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three(3)

 フォルスの遺構に向かってから一週間が経過した。ユーリはあのあとフォルスの遺構からミリタリーボックスを持ち帰ったことが原因でサシャと大喧嘩をして、いまに至る。その日からずっと研究室にもアパートにも戻っていない。ジャンカルロの自宅に転がり込み、フォルスから持ち帰った何十冊もある古い書物を読み漁っている。 「よう、ユーリ。今日は焼きリンゴだぞ」  ジャンカルロだ。シナモンのスパイシーさとはちみつの心地よい甘さが絡んだ良い香りと共に近づいてくる。ユーリはパッと顔を上げて読みかけのページにブックマークを挟んだ。  目の前の簡素なサイドテーブルに焼きリンゴが入ったシルバープレートが置かれた。リンゴひとつを食べやすいようにカットしてあり、たっぷりと掛かったシナモンが鼻腔をくすぐる。 「しっかしおまえは見た目によらず少食だな。たまには肉を食え、肉を」  ガリガリじゃないかとジャンカルロがユーリの肩口を触る。そんな言われるほど細くはないと反論したが、その実ユーリはかなり細身だ。筋肉がそこそこついているものの、軍の訓練に参加している二コラや、現役の傭兵であるジャンカルロと比較するとずいぶん心もとない。普段の食べ物や体質、成長期に収容所にいたことも関係しているのか、週に二度ほどナザリオやエリゼと護身術の訓練をしているが、目立った筋肉がつかないのだ。 「ほどほどには食べてるよ。だけど果物のほうが効率がいいんだ。腹も膨れるし水分や糖分そのほかビタミン類も摂れる」  ユーリはジャンカルロが持ってきた焼きリンゴを添えつけられたフォークで刺して、口の中に放り込んだ。 「うっま」  感動したように声を上げると、味わうように何度も咀嚼する。ジャンカルロは大げさなと笑いながら近くのソファーに腰を下ろした。  中流層街の物価はかわいくない。一緒に買い物に行くたびにリズがブーブー文句を言うほどだ。もちろん食べ物の質もすべて異なるが、下流層街で安いものを仕入れて食べるほうがユーリの性に合っている。スパツィオ大学の研究医の給与は軍部の一兵卒以上、栄位クラスともなれば准士官と同等かそれ以上の給与がもらえるため、決して生活に困窮しているわけではない。ただユーリに関しては自費でいろいろと研究していることもあり、食事に困ることも多々あるほどだ。 「理由、聞かねえの?」  ふたつめの焼きリンゴに手を伸ばしながら、ユーリが尋ねた。 「理由?」 「俺が一週間も帰らない理由」  何食わぬ顔で言ってのけ、焼きリンゴをほおばる。いつものジャンカルロならサシャが心配するから連絡をしておけだのなんだのと小言を言うはずが、なぜか今回は手放しで泊めてくれている。ジャンカルロはそうさなあと間延びした言い方をした。  二コラと同じく一週間のバカンスを余儀なくされた。そう言ってジャンカルロのうちに転がり込んだから、わざわざ帰れと言わないだけなのかもしれない。  みっつめ、よっつめと焼きりんごを頬張り、ふと気づく。バターが入っていないから抜けたような味がして気がつかなかったが、これは“ユーリ”が良く作ってくれていたものだ。ユーリの好物が焼きリンゴだとジャンカルロに伝えた覚えはないし、作り方を教えた覚えもない。そういえば昨日のお菓子も角切りりんごがふんだんに使われたマフィンだった。この作り方を知っていて、微妙に再現しきれない料理の腕前の相手は、自分が知る限りでは一人しかいない。 「サシャか」  どうりでジャンカルロが作ったものにしては締まりのない味だと思ったとぼやくようにいう。サシャはどういうわけか料理があまり得意ではない。収容所を解放されてからはずっとユーリが家事全般をやってきたせいかもしれない。少し甘やかせすぎたかと独り言を言う。 「一度サシャときちんと話してみたらどうだ? どうせフォルスの遺構に行った本当の理由をきちんと話していないんだろう?」  ジャンカルロの諭すような言い方には腹が立たない。そうしなければならないことはわかっている。意地の張り合いなんていいものじゃない。腹が膨れるならまだしも無駄にエネルギーを消費してしまう原因のひとつだ。ユーリは最後の焼きりんごを頬張り、咀嚼しながら考えるように視線を彷徨わせた。  話したところでサシャから言われることはわかっている。深入りするな。出過ぎるな。それはわかっているが、最低限の予防線を貼っておかなければ何事かあった時に対処ができない。攻めるにしても逃げるにしてもだ。  昔からサシャの方が用心深い。手の内を見せず、腹を割って話すことがない。もちろんそれは家族以外に対してだが、収容所を出て以来サシャときちんと向き合って将来の話をした記憶がない。寮にいた頃はニコラと同室だったし、栄位クラスに来てからは共に疫学と外科を主に担当しており、勤務がほぼ入れ替わりの状態なのだ。そのため休憩室で当たり障りのない会話をするか、ふたりで仮眠をとるか、そのどちらかになっていた。 「料理が得意なわけでもないのに、せっせと弟の好物を運んできてくれるなんて、いい兄貴じゃないか」  そう言われて、ユーリは大げさに両手を広げた。ここにきた初日のおやつがラヴィ(下流層街にある唯一のスイーツショップ)のプリンだったのは、サシャが届けてくれたからなのだと納得した。 「あんたサシャになにか言ったの?」 「いいや、べつに。機嫌を損ねたガッティーナをあやすには好物を届けるのが手っ取り早いと独り言を言っただけだ」  言ってんじゃねえかと声をとがらせた。 