27 / 108
Five
仄暗い景色のなかに佇んでいる。
体がずっしりと重く、まるで全身を空間に縫い付けられたかのように動かない。
ここはどこなのだろう? ユーリは辺りを見渡したが、仄暗い景色の奥はまるで深淵で、寸分の先も見えない状態だ。
これは夢の中なのか、はたまた現実なのか。ともすれば死後の世界かもしれない。あまり楽な死に方はしないだろうし、どうせ地獄行きだと思っていたから、笑いさえ出ない。
どうせ何も見えないからと目を閉じる。風も、音も、なにもない。
その空間にはなにもなかったが、ふと体に違和感を覚えた。
覚えのあるその違和感に意識を引きずり戻される。
いやに明るい。目を開けると先ほどの仄暗い景色とはまったく異なる空間だった。
ぼやけた視界で違和感を与える主を探す。二コラだ。ユーリが二コラの白衣の肩口を掴むと、二コラがハッとしたように顔をあげた。
「気が付いたか」
疲れの色の上に安堵が乗った表情だ。鼻にかかった声が漏れる。そんなことよりその違和感をどうにかしてくれと言いたかったが、声が掠れて出て行かなかった。
二コラは思い出したようにユーリの後孔から指を抜くと、医療用の手袋を脱ぎ捨ててユーリが着せられている病衣の裾を整えた。
「なにが起きたか、覚えているか?」
問われて、ユーリは覚束ない記憶をさまよわせた。
確か、フェルマペネムの代替品の試作品――ヴィータをスラムのロレンのもとに届けた。そのあとで北側の診療所に赴いた際に軍部から招集がかかり、試作品を持ってくるようにと指示をされたが、その道中で下流層街の傷害事件に遭遇した。ジャンカルロがいたから何事もなく事が済んで、ピエタの派出所に状況説明をしに行った。その件で学長から呼び出しがかかり、軍部と学長とどちらを優先させるべきかと迷ったが、学長を優先しなければ絶対にあとから面倒だとサシャが言ったために一度大学に戻った。
キアーラが作ってくれた夕飯を食べて、リズと他愛もない会話をして、じゃれ合って、それから、――。
それからのことが思い出せない。ずきずきと痛む頭を擦る。
「酒でも飲んで階段から落ちた?」
適当に答えると、二コラの溜息が聞こえた。そうではないようだ。自分の声は掠れていた。まるで声も出ないほど犯されたあとのように、――。ユーリはハッとして体を起こそうとしたが、右手に鋭い痛みが走りかなわなかった。勢いよく背中からベッドに倒れこみ、背中にも激痛が走る。痛みに呻くと、二コラが慌てたように寄ってきて、ユーリの体に負担がないようにとゆっくりと体を起こす手伝いをしてくれる。
「俺が寝ている間にまで悪戯すんのかよ、スケベ」
ただの処置だと分かっているが、敢えて揶揄するように言ってやる。二コラはどこか安堵したような表情をそのままに、ユーリの頭を撫でた。
「すまん、違法薬物の中和の為にはあれしかなかった」
それと傷付いた患部の処置だと、二コラが告げる。記憶が定かではない。そんなに激しく盛り上がったのかと口の中で呟いて、二コラにもたれかかる。けれどそんな記憶はない。二コラとはあの夜に久々に出会ったような気がする。だから盛り上がったーーなんてことはないだろう。その証拠に、二コラの表情は自分の劣情で抱き潰したあとの罪悪感を引きずったものではないからだ。
「サシャは?」
ユーリが問うと、二コラが視線を逸らした。その機微をユーリは見逃さない。二コラが言い訳をして逃げないように、白衣の襟をつかんだ。
「サシャは? どこにいる?」
答えなければユーリが手を離さないことを知っているからだろう。二コラはユーリの身体を抱き寄せた。怪我をしていない部分を撫でられたかと思うと、腕にこもる力が強まっていく。
「フレオたちのところだ」
「フレオ?」
なぜサシャがフレオたちのところにいるのだろうか? フレオたちのチームの専門は脳外科と外科だ。ただの怪我なら二コラもいるし、リズもいる。ただ事じゃないと悟り、ユーリは二コラの腕の中から出ようともがいた。
