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Four(3)

 ドン・クリステンのアジトに連れて行かれたチェリオは、そこにいたメンツに驚いた。ナザリオとエリゼ、それにナンドとクルスまでいる。ぽかんとしたチェリオにクルスがじろりとにらみを利かせてきた。 「なにを呆けている。俺たちがただのピエタではないことくらいは察しがついていたのでは?」  ナザリオが冷静に言う。そりゃあスカリアたちのように賄賂だなんだと要求してこなかったあたり、躾の行き届いた犬だとは思っていたけど、まさか軍部の人間だとは考えが及ばなかった。いや、ある意味で慇懃無礼なふるまいは軍部のそれに近いと思うべきだったかもしれない。ほかの隊員が一人もいないあたり、こいつらが軍部の一員であることは一部しか知らないか、あえて情報を漏らさないためにそれぞれの隊長クラスしか集まっていないのか。  まあいまさらそんなことに探りを入れたところでイギンたちに漏らすこともない。むしろその漏らすための相手は軍部の豚箱のなかだ。 「所持品は?」  エリゼが問うてくる。腹に麻布を巻き付けて麻袋を隠し持っているが、あれには金が入っている。いつものチェリオなら奪われたくないからと黙っているところだが、おもむろに上着をめくって麻布を解いた。 「これだけ」  言って、麻袋の中身をテーブルにぶちまける。イギンの金庫からかっぱらったチェリオの300リタスプラスα。札のなかに別の物が紛れているのが見える。不思議に思ったのはエリゼも同じだったようだ。 「これは」  言いながら対象物を拾い上げる。紙切れ数枚が束ねられたものだ。それをちらりと見てぎょっとする。見たことがない金額が記載されている領収書だ。 「はっ? なにその金額?」  エリゼがおもむろにそれをテーブルに置く。ナザリオやドン・クリステンがのぞき込む。すぐに苦い面持ちに変わった。ナザリオがあからさまに舌打ちをする。 「ドン・クリステン、これはやはり」 「そのようだね。ユーリ・オルヴェと言ったか。厄介な相手に目をつけられたものだ。  先代への恨みをその息子にまで向けるとは狭量の上に執念深い。我々軍部預かりの身であると知りながらもフィッチに売り飛ばそうとするなど言語道断だ」 「フィッチ? 上流階級じゃなくて?」  チェリオが問うと、ドン・クリステンは嫌な顔一つせずそうではないと言った。あのときのフィッチは、個人名ではなく国のことだったのかと内心する。 「上流階級からフィッチへ渡るというのが最も妥当だろう。我々軍部を差し置いてそのような独断専行をする相手は限られるが、何分証拠がない。  ミクシアがいま最も脅威としているのがフィッチだ。オレガノは永世中立国、エスペリはその属国であり、どちらかというとパドヴァンもそれにあたる」  初めて知った。ぶっちゃけスラムからほとんど出たことがなく、ほかの国の名前を知ってはいるもののどういう情勢下にあるのかはさっぱりなのだ。ユーリもそれに近いと言っていた。たぶんユーリの場合は国家間情勢に興味がないこともあり、聞いても右から左に抜けていくのだろうが。 「ミクシアってそんなに周辺国と仲悪いわけ?」 「約19年前まではそんなことはなかったが、先代の王の愚行がきっかけでミクシアと周辺諸国との間に亀裂が生じた」 「愚行?」 「イル・セーラの虐殺ならびに収容所への監禁だ」  ナザリオがクールに言う。こいつはイル・セーラのこととなるとどちらかというと向う見ずになる。なにをそんなに生き急いでいるのかと突っ込みたくなるほどまっすぐで、ユーリが最初苦手意識を懐いていたと言っていたのもわからないでもない。 「イル・セーラは元々奴隷として過ごしてきた背景があると言われているが、それは貧困に喘ぐ者ばかりだった。地位のある者は職に就き、ノルマほどではないにせよそれなりに食えるほどの給金を払われている家庭もほんのひとつまみ以下ではあるが存在していたんだ。  