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Four(5)

 ナザリオたちに協力することになったというのに、東側と北側の関所を抜けるためにはやはりボディーチェックを受けなければならないようだ。クルスが怖い顔をしてチェリオの前に立ちはだかる。イオが殺されたこともあり、厳戒態勢を敷かれることになったのだろう。 「脱ぎゃいいんだろ、脱ぎゃ」  めんどうくせえとぼやきながら服の裾を掴む。胸のあたりまで裾を捲り上げたとき、クルスがチェリオの体を両側からバンバン叩いた。勢いで埃が上がる。 「いてっ、いってえな! なにすんだ!」 「きったねえな、おまえ。診療所に行ったらきちんと風呂に入れ。ほら、行っていいぞ」  チェリオは目を白黒させながらクルスを見上げた。 「え、でも」 「なんも持っちゃいねえだろ。それとも俺に脱いで見せたいのか?」  にやりと意味ありげに笑って、クルスがウインクをしてくる。今日の門番の相方は、どうみてもパーチェ隊だ。アリオスティ隊の制服とは質もデザインも違うからすぐにわかる。そいつとばっちり目があった。まるで虫ケラでも見るかのような視線を向け、手で追い払うような仕草を見せた。さっさと行けということだろう。 「マジ?」  小声で尋ねると、クルスは悪戯っぽく笑ってチェリオに顔を寄せた。 「今日の相方はパーチェ隊のなかでも“マトモ"な方なんだ。うちの隊長とも普通に話しているし、あんな態度だが意外とユーリのことも買ってくれている」  へえと声が漏れた。ピエタの中にはイル・セーラを嫌う奴の方が多いからだ。  門を抜け、北側の診療所に向かう。診療所の前にはいつもの警護隊が見当たらない。不思議に思いながら歩みを進める。ドアの前に差し掛かったとき、話し声が聞こえた。  入口のすぐ脇から中庭に向かう通路がある。その通路からは中の様子が窺える。チェリオはそこに移動し、小窓から中を覗いた。  中にはニコラと、パーチェ隊の制服を纏った男が二人いる。ニコラよりもがたいがよく長身のノルマと、年齢の割に体の締まった見るからにプライドの高そうな男だ。その男だけが椅子に座り、優雅に葉巻を吸っている。 「Sig.カンパネッリ、大学側は例のイル・セーラの処分をどう考えているのか聞かせてくれないか」  おそらくパーチェ本人と思われる男の前には、幾つもの書類が置かれているが、目を通す様子もない。疑り深そうな言い方。声色。ただのしわがれた声ではなく、全身からユーリのことを疎ましく思っているのが伝わってくるかのようだ。 「しばしの猶予を、と。状況は変わらず、ふたりとも意識がありません」  ニコラが言葉を絞り出す。表情を崩してはいないが、声色には怒りが滲んでいる。かくすつもりもないのだろう。パーチェはニコラに視線をやることもなく鼻で笑った。 「まったく、あのイル・セーラは面倒なことをしてくれたものだ。あの襲撃事件はマフィアの下っ端がカポに好かれる為だけに、独断で行ったことだと報告していただろう」  忌々しげに言って、紫煙を吐く。まるでユーリとサシャの容体など気にしていないと言いたげだ。 「二人とも重傷の上、サシャ・オルヴェに至っては今後も意識が戻るかどうかが分かりかねる状態なのですよ。  それに、盗まれたのは金目の物というよりも、研究資料でした。ただのマフィアがそんなものを盗み出す意味が見出せません」  語気を強めたが、パーチェはまるで意に介さない様子だ。それどころか嫌らしい笑みを浮かべて肩を竦めた。 「あの忌々しいイル・セーラがいなければ、次期班長は君じゃないか。そのほうが君にとっても都合がいいのではないのか?」 「御冗談を。来年には軍への配属が決まっている私が班長になるわけにはいかないからと、セラフィマ嬢と私の判断です。  そんなことより、アグエロの収監日数が軽減された理由をお教えいただきたい」  パーチェがふんと鼻を鳴らす。 「ドン・ヴェロネージからの恩赦だ」 「恩赦?」 「マフィアのカポと幹部二位が揃って収監されたとあっては、東側でテロを起こす動機に繋がりかねない。我らはイギン一味をスラムの協力者と位置付けている。