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Four(4)
イオは既に事切れているようだ。夥しい血の量が次から次へと溢れて出てくるのが伺える。太ももの動脈を一突き。とてもただの揉め事とは思えない殺し方だ。
元々イオは方々から恨みを買っている。だから誰がイオを殺そうとしたのかを炙り出すほうが難しい。
チェリオはくんと鼻をうごかした。バニラのような、ムスクのような、とにかく甘いそれは、このあたりでは使われない香の香りだった。
マジかよと口の中で呟く。先程ドン・クリステンたちが話していた男の香のものに特徴が酷似している。やや薄まってはいるものの、その男がここにいたことは間違いないだろう。
他に手がかりがないかと店の奥を覗く。チェリオは目の前の光景に目を見張った。
イル・セーラがいた。ユーリとは違い、オレンジがかった茶色の髪をしている。つい視線を奪われるかのような美人ではないものの、雰囲気のある男だ。顔には殴られたような跡があり、両手を柱に拘束されている。このあたりでは見慣れない何枚も布を重ねたような変わったデザインのローブタイプの服の裾は肌けており、細い足の間からは血と見覚えのある体液がしとどにこぼれ落ちている。
チェリオはまずいところに遭遇したとばかりに舌打ちをした。
「誰かアリオスティ隊を呼んでくれ!」
チェリオが声をかけると、様子を見にきていたダニオが頷き、イオの店の前から走り去った。野次馬が次から次へとあつまってくる。様子を窺いに来た者。イオを見て目を伏せる者。ざまあねえと嘲笑する者。様々入り混じっている。チェリオは店の前に立ちはだかって、声を上げた。
「ここで普段見かけない人影を見たやつはいないか!?」
当たり前だが、知っていても誰も声を上げない。スラムはそう言う場所だ。チェリオが一番よくその現状を知っている。
「確かな情報が欲しい。ふかしでも嘘でもなく、確実に見たことだけ話してほしい。報酬なら出す」
一人、また一人とチェリオの元に寄ってきた。彼らは口々に一人の男がイオの店周辺をうろついていたと話してくれた。
見るからに高級そうなフードマントを羽織り、この辺りでは嗅ぐことすらない上質な香の香りを纏った男。顔こそ見ることはかなわなかったが、フードから覗く髪にはかなり強いウェーブがかった癖があり、髪の色はダークブロンドだったそうだ。
背格好はヒョロ長く、かなりの細身。堂々とした様子ではなく、あたりを伺うような挙動が目についたのだと目撃者たちが口々に言う。
それ以外にみなの情報が一致したのは、男は弱々しそうに見えるものの、その独特の雰囲気は奇妙そのものだったということだ。ビンゴだ。
チェリオは目撃者に1リタスずつ手渡すと、野次馬たちがいなくなったのを見計らって店の中に入った。
店の奥にいるイル・セーラに声をかける。息はしているが、意識はないようだ。チェリオは頭上で両手を拘束している革手錠をとりさって、イル・セーラの頬をぺちぺちと叩いた。
「おい、しっかりしろ」
返事はない。無理やり抱かれた以外に外傷はないようだが、呼気に混じってつんと鼻を衝く独特の刺激臭がする。きっとイギンたちが相手をリンチするときに使う合成麻薬のにおいだ。それを裏付けるように、遮光アンプル瓶が2、3本転がっているのが見えた。割れたものも合わせれば4本だ。それならまるで意識がなくなるもの頷ける。
イル・セーラが呼吸をするたびに後孔からどろりと精液がこぼれ落ちる。一度や二度の量ではないと察して、チェリオはめんどくせえとぼやきながらガシガシと頭をかいた。
カーゴパンツのポケットからスキンを取り出して、右手の人差し指と中指にはめる。イル・セーラの前にしゃがみ込み、呼吸のたびに誘うように開閉する後孔に指を差し入れた。与えられた圧迫感のせいか、意識がないはずなのに異物を押し出すかのようにきゅうとそこが締まった。ユーリとは違い、抱かれることに慣れていない体だとすぐに悟る。
目が醒めても面倒だからと、手際よく中に出された精液を掻き出してやる。スキン越しに指を広げて中に残っていないかを確認する。ふと違和感を覚えた。コツンと爪の先になにかが触れたのだ。