「サシャのところに」
二コラが首を振る。
「あとでフレオに言って、こちらにサシャを連れてこさせる」
ユーリはほっと胸をなでおろすような気持ちになって、二コラに寄り添った。小さく頷く。二コラがユーリの背中をぽんぽんと叩いて、ゆっくりと離れていった。
「もうなんともないか?」
体のことを言われているのだと思った。二コラに触れられた後ろに多少違和感があるが、頭痛と手と背中の痛み以外はなにもなさそうだ。素直に頷くと、二コラはまた後でと言って、病室を後にした。
なぜ病室にいるのだろうか? 違法薬物とは? 記憶の糸を手繰り寄せる。
リズとじゃれ合っていたら、サシャが珍しくリズに絡んだせいで、リズが『ぼくもサシャの弟になる』と冗談を言って、お兄ちゃんお兄ちゃんと付き纏うものだからサシャが本気で嫌がっているのを見て、涙が出るほど笑ったのは記憶にある。
綺麗な月夜だったけれど、しばらくしたら雨が降ってきて、二コラから家に泊まるように言われたが、翌朝軍部に出向くことになっていたから、断った。それから、――。
それから、中流層街のアパートに衣類を取りに立ち寄って、派出所付近をクルスと副隊長のスヴェンなんていう珍しい組み合わせで見回りをしているのに遭遇した。夜道は危ないからと、下流層街の迎賓館前まで送ってもらった。夜食にとエリゼが作ったアップルパイを半分分けてもらって、研究室でアップルパイを食べた。もう夜も遅いし、書類の確認だけしようと寝室を出たところまではなんとなく思い出せる。
サシャの切羽詰まったような声がこだました。名前を呼ばれた。それも、ユーリの名を継ぐ前の名を。それから、サシャはなんと言った?
――だめだ、思い出せない。ユーリはため息をついて、病室の天井を眺めた。
一瞬だったから、その名前も覚えていない。ただ、サシャが昔の名前を呼ぶなんて珍しくて、くすぐったくて、なんとなく嬉しくて、でもすっかり平和ボケしていたことを後悔したのを思い出す。
サシャが“ユーリ”の名を継ぐ前の名前で呼んだときは、振り返らずに逃げろ。収容所にいたころにふたりで決めた合図だ。まだ幼かったころは、“ユーリ”の名前を継いだことが嬉しかった半面で、自分の名前が呼ばれなくなったことが寂しくて、たびたびサシャにせがんでいたけれど、サシャは頑なに呼ばなかった。『危険を知らせる合図』だと。本来ならばもう使用されるはずのない薬草から取った名前。イル・セーラ古来から伝わる、ある種で禁忌の、ある種で救世主の名前。
ユーリはハッとした。
サシャがユーリの昔の名前を呼んだ。リズに『俺の弟はユーリだけだ』と散々言っていたこともあり、珍しく昔の名前を呼んでみたくなったのかと思って、サシャがいた研究室を覗き込んだ。サシャがまたなにかを叫んで、気が付いたら血しぶきが見えた。
理解が追い付かない。頭が痛い。ユーリは額を押さえて体を丸まらせた。
いったいなにが起こった? なにを忘れている? 思い出そうとしても思い出せない。ユーリはため息をついて、目を閉じた。
もう一度寝たら、思い出すかもしれない。そう思って意識を断とうとしたが、病室の向こうから足音がふたつ近づいてくる。バタバタと慌ただしい。ユーリはまた溜息を吐いた。
「うるさいのが来る」
ぼそりとつぶやいた時だ。リズとキアーラがユーリの名を呼びながら病室のドアを開けた。ユーリはもはやそちらを見ることもせず、布団の中から手だけを出してひらひらと振った。
「もう、バカバカバカ!! ユーリのバカ!」
リズが布団を叩く。勢いよく体を叩かれて、ユーリは思わず布団から顔を出した。
「あ、あんたなあっ、こっちは怪我人なんだから、ちょっとは手加減しろよっ」
反論するように言ったが、リズの目には涙が浮かんでいる。キアーラは目じりにたまった涙をそっとぬぐって、微笑んだ。
「気が付いてよかった。一時はどうなるかと思ったのよ。リズも一生懸命だったの。叱らないであげて」
「何日も、寝てたってこと?」