騒動が起きる前に鎮圧し、被害を最小限に抑えることができるようにな」  パーチェが紫煙を吐き出した。アグエロの収監日数が軽減されたと聞き、チェリオは舌打ちをした。アグエロがいないならまだやりやすいが、アグエロは強い。一人いるだけでも大迷惑なのだ。イギンたちが捕まり手も足も出せなくなって身を潜めている連中は、アグエロの強さを利用してまたスラムで覇権を復活させるだろう。そうはさせてたまるかと内心する。 「被害を最小限に抑えると仰いましたが、東側の診療所を再開するには一か月近く要し、そしてユーリとサシャが住んでいたアパートの修復に至っては、すべての検視が終わるまでは修復も不可能でしょう。それに無関係の住人が亡くなっているんですよ。それなのに恩赦をと仰るのは不自然極まりない」 「だから下っ端どもが騒動を起こさないようにと言っただろう。  君はもう少し利口なほうだと思っていた。イル・セーラの肩を持つのはあれに体で誑かされ、後ろの具合が気に入っているからか?」  パーチェの後ろに控えていた男が下品に笑った。パーチェ自身もだ。まるでニコラを値踏みするかのように足の先から頭の先まで眺め、葉巻を咥えた。 「そうせざるを得ない状況に追いやったのは我々ノルマ族です。  彼がいた収容所の薬物中毒者の数と性病罹患率を見れば、収容所の状況がいかに異常だったかが明白で、医療の行き届いていない東側の地下街やディエチ地区よりもはるかに多い。  あなた方はそうやって彼のしてきたことを簡単に卑下し嘲笑しますが、俺には彼がどのような気持ちや葛藤を懐き生きてきたのかが解りかねるので、あなた方のユーリを卑下するその感覚が理解できません」  暴言とも受け取れかねないセリフだ。背の高い男がニコラの肩を掴んだが、パーチェはそれを片手で制した。 「Sig.カンパネッリ、君は彼と仲がいい。  だからこそ信じ難いかもしれないが、アレは誰に抱かれても子猫のように悦び善がる。たとえ意識がない状態でも、挿れて揺さぶってやったらまるで男を誘うかのように腰をくねらせ、切ない甘い声で鳴くのだ」  二コラを挑発するかのような言い方だった。まえにユーリから誘われたときのことを思い出す。確かにあれは自分がどうふるまえば相手が乗るかを知りつくしているようだった。腹の奥がムズムズと熱を帯びてくる。チェリオは湧き上がってくるつばをごくりと飲み込んだ。 「アレはいままで抱いたどのイル・セーラよりも具合がよく相性もよかったんだ。何度か買い上げようかと思ったんだが、ただのイル・セーラにしては値が張ってね。それゆえに諦めた。  だがやはりあの姿を見ているとあの頃のことを思い出す。だから俺の右腕として雇いたいと思っているんだ。下賤な血を引く者にしては品が良いし、なにより優秀だ。おそらくは、いまの栄位クラスに所属する誰よりも」 「その割には彼への扱いがぞんざいな気がしますが」 「それはそうだろう。俺とアレの立場の違いさ。  どのみち彼が回復したとして、大学側は彼の研究を取り上げざるを得ない。彼を大学に置くわけにはいかなくなり、途方に暮れた彼は誰かに縋る以外に生きていく道もないだろう」  パーチェが喉の奥で笑う。スカリアはパーチェ直属の部下だ。だからこいつにリベートがいっていないはずがない。ユーリを襲撃させた意図はわからないが、こいつも一枚噛んでいるに違いない。ただ尻尾を捕ませないのだ。スカリアとつながっていることはわかっていても、パーチェをただの一度も東側のスラムで見かけたことがない。 「ユーリの研究資料は盗み出されたと聞いています」  パーチェは顔色ひとつ変えない。眉一つ動かさず、余裕の笑みを浮かべる。 「俺はなにも“ヴィータ”のことを言ってはいない。彼の研究すべてのことをさしたのだ。気を逸らせそのような態度に出るのは頂けないな」 「なぜ“ヴィータ”のことだとお分かりになったのですか?」 「なに?」 「ユーリの部屋から盗み出されたのは“研究資料”との報道はされています。しかしそれがなんであるかは知られていない。同チームの俺たちですら知らなかったことです。  