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Three(5)

 フォルスの遺構に向かってから一週間が経過した。  ユーリはあのあとフォルスの遺構からミリタリーボックスを持ち帰ったことが原因でサシャと大喧嘩をして、いまに至る。その日からずっと研究室にもアパートにも戻っていない。ジャンカルロの自宅に転がり込み、フォルスから持ち帰った何十冊もある古い書物を読み漁っている。  フォルスの地下室に置いてあった書物は、やはりユーリが睨んだ通り宝の山だった。もうすでに失われたと思っていたイル・セーラ古来の技術がふんだんに記載されている。文字はすべてステラ語ではなくそれよりももっと古くからある言語で記されていることもあり、誰も読むことができないから堂々としている。先日あの男が言っていた、メテル・ドムのことも記載されている。神経毒。催淫剤。ところどころ文字が滲んで読めない部分もあるが、おそらくあの男は例のイル・セーラから常に微量の毒を盛られ、脳が反応する痛みと快楽以外感じなくなっていたのだろう。微量のシレンツィオが彼に効かなかったのもそれなら納得がいく。  次のページをめくって、ユーリは目を見開いた。フェルマペネムに関する記述だ。フェルマペネム≒パナケイン。サシャも言っていたように、フェルマペネム自体は“ユーリ”にとって取るに足らないもののようだ。パナケインとの記載に、ユーリは自然とあァと声を出していた。  子どもの頃に川で怪我をしたときに飲まされたことがある。地獄のように不味くて苦い、あの。反芻して、眉間にしわを寄せた。パナケインの材料の項目に視線を落とす。ざっくりとしたイラストが描かれている。この花弁と葉の雰囲気はルシアだろうか。この絵を描いたのが誰かはわからないが、もしも“ユーリ”だったならと思い返し、ユーリは薄く笑った。子どもの頃、“ユーリ”はなんでもできる人だと思っていたものだから、もし“ユーリ”がこれを書いたのだとしたら、なかなかに悪い意味で絵心がある。サシャのがうまいじゃんと笑っていた時だ。 「よう、ユーリ。今日は焼きリンゴだぞ」  ジャンカルロがひょこりと顔をのぞかせた。シナモンのスパイシーさとはちみつの心地よい甘さが絡んだ良い香りと共に近づいてくる。ユーリはパッと顔を上げて読みかけのページにブックマーカーを挟んだ。  目の前の簡素なサイドテーブルに焼きリンゴが入ったシルバープレートが置かれた。リンゴひとつを食べやすいようにカットしてあり、たっぷりと掛かったシナモンが鼻腔をくすぐる。 「んー、シナモン最高」  「もっと振っていい?」と尋ねると、言われることが分かっていたかのようにジャンカルロがシナモンの粉末が入った小瓶をテーブルに置いた。 「しっかしおまえは見た目によらず少食だな。たまには肉を食え、肉を」  「ガリガリじゃないか」とジャンカルロがユーリの肩口を触る。そんな言われるほど細くはないと反論したが、その実ユーリはかなり細身だ。筋肉がそこそこついているものの、軍の訓練に参加している二コラや、現役の傭兵であるジャンカルロと比較するとずいぶん心もとない。普段の食べ物や体質、成長期に収容所にいたことも関係しているのか、週に二度ほどナザリオやエリゼと護身術の訓練をしているが、目立った筋肉がつかないのだ。 「ほどほどには食べてるよ。だけど果物のほうが効率がいいんだ。腹も膨れるし水分や糖分そのほかビタミン類も摂れる」  ユーリはシナモンを振りかけると、ジャンカルロが持ってきた焼きリンゴを添えつけられたフォークで刺して、口の中に放り込んだ。 「うっま」  感動したように声を上げると、味わうように何度も咀嚼する。ジャンカルロは大げさなと笑いながら近くのソファーに腰を下ろした。  中流層街の物価はかわいくない。一緒に買い物に行くたびにリズがブーブー文句を言うほどだ。もちろん食べ物の質もすべて異なるが、下流層街で安いものを仕入れて食べるほうがユーリの性に合っている。スパツィオ大学の研究医の給与は軍部の准士官と同等、栄位クラスともなれば士官の中間職と同等かそれ以上の給与がもらえるため、決して生活に困窮しているわけではない。ただユーリに関しては自費でいろいろと研究していることもあり、食事に困ることも多々あるほどだ。 「理由、聞かねえの?」  ふたつめの焼きリンゴに手を伸ばしながら、ユーリが尋ねた。 「理由?」 「俺が一週間も帰らない理由」  何食わぬ顔で言ってのけ、焼きリンゴをほおばる。