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Three(4)

 街に戻ったその足で、賊たちはナザリオに引き渡した。  道中の会話で発覚したが、ユーリは丸一日眠っていたらしい。帰都が遅くなる旨を二コラが報告していたようで、ナザリオからは「やはり俺も行くべきでした」と何度も頭を下げられた。どうもきな臭い。詳細が伏せられているのか、ナザリオはユーリが倒れたことは知っていたが、Sig.オブリと思しき人物が部下を射殺したことは伝わっていないようだ。  ニコラがそのあたりを省いて報告をしたとは考えられない。その証拠に怪訝な顔をして、ナザリオのセリフを訂正しようとしたからだ。それはユーリが足を抓って制止した。ユーリはジャンカルロと二コラと交互に顔を見合わせる。いまはナザリオになにも告げないほうがいいと踏んで、目配せをする。  ユリウスの入国審査など諸々の手続きを終えたあとで、ユーリたちは大学に戻った。フォルスに行った理由を二コラがぽろりと話したせいで、ユリウスが手伝うと言い出したからだ。いつもは二コラのほうが弁えているというのに、自分よりも年長者の、ユーリの世話をできそうな人物に出会えたからなのかいつになく饒舌だ。ユリウスが国医だというのもあるかもしれない。ミクシア外でも医療措置のできるユリウスなら、もしかするとフェルマペネムの代替品に関する様々な知識を持っているかもしれないからだろう。いつものように軽口を言いながら研究室に向かっていると、途中にある仮眠室からサシャがひょこりと顔をのぞかせた。 「頼むから静かにしてくれ、3徹明けなんだ」  青白くげっそりとした表情で、サシャ。ユーリはすぐにサシャに駆け寄った。 「戻ったぜ、サシャ。勤務変わってもらって悪かったな」  それよりと会話を続けようとしたときだ。サシャがはっとしたように目を見開いたのに気付いた。不思議に思って振り返る。人の通りの邪魔になると言いたかったのかと思ったが、後ろには二コラとユリウスしかいない。 「国医をやっているっていうイル・セーラに出会ったんだ。大学内を見学したいってことで同行してもらったんだけど」  すべてを言い終えるよりも早く、サシャがユーリの腕を勢いよく引っ張った。うわっと驚きの声が上がる。サシャはユーリを自分の後ろに下がらせた後で、まるでユーリを保護するかように手を広げた。これ以上近付くなと言っているかのようだ。 「今更なんの用だ」  普段聞いたことがないほどの、地を這うような低い声だ。ユーリと比較すると穏やかでおとなしいサシャが、他人にここまでの口調で物を言うことはない。 「サシャ、彼は俺を助けてくれて」 「おまえは黙っていろ、なにも覚えていないくせに口を挟むな」  ユーリはムッとしてサシャの腕をつかんだが、目にしたことがないほど険しい表情でユリウスを睨んでいるのを見て、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。 「ユーリになにをした」 「誤解だ、サシャ。彼は本当にユーリの応急処置をしてくれただけで」 「二コラには聞いていない!」  サシャが大声を出すことはほとんどない。二コラに至っては初めて聞いたであろう強い憎悪のこもった声だ。ユリウスを睨みつけ、肩で息をするほど震えている。 「ユーリを助けただと? 誰のせいでそうなったと思ってるんだ、ふざけんな!」 「サシャ!」  ユーリが止めに入ろうとしたが、サシャはユーリが止めるのも聞かずにユリウスの胸倉に掴みかかった。 「大丈夫だ、ユーリ。こうして責められることは覚悟していた」 「覚悟だ? 覚悟がないから俺たちを捨てて逃げたんじゃないのか?」 「それは違う。オレガノに助命嘆願をするためだったんだ」 「じゃあなぜその嘆願は適わなかった? なぜ俺たちは収容所に連れていかれた? なぜ今頃姿を現した? ユーリを救ったという口実で、もう一度俺たちに近づこうという魂胆があった、違うか?」  