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One【出会い】(3)
とっぷりと日が沈んだころ、報告に行ったサシャがいいにおいとともに戻ってきた。手にしているバスケットに視線をやり、サシャが戻るのがやたらと遅かった理由を察してかユーリは空笑いをした。
「世話好きのお嬢様からの差し入れはなんだ?」
「彼が起き抜けに食べられるようにとミネストリーネを作ってくれた。俺たちのもある」
ユーリはベッドに横たわっているチェリオに視線をやった。
「だそうだ。起きられそうか?」
「無理、くっそだるい」
声が掠れている。目が覚めたころよりはだいぶ調子が良くなってきたが、視界が悪い。ぼやけていて気持ち悪い。サシャが戻ってくる数時間前に、ユーリから出血大サービスをされたせいだ。腹の奥がうずく感じはだいぶ軽減されたが、やはりまだ本調子ではない。
あのあとユーリは部屋を出て30分ほど戻らなかった。戻ってきたときにはジャンカルロに口止め料としてヤラせたのだとすぐにわかった。サシャといた時にはきりりとしていた双眸がぽやんとしていて、妙な色香を放っていたからだ。ジャンカルロが邪魔しに入ってこなければ、ユーリにあんな表情をさせたのは自分だったのにと、唐突に恨めしさがこみ上げた。
「ほら、あまり擦らない方がいい」
そう言って、ユーリが後ろを向いた。サシャが戻る前に薬草を使った薬液を作っていたのを思い出す。ユーリは用意していた冷水で冷やした浸剤をガーゼタオルに浸し、それをチェリオの目元にあてた。
「前に風邪をひいたときに作ってもらったことがあるけど、冷めても十分にうまいから回復したら食べるといい」
返事はしない。そんなことよりも腹の奥が重い。ジャンカルロに抱かれて喘ぐユーリを想像したら、またむずむずと股間が熱くなってきた。もぞもぞと手を動かして鼻のあたりまで布団をひっかけた。
「もうカルテは書いたのか?」
サシャに問われ、ユーリが「めんどくせえ」と尖った声で言う。
「ならジャンカルロじゃなくナザリオに護衛してもらうんだな」
大きな舌打ちが聞こえた。ナザリオと聞いて、チェリオがげっと嫌そうな声を上げた。ナザリオは小さな悪事すら見逃してくれない。スラムの住人にとっては天敵だ。
「そういえば、名前をまだ聞いてなかったよな? 前に地下街の子どもに薬を渡したときにピエタの連中とトラブルになったことから、身元の確認が義務付けられたんだ。名前と居住地区だけ教えてもらえるか?」
チェリオは目元にあてられた冷湿布を剥ぎ取り、勢いよく体を起こそうとした。すぐに体がぐらついて床に吸い寄せられるかのように倒れ込みそうになったが、ユーリが抱きとめられた。
「落ち着け、言いたくないなら言わなくていい」
思うように体が動かないことにいら立って舌打ちをする。逃げようとしてユーリの体を押しのけたが、サシャが非常ベルを鳴らそうとしていることに気づいて、乱暴にベッドの上に座った。
「チェリオ。居住地区は地下街」
「ノーヴェ地区を取り仕切ってるっていう?」
ユーリが目を瞬かせた。チェリオがユーリを避けていたのは、自分のことをノーヴェ地区の住人に尋ねていたからだ。
「だったらなんだよ。そもそも嗅ぎ回る相手の顔くらい知っとけっつーの」
投げやりな口調で言ったあと、急激に襲ってきためまいのせいでベッドに倒れこみそうになった。吐き気はないけれど、頭が痛い。
「ソティア(ユーフォリアの中和剤)は?」
「起き抜けに飲ませた。あとは継続的に輸液で中和していくのと、物理で抜くしかない」
そう言った途端、チェリオが目を輝かせてユーリを見た。
「抜くって、つまり、ヤらせてくれるってこと?」
サシャが咳払いをする。ユーリが「怒るなよ」となだめるように言ったが、サシャは怪訝そうにユーリの胸倉をつかんだ。
「まさか、誑かしたわけじゃないよな?」
そのまさか、だ。けれどユーリはそんなわけあるかよと素知らぬ顔で言ってのけ、デスクに無造作に置かれたカルテを手に取った。
「野暮とは思うが、上に報告が必要なんだ。裏路地でなにがあった? 刺された理由は?」
チェリオは上目づかいにユーリを見たあとで視線を逸らした。抜くと言われただけで腹の奥が熱い。ずきずきと自身がうずくのを感じて、チェリオはユーリの腕をつかんだ。
「あとで抜いてくれるなら答える」