いつものジャンカルロならサシャが心配するから連絡をしておけだのなんだのと小言を言うはずが、なぜか今回は手放しで泊めてくれている。ジャンカルロはそうさなあと間延びした言い方をした。  二コラと同じく一週間のバカンスを余儀なくされた。そう言ってジャンカルロのうちに転がり込んだから、わざわざ帰れと言わないだけなのかもしれない。  みっつめ、よっつめと焼きりんごを頬張り、ふと気づく。バターが入っていないから抜けたような味がして気がつかなかったが、これは“ユーリ”が良く作ってくれていたものだ。ユーリの好物が焼きリンゴだとジャンカルロに伝えた覚えはないし、作り方を教えた覚えもない。そういえば昨日のお菓子も角切りりんごがふんだんに使われたマフィンだった。この作り方を知っていて、微妙に再現しきれない料理の腕前の相手は、自分が知る限りでは一人しかいない。 「サシャか」  どうりでジャンカルロが作ったものにしては締まりのない味だと思ったとぼやくようにいう。サシャはどういうわけか料理があまり得意ではない。収容所を解放されてからはずっとユーリが家事全般をやってきたせいかもしれない。少し甘やかせすぎたかと独り言を言う。 「一度サシャときちんと話してみたらどうだ? どうせフォルスの遺構に行った本当の理由をきちんと話していないんだろう?」  ジャンカルロの諭すような言い方には腹が立たない。そうしなければならないことはわかっている。意地の張り合いなんていいものじゃない。腹が膨れるならまだしも無駄にエネルギーを消費してしまう原因のひとつだ。ユーリは最後の焼きりんごを頬張り、咀嚼しながら考えるように視線を彷徨わせた。  話したところでサシャから言われることはわかっている。深入りするな。出過ぎるな。それはわかっているが、最低限の予防線を貼っておかなければ何事かあった時に対処ができない。攻めるにしても逃げるにしてもだ。  昔からサシャの方が用心深い。手の内を見せず、腹を割って話すことがない。もちろんそれは家族以外に対してだが、収容所を出て以来サシャときちんと向き合って将来の話をした記憶がない。寮にいた頃はニコラと同室だったし、栄位クラスに来てからは共に疫学と外科を主に担当しており、勤務がほぼ入れ替わりの状態なのだ。そのため休憩室で当たり障りのない会話をするか、ふたりで仮眠をとるか、そのどちらかになっていた。  ユーリはなにも言わずに本を手に取り、ブックマーカーを挟んでいたページを開いた。  フェルマペネムの再現は無理でも、パナケインならばなんとか作れなくもない。やはりユーリが睨んでいたとおりだ。効果、効能、代替成分、すべてにおいてフェルマペネムよりもパナケインのほうが安全性が高く、且つ安価で作ることができる。ただこれを作るにはルシアが必須だ。 「料理が得意なわけでもないのに、せっせと弟の好物を運んできてくれるなんて、いい兄貴じゃないか」  そう言われて、ユーリは大げさに肩を竦めてみせた。ここにきた初日のおやつがラヴィ(下流層街にある唯一のスイーツショップ)のプリンだったのは、サシャが届けてくれたからなのだと納得した。 「あんたサシャになにか言ったの?」  書物を読み進めながらユーリが問う。 「いいや、べつに。機嫌を損ねたガッティーナ(子猫)をあやすには好物を届けるのが手っ取り早いと独り言を言っただけだ」  言ってんじゃねえかと声をとがらせた。  ルシアのかわりになるものと考えていると、ふとシナモンの小瓶が目に入った。 「ねえ、カンフォーラ(クスノキ)ってこのあたりで見たことある?」 「いやぁ、ねえなあ。エスペリにならあると思うが」 「だよなァ、やっぱ気候かァ」  こればっかりはなァと誰に言うともなくつぶやいて、書物の続きに視線を落とす。ジャンカルロがあやすような声でユーリを呼んだ。ユーリはジャンカルロに視線をやった。話の続きを促すような表情だ。ユーリはふうと息を吐いて、また書物に視線を落とした。 「言っておくけど、ケンカをしたからなんて理由でここに転がり込んだわけじゃないからな」  ページをめくりながらユーリが言う。ジャンカルロははいはいと軽くいなし、ユーリの頭を豪快に撫でた。 「バカンス直前にサシャと盛大なケンカをしたそうじゃないか。サシャは『俺の顔を見たくないのかもしれない』と言っていたぞ」 「それはある。でも誤解だ」 「どっちだよ」  ジャンカルロが笑う。突発的に家出をしたわけではないし、サシャには予めバカンス中はジャンカルロのうちに行くときちんと告げている。フォルスの遺構に行ったことで揉めたというよりも、それはあくまでも副産物のようなものだ。  原因はこの書物たちだ。