でも俺は、ユーリがイギンのアジトに赴く前に、“なにを”取り返しに行くかを聞きました。軍部の上層部も、ピエタの上層部も、ユーリの研究資料に目を通していないかぎりは知りえない情報です」  パーチェは鼻で笑うだけで、悠々と葉巻を吸っている。 「それがどうした? 俺はアレの研究室を捜査した側だ。その情報を持っていたとしても不思議ではあるまい」 「でしたら、ほかの研究資料の情報をお教えいただきたい」  パーチェがぴくりと眉を動かした。ふうっと紫煙を吐き出し、後ろにいる背の高い男を人差し指を動かして呼びつける。 「ほかにどのような研究資料があったか、覚えているか?」  唐突に問われ、男がぎょっとしたような顔をした。 「い、いえ、その他の資料は言語が特定できず、詳細までは」  しどろもどろに男が言うが、さすがにその動揺の仕方ではごまかせないだろうと思う。案の定二コラがパーチェに強い視線を向けた。 「ユーリの研究資料は“ヴィータ”に関するもの以外盗まれていない。なぜならそれだけは大学側に提出し、軍部と共にフェルマペネムの代用品として開発予定だったからこそ、“ノルマ語”で書かれていた。ほかのものはすべて彼が別の言語で書いていたために“研究資料とは認識されなかった”。何者かが手引きしない限り、あの部屋でヴィータに関するものだけをマフィアが盗み出すことは不可能だ。  あくまでも白を切るというのなら、それでもかまいません。今回のことは司法に裁いていただけるよう掛け合います。あなた方の態度、対応すべて、とても彼らを慮っているようには感じない。確かにユーリはピエタとの協定を無視してマフィアの根城に立ち入った。それに関しては彼がどう裁かれても仕方のないことです。たとえそうでも、あなた方がイル・セーラに対して行ってきたことが明るみになれば、そちらもただでは済まないでしょう」  ニコラの言い分を聞いても、パーチェはまるで動揺する様子はない。代わりに背の高い男の殺気が増した。二コラもそれに気づいたのか、ほんの少し左足を後ろに引いてすぐさま戦闘態勢に入れるように姿勢を作る。パーチェは葉巻を灰皿に押し付け火を消すと、シガレットケースに戻しながらふうと紫煙を吐き出した。 「司法は動かんよ」  パーチェの表情は余裕すら携えている。怒りをあらわにする様子も、動揺している様子もない。まさか本当に司法が動かないのだろうか。司法までもがノルマ側に傾いているとしたら、この国は本当に腐っている。 「貴方を疑うわけではありませんが、そのことはこちらから軍部を通じて司法に問い合わせることにします。その報告と、ふたりの容体についての報告はまた後日」 「その頃には兄ともども回復していることを祈っているよ。こちらの非を暴くことのないように彼にはもう一度言い含めなくてはならないからな」  白々しい嘘だ。パーチェはゆっくりと立ち上がり、背の高い男を引き連れて診療所のドア付近までやってきた。ドアノブに手をかけた時、思い出したかのように二コラを呼んだ。 「そうそう、言い忘れていたが、アリオスティ隊が確保したジェンマは釈放されたよ」  二コラの反応を確かめるかのように、パーチェ。 「彼はイギンたちに輪姦されて昂ったイル・セーラを助けようとしただけだそうだ。  君も気を付けたまえ。どうやらアリオスティ隊は、例のイル・セーラに“触れるだけで”収監対象としているようだからな」  くすくすと笑いながらパーチェと背の高い男が診療所を後にする。ドアが閉まった後で、二コラがパーチェの座っていた椅子を蹴飛ばした。派手な音を立てて椅子が吹っ飛ぶ。二コラがあんなに怒りをあらわにするところを初めて見た。診療所に報告に行くのが先か、それともパーチェを尾行するのが先か。そう思案して、チェリオはパーチェを尾行することにした。 「あのような挑発をしてよかったのですか? カンパネッリの後ろに誰がついているかお忘れで?」  背の高い男がパーチェを諫めるかのように言う。かなり距離を取っているが、耳のいいチェリオにははっきりと聞こえている。 「おまえこそ、我らの後ろにどなたがおられるかを失念しているようだな。あの方の前ではドン・クリステンなどしょせん小物よ。