ユリウスは答えない。ただ寂しそうに目を伏せている。 「しかも、国医だと? ずいぶん出世したじゃないか。本当にそうかも疑わしいけどな」 「聞いてください、サシャ」 「気安くその名前を呼ぶな!」  サシャは自分の手に添えられたユリウスの手を払いのけ、すごい勢いでユリウスを押しのけた。ユリウスが大きくぐらつき倒れそうになったのを慌てて二コラが支える。サシャがここまで激高するのを誰も見たことがなかった。二コラすら驚いて口を挟めないほどだ。はあはあと肩で息をしながらもう一度ユリウスを睨みつける。 「いいか、今後一切俺たちの前に姿を現すな。もし次にユーリに触れてみろ、俺の命に代えてでもあんたを告発し、葬り去ってやる」  そう吐き捨てると、サシャはユーリの腕を乱暴に引っ張って仮眠室へと戻ろうとした。 「ちょっ、待てってサシャ」 「うるさい、いいから来い!」  ユーリを仮眠室に押し込め、乱暴にドアを閉めた。その勢いで鍵をかけ、ドアに体を預ける。まるで力が抜けたかのような嘆息をつき、やってしまったという気持ちと安堵した気持ちが入り混じったような声を出しながら両手で顔を覆った。  サシャを呼ぶが、返事がない。ドアに背中を預けたままずるずると崩れ落ち、床に座りこんだ。 「ユリウスは本当にただ俺の応急処置をしてくれただけなんだ。途中の村でたまたま出くわして」 「そんなことはどうでもいい」  はねつけるように言われ、ユーリはムッとして眉を顰めた。 「あんな言い方ないと思うけど。サシャらしくない」  なにを言っても反論されるだろうと思いつつも、冷静な口調でぼやくように言う。本当にサシャらしくない。二人の喧嘩はいつだってユーリが一方的にへそを曲げるだけで、サシャからあんなふうに怒鳴られたことはほとんどなかった。  最近のサシャはどうもイラついている。機嫌が悪い。エルン村のことが明るみになってから、やけに感情を出す。ユリウスのことも、サシャはユーリ以上に知っているとしか思えない反応だった。  どのくらい経っただろうか。サシャが鬱屈した気持ちを吐き出すような大息をついた。決して晴れやかではないものの顔を上げ、ユーリを注視する。さきほどまでの怒りに満ちた目ではなく、その場に取り残されて不安で仕方がない子どものように悲しそうな眼をしていた。 「ユーリ、こっちへ」  言われるがままにサシャに近づく。サシャはユーリを抱き寄せた。 「怒鳴って悪かった。気が高ぶっていたんだ」  後悔と胸がふさがるような切なさが入り混じったような、申し訳なさそうな声だ。子どもの頃によくしてくれていたように強く抱きしめられる。ユーリ自身不慣れなことが起きて内心不安を抱いていたが、サシャに触れられると気持ちの肩を預けたような安心感を覚えた。髪を撫でられる。何度も何度も慈しむかのように撫でられる。 「金輪際あいつに関わらないと約束してくれ」  サシャの声は震えている。涙声だ。ユーリはサシャが人知れず抱えていたものの正体に気づいた。恐れだ。ユーリにとっても同じだが、血族はもう自分とサシャの二人しか残っていない。仮に親族が生きていたとしても自分たちを庇護してくれるとは到底思えないし、信頼して背中を預けられるのはお互いだけなのだ。ユリウスとサシャの関係は不明だが、明確にユリウスに対して恐れを抱いている。ただの怒りではないと思ったのは間違いではなかったようだ。 「言いたくないなら言わなくていい。どうしてあんなことを?」  サシャは答えなかった。言いたくないなら言わなくていいと言ったのは自分だ。腹も立たない。こうしていると小さい頃の記憶がぼんやりとよみがえってくる。  ユーリは幼いころ自宅に来客があると決まって地下室に逃げ込んでいたが、そのなかでも一人だけ声を聞くのも嫌なほど嫌いな相手がいた。なにかをされたわけではない。“ユーリ”と言い争っているのを聞いたわけでもない。ただどういうわけかその相手がくると体中の血液が逆流するほどの恐怖を覚えて、泣きじゃくりながらサシャにしがみついていたのだけははっきりと覚えている。