貴重なものだから“ユーリが”地下室に隠していたんじゃないのかと詰られ、そこからはもう売り言葉に買い言葉で、二コラとナザリオが止めに入るほどのケンカは初めてした。フォルスから持ち帰ったコンテナやミリタリーボックスのほとんどはジャンカルロに預かってもらっていたこともあり、ユーリは一方的にジャンカルロのところに行くと告げて出てきた。サシャの言い分が分からないほど子どもではないが、ああして尻込みをしていてはなにかがあった時に策を講じることもできない。手管は多いほうがいい。それがユーリの主張だった。  対してサシャは、見て見ぬふりをしろ、知らないことは知らなくていい、首を突っ込むなと厳しい口調で言ってのける。いつものことだ。けれども、剣幕がいつもとは違っていた。ユリウスと出会ったからだろうか。それともフォルスから持ち帰った書物だからだろうか。じゃれ合って叩かれることはあっても、本気で殴られたことはただの一度もない。もうすっかり痛みはないが、ユーリはサシャに殴られた頬を擦って、もう一度さきほどのページを開いた。  ルシアとシナモンは効能が似ている。けれどシナモンは樹皮、ルシアは根の部分を使用する。効能は似ていたとしても成分の含有量が違っては意味がない。それを一から調査するのもなあと口の中でぼやく。  その先の記述に、ユーリは目を瞬かせた。パナケインに必要な材料はサシャに、調合に必要な分量はユーリにと“ユーリ”の字で殴り書きがしてあったのだ。ユーリは唇を触った。調合に必要な分量と言われても、心当たりがない。一体なんのことだろうと考えながら、ユーリはトレイに乗っているティーカップを手にして、少し冷めた紅茶をすすった。 「最近、なんか見られてる気がすんだよ」 「見られてる?」  ティーカップを戻し、うなずく。ふとしたときに視線を感じるのだ。大学近くのアパートはセキュリティーもわりときちんとしているし、ピエタの派出所が近くにあるためにそうそう事件など起きはしない。けれどなんとなく落ち着かないため、ユーリもサシャもほとんどそちらには帰らないでいる。 「その感覚は、フォルスに行ったあとからなんだ。ユリウスがなにか画策しているのか、それとも別の――、ほら、Sig.オブリとかいう」  ジャンカルロがああと声を出す。 「フォルスからここまでどれだけ車を飛ばしてもゆうに16時間はかかる。国境警備隊がわざわざ俺たちを監視するためにここに赴くなんてのは非現実的だけれど、もし、仮に、ユリウスがそのSig.オブリの手先だったら、――。なんて、サシャが言うんだよ」 「なるほど、それでケンカに? サシャはユリウスのことが気に入らない様子だったらしいな」  気に入らないというよりは、もっと別の感情だけれどと、心の中で呟いて、ユーリはもう一口紅茶を啜った。 「休暇となったら大学の仮眠室に入り浸るわけにはいかないだろ。かといって俺たちにはこちらに知り合いはいないし、アパートに戻るのも気が休まらない。ずっと一人でいるのは気味悪い」  じつをいうと、キアーラやニコラからも家に泊まってよいと声をかけられた。けれど上流階級街はどうにも肌に合わない。“あの”二コラが家では『旦那様』なのだ。煽れば簡単に乗ってきて、自分の上で無様に腰を振るあのニコラが、だ。笑いが出そうで堪らないと揶揄し、固辞した。  その経緯を話すと、ジャンカルロは苦い顔をしてガシガシと頭を掻いた。 「おまえが奔放なのは知っていたが、まさか二コラにまで手を出させていたとは」 「まあ、ほぼほぼ事故だったんだけどな。大学に入学してすぐに、上級生に薬を打たれて、それで」 「そいつらはちゃんと処罰されたのか?」 「一応。だからそいつらの線も疑ったんだけど、一人は軍部でしこたま扱かれていて、もう一人はエスペリの前線に行かされているって話だ。エリゼの話だから間違いない」 「なるほど。それで“いざとなれば用心棒にもなる”俺に白羽の矢が立ったわけか。サシャも休暇なのでは?」  ジャンカルロに問われ、ユーリが頷いた。サシャは最悪研究室のソファーで寝泊まりすると言っていたけれど、そんなことをしたら寝ている間に顔中落書きまみれにしてやるとリズに脅されていた。そう話すと、ジャンカルロが明朗に笑った。 「うちに来いと伝えておいてくれ。なんならアシルに迎えに行かせる」 「ありがとう」 「気にするな、サシャがいるとアシルが喜ぶ」  アシルはジャンカルロの義理の息子だ。なぜかサシャとよく馬が合い、下流層街に買い物に行くときには大抵一緒に行っている。普段はジャンカルロのパニーノハウスを手伝っているが、ジャンカルロと同様流れの傭兵でもある。  