「言っておくけど、ケンカをしたからなんて理由でここに転がり込んだわけじゃないからな」 「サシャは『俺の顔を見たくないのかもしれない』と言っていたぞ」 「それはある。でも誤解だ」 「どっちだよ」  ジャンカルロが笑う。突発的に家出をしたわけではないし、ジャンカルロのうちに行くときちんと告げている。ユーリは眉を顰めて紅茶をすすった。 「最近、なんか見られてる気がすんだよ」 「見られてる?」  うなずく。ふとしたときに視線を感じるのだ。大学近くのアパートはセキュリティーもわりときちんとしているし、ピエタの派出所が近くにあるために早々事件など起きはしない。けれどなんとなく落ち着かないため、ユーリもサシャもほとんどそちらには帰らないでいる。 「休暇となったら大学の仮眠室に入り浸るわけにはいかないだろ。かといって俺にはこちらに知り合いはいないし、アパートに戻るのも気が休まらない。ずっと一人でいるのは気味悪い」 「なるほど、だからうちか。サシャも休暇なのでは?」 「サシャは明後日からだ。ってことで、サシャのことも頼めるか? 俺と違って家事全般できないし邪魔かもしれないけど」 「おまえの頼みだ、無碍にするかよ」  しかし妙だなとジャンカルロが口火を切る。 「見られていると言っても、おまえの部屋は二階だろう?」 「一応盗聴器とかの類も調べたんだけど、そういうのは一切ないうえアパートの住人もほぼ全員がうちの学生だから、思い過ごしだといいんだけどさあ」  思い過ごしだと言えないような妙な感覚があるのも事実だ。自分だけではない。サシャもそう言った。二コラに言えば面倒なことになるだろうし、かといってなんの証拠もないのにナザリオやエリゼに相談するのも余計な気を遣わせるだけだ。ジャンカルロなら頼めばなんとかしてくれるという安心感がある。 「ここにいる間にその感覚は?」 「だから敢えてこの部屋にきたんだ。ここは隣のビルに面している側と山側にしか窓がないだろ。当然、見られている感覚はなかった」  ジャンカルロが覗き魔の犯行じゃないかと肩を竦めて見せた。 「心当たりは?」 「あるわけないだろ。そりゃイル・セーラだからと一方的に色眼鏡で見る奴はいるけど、不特定多数の人間と関係を持つなんて面倒くさくてやってらんねえよ」 「じゃああるとしたらナザリオかエリゼか監視してるってところじゃないのか?」  あの二人ならばあり得ない話じゃない。たしかに護衛につくと言った割にはナザリオもエリゼもあまりユーリの周りに現れない。その理由が双眼鏡かなにかを使っての監視……というなら笑えるが、そういう視線ではない。  ユーリはあからさまに嫌そうな顔をしてガシガシと頭をかいた。笑い話で済ませられるがそういう感覚ではなく、もっと別の、不気味で闇を孕んだ気配がしたのは確かだ。けれどこれ以上ジャンカルロに話して事を荒立てるののは得策ではないと考え、ユーリは冷めた紅茶を一気に飲み干し、すっくと立ち上がった。 「帰ってあいつらにプライバシーの侵害だって文句言ってやる」  御馳走様とぶっきらぼうに言ってのけ、読みかけの書物を小脇に抱える。ジャンカルロは豪快に笑っておうと返事をした。サシャのことよろしくなともう一度念を押して帰途についた。 ***  大学に戻り、仮眠室をのぞく。昼下がり、サシャは夜勤明けで眠っているようだ。簡易ベッドには頭まで布団をかぶって眠っているサシャの姿がある。ユーリはおもむろに近づいた。  夜勤明けで眠たいだろうに、わざわざ焼きりんごを作って届けてくれたのだろう。起きる気配がなくすうすうと寝息を立てている。  ユーリはそのまま近くのソファーに腰を下ろし、読みかけの書物を開いた。ユーリが読んでいるのはユーリの日記だ。18年前に発生したアルマに関すること、薬草の効率的な利用方法、サシャやユーリに関することが記されている。殊更目を引くのはアルマを媒介にして生物兵器の製作を持ちかけられたという部分だった。誰に持ちかけられたのかは記されていないものの、日記はその数日後に途絶えている。おそらく地下室までは旧軍部の目に届かないと思い、ミリタリーボックスに書物を忍ばせたのだろう。  ユーリはこの日記の存在を知らなかった。フォルスの遺構に行けばユーリが残した書類のひとつやふたつくらい残っているのではないかと思っていたが、残されていたのはひとつどころではない。全て焼かれたはずの、いまとなってはかなり貴重な書物ばかりが残されている。この存在がバレたら没収で済めばいいが、下手をすると殺されかねないほど際どい事実が書き綴られている。  ちらりとサシャをみやる。規則正しい寝息が聞こえる。このことをサシャに話したとして、もしなにかしらあった場合にサシャにも片棒をつがせることになってしまう。ユーリは眉間にシワを寄せながら書物を視線を戻した。  アルマはDNAウイルスであるためにワクチンの有用性は高く、基本構造からもβ‐エクレム系抗ウイルス薬が効果を発揮する。しかし18年前にアルマが蔓延したときにはミクシアの人口の19%が亡くなるほどの死者を出したそうだ。そのなかにはイル・セーラは含まれていない。  ここから導き出せることはふたつ。ノルマには基礎知識がなかったのか、あるいは知っていて見て見ぬ振りをしたか、だ。基礎知識がないことはあり得ない。ノルマ族とイル・セーラの医療の考え方は両極端で、ワクチンや抗ウイルス薬に頼るのはノルマ族の基本的な考え方だ。それゆえに異常なほどのパンデミアを引き起こしたのは、なんらかの理由で政府がなにかを隠蔽したのだろうというのが”ユーリ”の見解だったようだ。  ”ユーリ”を殺したのは生物兵器の制作をと要請してきた相手で間違いない。そんな要請をするくらいだからまあまともな相手ではないだろう。そう思いたいが、”ユーリ”が国医だったならあらゆる国の要人と接する機会がある。要人の暗殺狙いか、或いは国家転覆を狙ったテロリストからの要請か。いずれにせよ暴けば危険が伴うのは明白だ。  サシャが唸った。背伸びをし、寝返りをうった。もそもそと布団の中に潜っていく。まだ起きる気はないらしい。  さて、どうサシャに切り出そうか。フォルスの遺構に行ったのは、子供の頃に”ユーリ”からもらった薬草図鑑が残っていればいいなという安易な考えと、ユーリが遺した書類がないかという淡い期待からだったのだが、とんでもない掘り出し物を見つけてしまった。これはアパートには持っていけない。かと言ってアパートとは別に借りている研究室にも置けない。これはまたジャンカルロの世話になるしかないかなと考えながら、途切れたページよりさきをパラパラとめくった。  最後の方のページが1枚破られているのに気付いた。そこを開くとフォルムラ語でなにかを書き殴ったあとがある。インクで消されているために読めないが、そのページは不自然さしかない。ユーリは仮眠室の使用記録をつけるための鉛筆を持ってくると、そのページ全体を鉛筆で薄く擦った。うっすらと字が浮かび上がってくる。ユーリはその内容に目を見張った。ユリウスに助けを請うための手紙だったようだ。殴り書きでところどころかすれて読み取れないが、軍部、処刑、子供たちの助命をという部分だけははっきりと読める。家族への手紙以外にはほぼ使わない「親愛なる」という意味の単語を名前の前につけていることから、”ユーリ”とユリウスは相当に深い仲だったことが窺えた。 「これを書いた後に、”ユーリ”は」  殺されたか、或いは逃げたか。他のページとは異なり、緊迫感のある、鬼気迫るような殴り書きがその時の”ユーリ”の心情を反映しているかのようだ。  ユーリは書物を閉じて、タクティカルバッグに押し込んだ。これはサシャに話してはいけない。ユリウスに対して余計にでも嫌悪感を懐く。いまさらどう諭したところでサシャのユリウスに対する気持ちが変わるわけではないのだから、これは自分の胸に秘めておこう。  立ち上がり、サシャに近づく。相当に疲れているらしい。15時すぎても起きてこないなんて珍しいにも程がある。まさか具合が悪いのだろうか。サシャの額に手をあてがう。熱い。思わず布団を剥いだら、サシャが迷惑そうに唸った。 「報告書はデスクに置いてるから適当に食べてくれ」  はっきりとそう言った。ユーリは吹き出したあとでマズいと口を覆った。サシャは起きていない。報告書なんてヤギじゃないんだから食べられるわけがないと心の中でツッコミをいれる。普段あまり冗談を言うことのないサシャが寝言で謎なことを言うなんて思いもよらないことだ。笑いを飲み込もうとしたが、堪えられない。くっくっと笑っていると、服の裾を掴まれた。 「布団を返せ」  サシャが恨みがましく言う。どうやら起こしてしまったらしい。 「なんなら布団がわりになってやろうか?」  冗談めかして言ったら、勢いよく身体を引っ張られた。サシャに覆い被さるような体勢になる。  サシャを呼ぶ。サシャはぼんやりとした寝ぼけ眼でユーリを注視する。両手が伸びてきて、わしわしと頭を撫でられる。 「靴は脱げよ」  サシャがベッドの端に寄った。横にこいと言いたいのだろう。ユーリは言われたとおりにブーツを脱いでベッドに上がって横になった。眠たそうなサシャの顔が見える。 「ユーリのことだから、フォルスの遺構に行ったのはなにか訳があったんだろうとは思った。だけど、あのときのことがどうしても過ぎって、つい言わなくてもいいことを言ってしまった」  ごめんなと、サシャ。ユーリは首を横に振った。 「焼きりんご、うまかった」  サシャが苦い顔をして目を伏せた。 「なんだって美味いというくせに」 「バターが入ってなかったのが惜しかったのと、マフィンの角切りリンゴは生のリンゴじゃなくて乾燥リンゴを使うのが最適だぞ」  あれはあれで生地がしっとりしてうまかったけどと継ぐ。サシャはダメ出しすんなと笑ったあとで、もう一度ユーリの頭を撫でた。 「正直おまえが羨ましいよ。俺はフォルスの遺構に行きたいとも、行こうとも思わない。調査を頼まれたとしても、近づくだけで吐き気がしそうだ」  ぽつりとサシャが話し始めた。俺も気分悪くなったけどなと冗談めかして笑う。あのときのことをはっきりと覚えているサシャとうろ覚えの自分とは、精神的なダメージも違うだろうと付け加える。 「確かめたいことがあったんだ」 「確かめたいこと?」  うなずく。うなずいたあとで紡ぐ言葉を考える。 「ナザリオが8年前にフォルスの遺構で”ユーリ”に助けられたと言っていた。自分がテロリストに殺されなかったのは、イル・セーラの協力者ではないと示す為にイル・セーラを手にかけたからだ、と。そのイル・セーラは、俺と同じ名前だったそうだ」  サシャがハッと目を見張る。 「あのときはまだ、生きていた?」 「ナザリオの話が本当なら。それを確かめたかったのと、”ユーリ”とユリウスが買ってくれた薬草図鑑をとりに行きたかった。もしかしたら”ユーリ”が書き残したなにかがあるかもしれないっていう下心ももちろんあった」 「だろうな」  サシャは少し考えるように目を伏せたあとでゆっくりと身体を起こした。 「なにか見つかったのか?」  うなずいた。横になったままごそごそと体勢を変え、サシャの膝に頭を置く。 