その相手が帰るまでの間、文句も言わずにずっと自分を抱きしめてくれていた。  いまだから思うのだが、サシャももしかしたらその相手のことを嫌っていたのかもしれない。得体のしれない不気味さと全身を貫かれるような鋭い怖さを持った相手だということだけは覚えているが、彼の声もそして姿もどういうわけかちっとも思い出せなかった。  不意にサシャが笑った。ユーリが考えていたことが伝わったのか、おかしいのを堪えるかのようにくすくすと笑いだす。 「懐かしいな。昔はこうやってお前が泣き止むのを待ってたっけ」  うなずく。サシャの手が頬を撫でた。 「おまえは憶えていないと思う。俺もすべてを見たわけじゃないから、本当にそうだとは限らない」  そう前置きをして、サシャは意を決したかのように話しはじめた。 「ユリウスは身分を国医だと言っていたけど、国医だったのは“ユーリ”だ。18年前に突如として現れた感染症の対処をするためにオレガノに出かけたあとで、あいつ――ユリウスと一緒に帰ってきた」  そうだったのかと内心する。小さい頃にユリウスと会った記憶はないが、あの雰囲気には覚えがあった。妙な安心感を抱いたのも事実だ。 「対処の結果はまあ世間でいうように水際対策の失敗を論われて、“ユーリ”は追われる羽目になった。そしてフォルスは旧軍部の奴らに囲まれ、関係のないイル・セーラたちも“ユーリ”を匿った大罪人として捕まった。  あいつは“ユーリ”を身代わりに逃げて、俺たちをノルマに売った。結果として俺たちが収容所に連れていかれたのも、“ユーリ”が死んだのも、あいつのせいなんだ。あいつだけが何事もなく生きている。オレガノ出身だからという理由で迫害を逃れることができた」  サシャの声が震えている。 「俺は“ユーリ”からおまえを託された。守る義務がある。だから、頼むからあいつに関わらないでくれ」  サシャの腕に力がこもっていく。おまえを死なせるわけにはいかないんだと、サシャが震える声で言った。  イル・セーラの掟として年少者が父親の名を継ぐ。父親の死、或いは成人をきっかけに名を継ぐのが一般的だ。家業を守るためにそうしてきたのだと“ユーリ”から教えられた。その話を聞かされたあと数日も経たないうちに旧軍部が押し入ってきた。血まみれの父親の安否もわからず収容所に連れていかれたのだ。気丈にふるまっていたが心にほころびが生じないわけがない。ステッキに絡みつく蛇が刻印された濃紺の制服を纏った男たちが脳裏に浮かぶ。ユーリはわかったと素直にうなずいて、いつかサシャがしてくれていたようにぽんぽんと背中を叩いた。 「サシャがそういうなら、近づかない」  サシャの腕の力が少しずつ弱まっていく。 「サシャ?」  数十秒の間もなく、寝息が聞こえてくる。疲れていたうえに、めったに怒らないのに怒って電池切れでも起こしたのだろうか。声をかけたけれど起きる気配がない。ユーリは寝入っているサシャを抱え上げてベッドに運んでやった。  ベッドに寝かせ、サシャの前髪をさらりと梳く。いつも以上に顔色が悪い。ああやってユリウスに怒鳴ったのも、だいぶ無理をしていたのだと思う。サシャは他人との間に軋轢が生じることを嫌う癖がある。だから家族以外には本音でぶつからないし、必要以上に慣れ合われるのを避ける。  さすがに二コラやキアーラに対しては慣れているみたいだし、リズはあの性格だからサシャが一線を引こうが引くまいがお構いなく、無遠慮にボーダーラインを越えてくる。それで慣れた、あるいは諦めたのだろう。サシャは最初に比べるとリズに対して牽制をしなくなったし、一緒に出掛けることすらある。  そこまで他人との距離を詰めたがらないサシャが、あんなふうに怒鳴ること自体が妙だ。ユーリに対しては昔から変わらないいじめっ子気質だけれど、気に掛けていなければたとえ同族だろうが見て見ぬふりをするのがサシャだ。  収容所にいたころはそうでもなかったが、大学の仮眠室にいるときのサシャは、寝入ってしまえばなかなか起きない。