しかし妙だなとジャンカルロが口火を切る。 「見られていると言っても、おまえの部屋は二階だろう?」 「一応盗聴器とかの類も調べたんだけど、そういうのは一切ないうえアパートの住人もほぼ全員がうちの学生だから、思い過ごしだといいんだけどさあ」  思い過ごしだと言えないような妙な感覚があるのも事実だ。自分だけではない。サシャもそう言った。二コラに言えば面倒なことになるだろうし、かといってなんの証拠もないのにナザリオやエリゼに相談するのも余計な気を遣わせるだけだ。ジャンカルロなら頼めばなんとかしてくれるという安心感がある。 「ここにいる間にその感覚は?」 「だから敢えてこの部屋にきたんだ。ここは隣のビルに面している側と山側にしか窓がないだろ。当然、見られている感覚はなかった」  ジャンカルロが覗き魔の犯行じゃないかと肩を竦めて見せた。 「ほかになにか心当たりはあるのか?」 「あるわけないだろ。そりゃイル・セーラだからと一方的に色眼鏡で見る奴はいるけど、不特定多数の人間と関係を持つなんて面倒くさくてやってらんねえよ」 「じゃああるとしたらナザリオかエリゼか監視してるってところじゃないのか?」  あの二人ならばあり得ない話じゃない。たしかに護衛につくと言った割にはナザリオもエリゼもあまりユーリの周りに現れない。その理由が双眼鏡かなにかを使っての監視……というなら笑えるが、そういう視線ではない。  ユーリはあからさまに嫌そうな顔をしてガシガシと頭をかいた。笑い話で済ませられるがそういう感覚ではなく、もっと別の、不気味で闇を孕んだ気配がしたのは確かだ。けれどこれ以上ジャンカルロに話して事を荒立てるのは得策ではないと考え、ユーリは冷めた紅茶を一気に飲み干し、カップをトレイに戻した。 「だったら帰ってあいつらにプライバシーの侵害だって文句言ってやる」  御馳走様とぶっきらぼうに言ってのける。ジャンカルロは豪快に笑っておうと返事をした。サシャのことよろしくなともう一度念を押して、ジャンカルロが部屋をあとにするのを待つ。階段を降りる音を聞きながら、ユーリは再び書物に視線を落とした。 ***  大学に戻り、仮眠室をのぞく。昼下がり、サシャは夜勤明けで眠っているようだ。簡易ベッドには頭まで布団をかぶって眠っているサシャの姿がある。ユーリはおもむろに近づいた。  夜勤明けで眠たいだろうに、わざわざ焼きりんごを作って届けてくれたのだろう。起きる気配がなくすうすうと寝息を立てている。  ユーリはそのまま近くのソファーに腰を下ろし、読みかけの書物を開いた。  ユーリが次に読んでいるのはユーリの日記だ。18年前に発生したアルマに関すること、薬草の効率的な利用方法、サシャやユーリに関することが記されている。殊更目を引くのはアルマを媒介にした生物兵器の製作を持ちかけられたという部分だった。誰に持ちかけられたのかは記されていないものの、日記はその数日後に途絶えている。おそらく地下室までは旧軍部の目に届かないと思い、ミリタリーボックスに忍ばせたのだろう。  ユーリはこの日記の存在を知らなかった。フォルスの遺構に行けば”ユーリ”が残した書類のひとつやふたつくらい残っているのではないかと思っていたが、残されていたのはひとつどころではない。全て焼かれたはずの、いまとなってはかなり貴重な書物ばかりが残されている。この存在がバレたら没収で済めばいいが、下手をすると殺されかねないほど際どい事実が書き綴られている。  ちらりとサシャをみやる。規則正しい寝息が聞こえる。このことをサシャに話したとして、もしなにかしらあった場合にサシャにも片棒をつがせることになってしまう。ユーリは眉間にシワを寄せながら書物を視線を戻した。  アルマはDNAウイルスであるためにワクチンの有用性は高く、基本構造からもβ‐エクレム系抗ウイルス薬が効果を発揮する。しかし18年前にアルマが蔓延したときにはミクシアの人口の19%が亡くなるほどの死者を出したそうだ。そのなかにはイル・セーラは含まれていない。  ここから導き出せることはふたつ。ノルマには基礎知識がなかったのか、あるいは知っていて見て見ぬ振りをしたか、だ。基礎知識がないことはあり得ない。ノルマ族とイル・セーラの医療の考え方は両極端で、ワクチンや抗ウイルス薬に頼るのはノルマ族の基本的な考え方だ。それゆえに異常なほどのパンデミアを引き起こしたのは、なんらかの理由で政府がなにかを隠蔽したのだろうというのが”ユーリ”の見解だったようだ。  ”ユーリ”を殺したのは生物兵器の制作をと要請してきた相手で間違いない。