服盛った”ようなものだ。
収容所にいたころ、隠れ里に残った仲間を頼って脱獄したはずが、食事を与えられた後のことは憶えておらず、気が付いたら収容所に戻されていた――という話を聞いたことがある。同族だと思っていたがそうじゃなかったと嘆いていた彼は、見せしめのためにユーリたちの目の前で惨殺された。その時に検視をしていたのは、イル・セーラではなかっただろうか? ユリウスと同じ、オレンジがかった茶色の髪をした、黒いローブに身を包んだ男。
反芻した途端、またざわりとした悪寒が襲ってきた。その反応に気づいたのか、ユリウスがユーリの腕を掴んだ。体の芯から凍えるような、恐怖にも似た感情が蘇ってくる。
「ユーリ、大丈夫か?」
ユーリはとっさにユリウスの腕を振り払った。思いの外体に力が入らず、勢い余って二コラの上に倒れこんだ。ううんと二コラが唸るが、起きる気配がない。
「二コラ、起きろ! 起きろって!」
「落ち着け、ユーリ。なにもしない」
ユリウスがホールドアップして見せるが、断片的な記憶がユリウスの影をちらつかせる。なぜ忘れていたのだろうか。別の時もそうだ。ユーリとおなじフォルス出身のイル・セーラの最年長者だったシリルが殺されたとき、傍にいたのは紛れもなくユリウスだった。
ユーリは額を押さえ、ぐっとシーツを握りこんだ。
「これは幻覚か? それとも本当の記憶なのか?」
「思い出さなくていい。忘れていいんだ、ユーリ。おまえはなにも知らないでいい」
「あんたは、なにを知っているっていうんだ?」
ユリウスは穏やかに笑って、目を伏せた。
「俺も何も知らないよ、ユーリ。すべて終わった。きみたちは解放された。もう奴隷ではない。だから“奴隷だったころ”のことなど知らなくていい」
ユリウスはひどく悲しい顔をしている。それに気づかないユーリではない。けれどどこか演技がかった気配すらある態度が気になった。きっとユリウスはなにかを知っている。ここにいたのも偶然かもしれないが、偶然ではないのかもしれない。ふいにシリルが死んだ日の記憶がよみがえる。
赤い目のイル・セーラは決して信用するな。信用していいのは一族の瞳を持つ者とそれに似た瞳を持つ者のみ。イル・セーラはほとんどがアイスブルーだったりコバルトブルーの瞳を持つものだと思っていたが、ユリウスを見てそうではなかったことを思い出した。シリルがなぜあんなことを言ったのかはわからないが、シリルの死に際にユリウスがそばにいたことだけは間違いない。追求してもユリウスははぐらかすだろう。それにこの状況では圧倒的に自分が不利だ。そう算段したユーリは、それ以上ユリウスに話しかけることなくベッドに横たわった。
「いい子だ」
ユリウスの手が頭を撫でていく。不快感はない。むしろ懐かしい気がして、ユーリはもぞもぞと体を動かしてユリウスに視線を向けた。
「二コラたちはいつ起きる?」
「少し眠っているだけだ、心配はいらない。それより、きみは寝るときにアクイエル(軽度の安定剤)を常用しているな?」
そう言われて、ユーリはふんと鼻で笑った。なるほど、そういうことか。なにか裏の意図があって眠らされているのだと思っていたけれど、そういえばどうしても眠れないときに一度だけ香木とアクイエルを使った睡眠香で強制的に眠らされた記憶がある。気が高ぶっていたであろう二人を気遣った善意だったのかもしれない。
「寝る前にアクイエルを常用するのはよくないぞ。もうとっくに奴隷解放されたんだ、なにを不安がる必要がある?」
「べつに不安はないけど」
「それならいいが、ほどほどにするんだな。先ほど渡した丸薬のほうが諸々に効果がある。あとで調合方法を教えるから、そっちに切り替えるように。
アクイエルを常用しすぎると、いざというときにたたなくなるぞ」
マジで!? とユーリが素っ頓狂な声を上げた。そんな副作用は初めて聞いた。目を瞬かせるユーリを笑って、ユリウスはいたずらっぽく肩を竦めた。
「そんなに食いつくとは思わなかったが、騒ぎすぎだ」
ユリウスが言う。そりゃあ驚きもすると反論しようとしたとき、頭にゴンと衝撃が走った。
「やかましい、安眠妨害だ」
どうやら二コラに殴られたらしい。体を起こして二コラを睨む。
「暴力反対っ」
「黙れ、おまえこそ目が覚めたのならまず俺に謝罪しろ」
散々心配させやがってと耳を引っ張られる。痛い痛いと二コラの手を振り払う。二コラはまだ眠そうな表情をそのままに、のそのそと起き上がった。眉間を押さえ、深い溜息をつく。まだすこし朦朧としているように感じるのは、アクイエルと香木のせいだ。
「よく眠れましたか?」
ユリウスが声をかける。