チェリオは指の付け根まで潜り込ませ、異物を挟んだ。形状から察するに、やや細めの筒状のものだ。それを器用に指で挟んで引き摺り出す。イル・セーラが異物感のためか艶めかしい声を上げた。意識がないはずなのに腰をくねらせて抵抗する。そういえばユーリが言っていたような気がするが、あの薬は媚薬効果も高いらしい。身悶えているのはそのためだろう。
別にこのイル・セーラを抱こうという気はさらさらなかったのだが、こんな反応をされるとやはり悪戯な気持ちが込み上げてくる。いかんいかんと頭を振るって、イル・セーラの中に埋まったそれを抜き取った。精液以外の、別の液体をしこたま入れられていたのか、光沢のある黒のスティック状のそれとイル・セーラの後孔との間につうと粘性の高い糸がひいた。
スティック状のものは明らかにこのあたりでは取引されていないものだ。キャップと思しき場所と本体の境目に簡素ではあるがゴールドの装飾が施されている。イル・セーラのローブで粘液を拭い取り、それを翳して様子を伺う。
売春を始める前に情報屋めいたことをやっていたことがあった。ピエタには知られてはいけないものを尻か胃に隠して運んでいたことを思い出す。これもその一種なのだろうかと気になって、少しの間チェリオはそのスティックを眺めた。
革靴の音が近づいてくる。やや軽めで歩幅が広く、気配を消す気など全くない様子の歩き方。これはきっとナンドだ。もうひとつは聞き覚えのないものだった。ナンドのよりも歩幅が広いが控えめで、あまり足音を立てないように努めているのがわかる。エリゼでもナザリオでもない足音は、きっとニコラだろう。そう推測して、チェリオはそれを交渉材料にしてやろうとバックパックに押し込んだ。
チェリオが表に顔を覗かせる。向かいの通りから現れたのはやはりナンドだった。隣にはニコラもいる。怪我人がいるということで医療班を寄越したのだ。
ニコラはイオのそばにしゃがんで首のあたりに手を宛てがった。脈がないことを確認する。
「チェリオが来たときには、既にこの状態だったようだ」
さすが医者だ。そんなことまでわかるらしい。わざと口笛を吹くと、ニコラはイオの出血の原因ーー太ももの傷を確かめて、舌打ちをした。
「手練れだな。マフィアたちはこちらで収監しているから、考えられることは兵役経験者か、殺し屋の仕業だろう」
ナンドも傷を覗き込む。傷が見えやすいように裂けたデニムを掻き分けて、興味深そうに傷口を凝視する。
「ナイフの傷ではないみたいだ」
「だろうな。ナイフに比べて衣服の裂け口も傷口も荒すぎる。相手も怪我をしている可能性があるな」
「道中血痕らしきものは見当たらなかったけど、その線で洗うほうが早そうだ」
言って、ナンドは持ってきていた麻袋をイオの身体に掛けた。夥しい量の血だ。店先はイオの血に塗れてしまっている。人間はいくら性根の腐ったやつでもこんなにも血が流れているのだなと感心する。
「そうだ、イル・セーラが捕まってた」
ナンドが弾かれたように顔を上げた。店の奥にいると告げ、案内する。慌てた様子でナンドがついてきた。
あのイル・セーラはまだ意識が戻っていないらしく、ぐったりとしていた。一応衣服は整えておいてやったが、部屋に漂う独特の香りでなにがあったかは容易に想像がつく。くそっとナンドがパラロッチャを吐き捨てる。
「入国許可を得たばかりのイル・セーラじゃないか。しかもこいつはオレガノ出身の国医だったはずだ」
ニコラが続いてやってくる。イル・セーラの姿を見るなり、目を見張った。
「ユリウス」
ナンドが腹立たしさに昂った自分を落ち着けるかのように息をはいた。
「ドン・クリステンへの報告が先だ。オレガノのイル・セーラが暴行されたとあっては、あちらが黙っていない」
「あちらって?」
チェリオが尋ねる。ナンドはチェリオには目もくれず、意識のないユリウスと呼ばれたイル・セーラを抱き起こす。体がだらりと弛緩していて、一向に目を覚ます気配がない。
「オレガノの特使だ」
特使と言われてもピンとこない。キョトンとしていると、『国外から派遣される特別な任務を受けた地位ある相手のことだ』とニコラが教えてくれた。そんな相手が来ていることすら知らなかった。へえととぼけた返事をする。
ニコラの話だと、オレガノの特使が来ていることは極一部の国の上層部に限られるため、上流階級ですら知らない人の方が多いそうだ。ニコラが知っているのは、特使が来ているということだけで、彼の名前も顔も知らないと言っていた。もちろんナンドもそうだ。