もう一度サシャを呼び、眠っていることを確認する。ユーリはサシャの額にキスをして、くしゃくしゃと前髪を乱した。 「まァ、大事なところで寝たんだから、俺がなにしても文句は言えねえよなァ」  ニヤリと口元をゆがめて、肩を竦める。ユーリはサシャを置いて仮眠室を出ると、急いで二コラのあとを追った。  さすがの二コラもユリウスを研究室に招くことはしなかったようだ。ユーリたちの研究班が使う応接室にユリウスを迎え入れるのが見えた。  ユーリが応接室に入ると、二コラはその行動を読んでいたかのように呆れた表情をした。 「やはり来たか、単細胞」 「わかりやすくていいだろ?」  二コラの嫌味など意に介していないとばかりに軽く肩を竦めて両手を広げてみせる。二コラが溜息を吐いて「サシャの胃痛の原因はおまえだな」と揶揄してきた。 「マジ? 調子悪かったからあの顔色だったの?」 「リズとキアーラが心配していたぞ。一昨日の夜勤前に『胃が痛い』と廊下で蹲っていたらしい」  一昨日の夜勤前と言われて、ちょうどあの不気味な男に遭遇したころではないかと思う。ユーリとサシャはときどき互いの不調を察知して、程度は違えど両方とも体調を崩すことがある。もしかしてそれだったんだろうかと内心しつつ、「俺がいなくて寂しかっただけじゃね?」ととぼけてみせた。それよりと、含みのある笑顔を浮かべて、ユリウスが座っているソファーの肘置きに腰を下ろして足を組む。 「ユリウス先生、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「サシャを怒らせて気を引きたいのか? ガキより質が悪いな」 「俺を留まらせたかったら縛ってから寝ればいいものを、寝落ちしたのは向こうだからな。フリーだからなにをしようが関係ない、俺の意思だ」  二コラがため息を吐く。呆れて物も言えないとばかりに右手で額を押さえた二コラをよそに、ユリウスが微苦笑を漏らす。 「大した情報は持っていないぞ」 「またまたァ。ご聡明なあんたなら、俺が聞きたいことくらい想像がついているのでは?」  ユリウスは腕を組んでユーリを見上げたが、見当がつかないと言わんばかりに首を横に振って見せた。 「さあ。きみほど意想外な発想をしない質でね」 「フェルマペネムの代替品は本当に作れるのか?」  本当に意想外だったようだ。ユリウスが驚いたように目を見張るのを見て、ユーリは満足そうに笑みを深めた。 「『サシャとの関係性』を問われるとでも思った? 俺ねえ、別にサシャがあんたをどう思っていようが、その逆がどうだろうが、どうでもいいんだよね。他人のいざこざに興味ねえの」  だから単純で正解のある数字のほうが好きと、人懐っこく笑う。ユリウスはなにも言わない。少しの間ユーリを注視していたが、笑みのなかにある冷たさを悟ったのか、視線を逸らした。 「でも、あんたがサシャに危害を加えるつもりでいるなら、容赦はしない。覚えている範囲内になるけど、収容所での出来事はすべて話していないし、あんたの不利になるようにでっち上げて収監することだってできる」 「俺は国医だと言ったはずだ、収監される筋合いはない」 「その国医に強姦されたって騒ぎ立ててやる」  ユリウスが溜息を吐いた。 「治療の延長だろう」 「最初の一回はそうでも、それ以外はどう屁理屈をこねるつもりだァ?」  鎌をかけたつもりだったけれど、それはアタリだったようだ。ユリウスの瞳孔が開き、動揺のせいか視線が泳ぐ。それを悟られないようにするためか目を閉じたが、もう遅い。ユーリはにやりと笑みを深めた。 「サシャがあんなふうに怒るのって、自分になにか危害を加えようとしたわけじゃなく、『俺になにかがあったとき』限定だって知らなかった?  ユーフォリアの効果軽減のためだと称して俺を抱いていたところを見られたか、それこそ俺を別の場所に移送させようとして、その目論見がバレたか」  どっち? と尋ねるが、ユリウスはなにも言わなかった。 「まあいいや、どっちでも。