「ああ、すまない。世話になったな、ユリウス」
いえとユリウスが笑う。二コラはどうやらユリウスのことをそこまで警戒していないようだ。ユーリは二コラとユリウスを交互に見つめ、ユリウス自身も二コラに対して他意を持っていないことを悟る。先ほどの演技がかった表情を見せるのは、どうやら自分に対してのみのようだ。
「そういえば、強盗たちを市街に移送することはできるが、被害届等の庶務は村の者が直接訴えたほうがいい。誰か市街に赴くことはできるだろうか?」
「わかりました、村長にはこちらから話しておきます」
「ああ、頼んだ。ユーリ、おまえ身体はもういいのか?」
「そんな心配するんなら殴るなよ」
恨みがましく言うと、二コラはすまんと申し訳なさそうに言った。寝起きが悪いのはいつものことだ。迷惑をかけたという自覚はないが、ブラックアウトしてから二コラは休まずに看病してくれたのだろうと察する。
二コラはユーリの頬を撫でて額にキスをした。驚いてユーリの肩が跳ねる。
「へっ、ちょっ、二コラっ?」
「頼むからああいう真似はよせ。おまえはもう奴隷じゃないと言っただろう。恩人だかなんだか知らないが、地下街出身者のいうことを真に受けるんじゃない」
そう言われてユーリはあからさまに不機嫌そうに唇を尖らせた。
「だって自重しろっていうから」
「なんだと?」
「どうせどこに行ったってそういう対象なのは変わらねえし、ヤられる前に失神させてやろうっていう発想はじつに平和的じゃないか」
どこがだと二コラが突っ込んでくる。二コラが勢いよくユーリをベッドに押し倒した。
「結局危ない目に遭っただろうが。そういうことは俺を押しのけられるようになってから言え」
ユーリがすうっと目を細める。予想外の反応だったのか、二コラが怪訝そうに眉間にしわを寄せたのを見て、ユーリは躊躇いなく二コラにしがみついた。
「人前で情熱的じゃないか、二コラ。愛の告白かァ?」
揶揄するように言ってやると、二コラはようやく状況を思い出したのか、がばっと体を起こした。微笑ましそうに笑うユリウスに、しどろもどろな言い訳をしようとする二コラを覗き込んで、ユーリは「簡単に押しのけられたけど」と悪戯っぽく肩を竦めてみせた。二コラが咳払いをして、「話は変わるが」と会話の矛先を変えた。
「おまえに国医の知人がいるとは知らなかったな。国医志望だと言っていたし、ユリウスの推薦があれば叶うかもしれないぞ」
ユーリは二コラを覗き込んで、ふうんと意味ありげに笑ってみせる。ユリウスがどこまで話したのかは知らないが、きっと収容所でのことを少しは話しているだろう。
「じゃあさ、あのこと水に流してやるから俺のこと推薦してよ」
「言い方」
二コラが鋭く突っ込んでくる。
「だってこいつは俺が初めて客を取らされたあとに、どさくさに紛れて俺を抱いて」
そこまで言い終える前に、ユリウスがユーリの口を手で覆った。あからさまに慌てているユリウスと、怪訝な顔をしたあとに気まずそうに視線をそらす二コラ。ユーリは新しいおもちゃを見つけたとばかりにしたり顔になる。
「誤解しないでくれ、緊急の措置だったんだ」
言い訳がましくユリウスが言う。昔のことだ。ユーリはさほど気にしていないが、ユリウスや二コラの反応がおもしろくてつい引き合いに出してしまう。
「収容所で使用できる薬品には限りがあったから、それで」
「じゃあ補液で中和すればよかったんだ」
ユリウスの手をずらし、揶揄するように言ってやる。するとユリウスは体の中の空気をすべて吐き出すかのように大きな息を吐き、きっとユーリを睨みつけた。
「言っておくが、きみが抱いてくれとせがんだんだ」
今度は二コラがあからさまにイラついた表情をみせた。どう見ても嫉妬している。そうだったっけとあっけらかんとした口調で言ってのけたあと、ユーリは満足げに笑みを深めて二コラに抱き着いた。
「妬くなよ、ダーリン」
「黙れ、誰が妬くか。まるで他人事のように言いやがって」
ぴしゃりとはねつけるように言われ、ユーリは思わず苦笑を漏らした。
「まあそのおかげで生き延びられたわけだし、俺の命の恩人だな」
さきほどのセリフを突っ込まれないようにごまかすように言う。二コラは鬱陶しそうにユーリを引き離そうとしたが、ユーリは負けじと二コラにしがみついた。
「ガキの頃の話だ。いまは抱かれるならあんたがいい」
「どうせジャンカルロにもおなじことを言っているんだろう。生憎俺は嫉妬深くてな、不特定多数の相手と寝るふしだらさを改めない限りおまえの相手などお断りだ」
二コラの嫉妬深さはよく知っている。ユーリは気を良くして二コラの分厚い胸板に頬ずりをした。