ユーリがサシャに問いかけるように視線を向けたが、サシャは不快そうに眉間にしわを寄せて首を横に振りながらデスクの前の椅子に腰を下ろした。そのままなにかの報告書を書き始める。
「そんなことしてみろ、迷わず軍部にタレこんでやる」
ユーリがこちらに視線を向け、軽く肩を竦めて見せる。たしかにサシャがいる前で色仕掛けは禁物だなと納得する。黙って色よとでも言いたそうな雰囲気を悟り、チェリオは了解とでもいうように軽く首を傾けた。
「お堅いこと。等価交換じゃねえか」
「なにが等価交換だ。やはり監視について正解だった」
おまえの貞操はどうなっているんだとサシャがぼやくように言う。
「奴隷だったんだからそのくらい平気なんじゃねえの?」
軽口のつもりで言ったが、サシャからは強い視線を向けられた。意外過ぎて動揺したが、たかだか4年前までは最底辺だったくせにプライドだけは持っているらしい態度に腹が立ってきた。
「おまえらだってノルマに媚び売って、股開いて生き延びてたんだろ。プライドと心は捨てた覚えはないみたいな顔しやがって。俺がなにしてたかなんてどうせわかってるんだから、好きなように調書に書けよ」
チェリオの挑発に乗るかのように勢いよく立ち上がったサシャをユーリが片手で制した。にっと不敵な笑みを浮かべたかと思うと、万年筆の蓋栓を顎に当てた。
「いくらだ?」
「はっ?」
「あんたの値段」
挑発的な目だ。正直エロい。ユーリになめられた時の色香を思い出し、ごくりと喉が鳴った。
「5リタス」
恨みがましくぼそりと言う。言葉にしないだけでやったことを自白しているようなものだ。
「いい値段じゃないか。俺は最高でも2000だった」
「は? 自慢かよ?」
「2000ラレだよ。安いもんだろ」
そう言われて、チェリオは目を見張った。うそだろ、ありえねえとつぶやいたあとで、スラムの男たちが『昔はイル・セーラが格安で買えていた』と口々に言っていたことを思いだした。
「マジで言ってんの? 2000ラレなんて地下街出身者の日雇いより安いじゃねえか」
「その値段でえっぐいことばっかりやらされてたからなァ。ま、ガキの頃はそうだったけど、収容所から出る2年位前からは軍部の高官様並みに荒稼ぎしていたんだ」
「ぐん、ぶ…って、まじかよ!!?」
チェリオが素っ頓狂な声を上げた。軍部の高官の正確な給料は知らないが、上流階級ともなれば1日5リタスとはいえないほどもらえているはずだ。しゃべるつもりなどなかったが、ユーリのやり方を真似すればすぐに稼げそうだと喉を鳴らした。
「どうやったの?」
ユーリが首を斜めに傾けて少し肩を竦めて見せた。
「あんたの聴取が先」
チェリオは少し身を乗り出して、真剣な顔でユーリを見た。
「ステフはどうなった?」
「ユーフォリアの所持と使用の現行犯、ついでに傷害罪と殺人未遂で二コラがしょっ引いた。議会に掛けられて豚箱入りだよ。最低3年は出られない」
仮にここでユーリが裏切ってチェリオを軍部の収容施設に連れて行ったとしても、いまよりは食事にも寝床にも困らないなと思案する。どう転んでも、イギンに目を付けられた可能性が高いいま、より生き残れる可能性が高いほうを選ぶほうが賢明だ。
「ステフは度々俺を買いに来てたんだ。中流階層って言ってたけど、下流層街に住んでるはずだ。どっちかっていうと北側のスラムに近いピエトラ地区にある商工会議所に勤めてる」
素直に答えると、ユーリの双眸が満足げに細められた。
「買う側が素性を明かすのは珍しいな」
「なんかあった時に陥れてやろうと思って調べたんだよ。
ステフから試したいことがあるからって言われて、ろくに詳細を聞かないままに応じたんだ。前に似たようなことを言われたときは、ほかの男に抱かれる俺が見たいとかいうフェティシズム丸出しの内容だったから、今回もそうだと思った。そしたら無理やり薬を打たれて、人を呼ぼうとしたら切り付けられた」
ユーリはそうかと言って、さらさらとカルテに認めはじめた。高級そうなペンだ。ピエタの上官が持っていたものよりもはるかに質のよさそうなそれに目を奪われる。売ったらいくらだろう。そう思いながら、途切れることなくつづられる文字に視線をやる。
「裏路地から逃げてきたやつらの証言ででっちあげられでもしたらいけないから、銃は不所持でクラッカーを使ったのも人を呼ぶためだったと書いておく」
「はっ、どこまでお人好しなんだよ。俺が陥れられようがおまえには関係ないじゃん」