とにかく、サシャになにかするつもりなら、スラムで俺を襲うように指示したピエタの連中とあんたが繋がっているってでっちあげて、俺特製の自白剤で洗いざらい吐かせてやるからなァ。  ミクシアでは自白剤の使用が認められていないけど、『栄位クラスの人間』は特別なんだ。そも俺は薬学・疫学専門医だし、新しい薬の開発に囚人を使っていいって許可もらってるんだよね」  二コラが驚いたような顔をした。「え、知らなかったの?」と揶揄するように言ったら、二コラが大袈裟な溜息を吐いて両手で顔を覆った。 「誰だ、こいつにそんなやばい権限を与えたのは」 「え、軍部のドン・ナズマって人」 「あの野郎」  ぼそりと二コラが言う。ドン・ナズマ――アースィム・ナズマは、ミクシア軍のなかで珍しくノルマではない人だ。生まれながらにしてミクシア国籍だけれど、フィッチから戦火を逃れて移住してきたらしい。フィッチはネーヴェ族とバラク族が領土争いをして常に紛争をしている状態だと聞き及んでいるけれど、その実態はあまり知られていない。ドン・ナズマはそのバラク族とネーヴェ族、そしてノルマのワンエイスで、前政権のときにフィッチとの国交正常のために役職に就いた……いや、就かされたのだと話していた。  見た目は明らかにノルマではない。だからこそ目立つ。ミクシアでは珍しい漆を塗ったような黒髪はものぐさなのかくせ毛なのかところどころ跳ねているし、ユーリたちと似たロイヤルブルーの綺麗な瞳をしているが、いつも死んだ魚のような目をしているせいかそちらに印象が行ってしまう。身長はユーリと大差ないが、軍部に所属しているという割には鍛えていなさそうな細い体躯のせいで、軍服に着られているような、若干だらしない印象を抱かせる。  来夏には軍部に所属する立場とはいえ、自分の上司になるかもしれない相手に二コラが悪罵を吐くということは、つまりはそういうことだ。あの人は自由気ままな風来坊で、ユーリがびっくりするくらいに仕事をしない。彼が唯一仕事をしているのを見たことがあるのは、ユーリが北側の関所近辺でマフィアの連中と押し問答をしていた時に、あの細い体躯のどこにそんな力があるのかと思うほどに簡単に捻じ伏せ、5人もいた男たちを鎖で引っ張って連れて行ってしまった。エリゼとも通ずる『謎の強さ』を誇る人だけれども、あの人が機敏に動いていたのはその時以外見たことがない。大体いつも大学の屋上か、救急病棟の屋上で寝ていて、度々顔を合わせるためか仲良くなったが、そのことは二コラに伏せておいたほうがよさそうだと踏む。 「ま、そんなわけで、俺に危害を加えるのは別にどうでもいいんだけど、サシャになにかするつもりなら、『解剖魔』って噂のドン・ナズマを誑かして、てめえの内臓ぜぇんぶ研究用に献上してやっからなァ」  「大人のイル・セーラは俺ら以上に希少価値が高いってことを忘れんなよ」と、嚇すような口調で言ってやる。ユリウスと二コラがほぼ同時に「物騒なことを言うんじゃない」と語気を強めた。 「絶対にドン・クリステンにお伝えしてそのおぞましい許可証を撤回させてやる」 「なんでよ? 建設的と思わない?」 「どこがだっ」  「あの野郎、この危険人物になにをさせるつもりなんだ」と嘆くように二コラが言う。ユーリのセリフが半ば冗談ではないと悟ったのか、ユリウスが眉を下げて首を横に振った。 「俺は初めからサシャにも、きみにも危害を加えるつもりなんてない」 「あっそ、じゃあ普通に答えられるよなァ? あんたがどこに助命嘆願に行ったのか知らないが、助命嘆願は受け入れられず、代わりにフェルマペネムを、もしくは相当の代替品を作れと脅された。それで”ユーリ”に調合法を聞き出そうとしたけれど、”ユーリ”は決して答えなかった」 「そうだと言ったら?」  目を伏せたまま、ユリウスが言う。瞳の動きで動揺を悟られまいとしているようだ。 「いまもまだフェルマペネム、そして相当の代替品の作り方が分からない、だから協力するふりをして情報を引き出そうとしている。