それが約19年ほど前に先代の王が突然イル・セーラを捕獲し、虐殺、或いは収容所への監禁を命じた。逆らうものは当然のように殺害され、女子供問わず暴悪の限りを尽くし凌辱された。凄惨極まりない状況だったと聞く」  イル・セーラがそういう目に遭わされてきたのはなんとなく知っていた。奴隷なんていい言い方だと思う。体のいい性奴隷、狩りの的、研究用の資材として。ユーリとサシャは収容所の外での出来事をしらないのだろう。  チェリオが物心ついたころには、地下街に逃げ込んできたイル・セーラを捕獲してマフィアに売り飛ばすのが流行っていた。高値で売れるからだ。仮にそのイル・セーラが売春を生業にさせられた場合、そいつの稼ぎの一部がもらえるとあって助けるどころか挙って捕えていたのを思い出す。あの二人がノルマに対して普通の態度でいられることが不思議なほどひどい目に遭わされていた。チェリオ自身も初めて抱いた相手がイル・セーラだから、人のことは言えないが。 「その当時からイル・セーラの解放宣言が律された4年前まで、オレガノとミクシアは国交断絶状態にあり、国民の往来すら許されなかったほどだ。先代王の死去を機にオレガノからは特使を受け入れられたものの、未だにパドヴァンやエスペリとは緊張状態にある。  エスペリは海が国境替わりですぐに攻め込んでは来られないのが幸いだが、パドヴァンとはいつ事が起こっても不思議ではない。そのためフォルスの遺構を軍部が警備せざるを得ないのが現状だ。  オレガノと異なりエスペリやパドヴァンでのイル・セーラの扱いはあまりよくないとは聞くが、この国と違うのは彼らの知識や技術を取り入れることで医療面や技術面が飛躍的に発展している部分だ。  だがフィッチは隙あらば隣国のエスペリにちょっかいをかけていることもあり、オレガノからイル・セーラの派遣がない。殺されてもかなわないからね。そのため彼らは風土病を抑え込むために優秀なイル・セーラを欲している。そして目をつけられたのが先代のユーリ・オルヴェだ」 「先代っていうと、ユーリの親父さんってこと?」 「そうだ。俺は先代ともいまのユーリ・オルヴェとも面識がないが、先代には我が軍医団がずいぶん救われたと聞く。長らくオレガノに特使として派遣されていたために、俺はその時の状況を知らんがね」  ふうんと返すほかなかった。話が大きすぎて理解ができない。ただユーリがすごくやばい奴に目をつけられてることだけはわかる。 「失礼いたします」  別の声がした。部屋に入ってきたのはジャンカルロと二コラだ。げっと声を出したチェリオを横目に睨んで、二コラは足早にドン・クリステンへと近寄った。 「報告いたします。仲間の一人が吐きましたが、ユーリを捕えるように命じたのはイル・セーラだったそうです」 「それは先日入国したイル・セーラが絡んでいると?」  ドン・クリステンが呆れたような表情で問う。 「容貌の特徴から察するにその可能性が高いかと思われますが」  冷静な口調で、二コラ。目を白黒させるチェリオをよそに、ドン・クリステンが神妙な面もちで腕を組んだ。 「さて、我々が掴んでいた情報とは早くも食い違ってきたわけだが、これは別の勢力がユーリ・オルヴェの保護のために動いているとみるべきか、彼を抹殺すべく動いているとみるべきか、どちらだと思うかね?」 「わかりません。ユーリがつつかなくていい藪をつついたせいで巻き込まれたのだとしか思えないのですが」 「それは違う。遅かれ早かれ二人は巻き込まれていただろう。二人を軍に招き人目に触れさせないようにすることはできたのだが、彼ら――とくに弟のほうは羽馬のような性質を持っていると聞き及んでいたために、それでは窮屈だろうとそうしなかったこちらの落ち度でもある」 「いいえ、あのド阿呆が首を突っ込みすぎたのです」  二コラがぴしゃりとはねつけるように言う。エリゼが吹き出した。 「こら、エリゼ」 「あはは、二コラにかかると形無しですね。俺もユーリが軽率だったと思う部分がありましたが、彼はあれで広く物事を考えています。この国の腐敗を止めるにはスラムを改善するのが先決だというのは議会にも挙がっていたはず。