「ちょうど1週間よ。もし明日の夜までに目を覚まさなかったら、回復の見込みはないということで、――というところまで話が進んでいたの。だけどリズが、フレオから借りた論文をドン・クリステンと学長にたたきつけて、もし通例通りにバルビツール酸をと言うなら殺人罪で訴えてやるって息巻いて」
「だってあんまりだよ! 散々利用しておいて、用が済んだら消すようなものじゃないか!」
やはり理解ができない。状況が呑み込めない。いったいなにがあった? とユーリが問うと、リズとキアーラが顔を見合わせた。
ことの次第をふたりに聞いて、ユーリは二の句を告げなかった。
ディアンジェロ家所有の研究施設が何者かに荒らされたうえに、軍部に提出予定だった書類が盗まれ、ユーリとサシャが住んでいたアパートは放火された。そう説明されても理解が及ばない。普段から警戒してアパートにめぼしいものは置いていないが、栽培していた薬草たちは軒並みダメになってしまったと言うことになる。もう手に入らないものもあり、毎年種から育てている貴重なものばかりだったのだけどと、心で呟く。
まあなにが起きてもいいように、本当に大事なものは大学の研究室とジャンカルロの家に避難させている。めぼしい薬草たちも非難させておくべきだったなと内心し、ふたりの言葉に耳を傾ける。
サシャは強盗に襲われた時の傷だけで済んだが、ユーリに関してはマフィアたちに違法薬物を接取させられ、そのせいでこん睡状態だったと聞かされる。ロレンを通じてデリテ街の住人に行き渡るように作ったフェルマペネムの代替品の試作品――基パナケインをチェリオが渡してくれたことで事なきを得た。つまりあのときロレンにあれを手渡していなければ、詰んでいた。ユーリは自分の悪運の強さに苦笑を漏らした。
「まァなんとも運のいいことで」
笑い事じゃないよとリズが語気を強めて言った。
「ぼくは最初に言ったよね。二コラや軍部をあんまり信用するなって」
ぼそぼそとくぐもった声で、リズ。キアーラが諫めるようにリズを呼んだが、リズは首を横に振ってもう一度布団を叩いた。
「キアーラは思わない? 一番怪しい動きをしているのは二コラだ。そもそも、二コラは元々軍部の人間だって話じゃない。ぼく、びっくりしたよ」
そう言われて、ユーリはハッと目を見開いた。
「軍部の? 二コラが?」
冗談だろと眉を顰めた。たしか二コラはそう言っていた。夏にはキアーラが退職する。来夏には二コラも軍医団への所属が決まっているから、だから栄位クラスの班長はユーリに任せると言って、自分は班長になることを固辞した。最初はサシャのほうが相応しいと言ったけれど、サシャは絶対に嫌だと嫌厭し、消去法でユーリが選出されたようなものだったが。
「来夏に軍部に配属されるって話じゃ?」
「それがそうじゃないんだよ。元々二コラは既に軍医団に所属していて、ドン・クリステン直属の部下だったんだ。
だから二コラは軍部にもピエタにも顔が利いて、あれこれ探れる立場だったってこと」
お父さんが殉職したからピエタに顔が利くだなんて、なにかおかしいと思ってたんだよとリズが言う。キアーラもまた、少々困惑したような表情だ。
「わたしも聞かされていなかったから驚いたのだけれど、本来二コラは4年前に軍医団に配属されて、ドン・クリステンの配下になる予定だったらしいの。
だけど奴隷解放宣言が律され、ユーリとサシャが大学に入学することになったので、誰かが近くで監視を――という話になり、たまたま在学中だった二コラに白羽の矢が立ったのだと、叔父様が教えてくださったわ」
まだ理解ができないのと、キアーラ。
「だけどその監視はあくまでも“安全考慮のため”で、悪意はないの。本当よ。それは信じてあげて。二コラは最初は固辞したそうなのだけれど、ドン・クリステンがどうしてもと」
