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Five(2)
チェリオは不信感と釈然としない思いを抱えながら、頬杖をついて目の前の男を監視していた。
その男――ユリウスは、北側のスラムの診療所で、先ほど連れ込まれたケンカで外傷を負った男の治療をしている。それを横目で見ながら、チェリオは溜息を吐いた。
ユリウスはアリオスティ隊の検分が終わったあと、証拠不十分で釈放されたのだが、さすがに無罪放免とはならなかった。多数の目撃例があったこと、そしてチェリオが回収したあの手紙のことを一旦は知らないふりをして通そうとしたからだ。そのことと、サシャ、ユーリ両名をフィッチに移送しようとする計画に乗っていたことが明るみになり、監視の名目でふたりが現場復帰をするまでの間、北側のスラムの診療所で奉仕をすることが決められたのだ。
チェリオはまだそれに納得がいっていない。ユリウスは確かに手際が良いし、スラム街の連中とも比較的仲良くやっている。けれど、ここはユーリが作った場所だ。そこを使わせようとする上にも納得がいかないし、もしかするとそれは“計画的”だったのではないか、とすら思っている。チェリオはユリウスの仕事を手伝わされているドン・ジェンマことアナスターシャに声をかけた。
「なあ、アンナ」
「誰がアンナだ。気安く話しかけるな」
アンナが殺気のこもった視線をチェリオに向け、舌打ちをする。意外にもてきぱきと仕事をするアンナだが、チェリオはこれにもまた不満を募らせていた。自分にはなにひとつ手伝うことができないというのに、アンナは学と立場があるという理由でここにいる。なんとなくおもしろくない。
イギンたちと共に軍部の収容所に収監されたはずだったが、アンナはドン・パーチェの一声で釈放された。
アンナはじつをいうとドン・クリステンの親戚筋らしく、親族が束ねる軍医団に所属することを嫌がってドン・パーチェの配下となったのだが、ユーリに違法薬物を摂取させたことやイル・セーラ保護に関する慈善団体の一員でありながらも、ユーリに性的暴行を加えたことでドン・クリステンの怒りを買ってパーチェ隊から罷免され、こともあろうにアリオスティ隊に編成された。しかもアナスターシャという名ではなく、幼名のアンナで登録をされている。
そのためチェリオは揶揄と嫌がらせのためにわざわざアンナと呼んでいる。
「アンナってば」
「うるさいと言っているだろう。そもそも貴様、なぜ当たり前のようにそこにいる?」
「俺はアンナとユリウスの監視役だっつってんだろ」
「Sig.ジェンマ、傷に塗る軟膏を取って頂けます?」
「もうそこに置いている」
「くそっ、なんで俺がこんなことを」と悪罵を吐きながら、アンナが滅菌ガーゼと医療用のテープを乱暴に置いた。本当に意外だ。文句を言いつつもちゃんと仕事をするあたり、よほどドン・クリステンが怖いのだろうと推測する。チェリオは男の傷の処置をするユリウスを横目に見て、ぐっと伸びをした。
「ディーニ、ケンカの理由は?」
ディーニと呼ばれた男は、煩わしそうにチェリオを睨み、ふんと鼻を鳴らした。
「コーサの残党と揉めたんだ」
コーサとはイギンが率いるマフィアの名称だ。
「アグエロの野郎が死んだってのに、今度はロッソを担ぎ出そうって動きがあるらしくてな」
「ロッソか、面倒だな。で、逃がしたのか?」
「いいや、タイミングよくスヴェンが来て、隠れ家に潜んでいた奴らを軍部の収容所に連れて行くと言っていた」
チェリオが感心したように口笛を吹く。
「さっすが副隊長様は仕事が早い」
「まあエリゼの野郎もいたしな」
エリゼの名を聞いて、アンナが舌打ちをする。どうやらアンナはエリゼが苦手のようだ。わからないでもない。破壊的に強いうえに頭も回り、おまけに正義も悪も紙一重だなんてまるでマフィアのカポのようなことを言ってのけるくせに、ナザリオに対する忠誠が厚くどんな手を使ってでも命令を遂行しようとする。ある意味でマフィアやごろつきよりも質が悪い。