その情報を知らないユーリが真っ先にそれを手掛けようとした。スラムの住人の意識改革ができれば、頭の固い上層部を動かすよりも早く死者を減らすことにつながります。いつだったか、彼が言っていましたよ」 「俺には学長に対する反発にしか見えなかったが」 「たとえそうだとして、貴方ならやりますか? 危険を顧みず、私財をなげうってまで、本来ならばまともな医療を受けることもできずに搾取されて死んでいくだけのデリテ街やスラムの住人に救いの手を差し伸べるなんていう、無謀なことを」  二コラはぐうの音も出ない様子だ。目をそらし、舌打ちをする。買いかぶりすぎだと唸るように言った後でドン・クリステンを呼んだ。 「ユーリ・オルヴェの状況ですが、どうやら彼が飲まされたのは違法薬物のようで、念のために中和剤を投与しましたが目を覚ます様子がありません。急ぎ別の方法を模索してみますが、最悪の場合意識の改善が見られない可能性があるかと」 「まじ? そんなひどかったの?」  チェリオが問うと、二コラがぎろりと睨みを利かせてきた。あまりの迫力にひっと喉が鳴る。 「俺はおまえに礼を言うべきところなのだろうが、頭の整理がつかん」 「それはこちらも同様です。ですがチェリオがいたからこそ、イギン一味のアジトに容易に潜入できたと言っても過言ではありません。もしも今回の彼らの計画を阻止できていなければ、きっと今頃地下街は火の海です」 「……はっ?」  火の海? 冗談だろ?  はじかれたようにナザリオを見たが、冗談を言っている顔ではない。エリゼじゃないんだからそんな物騒な冗談なんて言うわけがない。ぶるりと身震いがした。 「やはりおまえにはその情報がいっていなかったか。エリゼ、今回はクルスの情報が正しかったようだ。我々が介入したことでチェリオはスカリアやイギン一味から内通者ではないかという嫌疑をかけられており、情報を知りすぎたこともあって殺そうとしたんだろう。そのまえにチェリオが貯めた金をせしめておこうという魂胆だったのかと」 「ちょっ、まっ、殺すって、俺を!?」 「イギンのアジト、並びに金の隠し場所、協力者を知る者は排除するのが常套手段。地下街で例の感染症が蔓延したとでっち上げれば、感染疑いの者諸共地下街を排除することができる。  おまえは大きな思い違いをしている。彼らはマフィアだ。自らに降りかかる火の粉を未然に払うためには、殺人すら平気で行う。それが大多数になろうとも」  ぞっとした。あいつらが割と平気で仲間を裏切るようなやつらだとは知っていたけれど、まさかアリオスティ隊に助けられたというだけで本当に敵視されるだなんて考えてもみなかった。 「それで、君が知っていることを話すと言っていたが?」  不意にドン・クリステンが話しかけてきた。 「大した情報は持ってないけど、あいつらは俺たちから金を巻き上げるために、北側や下流層街に土地を買えるって言っていたんだ。そうなんだと思って一生懸命ウリをやったよ。1000リタス持ってきたら土地も家も都合してやるって。  でも結局それは嘘だった。ユーリに話したらそれは絶対ないって言ってたし、俺が稼いだ金は本来なら1000リタスなんてとうに超えてる、騙されてるって。だから本当にそうなのか確かめようとしたら、アグエロの野郎に殺されそうになった」 「ふむ。北側への転居は素行次第では可能だが、下流層街に土地を買えるという話はただのでっち上げだ。我々がそれを許可した覚えはない」 「知ってるよ。アグエロの野郎に散々馬鹿にされた。だから金を奪い返そうと思ってイギンのアジトに忍び込むことにしたんだ。そしたらユーリが北側に入れろって騒いでたから、ちょうどいいカモがいるって」  カモがいると言った瞬間、二コラとナザリオの目が吊り上がった。ひっとひきつった声が上がる。 「こらこら、二人とも。気持ちはわからないでもないが、チェリオをあまり威圧するものじゃない。彼は生きるためにそういう手段を選ぶほかなかったのだ。