「オレガノからは秘匿任務のようなものを受けているのだろう。もちろんこれも推測に過ぎない。イル・セーラへの対応や奴隷解放宣言後に制定された法を確かめに来ているのだと思う。
ナザリオが言っていたが、過去4年分のイル・セーラに関与する事件資料を押収されたようだ」
「げっ、それってめちゃくちゃやばいってことなんじゃねえの?」
「ただでさえその事件資料にはユーリのことが羅列されていると言うのに、オレガノからやってきたイル・セーラが暴行されたとあっては、かなり分が悪くなる」
「最悪ミクシアオレガノ間の国交断絶だな。フィッチとの戦争が起きる可能性が倍増する」
頭が痛いとナンドが額を押さえる。とりあえず死なれては困ると、ニコラが白衣のポケットからピルケースを取り出した。白乳色のタブレット状のものだ。ユリウスの口を開かせ、指で摘んだそれを舌の裏に押し込んだ。
「ナンド、俺はユリウスを連れて先に戻る」
「わかった。俺は応援を待ってからイオの遺体を回収する。チェリオ、おまえはニコラについて先に戻れ」
「えっ、でも」
「いいから。なにも知らなかったことにしろ。もしも特使様に詰め寄られた場合、助けてやれないかもしれないんだ」
そう言われて、ゾッとした。オレガノの特使というのは、それほど強い権力を持っているらしい。お偉いさんがたの考えることはよくわからない。そうぼやきながら、チェリオはニコラについてイオの店を後にした。
***
イオの店でイル・セーラを保護してから、丸一日経過した。ユリウスは既に目を覚まし、無事だったようだ。けれど肝心のユーリがまだ目を覚ましていないらしい。もちろんサシャもだ。ふたりとも、特にサシャはいつどうなってもおかしくないのだとニコラとドン・クリステンが話しているのを聞いた。サシャはユーリのたった一人の肉親だ。もしものことがあったら、ーー。
最悪の想像を振りはらった。今できることをやらなくては。チェリオは東側のスラムのノーヴェ地区に戻り、情報を集めていた。
早朝からスラム中を駆けずり回っているが、イオの店に来ていた男の情報は誰一人として持っていなかった。目撃情報はあるものの、誰も正体を知らない。コーサでも、ピエタでも、軍部の連中でもなさそうだということくらいしかわからなかったが、ピエタと軍部は全員がスラムに降りてくるわけでもないし、その線は捨てがたいとチェリオは睨んでいる。もうとっぷりと日が暮れてしまっている。腹へったなぁとぼやきながら歩く。東側の診療所がある通りに差し掛かった。
いまは閉鎖されている。肝心のユーリが目を醒さないからだ。よくスラムの住人に“協力させた"と思う。スラムの住人は自分にメリットがない限り決して動かない。ウーノ地区やトレ地区あたりまでは、その場限りのメリットでも動く奴がいるが、ノーヴェ地区やディエチ地区、それに地下街の住人は自分達に継続的なメリットがないと判断した場合は、断固として動かないし、妨害する。この診療所が何度も襲撃されたのがいい例だ。
襲撃されても、襲撃されても、数日後には修繕されている。ユーリだけがやるんじゃない。この診療所を続けてほしい誰かが夜な夜な人目を避けて修繕するのだ。最初は一人で傷まみれになりながら建て直していたのを、この辺りの住人はみんな知っている。イギンに睨まれようが、ゴロツキに絡まれようが、ユーリの姿勢は変わらなかった。
だから協力したーーなんてことはない。そう思いたい。思いやりや施しなんかで腹は膨れない。そんなものを対価に働けなんてガキどもに教えた覚えはないし、そういう優しさなんてとっくの昔に捨てているはずだ。それでも、ユーリの気持ちに応えたかったのかもしれない。掃き溜めみたいな場所に、希望をもたらしてくれたからこそ。
ここは元々、向かいの家に住んでいたノンナの親の所有物だったと聞いたことがある。チェリオはなにがきっかけでそのノンナがユーリにここを貸すことにしたのかは知らないが、このあたりの連中は、そのほとんどがノンナの世話になっている。
子どもの頃に遊んでもらったり、親の代わりに躾けられたり、ひもじい思いをしていたら食べ物を分けてくれたりと、気難しいけれど優しくて、チェリオは度々いたずらをしては怒られていた。ノンナはハロじいちゃんとおなじくらいの年齢で、アドラードじいさんに先立たれてからはずっと一人で生きてきた。一人だったからこそこのあたりの子どもたちに優しかったのかもしれない。だからノーヴェ地区の連中は、ノンナのおねがいにはめっぽう弱い。