どんなにあがこうが手も足も出まい」  そういった後で、パーチェが様子を窺うようにあたりを見回した。チェリオはかなり離れた場所に身を顰めているため、気取られるはずもない。このまま屯所に戻るのだろうかと思ったが、パーチェと背の高い男は北側と東側を隔てる関所へと向かっていった。あちらに何があるのだろうか。不審に思い、後をつけた。  パーチェは背の高い男を残し、東側へと向かっていく。どうやら背の高い男ともう一人の男とが交代の時間のようだ。スラムでなにか問題が起きたのか、クルスの姿が見えなかった。しめた。チェリオは足音を立てず、体勢を低くして関所を駆け抜けた。気付かれていない。そのままパーチェを尾行する。  パーチェはウーノ地区とトレ地区の堺にある水路付近にやってきた。あたりの様子を窺う。付近に誰もいないことを確認すると、ポケットからなにか小さなものを取り出した。鍵のようだ。チェリオはふと自分のバックパックに入れっぱなしにしていたもののことを思い出した。確かあれにも小さな鍵穴がついていた。もしかして、ーー。  パーチェは証拠隠滅のためにその鍵を捨てに来たのだ。この水路は水質が悪く、おまけに濁っている。潜って奪うような勇気はない。どうしてくれようか。様子をうかがっていたときだ。 「ドン・パーチェ」  誰かに名前を呼ばれ、パーチェは肩が跳ねるほど驚いた。その拍子に小さなカギを取り落としてしまったのだ。パーチェを呼んだのはクルスだった。鍵を拾おうとすると追及されるとでも思ったのか、パーチェは何事もなかったかのように襟を正した。 「背後から呼ぶな、趣味が悪いぞ」 「すんません。さっきから下流層街の医療班に応援を要請しているんですが、連絡がつかず困っていたんです」 「なにがあった?」 「昨日ディエチ地区でイオっていう闇商売の売人が殺されたんですが、そいつを殺った犯人らしき男を捕まえたんです。したら、なんか変な薬を飲んじまって」 「死んだのか?」 「いや、一応薬を吐き出させました。スラムの連中を下流層街に上げるには上層部の許可がいるんで、ドン・パーチェを捜していたんです」 「そんなものは北側の診療所に頼めばいいだろう」 「知らないんすか? スラムの診療所は例のイル・セーラが動けないから、閉鎖されてるんですよ」  パーチェが苛立ったように舌打ちをした。 「どうせ何事も起こらないと高を括って、女でも抱いているんだろう。俺が許可をする。そいつのところに案内しろ」  居丈高な物言いで告げると、パーチェは落としたカギを拾おうともせずにこの場を後にした。パーチェたちが見えなくなったことを確認し、チェリオは落としたカギを拾い上げた。そしてバックパックに突っ込んでいたスティック状のものを手にし、鍵穴にはめてみる。ぴたりと吸い込まれるように嵌った。動かすとかちりと音がして、開錠した。  鍵を抜いてもそれが開くのを確認し、チェリオは鍵をもとに戻した。これを隠滅したと泳がせておいたほうがいいからだ。何食わぬ顔で東側と北側を隔てる関所へと戻る。やはりまだ誰もいない。それをいいことにチェリオはするりと関所を抜け出た。  警備ザルすぎだわと口の中でつぶやいて、二コラがいるであろう北側の診療所の様子を見に伺った。 ***  あのスティック状のもののなかにしこまれていたのは紙切れだった。開いて見てみたけれど、よく意味がわからない。誰に問うべきかと考えた結果、思いついたのはやはりドン・クリステンに引き渡すことだった。  翌朝、丁度ドン・クリステンが北側の診療所にやってきていると小耳にはさんだチェリオは、急いで診療所に向かった。 「ハイ、ドン・クリステン。チェリオくんがおもしろいものを仕入れてきましたよー」  言いながらドアを開ける。二コラの冷ややかな視線とは別に、ドン・クリステンは友好的な態度で右手を少し上げて見せた。 「ハイ、チェリオ。先の報酬なら渡したはずだぞ」  チェリオの言いたいことを見透かしているかのように、ドン・クリステン。にこやかに笑っているのはチェリオが仕入れてくるものに興味を持っているものの、二コラの手前大げさに反応できないからだろう。