「ナザリオが言っていたことは本当だった。フォルスの遺構から持ち帰ったミリタリーボックスのなかに、血のついた日記帳が入っていたんだ。  日付はいまから8年前、F.C.837年6月6日。旧軍部の中立派と至上主義者との間で大規模な戦闘があった。フォルスは元々対パドヴァンを想定した要害の地で、特にうちは監視台の役目もあったらしくて、他の地域と比較すると建物が堅固だからほぼ被害がなかったみたいだ。たぶん”ユーリ”はそれを想定して日記を残したんだと思う」 「日記にはなんと?」 「国医としてずっと中立を貫いてきたが中立派に加勢することと、死を覚悟していることが書いてあった。あとは俺とサシャに対する謝罪と、アルマの対処について後込みしたことを後悔していたような言葉が羅列されていた」  サシャはなにも言わなかった。かわりに俺の髪をくしゃりと撫でて、天井を見上げる。ややあって、気の抜けたようなため息が聞こえた。 「ほかには?」 「日記にはそのくらいしか書かれていなかった。あと持ち帰ったのはサシャと俺がよく取り合いしていた船の模型」  サシャがふふっと笑った。よく取り合いしたなと穏やかな表情で言う。たった数年しかあの家に住んでいないが、サシャとユーリにとっては十分すぎるほど思い出が詰まっている。フォルスの遺構で体調を悪くしたことから当面の間入構許可をもらえないだろうから、目ぼしいものは全て持ち帰っていて良かったと内心する。  かなりの沈黙のあと、妙に真剣な声色でサシャがユーリを呼んだ。 「アルマは生物兵器の一種だと書かれていなかったか?」  どきりとした。弾かれたように顔を上げる。サシャと視線がかち合った。 「アルマの元となるウイルスは、ファントマと呼ばれていたんだ。知ってるよな?」  ユーリはうなずいた。収容所に連れて行かれたとき、たった一冊だけ持ち出した書物にそのことが記されていた。どうやらサシャも読んでいたらしい。関わるなと言っていたのは、闇が深いことを知っていたからのようだ。 「ファントマは名前のように通り魔的に発症と終息を繰り返す、毒性と致死性の低い感染症だ。普通の風邪よりはやや厄介だが、古くからこの地に住むイル・セーラには免疫がある。だから新生児から幼児期に掛けてしか罹患せず、イル・セーラの伝統食でファントマの毒性を中和できることもあり、イル・セーラはファントマが原因で死ぬことはほぼない。  ただノルマに関しては別だ。どちらかというと肉食で炭水化物が多めの食事を好むこと、そして免疫機能がイル・セーラより格段に劣ることが原因でノルマにとって突発的に死ぬ可能性がある感染症だった。  だけどそれを抑え込んだのは”ユーリ”だった。旧軍部の要請を受けて特効薬を作り出した。そのおかげでノルマがファントマに感染して死ぬ可能性は激減した」 「そのおかげで”ユーリ”はこの国の永住権を取り戻したって聞いたことがある。ファントマってそれほどノルマにとって怖い感染症だったんだな」 「そうだ。だけどその10年後にはファントマの特性によく似た症状の流行病が猛威を振るった。それがアルマだ。ファントマは特性上遺伝子の変意が少なく、アルマにはファントマの特効薬が有効かと思われたが、症状を抑えることはおろか感染を防ぐこともできなかった。だからたぶん、ユリウスの力を借りに行ったんだと思う。ミクシアでは新たな研究をするのに承認がおりにくい背景があったそうだ」  そのあたりは日記に記されていた。サシャのいう通り、オレガノの研究機関を借りる為にユリウスに会いに行き、向こうでフェルマペネムという特効薬を作った。けれどその時には多くの死者が出ており、アルマは健康なイル・セーラには感染しないことから感染源がイル・セーラであると噂が立っていた。国家転覆のため、或いは仲間の尊厳を守るためにノルマ族の殺戮を目論んでいるのではないか。その噂のせいでイル・セーラの村は焼かれ、ほとんどが収容所に連行されたのだ。  サシャが関わるなというのもわからなくはない。奴隷解放後もユーリとサシャ以外のイル・セーラのほとんどが南側に隔離されている。もし何事かあればすぐにでも皆殺しにできる状況下だ。ピエタの、それもナザリオの隊が管轄していることから、当面の安全は保障されているとはいえ、いつなにがあるか分からないという懸念もある。 「フェルマペネムの代替品を作ったら、本当に安全が保障されるのかな? 南側にいる仲間も解放してもらえると思うか?」  ユーリが問うと、サシャは難しい顔で首を横に振った。 「調合方法は闇の中だ。一応軍部が保存しているとは聞いているけど、サンプルを入手するにはニコラを脅す以外ないぞ。ああ、ナザリオを誑かすっていう手もあるな」 「ナザリオを誑かすのはまず無理だろうな。売春は犯罪ですとか言って収監されかねない」  ニコラを脅すほうが遥かに楽だと付け加えると、サシャが肩を揺らして笑った。 「ニコラを脅したところでフェルマペネムは手に入らないさ。ユーリの株が下がるだけでニコラから愛想を尽かされるかもしれないぞ」 「むしろサシャが頼んだほうがいいんじゃねえの? ニコラは俺に対して信用という言葉を持っていない」 「普段の行いが物を言うんだ」  穏やかな口調で厳しいことを言う。無鉄砲なことをするのは確かだから、非難することすらできない。自重しないタイプだからなと得意げに言ってのけると、褒めてないぞとサシャが笑いながら言った。 「サシャ」  サシャの視線がユーリに向く。 「休暇の件、ジャンカルロに頼んでおいた。あそこなら妙な視線を感じなかったし、ジャンカルロがいなくても信用できる別の傭兵がいてくれるから、大丈夫だと思う」  サシャの手がそっと頭を撫でていく。 