急に体調を崩して亡くなる日、ノンナの異変にはユーリが気付いた。いつもなら15時過ぎに豆を洗ったざるが表に干してあるのに干していなかったと言っていたと聞いたが、そんな細かいことに気付くほどスラム街の人間のことをよく見ていたのかと感心した。
ユーリはノンナが亡くなるまで、ずっとそばにいたらしい。チェリオは敢えて近づかなかった。立場上のこともあるし、ノンナが死ぬところを見たくなかったからだ。金を集めていたのは、ハロじいちゃんとノンナを北側に移住させたかったのもある。それが叶わなかったのが悔しくて、見て見ぬふりをしていた。
だからノンナの遺言はあとからネイロに聞かされた。『あの建物はニーノ(ノンナはユーリをそう呼んでいた)に譲る。ニーノと診療所をコーサとピエタから守ってやってほしい』。それを聞いて、一番泣き喚いていたのはおいぼれ連中だったとネイロが言っていた。自分たちでは太刀打ちができない。世話になったノンナの遺言すら守ってやれないからだ。その老いぼれたちを見ていたノンナに世話になった大人たちから、「秘密裏にでいいからコーサとピエタの邪魔をすることを許可してくれ」と歎願された。そんなことを聞かされたら、嫌とは言えない。元々イギンたちコーサの連中がここに来る前は、みんなで助け合って生きていた。それがいつの間にか、スラムの形やありかたが変わってしまったのだ。
おいぼれたちもそうだが、ネイロたちの世代はほとんどがコーサの締め付けで苦しい思いをしている。あいつらを舐め腐っていたのは、チェリオたちティーン連中と、大人だとロレンとキルシェとイオだけではないだろうかと思案する。ノンナの遺言があることを聞いて、真っ先に動き始めたのは、チェリオ以外のティーンたちだった。
ふとユーリの顔を思い出した。診療所が修繕されているのを見て、切長の大きな目をまんまるくさせていた。それから修繕したのがスラムの人間だと気付いたら、まるではにかむように、くすぐったそうに笑っていた。
チェリオは敢えて近付かなかったからしらないが、ロッカが自分の顔ほどの大きさのあるパンを、人数分抱えて戻ってきた日がある。ユーリから、このあたりの住人へのお詫びの印だといっていた。はちみつとバターがたっぷり使われたふわふわのパン。あんなに大きなものをひとりがひとつ食べたのは、生まれて初めてだったかもしれない。
パンだってタダじゃない。ユーリが使っている薬だってそうだ。ニコラとは階級が違うこともあるだろうけれど、ユーリが身につけているものは、ニコラのものよりも質素で、だいたいいつも同じような服装をしている。最初は毛嫌いしていたチェリオたちが言えた義理じゃないが、ピエタや国の上層部の連中は、ユーリがしていることをもっと理解するべきだと思う。
診療所ができてから、無意味な争いがなくなった。ユーリがくるときには必ず料理を振舞ってくれるからだ。盗みをしなくても食えるとわかった地下街の老いぼれたちは、ユーリのために地下街の奥にある薬草を摘んで提供していた。その対価が診療と、料理だ。
まとまりのなかったデリテ街(オット地区、ノーヴェ地区、ディエチ地区、地下街を指す侮蔑用語)の連中が、他人のために動くことを覚えた。デリテ街をまとめようとしたことでイギンに目をつけられて殺されたチェリオの父親が生きていたら、なんて言うだろう。どう思うだろう。そんなことを考えながら、診療所を眺めた。
チェリオはぎゅっとこぶしをにぎりしめた。
イギンたちはいない。しばらくはでてこられないだろう。だとしたら、チェリオがいまやることは、この診療所を守ることと、あの気味の悪い男の正体を掴むことだ。
ユーリが泣いていた。“あの"ユーリがだ。ここに光をもたらしてくれた相手を曇らせる奴は誰が相手でも許せない。人が動く理由なんてそんなもんだ。
「チェリオ」
診療所の階段の脇に座っていたのは、ネイロだった。チェリオが近付くと、上質そうなタバコに火をつけた。いったいどこから入手したのかと思うほどいいものだ。少し甘い煙のにおいがする。
ネイロはなにも言わない。ただタバコを黙って吸うだけだ。何か言いたいことがあるのだろうと思って、付き合った。
やがてタバコをふかし終え、名残惜しそうにふうと煙を吐き出した。地面で火を揉み消した後で、やるせないような、感情を吐き出すかのような、どちらともどれない吐息混じりの声を出す。