そんな要請をするくらいだからまあまともな相手ではないだろう。そう思いたいが、”ユーリ”が国医だったならあらゆる国の要人と接する機会がある。要人の暗殺狙いか、或いは国家転覆を狙ったテロリストからの要請か。いずれにせよ暴けば危険が伴うのは明白だ。  サシャが唸った。背伸びをし、寝返りをうった。もそもそと布団の中に潜っていく。まだ起きる気はないらしい。  さて、どうサシャに切り出そうか。フォルスの遺構に行ったのは、子供の頃にユリウスからもらった薬草図鑑が残っていればいいなという安易な考えと、ユーリが遺した書類がないかという淡い期待からだったのだが、とんでもない掘り出し物を見つけてしまった。ほとんどの書物はジャンカルロの家に置かせてもらっているが、サシャのバカンス中には目に触れないようにしなくてはならないなと思案する。  最後の方のページが1枚破られているのに気付いた。そこを開くとフォルムラ語でなにかを書き殴ったあとがある。インクで消されているために読めないが、そのページは不自然さしかない。ユーリは仮眠室の使用記録をつけるための鉛筆を持ってくると、そのページ全体を鉛筆で薄く擦った。うっすらと字が浮かび上がってくる。ユーリはその内容に目を見張った。ユリウスに助けを請うための手紙だったようだ。殴り書きでところどころかすれて読み取れないが、軍部、処刑、子供たちの助命をという部分だけははっきりと読める。家族への手紙以外にはほぼ使わない「親愛なる」という意味の単語を名前の前につけていることから、”ユーリ”とユリウスは相当に深い仲だったことが窺えた。 「これを書いた後に、”ユーリ”は」  殺されたか、或いは逃げたか。他のページとは異なり、緊迫感のある、鬼気迫るような殴り書きがその時の”ユーリ”の心情を反映しているかのようだ。  ユーリは書物を閉じて、タクティカルバッグに押し込んだ。これはサシャに話してはいけない。ユリウスに対して余計にでも嫌悪感を懐く。いまさらどう諭したところでサシャのユリウスに対する気持ちが変わるわけではないのだから、これは自分の胸に秘めておこう。  立ち上がり、サシャに近づく。相当に疲れているらしい。15時すぎても起きてこないなんて珍しいにも程がある。まさか具合が悪いのだろうか。サシャの額に手をあてがう。熱い。思わず布団を剥いだら、サシャが迷惑そうに唸った。 「報告書はデスクに置いてるから適当に食べてくれ」  はっきりとそう言った。ユーリは吹き出したあとでマズいと口を覆った。サシャは起きていない。報告書なんてヤギじゃないんだから食べられるわけがないと心の中でツッコミをいれる。普段あまり冗談を言うことのないサシャが寝言で謎なことを言うなんて思いもよらないことだ。笑いを飲み込もうとしたが、堪えられない。くっくっと笑っていると、服の裾を掴まれた。 「布団を返せ」  サシャが恨みがましく言う。どうやら起こしてしまったらしい。 「なんなら布団がわりになってやろうか?」  冗談めかして言ったら、勢いよく身体を引っ張られた。サシャに覆い被さるような体勢になる。  サシャを呼ぶ。サシャはぼんやりとした寝ぼけ眼でユーリを注視する。両手が伸びてきて、わしわしと頭を撫でられる。 「靴は脱げよ」  サシャがベッドの端に寄った。横にこいと言いたいのだろう。ユーリは言われたとおりにブーツを脱いでベッドに上がって横になった。眠たそうなサシャの顔が見える。 「ユーリのことだから、フォルスの遺構に行ったのはなにか訳があったんだろうとは思った。だけど、あのときのことがどうしても過ぎって、つい言わなくてもいいことを言ってしまった」  ごめんなと、サシャ。ユーリは首を横に振った。 「焼きりんご、うまかった」  サシャが苦い顔をして目を伏せた。 「なんだって美味いというくせに」 「バターが入ってなかったのが惜しかったのと、マフィンの角切りリンゴは生じゃなくて乾燥リンゴを使うのが最適だぞ」  あれはあれで生地がしっとりしてうまかったけどと継ぐ。サシャはダメ出しすんなと笑ったあとで、もう一度ユーリの頭を撫でた。 「正直おまえが羨ましいよ。俺はフォルスの遺構に行きたいとも、行こうとも思わない。調査を頼まれたとしても、近づくだけで吐き気がしそうだ」  ぽつりとサシャが話し始めた。俺も気分悪くなったけどなと冗談めかして笑う。あのときのことをはっきりと覚えているサシャとうろ覚えの自分とは、精神的なダメージも違うだろうと付け加える。 「確かめたいことがあったんだ」 「確かめたいこと?」  うなずく。