「ありがとう。おまえは昼食を買いに行くことも控えておけよ。万が一という場合もある。よくわからないけど、胸騒ぎがするんだ。深いなにかが押し寄せてくるような、そんな気がする」 「やめろよ、サシャのそういう勘ってよくあたるんだから」 「だから用心しろと言ってるんだ。ユリウスには絶対に近づくな。“ユーリ”はあいつを信用していたからこそともに研究をしたのかもしれないが、俺にはどうも胡散臭くて信用できない」  それから、アルマの件は絶対に誰にも言うなよと声を潜めて言う。ユーリは今回ばかりは素直にうなずいた。 ***  サシャの休暇も終わり、通常の日常が戻ってきた。ユーリはスラムの東側の連中ともわりといい関係を築き始め、診療代替わりだとスラムに自生する薬草の在処まで案内してくれる者もでてきた。もちろん危険がないようエリゼかナザリオ、ジャンカルロの誰かが護衛につくことに変わりはないが、以前のように傷まみれで街に戻ることがなくなっただけでも大した進歩だ。  そんな折、スラムの診療所が襲撃された。幸いユーリは重要な薬品をもって北側に行っていたために事なきを得たが、いまだに反乱分子のような輩が存在するようだ。診療所を破壊したのは見せしめだろうと馴染みの男が言う。170cmほどの、ノルマにしては背の低い、細身の見るからに不健康そうな男だ。やや乾いた咳を2、3回して、注意深く視線だけであたりを見る。 「やったのはイギンってマフィアの手下だ。あいつらは俺らを食い物にしてきたからよ、あんたがまともな薬を作ってくれんのが気に入らねえのよ」  エリゼは相変わらず人を食ったような笑みを浮かべて肩を竦めた。 「彼らはしつこいですからねえ。ユーリ、単独行動は絶対禁止ですよ。彼らに捕まったらきっと味見した後で地下街の娼館かフィッチの娼館に売られるかのどちらかでしょうから」 「あんた本当にいい根性してるよな。ナザリオの前じゃ絶対にそういうこと言わないくせに」 「言葉にしたほうが危険が顕著にわかるでしょう。貴方の場合は特にそのほうが約束を守ってくれそうですし」  不特定多数に回されたくなければ俺を撒かないようにとエリゼが念を押すように言う。 「見かけによらずマフィアみたいなこという兄ちゃんだな」  男が苦い顔をする。やはりその警告の仕方は普通じゃないぞと息巻いたが、エリゼはどこ吹く風だ。 「ああ、そうだ。ここいらを牛耳っているチェリオっていうのがいるんだが」 「チェリオ」  エリゼが反芻する。どうやら知っているようだ。 「あんた、チェリオに会ったか?」  男がユーリに問いかける。 「いや、最近は全然見ない。むしろ用事があって捜しているんだ」 「そりゃあ変だな。あいつは自分がイギンに睨まれたくないもんだから、診療所ができる前くらいから妨害工作を目論んでいたんだが、今回は流石に業腹だっつって、あんたに警告をしに行ったはずなんだが」  『こんくらいのチビだ』と言いながら男が自分の目線あたりに手をかざす。 「あいつは地下街出身で、割と汚いことを平気でするが、あいつが来たおかげでちょっとここいらの締め付けが楽になったのよ。本当はこのあたりは別の野郎が牛耳ってたんだがよ、どうやらそいつはイギンに殺されちまったらしい。なんでもチェリオに手ぇ出したとかなんとか」  男が言ったとたん、ユーリはエリゼの両耳を塞いだ。エリゼは非難することもなく、素知らぬ顔で路地へと向き直る。 「い、いいのか、それ」 「ナザリオより話が分かるんだ。で、チェリオはどこに?」 「ディエチ地区か、地下街か、そうじゃなきゃデリテ街のどっかでガキどもを集めて教育しているはずだ。  最近ここいらでも不審な薬物が出回っててよ、それを見つけてチェリオに持ってきたやつには褒美がもらえるってな」 「不審な薬物?」 「それが俺もよく知らねえんだが、打ったが最後、水を求めて水路に直行してそのまま死んじまうって話だ。おっと、これ以上は俺の口からは言えねえ。まだ死にたくねえからな」  男はそういうと左の手のひらを上にして差し出した。ユーリがきょとんとする。 「えっと」 「報酬だよ、報酬。ほれ、たばこかなんか持ってねえか?」 「俺はたばことか吸ったことなくて。エリゼ」  エリゼを解放し、たばこを持っていないかと問う。エリゼは胸ポケットからシガレットケースを取り出すと、そのうちの5本を男に手渡した。 「お、おおっ、まじかよ。あんた気前いいな」 「残りの4本分は前払いです。あと4回こちらに情報を渡す前に殺されないように気を付けてくださいね」  嫌味のない笑顔が怖い。そう感じたのは男も同じだったようで、ところどころ錆びたオイルライターで煙草に火をつけるとうまそうに顔をほころばせ煙を吐き出した。 「こりゃあ相当高級品だな。一本につき情報ひとつじゃ寝覚めが悪い。  チェリオの育ての親が東側の壁付近の鉄塔台に住んでる。捜しても会えなきゃそこに行ってみな。取り次いでくれるだろうさ」  そう言い残すと、男は何事もなかったかのように紫煙をくゆらせながら歩いて行った。 「エリゼってたばこ吸うんだな」  初めて知ったと、ユーリ。エリゼはきょとんとして首を斜めに傾けた。 「吸いませんよ」 「…はっ?」  じゃあなんで持ってんの? と問うよりも先に、エリゼはうふふと不敵な笑みを浮かべた。 「買収は情報収集の基本です」  つくづくエリゼを敵に回したくないと思う。ユーリは頭が痛くなってきたと額を押さえながら東側へと向かった。  翌日、チェリオを探してみることにした。