「一応化膿止めを渡しておくので、一日三回服用するように」
ユリウスが言うと、ディーニはおうとぶっきらぼうに言ったあとで、ユリウスに視線をやった。
「あの兄ちゃんはいつ頃戻ってくるんだ?」
ディーニのセリフは東側の住人の総意のようなものだ。いくらユリウスが親切にしてくれても、最初に診療所を作ったのはユーリで、しかもユーリは食べ物まで与えてくれた。必要なら仕事だってくれた。いままではイギンたちのせいで妨害をする者もいたが、いまは状況が違う。本当はみんなユーリが診療所を作ってくれたことも、食事を与えてくれることも表立っては言わないもののありがたがっていたし、時々起こる火事で家を失った家族には東側の診療所を使わせてくれていた。チェリオ自身知らないこともたくさんあったが、イギンたちがいなくなったあとでデリテ街の住人がユーリに対する恩を口にし始めたのだ。
ユリウスは少し困ったような顔をして、「そのうちには」とまるではぐらかすように言う。
「しばらく無理だと思うぜ。漸く院内を歩けるようになったって聞いてる」
頭の後ろで手を組みながら、チェリオ。ディーニはそんな状態なのかとあからさまにしょげたような顔をしている。
「俺になにかできることはねえか? うちのガキが風邪をこじらせたとき、あの兄ちゃんは付きっきりで看病してくれたんだ。おかげで死なずに済んだんだよ」
チェリオはディーニに視線をやると、そのままの状態で近くのソファーに腰を下ろした。
「じゃあコーサの残党狩り以外で不用意にケンカをしたりしないことだな。揉め事を起こしてケガをしたり、ヘンなもん食って腹ぁ壊したりしないことがユーリにとっての一番の薬なんじゃねえの?
どうせあいつも、『スラムの住人は大丈夫だろうか』ってそわそわしているに決まってる。いっつも自分のことより人のことを先に考える質なんだから」
ディーニはそうだなと眉を下げたままで言った。そしてふと思い出したようにポケットを探って遮光瓶を取り出し、テーブルに置いた。
「これをあの兄ちゃんに渡してくれ。オット地区の未開発域に生えている草の種だ」
「ユーリが“トゥルス”って呼んでいた、あの?」
「そうだ。あんな草が役に立つとは思えねえけど、やたら興奮していたのを思い出して。治療費代わりに」
その遮光瓶を横目に見やり、アンナがふんと鼻で笑った。
「そんなものが治療費だと? あのイル・セーラは頭がおかしいのか?」
「少なくともお前よりはまともだと思うぜ、アンナちゃん」
叔父上に告げ口すんぞとチェリオが言うと、アンナは気まずそうな顔をして舌打ちをした。
「くそっ、いつかスラム街なんぞぶっ潰してやる」
「やれるもんならやってみろ、早漏野郎」
ユリウスがまあまあと仲裁に入る。初めてこのメンツで診療所を任されてから、ほとんど毎日この調子だ。チェリオはアンナのことが気に入らない。アンナはここで手伝わされることが気に入らない。双方にメリットなどなく、チェリオにとってはストレスでしかない。
18時を知らせる鐘が鳴った。チェリオはソファーから立ち上がって、大げさな溜息を吐いた。
「あー、だるっ。終わった。おら、早く帰るぞ。おまえらを北側の入り口まで連れて行くのが俺の仕事のしめなんだから」
「じゃあ頼んだぞ、チェリオ」
ユリウスに頭を下げたディーニにひらひらと手を振って、チェリオは遮光瓶をバックパックに突っ込んだ後で頭の後ろで手を組んだ。
「ほら、早くしろよアンナ」
「黙れ、いま準備をしているのが見えないのか」
口調こそ乱暴だが、意外にもきっちりとした性格のようで、アンナはテーブルの上にあるものをすべて所定の位置に片付けて、奥に置いてある自分の荷物とユリウスの荷物を持って戻ってきた。なにも言わずにユリウスの荷物を突き出す。
「あ、ありがとうございます、Sig.ジェンマ」