うなずいたあとで紡ぐ言葉を考える。 「ナザリオが8年前にフォルスの遺構で”ユーリ”に助けられたと言っていた。自分がテロリストに殺されなかったのは、イル・セーラの協力者ではないと示す為にイル・セーラを手にかけたからだ、と」  サシャがハッと目を見張る。 「あのときはまだ、生きていた?」 「ナザリオの話が本当なら。それを確かめたかったのと、薬草図鑑をとりに行きたかった。もしかしたら”ユーリ”が書き残したなにかがあるかもしれないっていう下心ももちろんあった」 「だろうな」  サシャは少し考えるように目を伏せたあとでゆっくりと身体を起こした。 「なにか見つかったのか?」  うなずいた。一旦体を起こしてごそごそと体勢を変え、サシャの膝に頭を置く。 「ナザリオが言っていたことは本当だった。フォルスの遺構から持ち帰ったミリタリーボックスのなかに、血のついた日記帳が入っていたんだ。  日付はいまから8年前、F.C.837年6月6日。旧軍部の中立派と至上主義者との間で大規模な戦闘があった。フォルスは元々対パドヴァンを想定した要害の地で、特にうちは監視台の役目もあったらしくて、他の地域と比較すると建物が堅固だからほぼ被害がなかったみたいだ。たぶん”ユーリ”はそれを想定して日記を残したんだと思う」 「日記にはなんと?」 「国医としてずっと中立を貫いてきたが中立派に加勢することと、死を覚悟していることが書いてあった。あとは俺とサシャに対する謝罪と、アルマの対処について後込みしたことを後悔していたような言葉が羅列されていた」  サシャはなにも言わなかった。かわりに俺の髪をくしゃりと撫でて、天井を見上げる。ややあって、気の抜けたようなため息が聞こえた。 「ほかには?」 「日記にはそのくらいしか書かれていなかった。あと持ち帰ったのはサシャと俺がよく取り合いしていた船の模型」  サシャがふふっと笑った。よく取り合いしたなと穏やかな表情で言う。たった数年しかあの家に住んでいないが、サシャとユーリにとっては十分すぎるほど思い出が詰まっている。フォルスの遺構で体調を悪くしたことで当面の間入構許可をもらえないだろうから、目ぼしいものは全て持ち帰っていて良かったと内心する。  かなりの沈黙のあと、妙に真剣な声色でサシャがユーリを呼んだ。 「アルマは生物兵器の一種だと書かれていなかったか?」  どきりとした。弾かれたように顔を上げる。サシャと視線がかち合った。 「アルマの元となるウイルスは、ファントマと呼ばれていたんだ。知ってるよな?」  ユーリはうなずいた。収容所に連れて行かれたとき、たった一冊だけ持ち出した書物にそのことが記されていた。どうやらサシャも読んでいたらしい。関わるなと言っていたのは、闇が深いことを知っていたからのようだ。 「ファントマは名前のように通り魔的に発症と終息を繰り返す、毒性と致死性の低い感染症だ。普通の風邪よりはやや厄介だが、古くからこの地に住むイル・セーラには免疫がある。だから新生児から幼児期に掛けてしか罹患せず、イル・セーラの伝統食でファントマの毒性を中和できることもあり、イル・セーラはファントマが原因で死ぬことはほぼない。  ただノルマに関しては別だ。どちらかというと肉食で炭水化物が多めの食事を好むこと、そして免疫機能がイル・セーラより格段に劣ることが原因でノルマにとって突発的に死ぬ可能性がある感染症だった。  だけどそれを抑え込んだのは”ユーリ”だった。旧軍部の要請を受けて特効薬を作り出した。そのおかげでノルマがファントマに感染して死ぬ可能性は激減した」 「そのおかげで”ユーリ”はこの国の永住権を取り戻したって聞いたことがある。ファントマってそれほどノルマにとって怖い感染症だったんだな」 「そうだ。だけどその10年後にはファントマの特性によく似た症状の流行病が猛威を振るった。それがアルマだ。ファントマは特性上遺伝子の変意が少なく、アルマにはファントマの特効薬が有効かと思われたが、症状を抑えることはおろか感染を防ぐこともできなかった。だからたぶん、ユリウスの力を借りに行ったんだと思う。ミクシアでは新たな研究をするのに承認がおりにくい背景があったそうだ」  そのあたりは日記に記されていた。サシャのいう通り、オレガノの研究機関を借りる為にユリウスに会いに行き、向こうでフェルマペネムを作った。けれどその時には多くの死者が出ており、アルマは健康なイル・セーラには感染しないことから感染源がイル・セーラであると噂が立っていた。国家転覆のため、或いは仲間の尊厳を守るためにノルマ族の殺戮を目論んでいるのではないか。