そう言われて、ユーリは一抹の不安がよぎった。一番考えたくないことだった。ユーリとサシャがあの研究室でフェルマペネムの代替品の研究をしている情報がどこから漏れたのかと言ったら、考え得る選択肢はふたつ。二コラか、ジャンカルロか。ジャンカルロはあり得ない。あそこにいるということは知っていたが、そこでなにをしているかまでは伝えていない。とすると、残るはひとつだけ。
「軍部に所属していたというなら、二コラはあの場所を、軍部に話したってこと?」
「え?」
「軍部の人間なら、報告義務がある。二コラがもし、軍部に研究室の話をしていて、そのことがドン・クリステン以上の立場の人の耳に入っていたら?」
研究室ってなんのこと? と、リズ。ユーリとサシャが襲われた場所よとキアーラが言う。襲われたと聞いて、ユーリは深い息を吐いた。
やはり、あれは『逃げろ』の合図だったのか。だとしたら相当気が緩んでいた。フェルマペネムの代替品を作り終えて、軍部に報告が終わったら、身の安全が保障される。そう思っていたのに、――。
視界が歪む。ユーリはふたりに悟られないように布団をかぶった。
「ユーリ?」
不安げにリズが呼ぶ。
「頭が痛い。ひとりにしてくれ」
そう言った時だ。病室のドアが開いた。足音から察するに、二コラだ。ユーリは顔を出そうともしなかった。
「ユーリ、頭が痛いって」
リズが言う。二コラたちが退室するだろうと思ってのことだったが、二コラがベッドの横に来る気配がした。頭もとに置いてあった椅子を音が立たないように引き、腰を下ろす。出て行けと言う気分にもならなかった。
「ニコラ、今日のところは一人にしておいてあげたほうがよいのではないかしら。きっと状況がうまく飲み込めていないはずよ。わたしたちも」
ニコラがそうだなと言うわけがない。案の定と言うべきか、ニコラは椅子から立ち上がる気配を見せなかった。
「俺が軍部所属だということを黙っていたことに関しては、謝る。すまなかった」
口調こそ冷静だが、その裏に焦りの色が窺える。ユーリはなにも答えなかった。
「学内でそのことをご存知なのは、ドン・アゴスティだけだ。同チームのみんなには話しておきたいとドン・クリステンにお伝えしたが、有事の際に巻き込むことになるからと言われて、それで伝えることができなかった」
ニコラの言葉に最初に反応したのはリズだ。ふんと鼻を鳴らして、ユーリのベッドに腰を下ろす。
「ぼくの態度があからさまだからって、いまさら事情を話しても懐柔なんてされてやらないからな」
だから上流階級は嫌いなんだと、リズ。ニコラがなにかを言い淀んでいることを察したが、ユーリもまた声をかけずにいた。
「わたしは驚いたけれど、ニコラの立場はあくまでも秘匿任務であって、守秘義務もあるから本来なら事情が事情でもこんなふうに明かしてはいけない決まりになっているのよ。
それでもわたしたちに話してくれたということは、ニコラもまた葛藤を懐いていたのだと思うわ。だから、リズ。そんなふうに言わないであげて」
「キアーラはいつだってそうやってニコラの肩を持つ。さっきの話を聞いていたら、ユーリとサシャが襲われたのだって、ニコラが馬鹿正直に上に報告したからってことも有り得るよね」
「あの研究室があそこにあることを知っているのは、なにもニコラだけではないわ。ディアンジェロ家の所有物ではあるけれど、あの研究施設はお兄様が後輩たちのためにとお造りになった場所でもあって、わたしの先輩もあそこで研究をしていたことがあるの」
まるで二コラの正当性を訴えるかのようにキアーラが言う。すぐさまリズの焦れたような声がした。
「じゃあ、具体的には誰がその研究施設を知っているのさ? ぼくは知らない。教えてもらっていないから」
明らかにむくれたような口調でリズが言う。自分だけが蚊帳の外だったことが気に入らない様子だが、態度とは裏腹に冷静に考えているようだ。
「ユーリとサシャ、キアーラは除外するとして、ニコラ、ジャンカルロ、キアーラの先輩、ドン・クリステン。それ以外に誰があの研究施設を知っていて、そこにユーリたちがいたことを知っていたってことになる?
