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Five(3)

 ユリウスとアナスターシャが北側の診療所で無償奉仕を行なっているためか、北側の住人もも東側の住人も特に問題なく過ごしていると、エリゼから報告を受ける。ユーリはどことなくホッとした。 「ハロじいちゃんとテオの具合は?」 「チェリオに付き添わせて往診をさせましたが、テオはもう問題ないそうですよ。ハロじいさんは年も年ですからね、いまのところ問題はなさそうですが、夏に向けて比較的涼しい場所はの移送を検討したほうがよいかも、と」  そう言われて、ユーリはそうかとほんの少し眉根を下げた。ホッとしているというよりは自分が関わることができなくて申し訳なさそうな表情だった。  チェリオとアナスターシャは相変わらず仲が悪いが、初日のようにドン・クリステンが呆れるほどの口汚い言葉の応酬は飛び交っていないらしい。チェリオは柔軟だ。アナスターシャに敵意がないことがわかれば、割と仲良くなりそうだと、ユーリ。言いながら、ユーリは横で眠っているサシャに視線をやった。少し汗ばんだ額に前髪がはりついている。ユーリはそれをすいて、湿ったガーゼタオルをサシャの額に置いた。 「今日は相変わらずですか」  エリゼに言われ、ユーリは頷いた。  あれからサシャは特に体調が悪いこともなさそうなのに、昼夜通して起きている時間が日によって違っていた。ほとんど眠っている日もあれば、調子が良い日は病室から出歩くこともある。けれどいままでと決定的に違うのは、ほとんど食事が摂れなくなったことだ。  水分や柔らかめのものならいいが、少し硬めのものは必ずのように吐いてしまう。最初にその異変に気付いたのはやはりユーリだった。サシャが好きなアマレッティを食後のデザートにと頼んだけれど、サシャは食べなかった。不思議に思って尋ねると、ある程度の硬さのものを食べると目が回るというのだ。  すぐにフレオのチームに検査を依頼したけれど、原因不明。フレオは頭を強打していることもあり、脳膜の中に血腫ができているのではないかと言っていた。開頭術はオレガノでも認可されていない。つまりはその原因となっている血腫があるとしたら、それが奇跡的に吸収されるのを待つか、或いは、ーー。  ユーリはその言葉の続きを聞かなかった。なんとなく想像はついたが、考えたくもなかった。一度想像してしまったら現実になるかもしれない。それが怖かった。 「少し、痩せたよな」  元々そんなに太くもないが、最近はほとんど食べないためか腕も足も骨ばっている。頬も少しこけているように感じて、ユーリはサシャの頬に手の甲を触れた。体温も少し低い。体と顔の温度はまるで違っていて、体に触れると明らかに発熱しているのがわかるほど熱かった。自分を落ち着かせるようにふうと息を吐く。  あまり身体を揺らすと吐きそうというから、サシャのベッドは常に30度ほど頭元を上げている。吸飲みで水を飲ませやすくするためもある。ユーリはベッドサイドに置いている砂糖水入りの吸飲みを少し振って撹拌させたあと、サシャの口元にあてた。少し、また少しと飲み下す。飲める日はまだマシだ。これすら受け付けない日もある。ユーリはくしゃりと前髪を揉んで、溜息をついた。 「気分転換に外に出ますか?」  エリゼが尋ねてくる。ユーリは無言のままで首を横に振った。 「ここにいる」 「おや、珍しい」 「サシャがこうなったのは、俺のせいだから」  ぼそぼそと、ユーリ。エリゼは「食事を運ばせますね」とユーリに告げ、病室をあとにした。いままでのユーリなら、この隙に脱走を試みていたからだろう。ややあってドアが開くような音がする。ユーリが不審そうに振り返ると、エリゼは辛気臭いと言わんばかりの顔をした。 