それを悟っているかのように、二コラは苦い顔をして額を押さえた。 「あまり時間がない。手短に頼むぞ」  言って、二コラはなにかの資料を手に奥の部屋へと入っていった。その様子を見届け、チェリオがドン・クリステンに視線を向ける。話の続きを促すかのように、右手の手のひらをチェリオに向けた。 「いくらくれる?」  ドン・クリステンがふふっと笑った。 「内容次第だよ。有用なものなら10リタス以上。そうでなければ1リタスだ」 「ええっ? もうちょっとなんとかならねえのっ?」 「これは君の身を守るためでもあるんだ、チェリオ。イギンたちが収監された後で、君だけが羽振りが良くなったとなれば、スラムに住みにくくなるのは君だぞ」 「そりゃそうだけどさあ」  文句を言いながらも、チェリオは不承不承という感じで納得した。自分が羽振りよくしていると、アグエロが釈放されたあとで、イギンの部下たちがまっさきにチェリオに疑いをかけるだろう。そのやり取りをしている最中で二コラが戻ってきた。これ以上は価格を吊り上げられそうにないと判断して、チェリオはポケットに入れていたスティック状のものを取り出して見せた。 「例のイル・セーラがいたろ、捕まってたやつ。そいつに仕込まれてたんだ。これが中身」  チェリオはそれに仕込まれていた紙をドン・クリステンに手渡した。ドン・クリステンはその紙を受け取り、内容を目にするなり苦い顔をした。感情の読めない複雑そうな表情をそのままに、それを見据える視線に赤が宿る。 「最初はあのイル・セーラを犯すために使ったオモチャだと思ったんだ。でもここに小さな穴があんだろ。なにかと思って不審に思ってた。そしたらパーチェが怪しい動きをしてて、後を付けたら」 「これの鍵をドン・パーチェがもっていたと?」 「そう。クルスのおっさんに確認してみるといいぜ。ウーノ地区とトレ地区の間の水路付近で、パーチェが一人で行動していた日がある。そん時スラムの人間を下流層街にあげるために許可がいるとかなんとかで、クルスのおっさんがパーチェを捜してて、声をかけられて驚いたパーチェが鍵を落としたんだ。後で戻ってきて水路に捨てるつもりなのかと思って、さきに鍵だけ開けたんだけど、丸一日経ってもそのまま落ちてたから、回収した」  言いながらチェリオはポケットからその鍵を取り出し、テーブルに置いた。ドン・クリステンはそれをニコラに見せることなく、証拠として回収していいかと尋ねてきた。 「なんて書いてあるの?」  タダでは渡すわけにはいかない。そう考えたチェリオはドン・クリステンに尋ね返した。 「『親愛なるヴァシオ。レジ卿から脅迫を受けている。息子たちの助命嘆願を希う。例の書物の在処はフォルスの地下』」 「それだけ?」 「これを書いた人物は、『ユーリ・S・オルヴェ』というそうだ」  そう言われて、チェリオはきょとんとした。ほとんどユーリとおなじ名前だからだ。  二コラがドン・クリステンに耳打ちする。戦争が現実味を帯びてきたという内容のセリフだったが、チェリオにとっては非現実的でいて想像もつかない状況だった。  仮に戦争が起きたとして、駆り出されるのは軍部と、旧軍部で構成されているピエタだ。ミクシアの人間はみな戦争とは無関係に暮らしている。それが脅かされる可能性があるというのだから、このふたりが深刻そうな顔をするのも仕方がない。 「ヴァシオは先日保護したユリウスの登録名だ。ユリウス・ヴァシオ・シャルトラン。だがレジ卿というのは」  ドン・クリステンが口を噤む。さすがにドン・クリステンでも知らないことがあるようだ。 「俺の知り限りでは、貴族院に名を連ねる面々にレジ卿とやらはいないな」 「フィッチの貴族の筋をあたった方が良いかもしれません」 「そうだな。それはナンドとジャンカルロに任せよう。俺は引き続き情報収集をする。  ニコラ、君はユーリ・オルヴェの身辺の守りを強化しろ」 「ユーリの、ですか?」 「レジ卿とやらが何者で、どこにいて、存命か否か、詳細が分からないんだ。手を打っておいたほうがいい」 「そのユリウスってのに聞いてみれば?」  チェリオのそれは正直な意見だ。ドン・クリステンは少し肩を竦めて両手を広げて見せた。 