キアーラの先輩はユーリたちのことを知らないだろうし、そもそも接点がないんだ。明らかにニコラが喋ったことでどっかに伝わった以外ないじゃないか」
それはそうかもしれないけれどと、キアーラ。ニコラは消え入りそうな声で「余計なことをした」とだけ呟く。あまりに珍しい声色に、顔だけでも拝んでやろうとユーリが布団から顔を覗かせた。
あからさまに悄気ている。けれど、目の奥にはありありと赤が孕んでいて、怒りに震えているのが分かった。ニコラは故意に話したわけではないし、悪意があったわけでもない。表情で悟る。ユーリは自分の感情を落ち着かせるために、大きく息を吐いた。
「ニコラがクソ真面目なのはいまに始まったことじゃない。報告義務が生じるのは、ドン・クリステンに対してだけだろう? そのほかに誰かに話したのか?」
ニコラが首を横に振る。
「ドン・クリステン以外には他言していない。研究室のことも、ふたりがフェルマペネムの代替品を研究していることも」
「じゃあそのドン・クリステン経由で話が漏れたことになるけど、彼はどこの誰に報告をする義務が?」
「これは内々にすすめられていたことだ。ドン・クリステンより上、つまり団長殿や貴族院に話が漏れることはないはず」
ユーリがのそりと身体を起こす。心配そうに手を差し伸べられたが、ユーリはその手を払いのけた。
「その理屈でいくと、一番怪しいのはドン・クリステンってことになるけど」
「それはない。あの方はおまえとサシャのことで尽力して下さっているんだ。身の安全と引き換えに代替品を作るよう指示しておいて、その約束を反故にするような方ではない」
「じゃあ、なんで?」
ユーリは自分の声が震えているのに気付いたが、感情を飲み込むことができなかった。
ニコラの胸ぐらにつかみかかる。キアーラがユーリを止めようとしたが、ニコラがそれを制した。
「謝って済む問題じゃないと分かっている。取り返しのつかないことをした」
ユーリはニコラの胸ぐらに掴み掛かったまま、なにも言わない。ただただ込み上げてくる怒りと悔しさのせいで弾んだ呼吸を落ち着かせようとするかのように、黙っている。
「盗み出された資料は、いまナザリオたちが捜索してくれている。軍部に提出する予定だった代替品が無事だったことは、不幸中の幸いだった」
ニコラの胸ぐらを掴むユーリの手に力が籠っていく。
「不幸中の幸い? どこが?」
なにも分かっていないと、ユーリが震える声で吐き捨てた。
「アパートにあった薬草がなかったら、もうなにも作れない。資料もどの資料が持っていかれたのか知らないけど、次に再現しろって言われたって、もう無理だ」
ユーリの声が涙に濡れていく。ユーリはただニコラの胸ぐらを掴んでいる。
「あんたらはいつだってそうだ。甘言を囁いてその気にさせておいて、簡単に裏切る。
どんなに俺たちを慮っていると言ったところで、ドン・クリステンや学長だって大きな権力には逆らえない。最初から絶対安全だなんて保証はどこにもなかったんだ」
「ユーリ、それは誤解だ」
「誤解? ドン・クリステンが潔白だっていう証拠がどこにある? あんたや、ナザリオたちがどれだけ慕っていようが、どんな人間にも裏の顔があるんだ。それをあんたらが見抜けなかっただけの話なんじゃないのか」
ユーリがニコラの胸ぐらを掴む手から力が抜けていく。ユーリは力なくその手を下ろし、そのままニコラにもたれ掛かった。傷口の痛みに呻き声が上がる。ニコラが慌ててユーリの体を支え、ベッドに横たわらせた。
息を弾ませるユーリの体は、怒りのせいか、それとも傷のせいか少し震えている。ニコラはユーリの額に手を宛い眉間に皺を寄せた。
「あまり興奮するな。傷に障る」
「じゃあ出て行ってくれ。しばらくあんたの顔を見たくない」
言って、ユーリが体に掛けられた布団を頭まで被る。このままここにいられたら、ひどいことを言ってしまいそうだ。布団の中で唇を噛み、拳を握る。キアーラがニコラを宥めるような声が聞こえた。
「ユーリのことはわたしが見ておくわ。だから、ニコラはドン・クリステンへの報告を。
それから、フレオに言ってサシャもこちらに」
「あ、それならぼくが行くよ」
リズの足音が遠ざかっていく。キアーラとニコラもそのまま部屋を後にするかと思っていたら、誰かに背中を撫でられた。この手はキアーラだ。
「ユーリ、あなたがドン・クリステンのことを悪く思うのも無理はないわ。だけどあの方は決してユーリとサシャを陥れようなんて画策しない。あの方は4年前までオレガノに特使として派遣されていたの」