ユリウスが受け取ると、アンナはふんと鼻を鳴らして診療所を出ていこうとした。「ちょっと待て」とチェリオが止める。逃亡できないように、移動時には手錠を掛けるようにとドン・クリステンから厳しく言われている。チェリオはアンナとユリウスの右手と左手に手錠を掛けた。ユリウスははじめから文句も言わなかったが、アンナもさすがに一週間も続くと観念しているようだ。くそっと忌々しげに吐き捨てたが、それ以上はなにも言わなかった。
北側の診療所の鍵を閉め、ポケットに押し込む。この鍵はアリオスティ隊に返却することになっている。チェリオはアンナとユリウスを先に歩かせて後ろを歩く。このほうが何事かあった時に対処をしやすいからだ。
北側と下流層街の堺までやってきたとき、チェリオは思わず目を疑った。あそこにいるのはユーリと、リズではないだろうか。そう思ったのはユリウスも同じだったようだ。
「あれは」
「マジかよ、あのバカっ」
ふたりは門の向こうにいるものの、北側と下流層街を隔てる門は開門されている。チェリオはユリウスとアンナの手錠を引っ張って、ずんずんと勢いよくユーリたちに近づいた。
「おい、馬鹿ユーリ!」
チェリオの罵声に、ユーリの肩が大袈裟なほど跳ねた。あからさまに嫌そうな顔をして、おずおずとリズの後ろに隠れるが、身長差が災いして隠れられるわけがない。リズもまた面倒くさそうな表情でわざとらしく両手を広げて見せた。
「もっと言ってやってくれ、チェリオ。馬鹿に付ける薬はないらしい」
リズの口調でピンときた。ユーリはやはりここまで無断で出てきているのだ。
「ほんっとに馬鹿だな! 怪我がひどくなったらどうするんだよ!?」
苛立ちまぎれに言い放つと、ユーリはしいっと言って注意深くあたりを見渡した。チェリオは怪訝そうにユーリを睨む。
「逃げてきたのか、まさか」
「そうじゃない、ちょっと気になることがあって」
しどろもどろな言い訳をするユーリを睨み、チェリオが大袈裟な溜息を吐いた。ユリウスが躊躇うようにユーリを呼ぶ。ユーリは不審そうにユリウスと、その隣にいるアンナを見やる。そのあとで、まるで説明を求めるかのようにチェリオに視線をやった。
「あー、なんつーか。こいつらドン・クリステンの怒りを買って、北側の診療所で無償奉仕中なんだ。俺はこいつらの見張り」
「北側で?」
そうと、チェリオ。ユリウスは申し訳なさそうに眉尻を下げ、ユーリに頭を下げた。ユーリはなにも言わない。代わりにアンナに視線をやり、興味深そうに口元に手をやった。
「ねえ、もしかしてこの人」
「覚えてねえの?」
チェリオが、「イギンのアジトで」と継ごうとした時だ。リズがあっと思い出したように大声をあげた。
「アナスターシャ・ジェンマだ! ほら、覚えてない? ノルマなのに珍しくステラ語が解読できる人!」
アンナが眉間にしわを寄せて舌打ちをする。ユーリもまた、あァとどこか納得したように頷いた。
「俺とサシャと入れ替わりで栄位クラスを卒業したっていう?」
リズがそうそうと声を弾ませる。まさか栄位クラスの先輩に出会えるなんて思わなかったと興奮したような口調で言ってのける。
ユーリがもう一度アンナを上目遣いで見て、どこか困惑したような表情でチェリオに視線を送る。
「それ以外に、どっかで会ったような」
アンナは気まずそうな表情のままで、空いた手でガリガリと頭を掻いた。
「もういいだろう、迎えはどこにいる?」
焦れたように言って、アンナはユーリの視線から逃れるようにそっぽを向いてしまった。そりゃあそうだろう。違法薬物を摂取させた挙句素人童貞丸出しの腰遣いで半強制的に啼かせた張本人ですなんて言いたくもないだろうし、バレたくもないだろう。ユーリの記憶が混乱していてちょうどよかったのかもしれない。
「ユーリ、詮索しないほうがいいこともあるぜ」
アンナが不快そうに眉を顰めてチェリオの足に蹴りを入れた。黙っていろと言いたいのだろう。チェリオは端から言うつもりがなかったが、横柄な態度に腹が立ってくる。
「つか、なんで今日は誰もいねえの? 俺帰れねえじゃん」
「堂々と職場放棄かよ」と大声で喚いていると、関所の奥から見知った男が姿を現した。チェリオは開いた口が塞がらなかった。
「よう、チェリオ」