「タバコはうめぇが、吸っちまえばあとにはなんも残らねえ」
ぼそりとネイロが言う。ピンときた。上質そうなタバコの供給源はイギンだ。
「なんか知ってんの?」
「俺ぁな、チェリオ。知ってのとおり長くなかったのよ。下流層街に住んでいたが、病魔に勝てねえことに苛立っちまって、ついピエタに喧嘩売っちまってよ。それでスラムにぶち込まれたんだ」
ネイロが言う。長くないと言うことは知っていたが、その経緯までは知らなかった。ふうんと相槌を打つ。
「でもよぉ。あの兄ちゃんが初めにここに降りてきたとき、俺の顔色を見るなりすぐに薬をくれたんだ。街じゃ医者から『てめえに払えるような額の薬じゃねえ』っておっ返されたってのにだ。おかげさんで、いまはこのとおり」
言って、最後の煙を吐き出した。ふうと吐いた息は先細り、消えていく。ネイロがそれを見つめ、ガシガシと頭を掻いた。
「高え薬だったってのによぉ。アリエッテまで簡単に治しちまった。去年まではこの時期になると人がバタバタ死んでたろ。それが今年は暴動以外ではゼロだ」
確かに。言われて思い返す。デリテ街のなかでもディエチ地区と地下街は湿気が多く、かなり不衛生だ。それに食料がほとんどない。そのためネズミでも見つけようものなら腹をすかせた誰かがとっ捕まえて食って、そこから謎の感染症が蔓延して、弱い奴から死んでいくのが毎年のパターンだった。だからこの時期のデリテ街からはいつも腐臭が漂っていて、よその地区に顔を出そう物なら鼻を摘まれていたのだ。
「俺もさあ、覚悟を決めたよ。イギンに金払ってさえいれば、守ってもらえるって思ってた。でもあいつら、スラムを葬り去るつもりだったみたいなんだ」
「バッカおまえ、この俺を誰だと思ってんだ」
「はは、知ってた?」
「決まってんだろ。キルシェとこの局面を切り抜ける策を講じていたんだが、何分協力者が足りねえでなにもできなかった。でもよぉ、お前がひとりでどうにかしちまったんだぜ、チェリオ」
こちらを流し目に見て、ネイロ。俺が? とチェリオが訪ねると、まるで自分のことのようにふふんと自慢げに鼻で笑った。
「あの兄ちゃんが困ってようが、誰も助けねえ。スラムってぇのはそういうところだ。それがだよ。地下街出身のガキどもや、怖いもの知らずのガキどもがさらっと壁を払いのけちまった。
まぁ、そうなるとよ、俺ら年長者の燻ってたもんに火がついちまうんだ。長いこと忘れてたし、どうでもいいと思っていたが、やっぱり俺らも生きてんだなあって思ったんだよ」
そこまで言うと、ネイロはすっくと立ち上がった。
薄暗い月夜を見上げ、もう一度ふうと息を吐く。
「あぁ、楽に呼吸ができるってぇのはいいもんだなぁ。なあ、チェリオ」
そう言ってチェリオに視線を向けると、にいと口元を歪めた。
「あの野郎はな、あぶねえよ。おまえの手に、いや、生半可な奴らの手に追えるような奴じゃねえ。それでも突っ込むか?」
「今更だろ。誰が相手だろうが関係ねえよ。そっちこそいつもは絶対に見て見ぬ振りするくせに、ユーリが泣いてたのを見て、抑えきれなかったんだろ?」
「そんなんじゃねえよ、勘違いすんな」
ネイロの声色がいつものドスの効いたものに変化する。
「街じゃあこんな義理なんてクソの役にも立たねえが、スラムじゃ受けた恩義を返せねえ野郎はクズ中のクズだ。俺ぁクズだがクズ中のクズにはなりたかねえ。それだけだ」
チェリオは思わず笑った。素直じゃねえのと揶揄するように言ってやる。ネイロはふんと鼻を鳴らしてチェリオから視線を逸らした。
「奴の本当の名前までは知らねえ。モルテードとスカリアの野郎からはデュークって呼ばれていた。出立ちからしてもありゃあ下流層街の人間じゃねえ。中流階級以上で間違いねえだろう」
ネイロの言いたいことに気づき、チェリオは苦い顔をした。マジかよと口の中で呟いて、勢いよく階段に腰を下ろした。
「軍部の関係者しかいねえじゃん」
「そこまではわからねえがな。俺ら情報屋の間でも、あの野郎の情報だけは謎だった。いっつもフードマントを被っていやがるし、口元もマスクで覆われてるもんだから、素顔を見たことがあるやつも俺らの周りではいねえんじゃねえか?」
「へえ。用意周到だな。でもそれ、ミスリード誘ってんじゃねえ?」
「なぜそう思う?」
「顔を隠すのは誰もが見たことがある相手だと錯覚させるためなんじゃねえの?