ユーリは布団から顔を出さなかった。
「ドン・クリステンのことは叔父様がよくご存知だし、一目置いている相手だわ。
あの方が100%貴方の味方だという保証はできないけれど、少なくともマフィアとは通じていないはずよ」
それにとキアーラがほんの少し声を潜めて継ぐ。
「仮にドン・クリステンが今回の“首謀者”なのだとしたら、たぶんもっと確実な手を使うだろうし、二人を仕留め損なうような真似はしない。証拠も残さずに、跡形もなく」
思わず変な声が漏れそうになり、ユーリは布団の中で口を塞いだ。ドン・クリステンは一体どんな卑劣な男なんだと内心する。ニコラの呆れたような声が聞こえたかと思うと、確かにとキアーラのセリフを許容するような返事をした。
「この数日俺はドン・クリステンに同行していたし、彼の補佐官も一緒だった」
「それにあそこがディアンジェロ家の所有物件だと知らない相手が手を出してきたのだとしたら、それは必然的にスラム街の住人か、中流階級以下の住人ということになる。周辺に住んでいる方には周知されていると思うけれど、スラム街の住人と下流階級のなかから犯人探しをするとなると容易ではないわ。
もちろん本当はそうではなくて、ルールを知っている者がそれを知らない者のせいだと仕立て上げることもできる」
「もしくは、ディアンジェロ家の威光が利かない人物か、ということか」
ユーリは布団から顔をのぞかせ、ふたりのやり取りを聞いていた。ディアンジェロ家の威光が利かない存在となると、だいぶ限られるのではないかと思う。それは二コラも同じだったようだ。
「だから政府は及び腰で、司法も動かないと?」
「でも、本当にそんなことをなさるかしら? わたしにはそれすらブラフのように思えるわ」
「なぜ?」
「確かにガブリエーレ卿は変わり者だし、貴族院にしがみつきたいと思っている方は、彼のやることに異を唱えるようなことはしないでしょう。
でもあの方にはユーリやサシャを陥れる理由がないし、フェルマペネムの代替品を作ろうと思えば自分で作れてしまう資金力も知識もある。もしもレジ卿がご存命なら、可能性はないこともないけれど」
キアーラの言葉に、二コラが弾かれたように顔をあげた。
「いま、なんと?」
「え? レジ卿のことかしら?」
「そうだ。キアーラはその人物を知っているのか?」
二コラが問うと、キアーラは困惑したような表情で首を横に振った。
「直接は知らないけれど、レジ卿ならばイル・セーラを恨んでいるだろうし、と思ったの。でも彼はもう何年も前に亡くなられたし、お父様に着いてご葬儀にも参列したわ」
「イル・セーラを恨む理由って?」
ユーリが尋ねる。キアーラは「あくまでも噂だけれど」と前置きをして話しはじめた。
「本当の理由かはわからないけれど、なんでも奥様の手術をイル・セーラに断られたことで、治療ができずに亡くなったそうよ。オレガノでは確立されている治療法でも、ミクシアでは承認されていなくて、それに当時はまだオレガノとミクシアの関係は険悪だったから」
ユーリは眉根を寄せて唇を触った。イル・セーラならできる手術と言ったら限られる。それはもしかして、“ユーリ”のことなのでは? と思ったが、口には出さなかった。
「ならレジ卿が裏で糸を引いているということはあり得ないな。とにかく、俺はもう一度洗いなおしてみる。キアーラももしなにか心当たりがあったら教えてくれ」
心当たりというほどでもないのだけれどと、キアーラ。
「お父様もお兄様も他方に恨みを買うようなことをするような質ではないから、あるとしたら、わたしが医師になることを阻みたい相手か、もしくは、ーー」
「もしくは?」
「わたしの婚姻を阻みたい相手か」
涼しい顔をして、キアーラがいう。流石のユーリも二の句を継げず、苦笑するしかできなかった。それはニコラも同じだったようだ。
「しかし、だからと言ってディアンジェロ家に喧嘩を売るような真似をする者は限られているのでは?」
「そうね、だからいまのところは貴族院や軍上層部が関わっている可能性は除外されているの。実際のところはわからないけれど、仮に正常な分別がつく相手であれば、イル・セーラを保護することをディアンジェロ家が提唱したからと言って公にエージェントを利用してでも手を出そうとはしないと思うわ」
「キアーラの婚約者の話って、そういえば聞いたことなかったな」
ユーリがいうと、キアーラは少し気恥ずかしそうに微笑んで見せた。