我々がそうさせたと言っても過言ではない」 「ですが」 「チェリオは情報を知らされていなかったというのに、なぜイギンの裏に別の者がいると思ったのだね?」 「心当たりはねえけど、イギンの羽振りがやたらと良かったから、スカリアのおっさん以外のバックができたんだと思ったんだ。俺の仲間はそのスカリアのおっさんがえっらいへこへこした様子で通信してたっつってたから、相当な相手なんじゃねえの?」 「スカリアがへこへこしていた、ねえ」 「じつは前にも診療所を襲撃しろってイギンに頼まれたことがあるんだ。その時の報酬は口裏合わせるってことと、ピエタには情報を流さないってこと込みで10リタスって言われた。たった10リタスのために危ない橋を渡りたくはなかったから、アグエロに任せたんだ。地下街の仲間の親をあいつが助けたってことと、別に放っておいても俺には害がないって思ってたし、あいつ顔だけはいいから目の保養になるし。  で、どのくらいかしてから、また診療所の襲撃を頼まれた。そのときにはピエタの監視が厳しかったから、ピエタの目をそらすことと、俺は止めに入らない――つまり黙認することで合意した。最初は実行で10リタスって言ってたのに、今度は黙認しただけなのに50リタスもくれた。おかしいと思わないほうがおかしい」  ナザリオとエリゼが顔を見合わせる。 「それだけ、ですか?」  ナザリオの視線にはあからさまに敵意が込められている。実際これ以外の情報なんて知らないが、これだけしかないなんて言った日には収監されそうな勢いだ。 「あと、西側にぶち込まれたイギンの親分たちをどうやって解放するかって話をしてた」 「解放? ガルニエをかね?」 「うん。名前は知らねえけど、たぶんスカリアとかヴェルノートよりちょっと立場が上の、爬虫類みたいな顔した若い奴」  そういうと、ドン・クリステンは深い溜息を吐いて眉間をつまんだ。 「Sig.ジェンマまで絡んでいたのか。厄介だな」 「威勢のわりにすっげえ情けねえ腰付きだった」  チェリオが言うと、ドン・クリステンから目配せをされた。なんとなく察して、チェリオは振り返らなかった。背中から射るような視線が向けられる。 「世間知らずのお坊ちゃまなんだ、あまり揶揄わないでやってくれ。あれでも俺の部下になる予定だったんだ。ドン・パーチェに引き抜かれるまでは真面目一辺倒だったんだが」  ふうんと、興味なさげにチェリオ。 「なんか、金の話をしていたぞ。なんとかっつー貴族と、イカレ野郎は金払いが悪いから、そのドン・ジェンマにユーリを買わないかって。最初は乗り気じゃなかったっぽいけど、具合がいいからなのかイギンに値段を聞いていて、通常なら30万リタスで取り分が5割、ドン・ジェンマの仕事を手伝うなら50万リタスで取り分が5割って」  値段をさらりと言ったからなのか、ナンドとクルスがすごい声を出した。 「うっそだろ、パドヴァンなら国家予算と同じじゃねえかっ」 「だぁからあいつら必死こいてあいつを手中に収めようとしていたのか」  マフィア怖えとナンドが漏らす。 「まあ、それだけフィッチの風土病が深刻ということだ。いつか二コラが言っていたが、彼がその状況を知り、『フィッチに行きたい』と言い始めることだけは防ぐ必要があるだろう。そんな大金を出してでもユーリ・オルヴェを欲しがるということは、どこの誰と取引をしたのかは知らないが、知識だけではなく本人も無事では済まされないだろうからな」  ユーリなら言い出しそうだなと思いつつ、そうそうと言葉を紡ぐ。 「二階の金庫、開けてみた? でかいほうの金庫にはいままでイギンたちが集めてきた貴金属とか金が。小さいほうの金庫に、べ、らなんとかっていう薬品が置いてあったぞ。  あと、イギンは相手をレイプするときとかリンチするときに必ずサルターレって薬物を使う。でもたぶんだけど、レイプするとき用のサルターレには、なんかの混ぜ物がしてある。甘ったるいにおいの、鼻と、脳に絡みつくようなふわふわする感じの」 「ベラ? ……まさか、ベラ・ドンナか?」  ドン・クリステンが言うと、二コラが深い息を吐いて頭を抱えた。 