じつはもっともっともーっと上の立場で、俺らには顔を見ることすら憚れるほどの相手……なんてことも考えられるぜ」
ネイロが肩を揺らして笑う。そりゃあねえよと楽しげに言ってのけた。
「そこまでのお偉いさんともなれば、こんなところに降りてくることすら不可能だ」
確かにそうかと頷く。頷いた後で、どこかに違和感を覚えた。これはやはりナザリオに伝えて、早急に手を打ってもらう必要がある。
「ふと思ったんだがよ、チェリオ」
ネイロがにやりと笑いながら話しかけてきた。
「スラム出身とは雖も、おめえもやっぱりミクシアの男だな」
ひひっと声を出して、ノンナが住んでいた家のほうへと視線をやった。なんのことを言いたいのかに気付いて、チェリオはふんと鼻で笑った。
「ミクシアの男はシニョリーナやドンナに優しくあれ」
そう言ったのは、ネイロとほぼ同時だった。ノンナに世話になった連中は、大概言われているセリフだ。性格上思い出話をするようなタイプの人ではなかったけれど、アドラードじいさんとののろけ話はわりと聞かされた。いや、のろけ話というほどのものでもない。アドラードじいさんがそうであったように、子どもたちにはそうあってほしいと、いつも言っていた。
これは単に、女性に優しくしろという意味ではない。女性や子どもに対する優しさを持たない相手は、自分よりも立場の低い相手を見下すようになる。自分との齟齬を埋められない狭量な人間になる。だからそんなふうになるなと、そう言いたいのだ。
だからノンナは、ユーリのことをニーノと呼んだ。たぶんユーリはなんのことかわかっていないと思うけれど、こっちの方言のようなもので『かわいい子』という意味だ。種族が違えどもノンナにとってはユーリも可愛い子どもとおなじ。それを知ったおっさん連中の泣き顔は見苦しかったとチェリオは野次ったが、それをきっかけにデリテ街の連中がこっそりと徒党を組み始めたなんて、イオもイギンたちも考えもしなかっただろう。ノンナはそのくらいデリテ街で影響力のある、みんなのノンナだった。
「ノンナに報告したかったなあ、チェリオ。やっとマフィア連中がいなくなったってよ」
「先に行って報告してこいよ」
「あ゛あ゛っ!? てめえ、本当に口の減らねえ野郎だなっ」
「るせえ、ヤニカス。残党はまだいるし、アグエロが生きてる。報告すんのはそれからだし、やるこたいっぱいあんだ。感傷に浸っている暇があんなら、情報のひとつやふたつもってこい」
そう言ったら、ネイロはまたひひっと笑って、意味ありげに肩眉をすいと持ち上げた。
「陰でべそべそ泣いてたピッコリーノにゃ言われたかねえわ」
誘くように言ったあとで、ネイロがなにかを投げて寄越した。それをキャッチして、目を見張る。チェリオに投げて寄越したのは、古ぼけた手帳だった。
「それにいつ、どこでスカリアの野郎たちが会っていたか、諸々書いてあらぁな。パーチェの野郎とデュークに関しては残念ながらほぼ情報がなかったが、スカリアやイギンたちがこっちに来ねえだけでも、スラム街はかなり平和になる」
好きに使えとネイロが階段を下りていく。
「それから、イオのところに捕まっていたイル・セーラだけどよ、あいつには気ぃつけな。元々はそのデュークって野郎の仲間だった。それが、裏切ったのか、裏切られたのか、あのざまだ。
一度裏切った奴は何度でも裏切る。てめえが生き残ることに嗅覚が鋭いイル・セーラだからこそ、簡単に信用しちゃいけねえ。あの兄ちゃんにも言っときな」
ネイロが真面目なことをいうのが意外だった。ネイロが渡してくれた手帳をバックパックに押し込んで、チェリオは報告のために北側のスラムへと急いだ。
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