「とても紳士な方よ。貴方に似ているし、会えばきっと仲良くなれるわ」
「い、いや、それなりの作法が備わっていないから会うだなんてそんな大それたことは」
しどろもどろになりながら、ユーリ。キアーラはそんなことを気にするような方ではないわと上品に笑う。あのキアーラが結婚してもいいと思った相手だ。興味がないことはないが知らないほうがいいこともある。
廊下から足音と、それに混じって木が軋むような音がする。不自然な音にユーリが眉を顰めた。
「着いたよ、サシャ」
ドアが開かれ、ユーリが弾かれたように顔を上げた。リズがサシャを連れてきたのだ。車椅子に乗せられ、両目を包帯で覆われている。急いでベッドから降りようとしたが、背中の痛みでままならなかった。
「サシャ、よかった」
ユーリが声をかけると、サシャは声のした方に顔を向ける。口元だけで笑い、無事でよかったと掠れた声で呟いた。
「視界を塞いでいたほうが気分がいいんだ。目はなにも問題ないぞ」
まるでユーリが気にしていたことを補足するようにサシャがいう。ユーリはホッとして、そうだったのかと声を絞り出すように言った。視界が歪む。安堵のせいか、罪悪感からか、涙が頬を伝い落ちる。ユーリは悟られないようにそれを拭ったが、サシャが近付いてくる気配がしたかと思うと、そっと頭を撫でられた。そのあとで抱きしめられる。ユーリはサシャに抱き付いた。
「ごめん、俺の不注意だ」
「誰も悪くない、天災に遭ったようなものだよ」
言って、サシャがユーリの髪を撫でる。
「どうせニコラに当たったんだろ? 短慮はよせ、ニコラに愛想を尽かされるぞ」
サシャが笑う。ユーリの涙がサシャの肩口を濡らす。穏やかなその声はユーリの後悔と罪悪感を引き出すには十分すぎた。
「ニコラはユーリに当たられたってガッティーナに戯れつかれたくらいにしか思ってないよ」
リズの声だ。リズにもまた頭を撫でられる。ユーリはサシャの前だと弟属性全開になるよねと揶揄するように言われたが、反論をしなかった。次から次へと溢れてくる涙の止め方が分からなかったからだ。
サシャにもしものことがあったらと考えただけで背筋が凍るような思いがする。
「面倒をかけてすまなかった、キアーラ」
「そんな、面倒だなんて。こっちこそごめんなさい。ディアンジェロ家所有の物件なら安全だと思い込んでいたわ」
「フェルマペネムの代替品は、それだけ利用価値が高いってことだ。イル・セーラ古来の書物はもうどこにもない。連中がその価値の高さに気づくほどに狙われるリスクが増える」
サシャの言葉を受けてニコラが気まずそうな表情をした。
「これから上に賠償の件で交渉をしてくる」
「アパートや怪我の件でだろ? もういいから放っておいてくれないか?」
サシャはいつもと変わらない穏やかな口調だが、その言葉尻にはあからさまに嫌悪が窺える。
「誰が悪いわけでもない。これ以上軋轢を生じさせたくないんだ。
俺は最初からフェルマペネムの再現は無理だと言った。代替品の開発だって、権威たちが行えばいいだけの話しだ。
保証をしてくれるというなら、もう俺たちに関わらないでくれと伝えてほしい」
二コラがかなりの間を置いた後でわかったと頷いた。サシャの頭を撫で、ぽんぽんと背中を叩く。
「だが賠償は必要だ。その状態ではふたりとも暫くの間勤務自体が無理だろう」
言って、二コラが病室を後にした。やけに強気だ。そう思ったのはリズも同じだったようで、わざとらしく肩を竦めてみせた。
「あれは珍しく怒ってるね」
「二コラが?」
サシャが尋ねると、リズは怒髪天を突く勢いとはこのことかもと笑いながら言う。表情も、声色もいつもどおりだが、リズの言うとおりアレは怒っている。二コラは普段尊厳を大事にする性質だから、よほどのことがない限りサシャの意見を否定しない。サシャが最も嫌がるのは軋轢と差別意識が生まれること。それを知っているニコラが、要らないと言っているものを必要だと言ってのけるということは、それほど政府に対して業腹だということだ。
「二コラはサシャに甘いからなァ」
「それはそうだよ、ぼくとユーリっていう問題児を諫められる貴重な存在だし」
威張るなとユーリが笑う。リズもまたそっちこそ自重しなよと笑いながら言った。
***
あのあと、キアーラとリズがサシャのベッドを運んできた。部屋の入り口にはジャンカルロが待機している。当面は襲撃の心配もないだろうと二コラが言った。
ユーリは目元を包帯で覆ったままのサシャを見やり、目じりに溜まった涙をぬぐう。さっきから涙腺がおかしいとぼやくように言ったら、サシャが隣のベッドで笑う声がした。