「あんなものの中和剤なんてないぞ。ましてやサルターレとベラ・ドンナを混合して使うなど出鱈目すぎる。それに、その独特なにおいの薬物といえば、スキットルくらいしかない」 「そんなにやべえもんなのか?」 「スキットルは大したものではないが、サルターレに混ぜると依存性の高い媚薬の類に変化する。  ベラ・ドンナに関しては、どのように使用されたのかは知らないが、あれほぼ毒だ。通常は少量を気化させて使用するか、或いは別の薬品で薄めて静注する。  その昔粗相をした奴隷を殺すのに使っていた薬品でね、もう20年以上も前に使用禁止になっている。あれがまだ国内に流通しているとすると、――」 「フィッチが絡んでいるとしか思えませんね」  二コラは矢継ぎ早に言って、くそっと悪罵を吐いた。チェリオは事の重大さがよくわかっていなかったが、ふとバックパックに入れっぱなしにしていたものの存在を思い出した。ロレンから預かったものだ。3つあるうち2つの薬包をテーブルに置いた。 「これは?」  ドン・クリステンが尋ねてくる。 「知らねえ。万能薬だって、ユーリがデリテ街の住人に造ってくれたものらしい。  アルマに似た流行病にも、アリエッテの風邪にも、ネイロのおっさんの肺にもいいって。井戸に捨てたら水質が変わっていいとも言っていたらしいから、その毒物抜けるんじゃね?」  なんならこれもと、もうひとつの薬包もテーブルに置く。 「いや、しかし」 「試してみる価値はあるのでは? セラフィマ嬢の話だと、ユーリ・オルヴェは研究室でその薬の開発中だったと聞いている」  二コラが困ったような顔をしたが、やがてその薬包を手に取った。 「すまない、少し借りる。おまえには別の薬品を」 「要らねえよ。1人当たりみっつ配られてるんだから、もしなにかあったら誰かにもらうし、ロレンのことだからすべて配ってねえとおもうし」  ぶっきらぼうにチェリオが言う。 「ほかに、なにか見覚えのない相手が東側や地下街をうろついていたとか、情報はないか?」  二コラが問うてくる。そんなことを言われても、ほぼ毎日別の場所を見回っているし、東側は地下街含め1万人近くの人間が存在しているのだから、すべての相手の顔をいちいち覚えて居たりはしない。そう言いかけて、ふと思い出した。 「そういえば」  あれはいつだっただろうか。どこでだったかも定かではない。けれど明らかに異質で、場違いな男を見た記憶がある。 「イル・セーラを連れた男が歩いてた」 「イル・セーラ? ユーリやサシャではなく?」 「ちっげーわ。俺の視線に気づいてすぐにイル・セーラにはフードを被せていたからどんな容姿だったかは覚えてねえし、肌の色からしてイル・セーラだなって思ったくらいなんだけど。でもそれを連れてた男はすっげえ不気味で、イギンとか、アリオスティ隊より関わり合いになりたくないような感じの奴だったんだ」 「それはどのような男だったか覚えているかね?」  ドン・クリステンが問うてくる。どんな男だったか。はっきりとは思い出せない。 「あんまり不気味すぎて髪の色とか顔立ちとかは憶えてない。でも一つだけ言えるのは、そのイル・セーラを連れていた男は、このあたりでは使わない香のにおいをさせてた」  二コラがチェリオの両肩を勢いよくつかんだ。テーブルがガタンと音を立てる。 「一緒にいた男のにおいを覚えているか?」  そんなこと言われてもと言いかけて、思い出す。語彙に明るくないうえにおいの種類なんて漠然とした感じしかわからない。 「甘ったるいような、そうじゃないような。不快ではない感じのにおいだ。落ち着くかと言われたらそうじゃないし、意欲がわいてくるかって言われてもそうじゃない。よくわかんねえけど、昔どっかでかいだことあんだよなあ。行商人のおっさんが来てた頃、西のなんとかっつー村で加工してるとかなんとか言ってたような」 「西の村? それはもしかしてヴェッキオか?」 「あ、そうそう、そんな名前。周辺の村じゃ儀式のときに使うって言ってたと思う。