その噂のせいでイル・セーラの村は焼かれ、ほとんどが収容所に連行されたのだ。  サシャが関わるなというのもわからなくはない。奴隷解放後もユーリとサシャ以外のイル・セーラのほとんどが南側に隔離されている。もし何事かあればすぐにでも皆殺しにできる状況下だ。ピエタの、それもナザリオの隊が管轄していることから、当面の安全は保障されているとはいえ、いつなにがあるか分からないという懸念もある。 「情報がオレガノにあるのだとしたら、やっぱりユリウスが知らないのはおかしくないか?」  ユーリが尋ねると、サシャが頷いた。 「あいつはオレガノから国外追放されていて、オレガノに戻ることができないんだ。だから国医という立場も甚だ怪しい。その立場を取り戻すために、オレガノや別の組織に尻尾を振っている可能性も考えられなくはない」 「あァ、そんなこと言ってたっけ」  特使様に媚びを売っておきたいとユリウスは言っていた。その理由が国外追放の撤回要求だとしたら、フェルマペネムに関する情報を欲するのもうなずける。オレガノに資料が残っているかどうかは不明だと考えていたが、ユリウスが言っていたことが本当だとしたら、やはりオレガノもまたフェルマペネムの再現をしようとしているようだ。ユーリは体を起こして、サシャを見やった。 「俺たちにフェルマペネムの再現は無理だということを、ユリウスに証明させることにした」  サシャの眉間にしわが寄る。 「オレガノにも資料がないとなると、俺たちでは無理だと政府も認めざるを得ない。国外追放の撤回がされるかどうかはわからないけど」 「そんなもの無理に決まっているだろう」  呆れたようにサシャが言う。だからとユーリが声を弾ませる。 「フェルマペネムの代替品を俺たちが作ったら?」  サシャが呆れかえったような表情で首を横に振った。 「無理だ、おまえも言っていたが材料がない」 「もう一度フォルスに行けば手に入る」  俺はいかないぞと、サシャ。あんなところに足を踏み入れたくないと、嫌悪を含んだ声色で吐き捨てる。サシャは冗談を言っているようには見えない。 「パナケインの材料はサシャが、分量は俺がって、書物に」  サシャが舌打ちをする。面倒くさそうな表情で前髪を掻き上げて、知らないとぶっきらぼうに言った。 「知らないならいい。書物にほとんどの材料が記載されている。口伝のものもあるだろうけど、どれを使うかは大体想像がつく。ルシアはいまないから、その代わりにシナモンの粉末とレリックの根を使ったらどうかなって」  それなら両方とも簡単に手に入ると、ユーリ。ブラフのつもりではなかったが、サシャはリスクのほうが大きいと低い声で言った。 「その知識を悪用しようとしてユルゲンが殺されたことを知らないのか?」  ユルゲン? と尋ねると、サシャは大袈裟なため息をついてお手上げだと言わんばかりに両手を広げて見せた。 「収容所にいた時のことをほとんど覚えていないくせに、首を突っ込むな」 「ちょっと待って、誰かほかに再現しようとしたヤツがいたってこと?」  ユーリが問うと、サシャはごそごそと態勢を変えてベッドに横たわった。なにも告げる気がないらしい。ねえとせがむように言うと、サシャからじろりと睨まれた。 「俺たちが持ち出した書物の行方を知っているか?」  そういえばと、ユーリが首を横に振った。 「あれはステラ語に翻訳された書物で、大半のイル・セーラが読めた。おまえが隠し持っているのをユルゲンが見つけて、それから」 「それから?」  サシャが咳払いをする。なにか言い淀むことがあったのかと勘ぐるよりも早く、目を閉じてしまった。 「とにかく、その書物に記載されていた方法で収容所の流行病を改善させることを名目に、ユルゲンは自分が解放されることを望んだけれど、結果は失敗。収容されたイル・セーラではなく多くのノルマが亡くなったことから、その書物は燃やされ、ユルゲンも責任を取らされて処刑された」 「それは口伝の薬草を使わなかったから、ってこと?」  そうだとサシャがぶっきらぼうに言う。その正体をサシャは教えてくれそうにない。ユーリは唇を触りながらもう一度サシャを呼んだ。 「正体を教えてくれなくていいから、粉末状にしたものを渡してくれるとかは?」  サシャが溜息を吐く。そうかと思うとのそりと体を起こした。 「なぜそこまでパナケインを作りたがる」 「なぜって」 「アルマが再流行すれば、ノルマは大半が死んでしまう。そうなればいいじゃないか。俺たちになんのデメリットがある」  サシャの目は本気だ。ユーリはムッとして眉間にしわを寄せた。 