「あんたは困らなくてもロッカやほかの住人が困るだろ。スラムにおける銃の不法所持は重罪だ。地下街出身者が所持していたとなると、執拗な炙り出しをしないとも限らない」
チェリオはあからさまに嫌そうな顔をした。過去二回ほど地下街の炙り出しが行われている。そのときに殺された地下街の住人のほぼ全員が無実だ。ロレンが言っていたが、チェリオの両親もその炙り出しで殺されている。親指の爪を噛み、悔しそうに眉を寄せる。ユーリはそれ以上はなにも尋ねてこなかった。カルテを書き終えてそれをバインダーごとテーブルに置く。チェリオがきょとんとした。
「それ、見たことない文字だな」
何語? と、チェリオ。チェリオは計算はできるが、ほとんど文字が読めない。形状から察して当てはめて推測するレベルだ。チェリオだけでなく、スラムの東側の住人の99%はほぼ文字を理解していない。
「これはフォルムラ語といって、周辺諸国の共通言語だ。目にしたことがないのはミクシア、オレガノ間の国交正常化が成立したのが4年前からだからで、国家間を往来する立場の人間以外は使わないんだ」
「…おまえ、そんな偉い立場なわけ?」
「いや、ミクシア内でフォルムラ語を読み書きできるのが一部の貴族様と軍部の最上幹部のみだと聞いて、嫌がらせと自衛のためにそうしている。こうしたら調書やカルテを偽造できないし、俺が書いた調書が一度は最上幹部の目に留まることになるからな」
淡々とした口調で言うと、チェリオは冷めた表情でふんと鼻で笑った。
「字が読めない俺にとっては何語だろうがどうでもいいけど」
スラム街出身者は総じて識字率が低い。搾取される側に余計な知恵はいらないという前国王の指示だ。いかにも独裁者らしい思考をしている。
「そうだ、おまえが高官並みに稼げるようになった理由は!?」
ユーリはくっくっと笑いながら肩を竦めた。
「これだよ」
「これって?」
「字を学ぶだけでも裾野が広がるし、少なくとも体を張らなくても食い扶持くらいは稼げるようになる。経験論だ。収容所にいたころ、俺とサシャはノルマ語を理解できない仲間たちと、素直に言うことをきかせたいノルマたちとの通訳を買って出ていた。度々瀕死の状態にまで陥れられることはあったが、殺されずに済んだのはそのおかげもあると思ってる」
チェリオは苛立ったように眉を顰め、騙したなと唸るように言った。
「奴隷が偉そうに説教すんな。俺はもうじき20歳だし、身の振り方くらい自分で考える」
「へえ、俺とふたつしか変わらないのか」
ローティーンかと思ったと、ユーリが意地の悪い笑みを浮かべる。チェリオはあんぐりと口を開けた。この国の教育制度からしても20代後半でもおかしくはないと思っていたからだ。放心するチェリオの目の前でユーリが手を振って見せる。
「おーい、チェリオ。チェリー。フリーズするな」
チェリオは少しの間放心していたが、やがて面倒くさいと言いたげな顔をした。
「チェリーって呼ぶな。ふたつ上っていうと22?」
「誕生日が来たらな」
「まじか。栄位クラスは8年から10年大学に在籍していないとなれないって聞いたぞ」
チェリオが呆れたように言う。チェリオの言う通り、スパツィオ大学の栄位クラスに入れるのは、6年制の大学と2年から4年制の大学院を卒業した者のうちの極一部のみだ。イル・セーラが奴隷解放されたのは4年前、つまりユーリとサシャは本来なら8年から10年かかるところを経った4年足らず卒業したという計算になる。
ユーリは「あァ」と気だるそうに返事をして、サシャが持ってきたミネストリーネをスプーンですくって口に運んだ。スープの油ですこしてかったくちびるが、先ほどの行為を想起させる。スプーンを咥えたまま調書になにかを書き加え、高級そうなペンを白衣の胸ポケットにしまう。スプーンをスープ皿に戻し、ユーリがチェリオに視線をやった。
「ミクシアの教育制度は独特で、上流階級は10歳から、中流階級は14歳から、下流階級は16歳から大学入学が可能な年齢と定められているものの、カテゴリ内の課題が済めば次の学年に進めるシステム――飛び級制度ってのがが設けられているんだ。
べつに俺とサシャが特別優秀ってわけでもねえよ。俺のひとつ下にも同じように4年で卒業して臨床に出ているヤツがいるし、軍部にはもっとすごいのがいるって話だぜ」