つかなんでヴェッキオってわかったの?」  すべてを尋ね終えるよりも早く、二コラが深い息を吐いた。 「ドン・クリステン、俺の思い違いでなければよいのですが」 「どのような些細なことでも有用な情報につながることがある。話したまえ」 「ユーリを連れてフォルスの遺構に赴いた際に出会った軍部の警備兵が、いましがたチェリオが言っていた香のにおいを漂わせていました。そのにおいと、警備兵が目の前で殺されたことにより過去の記憶を呼び起こして過呼吸発作を起こしたのかと思っていたのですが、もしかするとその男に対する恐怖とにおいのみをユーリが記憶していたとしたら、――」 「警備兵の管轄はアゼル大佐か。あれの目を掻い潜って調べるのは少々骨が折れる。念のために調べておこう。それと、ふたりには監視をつける。チェリオ、さっそく仕事だぞ」  ドン・クリステンが言ったとたん、ナザリオと二コラが声をひっくり返して驚いた。 「お、お待ちください、ドン・クリステン。監視なら俺かエリゼが」 「そうです。あいつは事情があったとはいえユーリを危険な目に遭わせた張本人ですよ?」 「生憎と人員が足りなくてね。ピエタの二分化を食い止めるために二人にはあちらの業務を優先してもらいたい。クルスとナンドにこちらの仕事を手伝わせるわけにもいかないだろう。  チェリオ、俺は君がスラム街の住人にしては存外に義理堅く、状況判断ができる男だと評価している。ユーリを餌にイギン一味のアジトに入り込み、なおかつ逃げ延びることができたのだから、そのくらいの恩を返してもいいと思わないかね?」  まじかと毒づく。使えるものを使ったまでだ……なんてカッコよくいってみたいところだが、ぶっちゃけ罪悪感だけはぬぐえなかった。ロッカの母親はチェリオの育ての母親でもある。義理とはいえ母親を救ってもらっているのだから、恩を返すのはある意味で当たり前だ。そう思うものの、なんだかうまい具合に丸め込まれているように思えてならない。 「保護してくれとは言ったけど、仕事を手伝うとは言ってねえぞ」  ぼそぼそと、唇を尖らせながら言う。 「考えてみたまえ、チェリオ。ユーリがいるのは中流層街だ。そこでの飲食代、宿代、すべてこちら持ちだ。当然日当なら出す。きみがユーリとサシャの監視を怠らなければ相応の謝礼もしよう」 「まじ? 前にユーリが食わせてくれたピアディーニとかも食える?」 「それはもちろんだ。ただ、いまの格好で中流層街をうろつかせるわけにはいかない。当然身なりもきちんと整えてもらうがね」  願ったりかなったりじゃないか。そう思ったが、ドン・クリステンは鷹揚に見えてわりとシビアな考え方をする男だということを思い出す。目的はそれだけじゃない。 「ユーリは懐中時計と資料を取り返しに来たって言ってたけど、金庫の中には見当たらなかった。金しかなかったし、謎の領収書は多分俺が実行犯の一員だと錯覚させるために仕込んだものだと思う。第一俺はユーリに字ぃ教えてもらって辛うじて読めるけど、書くのは自分の名前が書ける程度だ」 「イギンたちから在処を聞いていないのかね?」 「俺には言うわけねえよ。そもドン・ジェンマと話していた時、俺のことは信用ならねえって言ってたし。つか、マジで、おまえらのせいでアグエロとかイオが死なない限りスラムで大手を振って歩けねえんだからな」 「それは自業自得だろう」  皮肉そうな表情に怒りを乗せて二コラが言う。 「生憎ユーリたちが襲われた研究室には金目のものがなく、強盗を装ってサシャから懐中時計を奪って行ったのだと思う。どうやら父親の形見らしい」 「懐中時計はそんなに価値があるものじゃなきゃスラムのどっかに捨てられてるか、それとも闇市に出すために売人のところに持ち込まれたか、だな」  資料はどうせスカリアのおっさんとかが持ってるんじゃねえ? と、チェリオ。スラムに戻るのはある意味危険だ。チェリオがアリオスティ隊と繋がっていると認識されれば反イギン派以外は協力なんてしてくれないだろう。 「懐中時計に関しては心当たりがある。