或いは、尻尾を振りたい相手に脅されて、俺たちがフェルマペネムの再現は不可能だと証明しようとしていることすら妨害しようとしている――どっちだ?」  ユリウスはなにも答えない。代わりに二コラがユーリを呼んだ。 「失礼だろう、ユーリ。ユリウスはオレガノ政府から正式に調査を依頼されているそうだぞ」 「へえ、オレガノ政府にねぇ」  ますます怪しい。本当にオレガノから直々に頼まれているのであれば、わざわざヴェッキオに赴かなくとも、本国で作ればいいだけの話だ。ユリウスがくれた薬草図鑑には自生地も記されており、フェルマペネムの代替品に使用する香木、薬木はすべてオレガノにも自生している。それに土壌の成分によって薬効が変わることがあるため、その土地でとれた香木、薬木を使用するようにと“ユーリ”からは言われている。それを知らないわけではないだろうとユーリは楽しそうに口元を怪しくゆがめ、八重歯をのぞかせた。 「なァ、ユリウス。聞かせてくれよ。あんた、なにが目的なんだ?」  ユリウスは大きく息を吐くと、数秒ののちにゆっくりと目を開いた。そしてユーリに視線をよこすと、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。 「やはり親子だな。無鉄砲で要らんことに首を突っ込みたがるところがよく似ている」 「そりゃどうも。俺からしたらあんたも大概だと思うけどね」 「そうかもしれないな。特使様に媚びを売っておきたくてヴェッキオに行ったんだが、生憎と彼らは薬木の場所を教えてくれなかった」  特使と言われて、ユーリは目をまん丸くさせた。 「特使って、オレガノの?」 「そうだ。きみの言うとおり、フェルマペネムの代替品の調合法を研究している。“ユーリ”がなにも吐かなかったものでね。なにもわからないんだ。  Sig.オブリのことも特使様が探っておられる。だからきみが首を突っ込むことではない。軍部に任せておけ。いいな」  強い口調でユリウスが言う。ユーリはきょとんとした表情のまま、こくんと首を傾げた。 「なんでオレガノの特使がSig.オブリのことを探る必要があるんだ?」  ユリウスと二コラが同時にため息をついた。 「首を突っ込むなと今しがた言われたばかりだろう。舌の根の乾かぬ内におまえは」  二コラが呆れたような声色で声を荒らげた。 「いや、だって、おかしいだろ。ジャンカルロですら風のうわさだって言っていた人物を、なんでオレガノの特使やユリウスが知ってるんだよ? 二コラでさえ知らなかったじゃないか」  ユーリが言うと、二コラは苛立ったように自分が座っているソファーの横を叩いた。どうやらここに座れと言っているらしい。指示されたとおりに二コラの横に腰を下ろす。二コラに声をかけようとした途端、耳をグイっと引っ張られた。 「いいか、おまえの勝手耳をこじ開けてよく聞け。このことは機密事項に設定された。つまり、俺やおまえ、ユリウスも本来耳に入れることがないはずの事態だ。わかるか? 首を突っ込めば最悪処刑だぞ」 「それって軍部が緘口令を敷いた……ってこと?」 「そうだ。Sig.オブリはコードネームのようなもので、その独裁的かつ支配者のような気質を持つ者を指す。フォルスで会った彼が本当にそうなのだとしたら、国家の危機なんだ」  ユーリは理解しがたいという表情だ。二コラを見上げ、少し唇を尖らせる。 「俺にわかるように説明して」 「十分にわかるように説明してやっているだろうが。フォルスで会ったあの男が本当にSig.オブリ本人なのだとしたら、国家転覆ならびに叛逆の可能性がある。だから一般人である俺やユリウスが関わるような事件でもなければ、そもそも軍部の保護下にあるおまえは絶対に首を突っ込んではならないし、むしろ顔を合わせたことで存在を知られたと言っても過言ではない」  叛逆とユーリがつぶやく。いまいち的を射ない様子のユーリを見て、二コラが大袈裟に舌打ちをした。 「おまえはバカなのか!? なぜ軍部がおまえとサシャの保護をと言い始めたのか、忘れたのか!?」  