「ロレン!?」
ロレンはにいっと笑みを深めて、ふたりを引き渡せというジェスチャーをする。チェリオは目を瞬かせた。
「つか、今日はエリゼが当番なんじゃ?」
「俺は代理だ」
言って、ロレンが胸ポケットからシガレットケースを取り出した。見るからに高級そうなそれを見て、アンナが素っ頓狂な声を上げる。
「それは俺のじゃないか!」
返せと喚くが、ロレンはじろりとアンナを睨んだ。その威圧感たるや、さすがのアンナも怯んだような声を上げて押し黙る。ロレンはふんと鼻を鳴らして、ユリウスとアンナの手を拘束している手錠のチェーン部分を鷲掴んだ。
「俺はふたりを派出所に連れていく。チェリオ、おまえはここでエリゼの帰りを待て」
有無を言わさずにロレンはさっさと行ってしまった。チェリオはマジかよと口の中で呟いて、砂を蹴った。ユリウスとアンナはロレンに連行されていく。その後ろ姿を見届けた後で、チェリオはじろりと二人を睨んだ。
「マジでなんでおまえらがここにいんの?」
チェリオが問うと、リズが「ぼくも聞きたい」と呆れたような口調で言って、肩を竦める。
「ぼくはユーリを止めようとして、ここまで拉致された」
「ひどい言いがかりだな。ついてきたじゃないか」
「いーや、拉致だ。ぼくは止めたんだから」
「だからなんでここにいるんだって聞いてるんだ」
チェリオが焦れたように言ったからだろう。ユーリはもう一度あたりを見渡して、ガウンのポケットに手を突っ込んだ。
「これをテオとハロじいちゃんに渡してほしくて」
ユーリがチェリオに薬包を手渡した。チェリオは眉間にしわを寄せて、ユーリを睨んだ。
「マジで、馬鹿なの? 大人しく寝てろよ、こんなのエリゼかだれか経由で渡してくれれば」
そこまで言った時、ユーリが静かにとジェスチャーで伝えた。手にしていた麻袋をチェリオに手渡す。ずっしりと重い。チェリオが怪訝な顔をしているからだろう。ユーリはこれはあんたにと小声で言う。
「なんだよ、これ」
不審そうに麻袋を開く。中に入っていたのは本が数冊と、前にチェリオがうまいと言った携行缶が5個も入っている。チェリオはぽかんとしてユーリを見た。
「フォルムラ語の辞書と、ノルマ語の辞書。おさがりで悪いけどさ。ほら、字を教えるって言ったけど、なかなかスラムに降りてこられないから」
チェリオはガリガリと頭を掻いて、「ほんとに馬鹿」と呆れたような声で吐き捨てた。
「おまえが治ってからでも遅くねえだろうが」
「ぼくもそう言ったんだけどさ。どうしてもって聞かないんだよ」
「この数日寒かったし、ハロじいちゃんとテオが調子崩してないか気になって」
あたりの様子を窺いながら、ユーリが言う。いやにこそこそしているのは、エリゼに見つかると面倒だからだろう。チェリオは「ふたりに渡しておく」とぶっきらぼうに言ってのけ、追い払うように手を動かした。
「さっさと帰れよ。こっちはこっちでうまくやってる。おまえは自分の傷を治すことを考えろ」
リズが「ほら怒られた」と揶揄するように言いながら、ユーリを引っ張っていこうとする。それを見ながら、チェリオはふとディーニに託されていたもののことを思い出した。
「ユーリ」
ユーリがこちらを振り向いたのを確認し、遮光瓶を投げる。それを軽やかにキャッチして、ユーリは不思議そうにそれを眺めた。
「種?」
「おまえが前に”トゥルス”って呼んでた草の種。ディーニがテオの治療費代わりにって」
そういうと、ユーリははにかむような表情になって、「ありがとうと伝えて」と笑った。
ユーリはリズに引っ張られながら街へと戻っていく。チェリオはユーリから渡された麻袋を触った。「こんなことまで気にしなくてもいいのに」とぼそりと呟く。
ナザリオからは、背中の傷と右手の傷以外に大きな外傷はないと聞いていたけれど、すこしだけ足元がおぼつかない様子だ。ふらふらと体が揺れている。それをリズが支えながら歩いていくのを見て、チェリオはがりがりと頭を掻いた。ふたりが関所の角を曲がり、姿が見えなくなる。チェリオは「お節介め」とぼやいて、踵を返そうとした。ふと気配を感じた。エリゼだ。チェリオはぎゃあっと悲鳴を上げた。