「貴方、どうしちゃったんです? そんなことを後悔したところでなにも変わるわけがないでしょう」  エリゼの言葉は実に辛辣だが、普段のユーリならそう言って気持ちを切り替えていただろう。けれど今回はいつもと違っている。ユーリは自分でも気付いていた。 「必要ならジャンカルロの店のパニーノを買ってきましょうか?」 「要らない。食欲ない」  ぶっきらぼうに言って、ユーリはサシャが眠っているベッドに半身を預けた。腕で顔を覆い込むようにして伏せる。これ以上話したくないというせめてもの抵抗だ。エリゼはそれを察したかのように病室のドアを閉めかけたが、途中で止めた。ユーリは反応しない。 「貴方がしょげることでサシャが元に戻るのなら、ずっとそうしていたらいい。問題の解決を図ろうともせずに滞み、ただ後悔するだけならガキでもできる。  チェリオは貴方がそうして腐っている間も、盗まれた資料を探してくれていたんですよ」 「もう要らない、あんなもの」  後ろから舌打ちが聞こえた。足音が近付いてくるのに混じって紙を丸めるような音がしたかと思うと、思いきり頭を叩かれた。弾かれたように顔を上げると、エリゼが苛立ったような表情で立っていた。手には丸めた紙の束がしっかりと握られている。  ユーリが目を瞬かせていると、急に視界が回った。受け身を取ろうとしたが、右手の傷のせいでそれが叶わず腰と尻を強かに床に打ちつけた。椅子が転がる派手な音がする。 「失礼、あんまり辛気臭いので、つい手が出てしまって」 「いや、足っ」  「俺怪我人なんですけど」と、ユーリが継ぐ。エリゼは悪びれた様子もなくユーリを見下ろしたあとで、手にしている紙の束をユーリに突き出した。 「貴方の腐敗ぶりに驚いて、渡すのをすっかり忘れていましたよ」  「ご確認を」と、エリゼ。腰をさすりながら身体を起こし、エリゼが突き出してきたものを受け取る。それは確かにサシャが書いた軍部に提出する用の資料だった。ユーリが弾かれたように顔を上げた。 「これをどこで?」 「教えるわけがないでしょう、どこかの無鉄砲なお馬鹿さんが乗り込まないとも限らない」  「粗野で単細胞なイル・セーラはこれだから嫌なんですよ」と、エリゼ。 「単細胞で悪かったなっ」 「ええ、本当に。イギンの牙城に乗り込んで半死半生になっておきながら、まだ懲りないのですか?」  エリゼの口調はいつになく刺々しい。呆れたような表情をそのままに、エリゼは肩を竦めてみせた。 「ユーリ!」  今の音はなんだと、リズとニコラが病室にはいってくる。ユーリが床に座り込み、近くに椅子が転がっている様子で状況を察したのか、ニコラが額に手を当てて溜息をついた。 「エリゼ、他にやりようがなかったのか」  エリゼは特に悪びれた様子もなく、涼しい顔をしている。 「状況が変わりようもないことでウジウジされるのは鬱陶しかったもので、つい」  そっけなく言ってのけたあとで、エリゼは自分が倒した椅子を起こして、すたすたと出入り口へと歩いていく。 「ああ、そうそう。港を張っておいて正解でしたよ。どうしてこの国は危機感のないお馬鹿さんばかりなんですかね。陸路を封鎖しても水路があるのに」 「フィッチへの密輸船か?」 「さあ、はっきりとは。ただ、俺は以前から警告していましたよね? ユーリがトレ地区とウーノ地区の境で襲われた時に、水路を使ってユーリを誘拐することもできる、と」  ユーリは思わずリズへと振り返った。リズも驚いたような表情で、マジかと誰に言うともなく言った。 「あの水路、本当に中流階層街に繋がっているってこと?」  リズがエリゼに尋ねると、エリゼは振り向きもせずに頷いた。 「こちらの調べでは。アンナからも言質をとっているので間違いないでしょう。