本来今日はナザリオが護衛につくはずだが、待ち合わせの場所にはエリゼが現れた。隊長と交代しましたと何食わぬ顔で言う。まあこういうことはエリゼのほうがやりやすいと安易に考えながらチェリオを捜す。 「見当たりませんね」  かれこれ2時間はさがしているが、地下街周辺にもディエチ地区にもいなかった。往診をしつつさがしていることもあり、タイミングが悪く見当たらないのだろうか。  結局診療所付近まで戻ってきた。ところどころ補修された木造の簡素なそれを眺めながらため息をつく。 「エリゼ……ってか、アリオスティ隊が俺のそばにいるからじゃねえの?」  エリゼを横目に見る。北側はそうでもなかったが、東側の連中は総じてアリオスティ隊に良い印象を懐いていないような見受けられる。 「隊長は特に悪事を見逃しませんからね。俺は時と場合によっては見て見ぬ振りをしますし、昨日のように協力者を得ることも厭いません」 「ばれたら?」 「さあ、バレたことがないので」  しれっと言ってのけ、エリゼが視線だけをユーリに向ける。さも告げ口するなよと言わんばかりの表情に、ユーリは空笑いをした。 「明日もう一度捜してみて見つからなきゃ、大人しく鉄塔台に行ってみるか。闇雲に捜したほうが却って避けられる可能性もある」 「そうですね。鉄塔台の住人とは面識がありますので、伺う時には俺を呼んでください」  さっき言っていた協力者の一人なのだろう。真面目そうに見えてナザリオとは違いクレバーな部分がある。他の連中と違い融通が利く上判断も早い。そういう意味で割と好ましく感じていた。  結局その日はチェリオに遭遇しなかった。そう都合よく行くわけがないと内心しつつ、翌日エリザに付き添われて東側の壁付近の鉄塔台に赴く。エリゼは勝手知ったるようにドアをノックして中に入った。中にいたのは白髪混じりのかなりガラの悪そうな男だった。いかにも場数を踏んでいそうな鋭い視線が向けられる。さすがのユーリも息を飲んだ。 「ロレン、今日は頼みがあってきました。こちらはユーリ。東側に診療所を設立した例のイル・セーラです。チェリオはどこです?」  言いながらエリゼがカウンターに紙袋を置いた。重たい音がする。なにを持っているのかと気になっていたところだ。 「チェリオぉ?」  ふんと鼻で笑いながらロレンと呼ばれた男が腕を組む。 「以前貴方が言っていたパドヴァンのワインですけど、それじゃ足りません?」  思わずエリゼを見た。完全に賄賂じゃないかと突っ込みたくなる。 「足りなくはねえ、十分すぎるほどだ。だが俺ぁあんたに払える報酬がねえ。チェリオとはこの半年会ってねえからな」 「それは困りましたね」  さして困った様子ではない。ユーリは呆れたように眉を潜めた。 「立ち寄りそうな場所とかもわからないのか?」  ユーリが尋ねると、まるで視線だけで射殺されそうなほど鋭い視線を向けられた。あまりの迫力に目が点になる。文句を言うわけでもなく舌打ちをされ、視線を逸らされた。 「闇市の裏は見たか? あいつはあの裏路地でよく客をとってる。好き者連中が挙ってあいつの品定めをするのに集まるらしい。闇市の裏手に買い物とは無関係そうな男どもが集まってる時はチェリオが客と寝てる時だ」 「えっらいあけすけなヤツだな」 「地下街で生きていくのに節操なんて気にしてられっかよ。てめえも奴隷だった頃はそうだったろう」 「そりゃそうだ。ロレンって言ったっけ。ありがとうな、探してみる」  ロレンはふんと鼻で笑った後で紙袋の中からワインを取り出した。見たこともない銘柄だ。ユーリは目を白黒させながらボトルを注視した。 「高そう」  ぼそりとつぶやくと、ロレンはじろりとユーリを睨んだ。 「流通量が少ないってだけで単価はさほどしねえ。ここから出られねえ俺たちにとっては高級品だがな」  わかる気がするとは言わなかった。たまに客が持ってくる各地の銘菓が生きる希望のひとつだったことを思い出し、見方変えれば買収は悪いことではないのかもしれないと内心する。 「ナザリオの野郎もたいがいの変わり者だが、おまえさんも大差ねえな。なにを好き好んでイル・セーラなんかの護衛を買って出たんだか」 「面白いですよ。立場に物を言わせて孤児を救ってきた貴方と趣味が合うんじゃないです?」  ロレンはあからさまに嫌そうな顔をして、パラロッチャ(スラングの意)でエリゼを罵った。 「相変わらず食えねえ野郎だ」 「あは、そういう言葉は称賛も同義です」  ああ言えばこう言うと、ロレン。ユーリは端からエリゼには口で勝てると思っていない。じゃれてないで行くぞとエリゼを引っ張り、表に出た。  闇市は診療所があるノーヴェ地区とディエチ地区の丁度間くらいに位置する。闇市の裏側をのぞいてみたが、人だかりはない。ここも外れかと誰に言うともなくつぶやいて、ユーリはふうと息を吐いた。 「そりゃあ何万といる人間の中からたった一人を探そうって言うんだから、情報がなきゃ厳しいものがあるよな」 「彼は逃げ足が素晴らしく速いので、俺がいると分かれば会える可能性は格段に減ります」 「やっぱりあんたのせいかよ。アリオスティ隊じゃなくてスカリア隊に警護を頼んだほうがここの連中には話が通りやすいってことだな」  八つ当たりのようにはっきりと嫌味を言ってみたが、エリゼはそうですねと否定をしない。それどころか話は通るでしょうが貴方も無事では済まされませんよといつもと変わらない口調で言われてしまった。本当にそうだ。スカリア隊が警護につくとなると、合成薬物の作成を手伝わなければならないうえ、絶対に“何事もない”わけがない。 「前言撤回。