二コラが声を荒らげた。ユーリはきょとんとして、視線をさまよわせた。 「聞いたっけ?」  この野郎と二コラが唸るように言ったあと、無理やり顔を掴まれて二コラのほうへと向かされた。 「ミクシア市街にほど近い『スコルザ』という町で、イル・セーラのこどもが誘拐された」 「え、ミクシアの外にイル・セーラがいるって一昨日初めて知ったんだけど」  「そこからかよ」と二コラが項垂れた。本当に聞いた覚えがない。違うことを考えていたのか、聞き流していたのか、それとも時々訪れる記憶の混乱のせいだろうかと考える。 「まあいい。それで、その子どもの誘拐被害を届け出るためにミクシアに来たその夫婦だが、軍部に嘆願書を認めてそのドン・ナズマに手渡したあと、スコルザに戻る途中で何者かに惨殺されたんだ」  ふうんと、ユーリがまるで他人事のように言う。二コラがユーリの顔を掴んだまま、天を仰いだ。 「おまえは本当に人の話をちゃんと聞かないな」 「聞いてるよ。その夫婦はフォルス出身者で、それ以外にもフォルス出身者や周辺の出身者が次々に殺されたことから、保護対象になった……って認識であってる?」  二コラが意想外な顔をする。フォルス出身者という情報をまだ出していなかったからだろう。きな臭さはこれかと内心する。“ユーリ”とクロードの血筋に近い者、髪の色や目の色が近い者は全員南側のスラムに収容されているとサシャから聞いた。とすると、エリゼが言っていた『ミクシア固有のイル・セーラの個体数』も強ち間違っていない可能性が浮上する。  おそらく町を出ることを許されたのは、それ以外のフォルス出身者や周辺地区の出身者、そして“スタンダードなイル・セーラ”だろう。自分たちとは違い、トゥヘッドよりやや濃いめのブロンドの髪かオレンジゴールドの髪に、ヘーゼルの目を持つイル・セーラは、収容所にいるときにも多く散見された。比率的に一番多かったのではないだろうか。だからこそユーリとサシャ、そのほかの一部のフォルス出身者の髪の色は目立ち、目を付けられることも少なくなかった。 「その夫婦だけではなく、オレガノから来たイル・セーラも、埠頭で姿を消したという情報が入っている。だから勝手にアンゼラ地区を出ることが許されないし、監視を付けられるように軍部預かりになった……と、前にも説明しただろうが!」  三度目だぞと、二コラが勢いよくユーリの顔を両側から潰す。痛いとその手を払いのけ、恨めしそうに二コラを睨んだ。 「知らねえよ、他所事でも考えてたんだろ」 「おまっ、自分のことだろうが!」 「あー、あー、うるせえなァ。そもそも、叛逆って何? なに目線? どこ目線? 誰が、なにに対して、どういう叛逆をしようとしているってわけ?」  二コラがため息をつきながらソファーの背もたれに身体を預けた。「首を突っ込むな」と壊れた機械人形のようなか細い声で言うのを聞きながら、ユーリはユリウスに視線をやった。 「ミクシア、オレガノ双方に対する叛逆として考えるなら、その人物はオレガノにもミクシアにも影響力がある人物ってことにならないか?」 「正体が分かれば苦労しないよ。彼がどのような立場の人間で、どのような危険思想を持っているかが定かではないため、一般人は関わるなということだ。先ほどピエタの部隊長殿も言っていたけれど、ユーリとサシャ、俺にもしばらくの間護衛をつけるそうだ」 「俺の護衛は二コラ限定で」 「残念だったな、お前の護衛はエリゼだ」  マジかと口の中で呟く。エリゼとはあの一件以来顔を合わせていないが、ナザリオが最も信頼を寄せ、且つ危険が差し迫った時に利き腕にできる相手だ。二コラやジャンカルロではなくエリゼが護衛につくということは、ナザリオは相当に警戒しているということなのだろう。ユーリは観念したようにホールドアップして見せた。 「はいはい、首突っ込まなきゃいいんだろ」 「本当に大人しくするんだな?」  二コラがじろりと睨みを利かせてくる。ユーリは「もちろん」と明るい口調で言ってのけた。 