だからありとあらゆる動線と可能性を排除しておいた方が良いと忠告しておいたのに、結局は詰めの甘いお馬鹿さんたちのせいでこちらの計画も丸潰れですよ」  ああやだやだと嫌味ったらしく言って、エリゼがニコラへと視線をやる。ニコラはどこか気まずそうな顔をして頭を掻いた。ぐうの音も出ない様子だ。ユーリは微妙に痛む足を庇いながらゆっくりと立ち上がり、エリゼを呼んだが、エリゼは返事をしなかった。出入り口のドアを開けて、視線だけをこちらによこす。 「ユーリ、俺は貴方のその“無駄によく回る頭”を買っているんです。その最大の武器を活かそうともせずただ腐るだけなら、死んでいるも同じですよ」  そういう貴方には興味がありません。そう言ってのけて、エリゼは病室から出ていった。ちょうど交代の時間でもあるからだろう。あまりの言い分にさすがのリズも苦笑を漏らした。 「キッツイなー、あの人」  「大丈夫?」とリズが尋ねてくる。ユーリは無言のまま頷いて、エリゼに手渡された資料に目を通す。ニコラを呼び、それをニコラに突き出すと、ニコラはそれを受け取り、丁寧にページをめくる。 「これは」 「ヴィータに関する資料。でも肝心の部分が抜けてる」  「調合に必要な材料と分量を記したページがない」と、ユーリが言う。重要なページだけがないということは、やはり薬学に対する知識がある人間が目を通しているということになる。盗まれたのは資料だけと聞いていたけれど、軍部に提出予定のサンプルもいくつか盗まれていたことが発覚した。犯人がどんなつもりで盗み出したのかはわからないが、嫌な予感しかしない。 「内容を覚えていたり、他に控えていたりしないのか?」  ユーリはサシャに視線を落とした。眠っている。あれだけ派手な音がしたのに、起きる気配もない。 「ヴィータは試作品の試作品。つまり、データの収集途中で『フェルマペネムの薬効と同等だという保証はない』」  ニコラは怪訝な様子だが、リズは逸早くユーリの言い分を理解したようだ。「それはまずいだろ」と素っ頓狂な声をあげる。 「記載は出鱈目だってこと? バレたら虚偽罪だよ」 「出鱈目じゃないけど、代替品の足元にも及ばない程度に抑えてある」  今度はニコラが苦い顔をした。 「なぜそんな小細工を? おまえらしくもない」 「ノルマはうまいこと取りいってきて、丸め込もうとして、体よくいろんなものを掠め取っていく。だからだよ」  サシャと二人の案だとは言わなかった。責めを負うなら自分だけでいい。こんな状態のサシャにまで軍部は召喚状を発行しないだろうけれど、彼らは時にひどく残酷だ。サシャを安楽死させると判断させないためでもあった。  サシャが呻いた。ユーリが慌ててサシャに駆け寄る。サシャと声をかけると、掠れた声で煩いと非難された。 「静かにしてくれ、頭が痛い」  微妙に呂律が回っていない。目を開けると視界が回るせいか、サシャは片方の手で両目を覆っている。 「サシャ、気分はどうだ?」  ニコラの問いにサシャは答えなかった。どこか苦しそうな表情で大きく息をする。 「悪いけど、出て行ってもらえないか? サシャが落ち着かない」  リズもニコラも、そう言われるとなにも返しようがない。ニコラがユーリに無理をするなと言って頭を撫で、部屋をあとにしようとした時だ。サシャが苦しそうに唸り、えずく。ほとんどなにも食べていないせいで嘔吐こそしないものの、しゃくり上げるような不自然な呼吸になる。驚いたユーリをよそに、ニコラが舌打ちをして、病室のドアを勢いよく開けた。 「おい、フレオのチームを呼んでくれ! 誰でもいい!」  病室の外にいるアナスターシャとケインに声を掛けると、ケインは慌てた様子で廊下を走っていった。室内の様子を見たアナスターシャがつかつかと歩いてくる。胸ポケットからライトを取り出してサシャの瞳孔の反応を見たあとで、それを胸ポケットに押し込んだ。 