「おおおおっ、おいっ、おまえいつの間にっ!?」
「さっきからずっといましたけど」
言って、チェリオが持っている麻袋を見やり、ふうと息を吐いた。
「懲りない人ですね、彼は。隊長にお伝えして脱走できないよう堅牢な懲罰房にでもいれておきますか」
「その必要はない。町の警備を増やし、彼らに危険がないよう留意してやってほしい」
ドン・クリステンだ。エリゼはドン・クリステンを見上げ、冷めた表情で「お言葉ですが」と言葉を紡ぐ。
「ユーリとリズが下流層街まで“何事もなく”降りてくることができたのは、貴方が予めユーリの身辺警護を解いて街の警備を増やすよう図らったからなのでは?」
「自由は必要だろう、エリゼ。そのことは君が一番わかっているはずだ」
ドン・クリステンが言うと、エリゼは不敵な笑みを浮かべて、ドン・クリステンへと振り返った。
「それはアンナのことですか? 不憫だからと自由にさせすぎたのでは?」
ドン・クリステンが明朗に笑う。チェリオはきょとんとして二人のやりとりを眺めていた。
「チェリオ、アンナとユリウスの監視を押し付けてすまなかったね。もうしばらく頼みたいのだが、了承してもらえるだろうか?」
「そりゃあ、報酬次第では。つか、なんでアンナは釈放されたわけ?」
チェリオが問うと、ドン・クリステンはエリゼに目配せをした。エリゼは丁寧に頭を下げ、北側と下流層街の門扉を閉めるために門のほうへと向かっていく。ドン・クリステンはチェリオを関所内の待機室へと案内した。
簡素な作りの待機室には、テーブルと簡素な椅子が二脚、そして十分に眠れるほどの大きさのソファーが置いてあった。キャビネットに簡易のキッチン、仮眠ができるようにとやや狭いがベッドまである。
ドン・クリステンは椅子に腰を下ろし、テーブルを挟んだ斜向かいの席に座るようチェリオに促す。チェリオは言われたとおりに椅子に腰を下ろした。
「アンナは俺の親戚だと言ったが、ドン・パーチェのお気に入りでもある。この一週間でわかったと思うが、判断が早く仕事もできる。口は悪いが優秀なんだ」
「納得いかねえんだよな。だって犯罪者じゃん。それなのにユーリの手伝いみたいなことしちゃってさ」
あからさまにむくれた表情でチェリオが言うと、ドン・クリステンが表情を綻ばせた。
「ユーリ・オルヴェが助かったのはきみのおかげだ。十分に彼の役に立っているし、盗まれた資料の在処に目星をつけたのもきみだろう。きっと彼はあの二人に対して以上にきみに感謝することになる」
「べつに、恩を売りたいわけでも感謝されたいわけでもない、勘違いすんな」
ぶっきらぼうに言ってのけ、チェリオは大きな溜息を吐きながらテーブルに突っ伏した。「腹減った」と唸るように言うと同時に、チェリオの腹の虫が盛大に鳴く。ドン・クリステンはくっくっと笑って立ち上がると、キッチンの端に置いてあったランチケースをテーブルに持ってきた。なかには明らかに手作りのピアディーニが入っている。
「ジャンカルロから、きみにだそうだ。大方彼から頼まれたのだろう」
食べていいかと尋ねることもせず、チェリオはピアディーニをひとつ手に取って大口でかぶりついた。ふわふわのパンに厚手の肉が挟まれたそれは、咀嚼するたびに少し酸味のあるソースが絡みついて、幸せな気分になる。うまっと一声あげて、またかぶりつく。まるでリスのように頬を膨らせてピアディーニを食べるチェリオを見やり、ドン・クリステンは「落ち着いて食べなさい」と笑った。
「アンナは本来“ああではなかった”。義理堅く、思慮深いうえに柔軟な考えの持ち主だった。セラフィマ嬢と同じでイル・セーラへの支援・保証をする慈善団体の幹部なんだ。ただ、除名はしていないものの、この4年間は活動に一切顔を出さないらしい」
ピアディーニを口いっぱいに放り込みながら耳を傾ける。