「子どもの頃から泣き虫だろ」
どこか安堵したような声で、サシャ。ユーリはうるさいと非難して、鼻をすする。
「フォルスに行かなければこんなことにはならなかったのかもしれないな」
ふとサシャが言った。ユーリはサシャに視線を向けたが、肯定も否定もしなかった。結果論だ。パナケインがあったからこそ自分は助かった。あれがなければあの世行きだったかもしれないと思うとぞっとする。そのことをサシャには話していないのかもしれないと思い、ユーリは敢えて伝えなかった。
「サシャは犯人の顔を見たのか?」
「そんなことより、ナザリオとエリゼに聞いた。敵の牙城に単身乗り込んだそうじゃないか」
言葉に詰まる。どう言い訳をしようかと考えあぐねていると、サシャの溜息が聞こえた。
「危ないことをするなといつも言っているだろう」
諭すような口調でサシャが言う。ごめんと素直に謝ると、もう一度深い溜息を吐かれた。
『研究資料なんてくれてやればいい。命があるだけマシなんだ。どうせあれがあったところで再現なんてできるはずがない』
辛うじて自分にだけ聞こえるような声で、そしてノルマ語ではない言語で、サシャが言った。ノルマ語で記載したほうには、必要な香木を省いているし、適量の半分以下の記載にしてある。そのとおりに作ったところでフェルマペネムの代替品には程遠いし、パナケインとも薬効が異なる。だからこそ“ヴィータ”と名付けて予防線を張ったつもりだったが、もしも誰かがヴィータをアルマの特効薬代わりに使ったら、思いどおりの結果にはならないだろう。そこで問い詰められたとしても、あくまでも代替品の試作品だと言い逃れができるようにそうしたが、本当にそれでよかったのだろうかという考えが頭をよぎる。それが火種となり、新たな問題を生じさせないだろうか。ユーリはそれが不安だった。
サシャがユーリを呼んだ。ユーリは驚いて、不安げにサシャに声をかける。サシャが呼んだのは、ユーリの名を継ぐ前の名前だったからだ。
『本当に困ったときには、おまえと同じ名前の薬草を。それから、ルシアの主根と胚軸の間、脇芽を使う。シシリアは根以外だ。間違っても根を使うなよ、中毒を起こす。ルネッタの種もよく乾燥させる。少しでも水気があったら湿気て傷んでしまうから杜撰に扱わないように。必ず木箱に入れること』
「ちょっと待って、サシャ、なにを言って」
『パナケインの調合に使う薬草を、おまえが知らなきゃ困るだろ』
ユーリは怪訝そうに眉を顰め、もう一度サシャを呼んだ。サシャの顔色も、呼吸も、いつもと変わらない。変わらないが、なぜサシャがそのことを自分に伝えようとしているのかが理解できなかった。
『最後にメリッサ。これも乾燥させた葉を使う。よく乾燥させて使うように』
「それ、もう一回なにか書くものがあるときに教えてよ」
『覚えろ。俺もそうした』
サシャが話しているのはステラ語ではなく、それよりももっと古い言語だ。ユーリは訳が分からないという顔をして体を起こし、サシャの頬に触れた。
「サシャ、大丈夫か?」
「残念ながら正気だ」
今度はノルマ語だ。ユーリはサシャがどこか遠くに行ってしまうような気がして、ギュッと手を握り締める。
「ユリウスには気を付けろ。俺たちを利用して、どうにかオレガノへの帰国を目論んでいる」
「あれ以来ユリウスには会っていない」
「そうか、おまえは見なかったのか」
そう言われて、ユーリは目を瞬かせた。見なかったのか、とは? とサシャに問う。サシャは答えなかったが、代わりにユーリの手を握り返してきた。
「あの場にユリウスがいたのか?」
そうだとサシャが答える。
「けれど盗まれたのはノルマ語で書かれた資料だけだと聞いた。フォルムラ語で記載したものも、クリプトで書いたものも、手付かずだったらしい。ということは」
「ユリウスはフォルムラ語が読めないか、読めるけれど敢えて手を付けなかったってこと?」
そういうことだと、サシャ。サシャは全身の力が抜けていきそうなほどの大きな息を吐いた。
「サシャ?」
サシャはなにも言わない。ただ規則正しい呼吸が聞こえてくる。目を覆っている包帯を外し、サシャの様子を見る。眠っているようだ。ユーリはほっとして、サシャの額にキスをした。
サシャが無事だと分かったからなのか、急激に眠気が襲ってくる。ユーリはサシャの手を握ったまま自分のベッドに戻り、ゆっくりと体をベッドに横たわらせた。
ともだちにシェアしよう!