「脳圧が上がっているかもしれない、頭をもう少し挙げろ。枕と、それからセレネを」 「セレネ?」  ニコラが怪訝そうに言うと、アナスターシャはふとなにかを思い出したかのように舌打ちをしたが、ユーリが室内にある薬品が並べられた戸棚の中から目的のものを取り出した。二コラが怪訝そうにするのは無理もない。セレネは鎮痛剤兼鎮静剤として使うごく一般的なものだが、ノルマとイル・セーラでは呼び名が異なっているのだ。リズがソファーに置いてあったクッションをサシャの頭の下に入れ込む。 「5mgでいい?」  ユーリが問うと、アナスターシャはユーリと意思の疎通が図れたことに少し驚いたような顔をしたが、それでいいとぶっきらぼうに言った。ユーリは言われたとおりにセレネ5mgを注射器にセットして、アナスターシャの元に戻った。アナスターシャはアルコール綿でサシャの腕を消毒し、ユーリから受け取った注射器の針を刺す。ショックを起こさないようにするために少しずつ薬液を注入する。その間サシャの体が痙攣して動かないようニコラに押さえておくように指示するのも忘れない。アナスターシャはサシャの腕から注射針を抜くと脳盆に置いてサシャの首に手をあてた。 「カーマの丸薬はあるか?」 「あるけど、効きすぎない?」 「オレガノでは頭部外傷を負った患者にはその組み合わせで様子見をする。硬膜の血腫が脳圧を上げているのか、それとも別の問題なのかが判断つかないからな」  なるほどと言いながら、ユーリがカーマの丸薬が入った遮光瓶と薬匙をアナスターシャに手渡す。その手際の良さに、ユーリはリズと顔を見合わせた。  カーマの丸薬は舌下に入れて使用する頻度が高く、水に溶けやすい性質を持つ。嚥下状態が悪い相手以外は有用だと、アナスターシャが言う。すでに先ほどのようなしゃくりあげるような呼吸ではなくなっているが、念の為にとサシャの舌下に丸薬を押し込んだ。  遠くからカートを押す音が近づいてきた。 「ニコラ、サシャの様子は!?」  フレオが慌てた様子で病室に入ってくる。そして少し呼吸が落ち着いているサシャとアナスターシャを見て、フレオが驚いたように部屋から出ていった。 「あ、アナスターシャ・ジェンマ!」   「また同様の発作を起こすようならセレネとカーマの丸薬を。発作が3回以上起きるようなら、別のものを処方したほうがいい。ミクシアではレイズマータを使うか?」 「薬効が似たものを調合できないことはない。ちょうどディー二がくれたトゥルスの種があるし、スラムに行けばコレットの花も咲いていると思う」  ユーリがスラムと言ったからだろう。アナスターシャが舌打ちをした。 「ならチェリー野郎にでも採りにいかせる。貴様はここを離れるなよ、俺が伯父上に叱責を受けねばならなくなる」  迷惑極まりないと、アナスターシャ。そこまで言ったあと、アナスターシャはふと我に帰ったように立ち上がって、すたすたと病室を出て行こうとする。 「ありがとう」  「助かった」と、ユーリ。アナスターシャは返事をせずに病室をあとにした。代わりにフレオが小走りで入ってきて、アナスターシャが歩いていくのを覗き見ていた。 「さすがはアンナ」  ぼそりとフレオが言う。フレオの話だと、アナスターシャはオレガノの医師免許を持っているらしい。どおりでフレオと似た見立てをすると思ったとユーリが呟く。フレオは苦い顔をして肩をすくめた。 「いや、でも俺ならセレネとカーマの丸薬なんて組み合わせは思いつかなかった。それにレイズマータか。さすがにおもしろい手を使う」  安堵したせいか、それとも緊張したせいか、視界がぐらりと回った。ニコラに抱き止められ、ゆっくりと椅子に座らせられる。 「大丈夫か?」  ユーリは少しの間をおいて頷いた。自分でも驚いた。視界がチカチカすると呟くと、フレオに背中をポンポンと叩かれた。 