話は通りにくくてもいいからあんたらに任せるほうが俺の身のためだわ」  空笑いをしながら言う。もう一度地下街を捜してみるかなあとぼやきながら歩き出した時だ。重い金属的な衝撃音が喧騒の絶えない裏路地から響いた。それもふたつだ。闇市の裏側にある路地から数名の男たちが走って出てきて、ユーリたちとは反対側へと逃げていく。ユーリはとっさにその路地へと走った。  路地に入り、細い通路を抜けた先は三方を高い壁に囲まれていた。いくつかの木箱が乱雑に積まれており、その木箱の脇にチェリオが座り込んでいる。ユーリを見るなりひどく慌てた様子で走り去ろうと駆けてくる思い切り回し蹴りをくらわした。男の体が勢いよく地面にたたきつけられる。ブクブクと泡を吐くさまを見て、ユーリははっとした。手加減するの忘れたとぼやき、自分の額を叩く。 「ユーリ?」  チェリオが目を瞬かせる。ユーリはすぐさまチェリオの脇に跪いた。 「大丈夫か、怪我は?」 「や、俺より、そいつ」  ガチで失禁してんじゃねえかと、びくびくとのたうつ男を見ながら呆れたようにチェリオが言う。 「そういや、俺のこと捜してたんだって? ネイロのおっさんがそろそろ顔出してやれっつってたけど、おまえアイツに抱かれでもしたのかよ? あのおっさんが肩持つなんざ相当だぞ」 「なんもしてねえよ。それより」  ふと気配がして横を見ると、エリゼがちょこんと座っているのが見えて、思わずのけぞった。 「うわっ!?」 「撒かないっていいましたよね?」 「撒いてはないだろ」  言いながら視線を逸らす。撒いてはいない。だが単独行動をするなと言われたばかりだ。気まずい。 「そ、それよりだな、あんたが前に言っていた地下街の奥にある回廊のことが聞きたくて」  エリゼを撒いたことをごまかすように、ユーリ。エリゼは呆れたと言わんばかりの表情のままでふうと息を吐いた。 「いくら気が長くて温厚な俺でも怒るときは怒るんですよ、ユーリ。貴方はまだ自分がどんな立場にいるのかを分かっていないようですね」  エリゼの圧が怖い。どう取り繕おうかと考えていると、チェリオがすっくと立ちあがり、大袈裟に両手を広げてみせた。 「じゃあさ、いっそのことスラムにぶち込めば?」 「はっ!?」 「いいですね、そのほうが大人しくしているでしょうし、なによりイル・セーラは同族のことしか信用しないようですから」  こちらはこんなに親身になって心配して差し上げているのにと、エリゼ。チェリオに助けを求めようとしたが、悪い笑みを浮かべて壁のほうへと歩いて行った。 「捜し物はこっちだ」  言って、排水溝の蓋をこじ開ける。さすがのエリゼもこちらに危害を加えるようなことはしないだろうと思い視線を向けると、こちらに銃口を向けているのが見えた。 「さあ、どうぞ。死にたくなければとっとと歩いてください」  腹に銃口を押し当てられる。エリゼの目は本気だ。撒かないと言ったのに撒いた自分が悪い。悪かったよと謝ってみたが、エリゼが許してくれる様子はない。さらに強く銃口を押し当てられた。  ユーリはエリゼに言われたとおりに、チェリオがこじ開けた排水溝を降りた。 *** 「なあ、どこまで行くんだよ?」  かび臭く、湿気の多い地下道をかれこれ1時間以上歩いている。エリゼが持っていたランプのおかげで暗くはないが、生臭さとかび臭さで吐き気を催す。あと少しだとチェリオに促され、ユーリはため息交じりについて行った。  やがて勾配のある道に差し掛かった。そこを登りきるとチェリオはバックパックから取り出した道具で古びたドアのカギを開け、ドアを押した。さび付いた蝶番がきしむ。ドアが開き切るとエリゼに背中を押され、外に出るよう促される。大人しく外に出た時、ユーリは目を見開いた。  目の前にはユーリと同郷のイル・セーラたちがいるのだ。向こうも突然のことにきょとんとしている。 『ユーリか?』  そのうちの一人が話しかけてきた。ユーリと同じ銀髪のイル・セーラだ。ユーリは状況がつかめずにいた。イル・セーラがいるということは、ここは南側のスラムだ。スラムにぶち込むというのはそういうことかと思ったら、顔が引きつった。 「あんたらなあっ」 「俺はちゃんとスラムにぶち込むって言ったぜ」 「俺も同族同士のほうが言うことを聞いてくれると言いましたよ」  ねえとふたりが声をそろえる。立場は違えど強かな性格がよく似ているこの二人は阿吽の呼吸でこういうちょっかいをかけてくる。ユーリは呆れて物が言えないとばかりに大げさに肩を竦めた。 『エリゼに連れてきてもらったのか』  いまのやり取りを聞いて理解したらしい。ユーリと幼馴染で一番仲が良いエドは朗らかに笑ってエリゼに頭を下げた。 『ちゃんと教育してやってくださいよ、エド。俺ではもう手綱を引き切れません、手に余ります』  困ったように、流暢なステラ語でエリゼが言う。それに驚いたのはユーリとチェリオだった。 「あんた、ステラ語しゃべれるの!?」 「だからアリオスティ隊がここの管理を任されているんですよ。言語の通じない相手に身振り手振りでどう説明をしようとしても、みんな碌な目に遭っていないのだからいうことを聞くわけがないじゃないですか」  二の句を継げない様子のユーリを尻目に、エリゼがしたり顔で言う。差し入れですと背負っていたミリタリーバッグをエドに手渡す。エドは人懐っこく笑ってそれを受け取った。 『ありがとう。あとで子どもたちに渡しておくよ』  そう言ったあとであたりの様子を窺うと、エドはユーリの耳元にすっと顔を寄せた。 『外での状況もエリゼから聞いた。必要な薬草なら採取して乾燥してある』  ユーリは驚いて目を見開き、エドとエリゼを交互に見つめた。