「じゃあ俺が満足するように毎日抱いてくれよ」
それならジャンカルロにも色目を使わない。そう言ったら、二コラは心底呆れたようなため息をついて、引き離すことをあきらめたように両手を下ろした。
「下品なジョークで人の神経を逆なでするのが得意なんだ、気を悪くしないでくれ」
二コラはユーリには取り合わず、ユリウスに声をかける。随分な言い方だ。苛立って二コラの尻をつねってやったが、思うような反応は得られなかった。
「おい、ジャンカルロ、起きろ。そろそろ経つぞ」
ジャンカルロが情けない声でうーんと唸る。頭をガシガシと搔きながら体を起こし、背伸びをした。
「大丈夫か、ユーリ?」
ユーリは二コラから離れ、素直に頷いた。
「なにがあったか覚えてないけど、悪かった」
「まあわからねえでもないがな。護衛がナザリオがじゃなくて逆によかったかもしれない」
ジャンカルロが神妙そうな面持ちで無精ひげを撫でた。
あのあと二コラとジャンカルロは、すぐさまあの場を離れてこの場所までやってきたらしい。周辺に宿泊施設などないし、どこかでユーリを休ませるほうが無難だろうとの選択だったが、結果的に強盗に襲われていた村を救うことになり、無事に寝床も確保できたのだとジャンカルロが言う。
それにしてもあの男は不気味だったなと、ジャンカルロ。ユーリは彼のことを反芻したが、あのときのような寒気や妙な嘔気はもう起きなかった。
「あの人、ちゃんと埋葬されたのかな」
ぽつりとユーリが言う。ジャンカルロは『一応丁寧に埋葬してやってくれって頼んだがな』と告げたが、あの不気味な男のことだ。おそらくはそのまま放置しているだろうと推測する。
「風のうわさで聞いたことがあるが、あれはSig.オブリって呼ばれているやつじゃあねえかと思う」
「Sig.オブリ?」
ユーリと二コラが同時に発した。どうやら二コラも知らないようだ。あくまでもうわさだぞとジャンカルロが念を押すように言う。
「フォルスがノルマ至上主義者と中立派の内紛で戦場になったと前に話したろう? Sig.オブリは中立派の先導者だったが、彼が抜けたせいで内紛が起きたとされている」
「抜けたって、どういうこと?」
「俺も詳しくは知らねえが、なんでも大事にしていた犬に買い手がついたとかで、精神を病んだのだとか」
二コラとユーリは思わず顔を見合わせた。犬に買い手がつくというのは暗喩なのか、それともストレートに考えるべきなのだろうか。あの異様な雰囲気は精神を病んでいると言うにふさわしい気もするし、そうでもないような気もする。とにかく不気味で思い出すのも尻込みするほどなのは確かだ。
「あの、Sig.オブリとは?」
ユリウスが問うてくる。
「詳しくはしらねえよ。そうじゃないかっていうだけのことだ。
もし本当にあれがSig.オブリなら、国境警備にあたっている。フォルスに行けば会えると思うぞ」
ジャンカルロが言うと、ユリウスは険しい表情をして首を横に振った。
「ユーリ、きみもSig.オブリに会ったのか?」
そう問われ、ユーリは眉根を寄せて頷いた。あの不気味な男が本当にSig.オブリなのだとしたら、会ったことを否定はできないからだ。
「そういや、ユーリのことがあって話していなかったな。
フォルスでユーリが倒れたのは、そいつが部下を射殺してからなんだよ」
ユリウスが怪訝な顔をする。
「部下を、ですか? 本当に?」
「そりゃどういう意味だ?」
ジャンカルロが問うたが、ユリウスはしばし考えるように目を伏せた。腕を組み、ひじのあたりを右手の人差し指でトントンと叩く。しばらく考え込んでいる様子だったが、ユリウスは意を決したように顔をあげた。
「賊の引き渡しは俺が行きます。一緒にミクシアまで連れて行ってもらえますか?」
「そりゃ構わんが、あんたはここに駐在しているのでは?」
「この村の周辺に自生する薬草を採りに来ただけですし、ここは俺を歓迎してくれないようなので」
自嘲気味にユリウスが言う。どうやら歓迎されていないことに気付いていたようだ。
「それならいい。あんた、コレはいけるクチかい?」
言って、カクテルを飲むジェスチャーをする。
「ミクシアにはラッテ・ディ・ソッチラが飲めるバーがあると聞きましたが」
ジャンカルロがいいねえと豪快に笑った。ミクシアに帰ったら飲みに行こうとジャンカルロがナチュラルにユリウスを誘う。
ジャンカルロの誰とでも仲良くなるおおらかな気質を二コラに分けてやってほしい。おまえはユリウスの慎ましやかな性格を見習え。ユーリと二コラはお互いに憎まれ口を叩きあいながら街に戻る支度を始めた。
ともだちにシェアしよう!