「少し休め。俺が代わりに見ておくよ。外の空気でも吸ってきたら?」  ニコラを見上げると、ニコラもそうしろと言わんばかりに頷いた。ユーリもまた頷く。 そういえば朝からなにも食べていない。こんな具合では自分まで倒れてしまう。ユーリは自分の両頬をぱんと叩いて立ち上がった。 「食堂行ってくる」 「あ、ぼくも付き合うよ」  「お昼食べ損ねちゃってさ」とリズが言う。ユーリとリズがキアーラのチームに回される仕事をできないことで、皺寄せが行っているんだろうと悟る。「ごめんな」と言うと、リズは大きな目を丸くさせた。 「え、大丈夫? は? マジで? ユーリが?」  「なにが?」と、ユーリ。リズは無言のままユーリの服を胸辺りまで捲り上げる。ユーリも、そしてニコラもぽかんとする。 「後ろ向いて」  言葉よりも早くリズに体を反転させられる。今度は背中をマジマジと見たあとで、リズがユーリの服から手を離した。 「小説とかでありがちな『細胞ジャック』でもされているのかと思った」 「なんだそりゃ?」 「ユーリが変なことを気にするからだよ。ごめんとか気持ち悪すぎる。そもそも、少し前にようやく学内を歩き回れるようになったユーリにまで仕事をさせないといけないほどの仕事量じゃないし」  リズはこれでも気を遣ってくれているようだ。リズの頭を撫でる。するとリズはそうだと声を弾ませた。 「じゃあごはんとハニーラテ奢ってよ」  「そうだ、それがいい」と、リズが言う。ユーリは藪を叩いたと言わんばかりに嫌そうな声を出した。「ただでさえ金欠の俺に集るなよ」と呆れたような声色で、ユーリ。リズはカラカラと笑いながら「じゃあデザートにパンナコッタも付けてもらおう」と言って、ユーリを引っ張っていった。 ***  サシャの容体はあれから二週間が経過しても相変わらずだ。最近では起きている時間帯があるほうが珍しいが、アナスターシャの判断のおかげか、あの時のような発作はあれ以来起きていない。今日は珍しく食欲もあるらしく、少し震える手で自らプリンを食べている。その様子を見ながら、ユーリはフォルスの地下室から持ってきた本を読んでいた。  アナスターシャが言っていたセレネとカーマの丸薬の組み合わせのことが記載されている。大昔に書かれた本だというのだ。添え書きには開頭術に関することへの記述もある。研究は人道的な観念から中止、脳そのものへの治療は複雑な上衛生面からも現実的ではないと記されているが、10件に満たないものの症例や術後、治療後の経過等が書かれた資料が挟み込まれている。  サシャのように外傷から起こる衰弱や脳内の血腫による様々な障害に関する記述がある。開頭術後の経過は、感染或いは術式不適合により死亡とはっきり書かれている。ユーリはその本を乱暴に閉じて、サイドテーブルに置いた。 「傷はもういいのか?」  サシャが尋ねてくる。昨日まで包帯が巻かれていたけれど、今日はガーゼのみだからだろう。ユーリはうんと素直に頷いた。 「もう出血もないし、傷口もほぼ塞がってる。サシャは? 気分悪くない?」  そう尋ねると、サシャは薄く笑ってそうだなと言った。 「今日は調子がいいみたいだ。目を開けていても視界が回らない」  呂律も回っているようだ。少し声が細いのはすっかり痩せてしまっているからだろう。  昨日読んだ書物には脳圧を下げるのにイソライドシロップが有用との記述があり、フレオに確認してそれを服用させたのもよかったのかもしれないと思う。サシャは病室の窓から外を見やり、太陽の光の眩しさに目を細めた。  調子がよさそうに見えてもいつ急変するかわからないリスクがある。サシャだから散歩に行きたいとは言い出さないだろうけれど、外の景色を懐かしそうに見ている。ユーリは部屋の窓を開けて風を通すことにした。  