「その彼自身がレジ卿だとも考えられなくはないうえ、つながりがないとも言えないんだ。  聞けば、彼の兄がすごい剣幕でユリウスを罵倒したと。彼の兄ならば知っていたかもしれないが」  チェリオはふうんとあいまいな返事をした。あのイル・セーラには胡散臭さがなかったとはえないが、それならあんな見せしめのように犯して拘束する意味が見いだせない。協力関係にあったけれどどこかで関係が破綻してああなったか、最初から騙されていたか。もちろんその程度はドン・クリステンたちも推測しているだろうが、腹の探り合いが苦手なチェリオには胃のあたりを掴まれて揺さぶられているかのような妙なむず痒さがあった。 「ニコラ、君はユーリ・オルヴェの出自を知っているかね?」  そう尋ねられ、ニコラが不思議そうにほんの少し目を開いた。 「フォルス出身ということ以外は存じません」  ドン・クリステンがふむと考えるように顎に手をあてた。 「ならばやはり解せないな。  フォルスで出会ったという男を洗わせる。その男のことならSig.シャルトランが知っているかもしれない」  ニコラは静かに返事をして、部屋を後にした。  チェリオはどこか訝しげにドン・クリステンを見上げた。 「なあ、あの文字はフォルムラ語だろ? なんであんたが読めんの?」  ドン・クリステンが意想外な顔をした。けれどすぐに目元を緩めて静かに肩を揺らした。 「俺はこれでもミクシア軍の軍医団長だ。フォルムラ語を読める相手が限られていると、ユーリ・オルヴェが言っていたのかね?」 「軍部の最高幹部の中でも少ししかいないって」 「なら俺はその“少し"のなかの一人。それだけの話だよ」 「ああ、そうだ。忘れるところだった」  チェリオはネイロがくれた手帳をバックパックから取り出して、テーブルに置いた。 「これは?」 「ノーヴェ地区に住む、ネイロっていう情報屋のおっさんから。なかは見てねえけど、どこで誰が、誰と、いつ会って話していたか、諸々書いているって言ってた」  そうかとにこやかに言うと、ドン・クリステンは胸の裏ポケットから分厚い財布を取り出した。上質そうな革財布だ。財布には驚くほどのリタス札が入っていて、几帳面な性格を表しているかのように10リタスずつまとめられてるようだ。そこから20リタス取り出し、チェリオに差し出した。 「マジ、20リタスも?」 「この紙と手帳は買い取らせていただくよ。俺にとってはとても価値のあるものだからね。10リタスは、そのネイロという情報屋に渡しておいてくれたまえ」  そういうと、ドン・クリステンはチェリオに気をつけて帰るようにと言い残し、奥の部屋へと入っていった。 ***  やはりドン・クリステンは食えない男だ。金払いがいいことを除けば苦手だ。本気で付き合うと火傷をしそうな危うさを持っている。けれど彼以外に頼る相手がいなかったのも事実だ。釈然としない思いを抱えながら診療所を出る。向かいから誰かが歩いてくるのが見えた。エリゼだ。ふいにひしゃげたような声が上がる。エリゼはチェリオを見つけるなり目を細めた。 「一仕事する気はありませんか、チェリオ」  唐突にいわれ、チェリオは目を白黒させた。てっきりユーリを囮に逃げた時のことを突っ込まれるものだとばかり思っていたからだ。 「仕事って? 危ないことはしないぞ」 「簡単ですよ。アグエロの顔を俺に教えてもらいたい」 「いま収監中なんだろ?」 「今日の正午に釈放予定です。おまえはアレに生きていてもらっては困るんでしょう?」  エリゼの表情と声色に一気に殺気が込められる。背筋が凍りつきそうな寒気を感じ、チェリオは表情を強ばらせた。 「アグエロのこと知ってるんじゃねえのかよ?」 「仕留め損なうのは癪ですしね。それに本物を教えなかった場合、おまえがあちらのスパイだという証拠にもなる」  顔は笑っているのに雰囲気もセリフもまるで穏やかではない。言葉に困ったチェリオをよそに、エリゼはくすくすと笑った。 「この案を突きつけてきたのは隊長です。おまえがユーリを陥れたのではないかと疑っているようですね」 「ちっ、違うって言ってるだろっ」 「ええ、だから隊長の代わりに俺が交渉に来ました。