「馬鹿なこと言うなよ、いまはキアーラの家が出資してくれているけれど、そのまえはミクシア国民の税金で生かされていたんだぞ。こういう時に役に立たなくてどうするんだ」 「馬鹿はおまえだ、パナケインを作ったところでどうせろくな使われ方をしない。ユルゲンのように殺されないとも限らないし、ミクシア国民の税金で生かされていただなんてよく言う。そのせいで俺もおまえも未だに色眼鏡でみられるというのに」  それはサシャの本心なのだろう。言ったあとで後悔するような表情になって、視線を逸らされた。ユーリはサシャの本心を初めて知った。サシャも自分の知らないところで嫌な目に遭ってきたのだろうか。 「俺は、フェルマペネムの再現は無理でも、パナケインを作ってスラムを助けたい。このままじゃ南側にいる仲間たちにも危険が及ぶかもしれないし、そりゃノルマなんて死ねばいいと思うこともあるけど、俺にとっては二コラも、キアーラも、リズも、ジャンカルロも、大事な人だ。ナザリオやエリゼたちもそうだ。彼らをアルマの脅威から退けるためにも、必要だと思わないか」  サシャはなにも言わない。けれどどこか観念したような表情だ。 「政府がフェルマペネムの再現を望んでいるのは、在庫が少ないからだと」  ユーリが弾かれたように顔をあげた。 「昔客で来ていた軍部の高官が言っていた。あいつは確か、――。パーチェ?」 「マジか」 「俺がノルマ語を理解しているとは思わなかったんだろうな。もう一人と一緒にそれはもう機密事項をぺらぺらと。”ユーリ”に目を付けていたのも彼ららしい。フェルマペネムの再現を指せるか、若しくは代替品を作らせるために奔走していたのだとか」  ユーリは目を瞬かせた。サシャがまさか収容所での出来事を口にするとは思わなかったからだ。 「そんなに前からフェルマペネムの再現のことを?」 「と言っても、俺たちが収容所から出る2年ほど前の話だ。アルマの再流行を恐れた政府がオレガノに依頼をしたが、オレガノはミクシアが内紛中だったこととイル・セーラを奴隷として扱っていることを理由に取り付く島もなかったらしい」 「じゃあ、もしかして俺とサシャが大学に呼ばれたのは」 「十中八九、最初からこのためだろうな」  だから首を突っ込むなと言ったんだ、たわけがとサシャが強い声で言う。ユーリは苦い顔をして唇を触った。 「だったら、書類がないとかいうのも?」 「ただの言いがかりだろう。国外追放をちらつかせれば俺たちが言うことを聞くと思っているんだ」  なるほどとユーリが誰に言うともなく呟いた。なんとなくだがそんな予感がしていたし、なぜ自分とサシャだけが大学に入学できたのかがずっと気になっていた。フェルマペネムを作った“ユーリ・オルヴェ”の子どもだからだ。  ちなみにと、サシャが継ぐ。 「俺たちが持っていたあの本は、焼かれたわけじゃなくて、軍部が保存していると聞いたことがある」 「マジか。ナザリオを誑かして手に入れてもらうってのはまず無理だろうな。売春は犯罪ですとか言って収監されかねない」  ニコラを脅すほうが遥かに楽だと付け加えると、サシャが肩を揺らして笑った。 「ニコラを脅したところで手に入らないさ。ユーリの株が下がるだけでニコラから愛想を尽かされるかもしれないぞ」 「むしろサシャが頼んだほうがいいんじゃねえの? ニコラは俺に対して信用という言葉を持っていない」 「普段の行いが物を言うんだ」  穏やかな口調で厳しいことを言う。無鉄砲なことをするのは確かだから、非難することすらできない。自重しないタイプだからなと得意げに言ってのけると、褒めてないぞとサシャが笑いながら言った。 「サシャ」  サシャの視線がユーリに向く。 「休暇の件、ジャンカルロに頼んでおいた。あそこなら妙な視線を感じなかったし、ジャンカルロがいなくてもアシルがいてくれるから、大丈夫だと思う」  サシャの手がそっと頭を撫でていく。 「ありがとう。おまえは昼食を買いに行くことも控えておけよ。万が一という場合もある。よくわからないけど、胸騒ぎがするんだ。深いなにかが押し寄せてくるような、そんな気がする」 「やめろよ、サシャのそういう勘ってよくあたるんだから」 「だから用心しろと言ってるんだ。ユリウスには絶対に近づくな。“ユーリ”はあいつを信用していたからこそともに研究をしたのかもしれないが、俺にはどうも胡散臭くて信用できない」  それから、パナケインの件は絶対に誰にも言うなよと声を潜めて言う。ユーリは今回ばかりは素直にうなずいた。

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