ふうんと生返事をする。チェリオはユーリの濡れた唇にくぎ付けだ。サシャからの視線がぶつけられる。いつもなら気取られないように意地でも視線をそらさないが、さすがに気まずさから視線を逸らしてしまった。
「ずいぶんとユーフォリアが抜けたようだな」
サシャが穏やかに言う。ユーリと遊んだことがバレたわけでないようだ。そういえばとつぶやいて、チェリオは自分の両手を見つめた。しびれがない。腹の奥が若干うずく感じとめまいが残っているものの、それ以外の頭痛や吐き気は最初と比べるとほとんどないと言ってもいいくらいだ。
「俺、金持ってねえんだけど」
ぽつりとチェリオが言う。サシャとユーリがきょとんとする。すぐにチェリオの目が吊り上がった。
「だから、治療代払えないっつってんの!」
言いながら乱暴にベッドを叩く。
「そんなもん取らねえよ。ほかのスラムの住人にだって治療代を請求したことはない。物々交換っつか、薬草の在処を教えてくれたり、診療所の修繕を手伝ってくれたりはしてもらってるけど、それもほぼ自主的にだ」
「じゃあ俺を抱いてく? 割と顧客ついてるから具合いいと思うぜ」
色目を使うようにチェリオが笑う。ユーリは不満げに眉を顰めてチェリオの頬を引っ張った。
「いででででっ!」
「体を大事にしろ。さっきので懲りたかと思ったら、性根の入らないやつだな」
「しょうがねえだろ、それ以外に食っていく術がないんだから!」
苛立ったように言いながらチェリオがユーリの手を払いのける。ユーリはチェリオの頬を両手でパンと叩いた。
「いいか、食っていく術ってものは自分で見つけるものだ。あんたはまだ若い。取り返しがつく。そうやって自分を卑下するな」
納得のいかないセリフだった。そんなことはわかっている。けれど奴隷解放されて自由の身であるユーリとチェリオとでは立場が違う。チェリオが枕を鷲掴みにし、ユーリに投げつけた。
「おまえはそうかもしれない。でも、俺みたいにこういう生き方しかできない人間もいるんだ!」
ユーリは動じない。ユーリが言葉を紡ごうとしたが、今度はサシャが片手をあげて制した。
「そちらの言い分は尤もだ。俺もユーリも、ノルマの媚びることで生きてこられた。いまだってノルマの庇護のもとで生きている。その立場は俺たちがミクシアに住む以上変わることはないだろう。
だけどスラムは違う。独自のルールを作ることで、街とは異なる生き方をすることだって可能だ。俺たちとは違った可能性がある。いまスラムを牛耳っているのは誰だ?」
チェリオはムッとしたような表情をそのままに、顎に手を当てた。
「イギンとブラウっていうマフィアだ。それとピエタのパーチェっておっさんの隊」
「彼らときみたちの違いは? 立場や住む場所ではない、決定的ななにかがあるはずだ」
サシャが言うと、チェリオははっとしたように目を見開いた。
「そうか、あいつらみんな字が読めるんだ」
「そういうことだ。ユーリは口が悪くてかいつまんだ言い方しかしないから不快に思わせたかもしれないけど、要はきみが字を覚えることで彼らと対等な交渉をすることも可能だと言いたいんだ。スラムに新たな法を設けることで、マフィアとのつながりを経つことだってできる」
「そんなことできんのかよ?」
「字が読めるようになったら、街の法を教えよう。そこに必ずマフィアの抜け穴がある。
例えばきみが売春を続けたとして、売り上げが月の売り上げが100リタスに達したとしよう。その場合現状では君は上納金をいくらイギンに払うことになる?」
「100リタスかあ。それなら手元に残るのは5リタスだな」
「5っ!?」
ユーリが素っ頓狂な声を上げた。サシャに黙っていろとたしなめられる。
「なぜ?」
「上納金が6割って決まりがあるんだ。俺の手元に残るのは4割だけど、その4割のうちの半分は何事かあった時にイギンに守ってもらうっていう補償金、その半分がピエタに行って、残りの5リタスが俺の取り分」
「それに納得を?」
「してねえけど、街でもそういうもんだって、イギンが」
ユーリが深いため息をついた。どこから突っ込めばいいものやらと情けない声で訴える。
「おまえが言い出したことだ、責任はとれるんだろ?」
「いじわる言うなよサシャ、ここまで認識が歪んでいるとは思わなかったんだ」
チェリオはきょとんとした。街では違うのかと尋ねるとユーリが言い淀む。ユーリ自身もジャンカルロに報酬を渡して警護してもらっているはずだ。