「俺がこちらに戻ってきたのは4年前で、アンナが変わってしまったのも同時期だ。俺にも責任があることだから、強く物を言えなくてね。今回は流石に厳しく接したが、アンナは俺に叱責される筋合いはないと思っているかもしれない」
「どうして?」
咀嚼をしながら尋ねたせいで、間の抜けた言葉になる。
「イル・セーラの解放宣言が律された同時期に、アンナの友人が事故死をした」
「事故死?」
「本来なら危険のない場所での崩落事故だ。俺と、それから二コラが検視をした。彼は即死だった。狙われたのはアンナだったのか、それともその友人だったのかは未だにわかっていない。
ただ彼がアンナを庇ったことで、幸いなことに身体は無傷だったが、そのことをきっかけに心に大きな傷を作ってしまった。それでイル・セーラの支援――つまり出資はしているものの、活動には一切顔を出さず、逆にイル・セーラを未だに差別しているピエタに所属した。結果があれだ」
チェリオは怪訝な顔をしながらも、ふたつめのピアディーニに手をやった。大口を開けて頬張る。今度はふわふわ卵のピアディーニだ。ソースが垂れそうになり、じゅるりと啜る。
「アンナをアリオスティ隊に編成させたのには理由がある。彼は薬草学に明るい。子どもの頃にオレガノに留学させていたこともあり、医学知識とセンスはどちらかというとイル・セーラに近い。軍部にもピエタにも顔が利き、且つ薬草学に明るい相手がそばにいるとすると、ユーリの研究がしやすくなるのではないかと考えている」
「それがそいつからどこかに漏れる可能性は?」
そう尋ねると、ドン・クリステンは不敵な笑みを浮かべて肩を竦めてみせた。
「この状況で“どこかに漏れる”と思うかね?」
言われて、チェリオはあからさまに嫌そうな顔をした。ユリウスとアンナは日中は北側の診療所でチェリオが監視をし、夕方以降はアリオスティ隊に宛がわれた派出所で拘束される。アリオスティ隊の結束は固く、不用意に外部に情報を漏らすことはない。漏れるとしたらおまえからだと言われているのが分かったからだ。チェリオは口の中のピアディーニを飲み込んで、ドン・クリステンを睨んだ。
「俺が裏切るとでも?」
「きみが裏切らない保証がどこにある?」
チェリオはドン・クリステンを睨んだまま、ふんと鼻で笑った。
「それ、ユーリたちはあんたが“ネズミ”じゃないかと思っていたりしてな」
言って、チェリオは残りのピアディーニを頬張った。咀嚼をしながら考える。自分がユーリを裏切らないという保証といわれても、なんの証明のしようがない。
「ユーリとサシャが下流層街で襲われたとき、その情報の出所があんたじゃないかって疑われても仕方がないんじゃないか? その情報がどこからユリウスに知らされたのか、どうしてユリウスからイギンたちに伝わったのか、そしてユリウスは誰に裏切られたのか」
ドン・クリステンは「興味深いね」と言って胸ポケットからシガレットケースを取り出した。
「吸っても?」
チェリオは手でどうぞとジェスチャーをする。オイルライターの金属音。やや重みのある着火音。どれもアジトでは一度も聞いたことがない。オイルライターのカムの音も、フリント・ホイールが回る音も、もっと軽快で質素なものだった。イギンたちやスカリアたちが吸っていたものとは全く異なる上品な葉巻のにおいが漂ってくる。チェリオは眉間にしわを寄せて口の中のものを飲み込んだ。
ドン・クリステンはイギンのアジトに出入りをしたことがないと確信をする。彼らへの献上品は金とタバコとオイルライター、そして酒が一般的だ。金や貴金属は当然のようにスラム街の住人から集められるし、イギンに仕事をさせたい中流階級層や上流階級層も度々来ていたが、彼らはオイルライターと葉巻、紙タバコをセットで献上していた。だから時々実入りのいい仕事が入ったとすぐにわかる。普段にはないタバコの香り、そしてオイルライターの音がするからだ。