「俺が今すべきことは、フェルマペネムの再現は無理だと政府に知らしめること。仮にその段階で“フェルマペネムの代替品”ができてしまうことがあったとしても、俺には政府への報告義務がない」  二コラが目を白黒させる。怪訝そうに眉を顰め、どういうことだと尋ねてくる。 「なんで俺がフォルスに行きたいなんて言い出したか、そのうちにわかるさ。サシャも言っていたけど、『再現は無理』だ。きっと調合法もわからなければ使用した薬品も不明。ユリウスが本当に“ユーリ”にフェルマペネムの調合法を聞きに行ったのだとしたら、それでもなおわからないということは、そういうこと」 「そういうこととは?」 「誰も再現することができないことを知っていて、政府が俺たちに揺さぶりをかけてきたか、俺がフォルスに行くことで方法が分かったらおこぼれを狙っているか」  二コラが怪訝な顔をそのままに、眉間のしわを深くさせる。言葉の的を射ない様子の二コラを尻目に、ユーリはユリウスに視線を向けて悪戯っぽく笑った。 「なァ、ユリウス。フェルマペネムはオレガノでは一般的なもので、オレガノ出身で且つ国医であるあんたが調合法を知らないなんて、なんでなんだろうなァ?」  ユリウスはなにも言わない。ただユーリを見ているだけだ。その瞳が揺らぐのをユーリは見逃さない。挑戦的な表情をそのままに、ユーリはすっくと立ちあがった。 「まあそれも追々明らかになるだろうけど、俺はサシャの勘が当たらないことを祈るよ」  同族を敵視したくないからなと、ユーリが告げる。ユリウスは薄く笑って観念したように両手を広げて見せた。こちらに敵意はないと言いたげだが、サシャのあの剣幕は異様だった。 「二コラ、ユリウスを証人にすれば『フェルマペネムの再現は現状無理だ』と証明できる。オレガノにも資料がなく、且つ国医であるユリウスもその方法を知らない。つまり、一介の学生である俺たちにそんなことができるはずがない――ってことだよなァ」  ユリウスは苦虫を嚙み潰したような表情だが、ややあってホールドアップしてみせた。 「承知した。その件に関する証明は俺がしよう。その代わりといってはなんだが、サシャにもう一度会えないだろうか?」  ユーリは白けた表情をして肩を竦め、立てた親指を下にして首を掻っ切るジェスチャーをした。 「刺されたくなかったらやめておいたほうが無難だぞ」 「なら、本当に俺には悪意も敵意もなかったことを伝えてくれ。俺はただ、あのとき、“ユーリ”とおまえたちを助けるためにオレガノに行こうとしたが、引き上げの便に乗船拒否をされた挙句に密航を疑われて旧軍部の収容施設に入れられた。本当だ。記録が抹消されてさえいなければ、証明できるはずだ」 「それを証明して、どうしろと?」  ユーリはどこか浮かない表情でユリウスを見やる。表情が物語っているが、そのセリフに嘘はない。いつものユーリなら、それを手放しで信じただろう。けれど“あの”サシャが人前でユリウスを罵倒した。尋常ではない。ユリウスとサシャの関係は測りかねるが、少なくともユリウスはサシャに誤解をされたままだと困るなにかがあるようだ。 「ユリウスにフェルマペネムの再現は困難だと証明させたとして、政府はおまえたちの国外追放を撤回するだろうか?」 「それはナザリオの交渉の腕の見せ所だろう。さっき言ったろ? 証明段階で“偶然代替品ができてしまう”こともあるかもしれない、って」  二コラが苦い顔をする。ユーリは余裕気な笑みを深めてみせる。 「ユーリ、おまえ本当になにをするつもりなんだ?」 「んー? 内緒」  おどけたように言って、明らかに疑いのまなざしを向けているニコラに視線を落とし、にっと笑って耳元に顔を寄せた。 「もし俺が約束破ったら、あんたの好きな騎乗位で俺が泣くまで責め立てさせてやるよ」  二コラの顔が赤くなる。その反応をせせら笑って、ユーリは手をひらひらと振って部屋を後にした。

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