当たってみるからもうひとつ頼みを聞いてもらえねえ?」  ドン・クリステンが無言で話の続きを促す。 「地下街にいる仲間を一緒に保護してもらいたい。俺の兄弟みたいなもんだから、俺が裏切ったとわかれば袋の鼠だ。逆にイオやアグエロが死ねば、その保護は要らない。コーサの連中が軒並み軍部の施設に収監されて、残党がいなくなるとなれば、邪魔なのはイオとアグエロだけ。あいつらさえいなくなれば、スラム街はコーサの息がかかったくそ野郎から解放される」 「それを聞けば、ユーリの監視を引き受けてくれるのかね?」 「いや、監視はしない。なんかあったとき保証できねえし。  そのかわり、俺にできることならやるぜ。つってもスラムの内情を話す程度だけど。でも誰がイギン派で誰が反イギン派かわかってるだけでもやりやすいと思うけど、どうよ?」  ドン・クリステンが穏やかに笑う。 「応じよう。ナザリオ、エリゼ、チェリオの仲間たちを保護しよう。周りに気取られないように、チェリオの仲間を一旦北側に連れてくる方法を考えてほしい」 「それなら簡単です。摘発中に死んだ者、捕縛した者は軍部に引き渡されます。チェリオがなにかを盗み、彼らが匿ったとして摘発すれば、全員こちらに連れてくることが可能かと」  エグい。しれっとエグいことを言うエリゼの強かさに顔が引きつった。 「おまえ、マジで下手なマフィアよりマフィアみたいなこと言うな」 「褒めてもなにも出ませんよ」 「褒めてねえし」 「ニコラ、その時は検視に付き合ってくださいね」  冷静な口調でエリゼが告げる。やっぱりこいつは微妙に苦手だから、こいつとは組ませてくれるなよとドン・クリステンに苦情を言って、チェリオは東側のスラムに戻ることにした。 *** 東側に戻り、闇市の売人である男――キルシェのもとに向かった。その間ナザリオたちはロッカたちを保護する手筈になっている。  相変わらずキルシェのアジトは厳重装備だ。誰が踏み込んできてもいいようにライフルで狙いを定められたのが音で分かる。踏み込んできたのが敵で、且つ相手が一人の場合はこの時点で撃たれている。 「ハイ、キルシェ。ちょっと聞きたいことがあんだけど、邪魔していいか?」  コンクリート製の硬く無機質な音がして、壁から眼光の鋭い目が覗く。 「チェリオか」  入れと視線だけで促される。後を着けてきている奴らはいない。まだイギンたちが捕まったことを東側には伝わっていないのかもしれないとおもいつつも、もう一度あたりを警戒する。耳を澄ませ、あたりの音を聞く。なんの気配もない。このあたりはビルとビルの狭間で音が反響する為、それこそ特殊部隊の連中くらいしか無音で近づくなんて不可能だ。ましてやチェリオは病的に耳がいい。ナザリオやエリゼみたいな戦闘狂は別として、並のやつなら多少足音を消して近付いても気配を察する自信がある。  キルシェのアジトに踏み入る。なんか火薬くさい。鼻を摘むとふんと鼻で笑われた。 「におうか。処理した後なんだがな」 「まあ俺は人以上に鼻が利くからな。  また銃の改造頼まれたわけ?」 「そんなところだ。麻薬を無難に外に持ち出すためだとよ」  相変わらずイギンたちは悪知恵が働く。銃の携帯を許可されているピエタならば幾らでも街で薬を売り捌ける。ふうんと生返事をして、アジトの中を視線だけで見回す。スラムで拾われたものや金目のものは一旦ここに集められて売り捌かれるからだ。 「ところで、聞きたいこととは?」  キルシェが尋ねてくる。徐ろに紙巻きタバコを取り出してオイルライターで火をつける。いつもキルシェが吸っているものではない。このにおいには覚えがある。ビンゴかもしれない。 「なあ、もしかしてイギンかブラウが立ち寄ったりした?」 「一昨日これを持ち込んできた」  キルシェがポケットから取り出したのは、銀色の懐中時計だった。 「それ、動いてんの?」 「いや、壊れているようだ。俺は銃の改造や修理は得手だが時計には精通していなくてな。どうしてやろうかと思っていたところだ」 「マジかよ。俺がやってみてもいいぜ。