清かな風が入ってくる。サシャは気持ちがよさそうに笑みを深めて目を閉じた。 「収容所の空気感とは全然違うな」  ぽつりとサシャが言う。サシャが収容所にいた時のことを話すのは珍しい。ユーリよりも年上だったこともあり、おそらく自分よりも嫌な目に遭っているのだろうと、尋ねたこともなかった。ユーリ自身は強制労働をさせられたことがなく、やることといえばほとんどが売春、良くて通訳だったが、たぶんサシャもそうなのだろうという推測に過ぎないが、ユーリもあまり思い出として残しておきたくないものもある。ところどころ記憶がないのは、自分自身で封じているのではないかとフレオに言われたことをふと思い出した。  いまは何月だ? とサシャが尋ねてくる。もうすぐ7月だ。7月の終わりにキアーラが退職する。その旨を伝えると、それまでに体調を回復させておかないととサシャが言う。ユーリは眉を下げて笑った。 「俺には大人しくしておけって言うくせに」 「リズと二コラとおまえだけだと毎日ケンカだぞ」  「愚痴を聞かされるこちらの身にもなれ」とサシャが継ぐ。ユーリはあははと声を上げて笑った。 「愚痴で済めばいいけどなァ、場合によっては俺とリズの二コラに対する苦情が全部サシャに来ることになるぞ」  そう言ってやったら、サシャはわざとらしく眉を顰めて「それはやめてくれ」と薄い笑みを浮かべて言う。久しぶりにサシャとこうして話している気がする。ユーリはサシャの足元に置いてある椅子に腰かけて、ベッドに半身を預けた。サシャの腿に頭を乗せるとわしわしと頭を撫でられた。 「復帰は決まったか?」 「一応。7月までに傷が全部塞がって、且つ検査で何事もなければ」  そうかとサシャ。「俺はいつくらいになるかなあ」と、間延びした口調で言って背伸びをする。この状態が続けばすぐにでも復帰は適いそうなものだが、サシャの体調は毎日違うし、いまが良くても数時間後にどうなっているかわからない状態でもある。サシャの体調を全面的に考慮したうえで、症状が消えない限りは現場復帰をさせられないと学長に言われたが、ユーリは黙っていた。サシャ自身も薄々気づいているように感じるが、そういう話題になるとユーリは決まってはぐらかしていた。  サシャの手が髪を撫でる。心地がいい。ユーリはその手を取って頬ずりをした。すっかり細くなってしまっているが、サシャの手だ。サシャは別の手でユーリの頬をあやすように触る。 『パナケインの調合に必要な材料は覚えているか?』  そう尋ねられ、ユーリは頷いた。忘れるわけがない。そういうと、サシャは薄く笑ってそうかと言った。 『じゃあこれも覚えろ』  サシャはふうと息を吐いて、ベッドに身体を預けるようにして目を閉じた。 『アルカの調合に必要なのは、ルネッタの種、ネメジールの根以外、トリニタの樹皮、そしてルシアの葉、最後に――』  そこまででサシャの言葉が止まる。ふうと大きな息を吐き、そうかと思うと頭を撫でられる。唇が動く。なんとなくわかったが、ユーリは問い返した。 「いま、なんて?」  もう一度サシャが大きな息を吐く。しゃべるのに疲れたのだろうか。何度か同じような呼吸を繰り返した。 『それらをよく乾燥させたものを荒く潰して、ハイペリカの葉で燻す。丸薬にするならトリニタの樹液で混ぜて使う』  覚えたかと、サシャが問う。ユーリは頷いたが、怪訝な顔をしている。 『ルシアの葉のあとは?』  尋ねると、もう一度頭を撫でられた。やはりだ。ユーリはサシャの手をぎゅっと握った。 『ねえ、サシャ。俺が“ユーリ”の名前を継ぐことになったのは、本当は“俺の名前”を隠すためだったのでは?』  ほんとうに“ユーリ”の名を継ぐのは、サシャだったのではないか。ユーリはずっと疑問に思っていた。年少者が父親の名を継ぐのが仕来りだと聞いていたが、その実エドはクロードの名を継いでいない。