「ジャンカルロのおっさんとかにいくら払ってんの?」
ジャンカルロはあれでがめついから、かなりの報酬を払っているだろうと予想する。
「ジャンカルロは月1リタスで手を打ってくれた」
「はあっ、月1リタス!? それってヤラせろって言われたら自由にヤラせてんの!?」
「ンなわけねえわ。報酬が最低限でもお互いに都合がいいんだ」
チェリオはふむと考えるようなしぐさを見せた。確かにユーリとサシャの言うことは一理ある。自分たちは識字率が低いせいで、普通に生活していく上での知識しかない。奴隷解放宣言のことは、軍部の上層部がわざわざスラムまで出向いてきて説明したから知っているだけで、ほかにどんな法律があるのかなんて知りもしない。北側の、下流層街に近い地区に住んでいる連中はそうでもないかもしれないが、東側など特に無法地帯だ。
「字を覚えて街の法律を知っていれば、イギンたちが俺たちにどう嘘をついて、どうやって金の動きをちょろまかしてるかってのが分かるってことか」
「早い話がそうだ。相手の言い分のみに動かされなくて済む。もちろんそれには相応の危険が伴うかもしれないけど、少なくともいまのように搾取をされるだけにはならない」
サシャが言うと、チェリオはたしかにと唸るように言った。字を知ることは自分にとってメリットのほうが多いことに気づいた。ユーリに度々会う口実ができる。となると、そのうちヤラせてもらえるかもしれない。
「じゃあ字ぃ教えてよ。その代わりに俺ができることがあればかなえてやるぜ」
そうかとユーリが笑みを深める。
「その返事が聞きたかった」
「おう、なんでもするぞ」
元気よく返事をするチェリオを目を眇めて見ると、ユーリはテーブルに左手だけ頬杖を突き、演技がかった表情で首をこくんと傾けた。
「じゃあ東側の診療所を襲撃しないよう、マフィア様に交渉してくれ」
悪戯っぽく、それでいて断ることを許さない圧をかけるように、ユーリ。チェリオはぽかんとした。二の句を告ぐことができなかった。まさかそう出てくるとは思わなかったからだ。
イギンやマフィアたちが診療所を襲撃したことを知っていたこともだが、チェリオを探していた理由がマフィアへの交渉役を頼もうとしていただなんて。
「おまえさ、なんでそれを俺に? 密告されるかもーとか、考えないわけ?」
あくまでも自分はユーリたちの味方をするとは言っていないという態度でチェリオが問う。するとユーリはすいと片眉を跳ね上げて目を細めた。
「俺があんたなら、いつ裏切られるかわからない相手を手放しで信じたりはしないからなァ」
チェリオはユーリの言い分に気づいて、強かさに呆れながらも頭の回転の速さに感心して冷めた笑いを漏らした。ユーリはチェリオがイギンたちの怒りを買わないように、けれども依存はしないように生きてきたことを知っているようだ。いや、それどころか、ーー。
「おっさんになに吹き込まれたか知らねえけど、おまえが診療所を続けることに賛成してるわけじゃねえからな。余計な火種になりうるなら潰すし、場合によっちゃおまえをマフィアに突き出すかもしれねえ。それでも俺に協力しろって?」
威嚇をするかのようにチェリオが言う。脅しではない。事実だ。けれどユーリは満足げな笑みを深めて大袈裟に両手を広げて見せた。
「その気ならとっくにそうしてたろ?」
そう言われて、チェリオは舌打ちをした。おっさんめと口の中で呟いて、苛立ちを紛らわせるようにガシガシと頭を掻く。食えねえやつとぼやくように言った後で、チェリオはベッドにぼすんと身体を沈めた。
「スカリアのおっさんと、その上司のパーチェの野郎に気をつけな。おまえがトレ地区で襲われたのはあの二人の指示だ。フィッチに売り飛ばして大儲けしようとしてたらしいから、計画が潰されて大層お怒りだった。どうせまた仕掛けてくる…ってことだけは教えといてやるよ」
投げやりな口調でチェリオ。ご忠告どうもとユーリの楽しげな声が聞こえてくる。どこまで見透かしているのか。チェリオはユーリの常に二手三手先を考える性質を利用すれば、イギンたちを追い払うこともできるのではないかと考えた。これはある意味でチャンスかもしれないと思い立つ。チェリオはユーリがミネストリーネを食べる姿を眺めながら、イギンとピエタたちの関係にほころびがないかと記憶をたどった。
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