その代わり、直ったらそれ譲ってくれ」  キルシェがじろりとこちらをみた。相変わらず無愛想で攻撃的な態度だが、キルシェはチェリオたちと同じく反イギン派だ。 「これをどうするんだ?」 「持ち主に返す」  ほおとキルシェが興味深そうな表情で紫煙を吐き出した。 「おまえが人助けなんかするタマかよ」 「アリエッテを助けてくれた礼がわりだよ。じゃなきゃこんな回りくどいことなんかするか」  アリエッテはロッカの母親の名だ。キルシェとも割と親交が深い。 「アリエッテは回復したのか?」  目を見開き、低い声でキルシェが尋ねてくる。 「それの持ち主が助けてくれた。あの薬屋の野郎、さっぱり効果のねえ薬をロッカに渡して、18リタスも取って行きやがったらしい。  いままでロッカがアリエッテのために出した金は50リタスを下らない。それをタダでスッパリ治してくれたんだ。懐中時計を取り返してやるくらい安いもんだろ」  なるほどなとキルシェが笑う。軽く金属が擦れるような音を立て、キルシェが懐中時計をこちらに投げてきた。落とさないようにそれを片手でキャッチする。 「壊れた物を売れはしねえ。金は要らねえからとっとと持ち主に返してやんな」 「サンキュー、恩にきるぜ」  ところでとキルシェが切り出してくる。 「その持ち主というのはイル・セーラだろう。アグエロとゾラが襲撃したと聞いたが、無事なのか?」 「ゾラ? アイツまで関わってんのか」  そりゃあドン・クリステンからもそっと金をせしめてもバチが当たらないなと考える。ゾラは殺し屋で、イギンの色だ。そんなに美人ではないがスタイルがよく色っぽい。あいつに誑かされたら大概の男はころっと誘いに乗るほど男心を擽るのがうまい。ただ、実際にゾラを抱けたのはイギンだけだと思う。大概は事に行き着くまでに殺されて終わりだ。 「だがゾラはイギンに殺されたらしいぞ」 「は? マジ? なんかやらかしたってこと?」 「詳しくは知らねえよ。ただ無関係の人間を巻き込んだことと、目的の相手に傷を付けたとかなんとか言ってたな。早い話が蜥蜴の尻尾切りよ。足がつくのを嫌って殺したのさ」  ああ、やり兼ねない。イギンはそういう男だ。 「ほかになんか細かい話知らねえかな?」 「イギンの野郎が俺にそんな細かい話をすると思うか? 一度は袂を分かち、殺し合いをした仲だぞ」  そういえばそうだったと思い出す。イギンはキルシェの人脈の多さを目的に近づいてきたものの、元軍人で破壊的な強さのキルシェに勝てなかったことを未だに根に持っている。ただ、ビジネスライクというべきか、金になるならそこに私情を挟まないたちらしく、度々キルシェの元に盗難品を持ち込んでくる。 「じゃあさ、この懐中時計以外にイギンがここに持ち込んだものは? 書籍とか、それこそ銃とか」  そう尋ねたら、キルシェは首を横に振った。 「そういうのはイオの野郎に聞いてみな。裏取引をするならあいつの店だ。例のイル・セーラを襲撃した直後にイオの店付近をイギンたちがうろついていたって話だ。オルガの話だから間違いねえ」 「イオか。あいつ面倒なんだよなあ。  まあ時間ねえから行ってみる。ありがとな、キルシェ」 「いいってことよ。そのイル・セーラにアリエッテを救ってくれて感謝すると伝えてくれ」 「おう」  短く挨拶をして、キルシェのアジトを後にする。いまからイオの店に行くとなると、壁を超えていく方が早い。キルシェのアジトから出て、裏側の壁付近に積まれた木箱を踏み台に一気に壁を飛び越える。建物の屋根伝いに3、4戸飛び越えてイオの店まで辿り着く。  自棄にしたが騒がしい。 「どうかしたの?」  ひょこりと顔をのぞかせると、傍にいた男が表情をこわばらせながら言った。 「イオが、殺されてるんだ」  思わず声がひっくり返った。殺されている? イオが? 店内を覗き込まなくてもわかるほど夥しい量の血が流れている。尋常な殺し方ではない。チェリオは思わず生唾を飲み込んだ。

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