エリゼは最初からすべて知っていたのだ。わざとらしく肩を竦めてみせると、エリゼは目を眇めてユーリを見た。 「俺の情報網をなめないほうがいいですよ、ユーリ。貴方が困るようなら手を貸すようにと、主人から重々言われていますので」  エドの親はユーリの親友・クロードだ。おなじ国医でなにかとお互いが協力していたのを覚えている。だからフェルマペネムの代替品に必要な薬草を知っていても不思議ではない。収容所にいた中ではサシャよりも年上の唯一のイル・セーラだ。 『あれを育てる理由を、ほかのやつらにも話したか?』 『大丈夫、抜かりはない。最近胃の調子が悪いとごまかしてあるよ。サシャは元気か?』  ユーリは頷いて、表情を綻ばせた。 『エドに会ったって言ったら、アホほど怒られそうだ』  エドは楽しそうに笑った後でユーリの髪をわしわしと撫でた。 【エリゼもナザリオもいい人だよ。ここにいるノルマはみんな俺たちによくしてくれる。  けれどイル・セーラは別だ。フォルス出身以外のやつらもいるし、C区以外の場所に収容されていたイル・セーラたちもいる。  だから、“ユーリ”の二の舞を踏まないように、エリゼだけには本当のことをきちんと話したほうがいい】  言語がステラ語からクリプトに変わる。ユーリははっと表情を変え、エドを注視した。エリゼにわからないようにするためのようだ。 【俺はできるだけ本当のことを話しているつもりなんだけど】 【ユーリ、これは種族間だけの問題じゃないんだ。ノルマは確かに憎い。でもその感情をいつまでも持ち続けていたところで、無駄な争いしか生まない。だから俺たちは、ナザリオたちを利用してでも生き延びる方法を選んだ。だからここにいる】 【どういうこと?】 【有り体に言えば取引だ。俺たちがいた収容所での出来事をすべてナザリオたちに話した。シリルが殺されたときのことも、なにもかも】  ユーリは信じられないというような表情で、エリゼに視線をやった。 【だからイル・セーラの収容所のなかでも、C区を管理していたやつらはみんな西側のスラムに入れられているはずだよ。本来ならしてはならない法律違反の性犯罪者として墨入りになっている。彼らの情報を話した条件は、ここにいるイル・セーラたちの身の安全の保障と解放だ】  そこまで言ったところで、エドは何食わぬ顔でステラ語に戻した。 『俺たちのことならなんの心配もいらない。だからユーリも、エリゼを撒いて困らせるようなことはやめてあげてくれよ』  穏やかな笑みで言われ、ユーリは肩を竦めてみせた。お手上げだと言わんばかりにエリゼに視線をやる。エリゼは楽しそうな笑みを浮かべて『もっと言ってやってください』と冗談交じりに言ってみせた。  納得がいかない部分がある。エドは収容所で両親も兄弟たちも殺され、自身も強制労働でひどい目に遭わされている。逃げられないように足の腱を切られているせいで跛行が目立つし、両腕の痕も生々しく残ったままだ。エリゼやナザリオは確かに協力的だし、信頼できない相手ではない。それはわかっている。けれどノルマ嫌いで最後までノルマに反抗的だったエドが、ほかの仲間の身の安全の保障と引き換えに、自分の信念まで曲げるだろうか?  そう考えたが、ユーリは自嘲気味に笑った。イル・セーラは生き延びることへの執着と執念がすさまじい。信念を曲げるどころか舌先三寸で渡り合うことも厭わない。だからこそ信用を失い殺されるリスクもあるが、最後の最後まで諦めない気持ちが細胞まで根付いているのではないかとおもうほどにころころと立場を変える者もいる。そんな状態だからこそ、クリプトを使うときだけは真実を語る。そのことを思い出して、ユーリはエドの背中をばんと叩いた。 【フェルマペネムの代替品を作って、絶対にここから出してやる】 【正確な調合率はわかっているか?】 【問題ない。必要な薬草は俺が、分量はサシャが聞いている】 【クロードが言っていたが、イル・セーラに最適なものとノルマに最適なものは異なっているらしい。ノルマ用にはおまえと同じ名前の薬草を入れたほうがいいと】  ユーリはきょとんとした。それは自分がユーリの名を継ぐ前のことを言っているのだろうか。不思議そうな顔をしているのにきづいているのかいないのか、エドはユーリの背をポンと叩いた。 『サシャによろしく言っておいてくれ』  そう言って、エドはエリゼから受け取ったミリタリーバッグを手に、近くの古びた建物へと入っていった。  エリゼはクリプトで話した内容について追及してくる様子がない。もしかするとエドはクリプトのことすらエリゼに話しているのかもしれない。生きるための取引と言ったが、それが自身の首を絞めることにつながらないだろうかとユーリは思案する。 「エドが言っていた薬草は建物の裏にあります。ほかのイル・セーラに悟られないように、早く持って帰りましょう」 「コレットたちに会うのはだめか?」 「俺の協力者はエドだけです。ほかのイル・セーラには詳細を話していませんし、あくまでも怖い看守の立場でいますよ。コレットとアイラならこの時間は表の畑で農作業をしていますし、子どもたち以外はほとんど表に出払っています、ご安心を」  そう言われて、ユーリは大人しく頷いた。フォルス出身者以外のイル・セーラはあまり信用ならないうえ、エドが自分たちと会っていたことが明るみに出れば陰でどんな目に遭わされるかわからないからだ。ユーリは目的の薬草を採りに建物の裏へと急いだ。

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