そしてイギンは意外にもコレクターで、珍しいオイルライターに目がない。ドン・クリステンが持っているものは明らかに高級品で、ドン・パーチェが持っているものよりもさらに質がよさそうだ。手入れを良くされているのが分かる。だからもしドン・クリステンが手にしているものを気に入れば、『いま持っているものを』と所望する。代替品は受け入れない。例えば名を刻印されたもの、或いは家のエンブレムが刻印されたものをマフィアに渡すことで、自分たちもリスクを負う覚悟があるかを試しているのだ。
憶測にすぎないが、ドン・クリステンはチェリオに“これ”を確かめさせるためにアンナとユリウスの監視を頼んだのではないか。以前自分は病的に耳がいいと伝えたことがある。イギンの手下の男と一度トラブって以来、あのアジトに常駐することはなくなったが、それでもイギンがいつ、誰と会っていて、その時にどのオイルライターを使っていたか、その音は聞き分けられる自信がある。
その音だけじゃない。あらゆる“ネズミ”を探れと、そういう意味なのではないか。
チェリオはピアディーニが入ったランチボックスをドン・クリステンのほうへと押した。そしてピアディーニのソースが付いていないほうの手でバックパックを漁り、無造作に入れていた1リタス札をドン・クリステンの前に乱暴に置く。ドン・クリステンが不思議そうな顔をする。
「俺が裏切らないとどう証明するかって言われたら、これしかねえな」
「どういう意味だね?」と、ドン・クリステン。チェリオはソースが付いた指を舐めて、シャツの裾で拭った。
「デリテ街の、特に地下街出身者は、仲間と認めた相手にしか食べ物と金を渡さない。そういうルールがある」
そういうと、ドン・クリステンはふふっと笑ってみせた。
「イギンたちに献上していたものとは違う、というわけか」
「アレはあくまでも保障金。金と食べ物を一緒に渡すのは、これから力を合わせてここで生き延びていこうっていう証。そういうルールにしたんだ。オレイのおっさんが殺されたときに、そうすべきだって言ってたし」
「それは光栄」
チェリオは特に横のつながりにうるさいことを知っているからだろう。ドン・クリステンは嫌な顔ひとつせずにその1リタス札を受け取り、ピアディーニを手にした。チェリオとは違い、上品にかぶり付く。それを横目に見ながら、チェリオは先ほどのドン・クリステンのセリフで気になっていたことを尋ねることにした。
「ユーリの研究をアンナにも手伝わせて、アンナが裏切らないと?」
「それはわからないが、アンナには別の餌を撒いた」
「別の餌?」
「友人の死の真相を知りたくないか――とね」
チェリオの表情が一気に胡散臭そうなものへと変化する。「こーのおっさんは」と軽口を叩きながら、最後のピアディーニを手に取った。
「あんたはどうせ屋敷に帰ってうまいもん食えるんだからひとつでいいだろ。まーじでくえねえおっさんだな」
言って、ピアディーニにかぶりつく。ドン・クリステンの言うとおりにアンナが柔軟な考えの持ち主なのだとしたら、単身でドン・パーチェの懐に入っていたと考えられないこともない。あの誘導尋問めいたセリフもそうだけれど、通常なら叔父が軍医団長だからといって、イル・セーラへの性的暴行や違法薬物の使用が免除されるわけがない。その咎めが無償奉仕で済んでいるというのなら、じつは秘密裏に彼らの裏を暴こうとしていたとも考えられる。
そしてひそかに友人の死に関する情報を集めていたのだとしたら、ドン・クリステンのいうとおりにユーリに協力をしておいたほうが嫌でも情報が耳に入ってくるだろう。自分なら多少面倒だったり、釈然としなくても、大人しくそうする。
なんともきな臭い話だ。上流階級や貴族はいつでもうまいものを食べられて、安全な場所で眠れていいなと思っていたが、こんな面倒でしょうもないいざこざに巻き込まれる可能性があるなら、スラム街の住人でよかったと心底思う。ただ腹が立つのは、一生懸命にスラムの為やミクシアのために動いてくれているユーリたちを巻き込もうとしたことだ。チェリオはふつふつと湧き上がってくる怒りや悔しさと共に、ばくばくとピアディーニを貪った。
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