医者や秘術師の立場がある者のみがそうするという理由にはならないのだ。 『ほんとうに、なにも覚えていないんだな』  言って、サシャはユーリを抱き寄せた。両方の腕で抱き締められる。なんとなく不安になってサシャを呼んだが、サシャは離してくれなかった。 『子どもの頃に数え歌を歌わされていたのを覚えているか? エトル語――ステラ語よりも古い言語の』  言われて、ユーリは頷いた。ステラ語よりも古い言語のことをエトル語というのは正直初めて知ったと心の中で呟く。 『そのなかに、調合に必要な分量が隠されている。数字の順と、俺がさっき言った薬草の順は同じだ。間違えないように』  ユーリがサシャを呼ぶ。サシャはただユーリを抱き締めているだけだ。背中を軽く撫でられる。 『おまえの本当の名前は、“イル・セーラの希望”なんだよ。家族以外の誰にも知られてはいけない。あの花がそう呼ばれていることも、一族のイル・セーラ以外に知られてはならない。だから、決してユリウスには話すな。二コラにも、リズにも、誰にもだ』  初めて聞いた。だから誰にも知られていないエトル語で呼ぶのかと納得する。わかった、言わないとサシャに告げる。サシャがユーリの身体を抱き締める力が強まっていく。 『パナケインで対処できなければ、アルカを使え。“ユーリ”は言っていなかったけど、クロードは両方を混ぜて使ってもいいと言っていた。ただ、これに関しては分量も不明だし、丸薬で飲んでもいいのか、それとも粉末のままなのかがわからない』 『やるなら分析を……ってことか。どのみちルシアがないと始まらないな。ヴィータもルシアの代用品を使ったから、正確な薬効ではないし』  やや困ったような口調でユーリが言うと、サシャがふふっと笑った。不思議に思って呼び返す。 『エドに会ったんだろう? 渡された封筒や袋はよく確認したか?』 『え? したけど』  そこまで言って、ユーリはハッとした。マジかよと口の中で呟いて、サシャの腕を掴む。 『二重になってるってこと?』 『そうだ。検閲を避けるためにずっとそうしてきた』 『早く言えよ』 『覚えていないほうが悪い』  くすくすとサシャが笑う。そんなこと言ったって不可抗力だ。ユーフォリアの乱用からくるものなのか、それとも収容所の生活があまりにも過酷だったからなのか、ユーリの記憶はところどころ抜けてしまっているし、未だに微妙にあいまいな部分もある。それを恨みがましく伝えるが、それは最早開き直りの常套句のようなものだ。それを知っているからだろう。サシャは穏やかに笑ってはいはいといなすように言った。  サシャの規則正しい鼓動が伝わってくる。耳元で名前を呼ばれた。”ユーリ”の名を継ぐ前の名だ。ユーリはサシャのすっかり痩せてしまった体に寄り添った。サシャが自分にアルカやパナケインの材料を伝えたのは、もしもの時に備えておけと言いたいのだろう。  きな臭いとは思っていた。アルマは何年も前から自然発生的にパンデミアを繰り返しているというのに、つい最近になってからフェルマペネムの再現を政府がちらつかせてくるというのにはおそらく理由がある。サシャの話だと何年も前から計画自体はあったものの、オレガノとの仲が険悪すぎて実現しなかったという背景を鑑みるに、いまはオレガノの特使を迎えているという背景からも”再現が成立する”と判断しているのではないか。  ユーリもサシャもオレガノの特使が誰かも知らないし、情報もない。ただユリウスに関して言えば別だろう。北側の診療所で無償奉仕をさせられているということは、彼もまたなにかに巻き込まれ責めを負わされているに違いない。そう考えた。

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