アグエロを生かしておくメリットはこちらにはありませんし、デリテ街に平和が訪れるならとキルシェが黙認を約束してくれました」  チェリオは苦笑いをした。イオが死んだとなれば、あとはアグエロがいなくなればデリテ街、ひいてはスラム街の脅威がいなくなる。ロレンとキルシェが東側を率いて、北側をアリオスティ隊が管理する。そうすれば自ずと今までのような格差が減るのではないかとエリゼが言う。 「ピエタはスラムのことを食い物にするやつらばかりだと思ってた」 「それはご期待に沿えず。野良犬集団と雖も躾が行き届いているので拾い食いはしない主義です」 「あっそ。アグエロは額に大きな傷があるからすぐにわかる。一回泳がせて、どこの親分のもとに帰るのかを見届けるのは?」 「その線も考えましたが、もしもピエタの幹部連中と繋がりがあった場合は手出しができなくなるので、その前に死んでもらうのがスマートだろうと思いましてね」 「こっわ。マジで怖いわ、おまえ」  頭ン中どうなってんの? とチェリオが問う。エリゼは不敵な笑みを浮かべたまま、「正義など見る側によって変化するただの概念で、なんの価値もありませんよ」とナザリオの部下らしからぬことを言った。チェリオはきょとんとして、目を瞬かせる。 「意外だな。おまえは正義側だと思ってた」 「俺は隊長が思っていてもできないことをするためにいるんです。正義も悪も興味がありませんね」  言って、エリゼはおもむろに懐中時計を開いた。11時50分。正午まであと10分だ。 「どうします?」  エリゼが問うてくる。答えは一つしかない。チェリオは頷き、エリゼと共に北側の収容施設へと急いだ。  収容施設の出入り口はひとつしかない。そこをやや離れた位置から監視する。エリゼは慣れたようにライフル銃のスコープで様子を窺っている。 「おまえ、マジで怖い」  チェリオがぼやく。サーベル捌きも尋常ではないが、まさか飛び道具まで使えるとは思ってもみなかった。マジで敵に回したくねえとチェリオが唸ると、エリゼは顔をあげて目を眇めてチェリオを見た。 「これはあくまでも監視用です。音で足がつくような真似を誰がしますか」 「じゃあ、どうすんの?」 「単純な“作業”ですよ」  不敵な笑みを浮かべてエリゼが言った時だ。正午を知らせる鐘がなった。門が開き、男が出てくる。ライフルのスコープを覗き込み、出てきた男がアグエロであることを確認する。本人だと告げると、エリゼはライフルをそのままにすっくと立ちあがった。羽織っているマントのフードを目深に被る。 「ついてきますか?」  チェリオは首を横に振った。収容施設から出てきたのは紛れもなくアグエロだ。チェリオたちがいるほうへと歩いてくる。エリゼは潜んでいた木から軽々と飛び降りて、まるで猫のような身のこなしで着地すると、木の陰に身を潜める。  アグエロが近づいてくる。エリゼがフードをかぶっているからか、アグエロはエリゼだと気づいていないようだ。アグエロがエリゼの真横を通る。一瞬エリゼが手を動かしたように見えたが、早すぎてなにも見えなかった。  アグエロが不思議そうにエリゼを振り返るが、首をかしげて前を向き、また歩き始める。それを見届けて、エリゼが軽々と木の上に戻ってきた。 「死んでねえじゃん」  チェリオが言った時だ。歩いていたはずのアグエロが急に呻き声をあげて膝から崩れ落ちるように倒れこんだ。びくびくと痙攣し、喉を掻きむしる。正午とはいえ収容施設の周辺は人通りが少ない。もがいても助けがくるはずがなく、アグエロはしばらく苦しんでいたが、やがて動かなくなった。  チェリオは思わずエリゼを見た。エリゼはフードを脱いで髪を整えると、にいっと口元だけで笑った。 「ああ、言っていませんでしたか。俺が最も得意とするのは暗器と毒ですよ」  お前も死にたくなかったら言動に注意することですねと、エリゼ。チェリオは顔を引きつらせて、あれだけのサーベル捌きができるうえに暗器が得意とかもう兵器じゃねえかと心の底から叫んだ。

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