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Five(4)

 じりじりと肌を刺すように日差しの強い時期がやってきた。ハロじいちゃんは北側の診療所に入院している。といっても、夏の間だけだ。食欲もあり、まだ野良仕事と憎まれ口を叩く元気が残っているのだから、死にゃしないだろうとチェリオは言ったが、念のためにということだった。  もちろんハロじいちゃんが嫌ならディエチ地区で過ごすことも提案されたが、ハロじいちゃんはさすがにあそこでの生活はきついと申し出た。その付き添いで期間限定で北側に転居したのは、ダニオ、そしてアリエッテとロッカだ。アリエッテの療養のためにもちょうどいいという判断だった。  それを提案したのはユーリらしい(たぶん転居とまではいわず避暑地を設けるか東側の診療所で過ごすことを考えたのだろう)が、北側の診療所にという判断を下し、意見書を作成したのはアンナだという。深々と頭を下げるアリエッテたちに、アンナは「わざわざ薄汚いデリテ街に足を運ぶのが面倒だからだ」と吐き捨てるように言ったのだから、ますます気に食わない。まじでパニーノの角に頭をぶつけて死んでしまえと言ってやりたかったが、転居に関する書類や意見書を作成するのはなかなかに面倒で、且つ承認が下りにくいらしいことをケインから聞かされ、チェリオはアンナを憎らしいと思いこそするものの、口が悪いだけで根はいい奴だと脳みそに刷り込むことにした。  しばらくユーリの顔を見ていない。現場復帰をしたと小耳にはさんだが、元気にしているのだろうか。サシャも大丈夫なのだろうかと考えながら、しばらく閉鎖されている東側の診療所を眺める。ここが開くことに意味があったのになとぼやくチェリオの耳に、聞き慣れた足音が近付いてきた。 「おう、チェリオ。なに黄昏てるんだ?」  クルスだ。うるせえと暗に非難するように言って、クルスへと振り返る。今日は一人のようだ。そういえば最近エリゼを見ないなとふと思う。 「なあ、そういえばエリゼは? 最近一緒にいなくねえ?」  チェリオが問うと、クルスはああと言いながらまるでごまかすように視線を逸らしたが、すぐに苦い顔をして両手を広げて見せた。 「あいつは秘匿任務中だ。独り身だしフットワークが軽いからな。フォルスの件を洗っているから、エスペリやパドヴァン、フィッチあたりまで足を伸ばしているんじゃねえか? 一昨日くらいにエスペリのものと思われるワインが派出所宛に届いていた」 「そっか、ならいいけど。ユーリのことで機嫌が悪かったし、ついに愛想を尽かしたのかと」 「ケインから聞いたが、『その無駄に回る頭を使わないのならそんなおまえに興味はない』みたいなことを吐き捨てたらしいからな」 「うえっ、キッツ。わからないでもねえけど。ユーリがしょげてるのを見るのは、ちょっと」  いや、だいぶ腹にこたえる。腹に? うん、腹にこたえる。胃が痛くなるとも、胸が締め付けられるとも違う。その両方を混ぜ合わせたようなしんどさがある。 「数日以内には戻ってくると思う。週末にユリウスをフォルスに連れて行き、国境警備隊の男の顔を確かめさせる手筈になっているんだ」  マジかと、チェリオ。フットワークが軽いと言っても限度がある。「アリオスティ隊はエグイ働き方をさせるんだな」と揶揄するように言うと、クルスが苦笑を漏らして頭を掻いた。 「そんなこたねえよ、隊長はくそ真面目だから時間にも厳しいし、当然休暇をきちんととっているかどうかにも厳しい。エリゼが特別なだけだ。それにエリゼはパドヴァン出身だから、この時期には大体一週間ほど休暇を取って墓参りに」 「あー、そういやエリゼの家族って、フォルス周辺で殺されたって言ってたな」 「だからユーリやサシャに多少同情している部分があるんだと思うぞ。腐っていても状況は変わらない、落ち込んだところで時間の無駄、だったら少しでも早く状況を打開すべく手を打つほうが胸がすくってのは、たぶんエリゼの経験談だ。そりゃ性格も違うし生きてきた環境も違うから、誰もがエリゼのように簡潔に考えられれば楽に生きられるだろうけど、あれはあれでな」  クルスの言わんとしていることはわかる。エリゼは闇が深い。チェリオとは約5歳くらいしか変わらないというのに、あの暗殺術やサーベル裁きはいつ身に着けたのか……と思ってしまう。それはクルスに以前尋ねたことがあったが、アリオスティ隊に編成されたときにはエリゼは既に鬼のように強かった、と言っていたのを思い出す。  イギンたちとの一件があって以降、スカリア隊は騒動の責任を取って解散、モルテードはパーチェ隊に引き取られたらしい。さすがにドン・パーチェの隊にまでケチをつけることは適わなかったらしいが、スカリアは軍部で厳しく取り調べられていると聞いた。だからアリオスティ隊も再編成され、スカリア隊から真面目な隊員を受け入れているらしく、新顔が目に付く。ケインもそうだ。そのこともありナザリオとスヴェンは多忙を極め、スラム街の見回りはクルス含め部隊長が担っているという。 「そういえば、今日は炊き出しの開始時間が少し早まると言っていた。行くなら一緒に行くか?」 「マジ? 行く行く」  パン類が好きな連中は炊き出しの時間とほぼ同時に、スープ類が好きな連中は割と遅い時間に行く。配給する隊員にもよるが、最初のほうはスープの具が少ないことが多く、且つ野菜がすこし固めなことがあるからだ。チェリオは特にこだわりがない。ただ最初のほうに行くと時々味見をさせてもらえたり、準備を手伝うと美味しいコーヒーをふるまってもらえることがあり、チェリオはそれを目当てにしているのだ。  北側と東側を隔てる関所を通り抜け、炊き出しが行われている広場に向かう。チェリオはあれと目を見開いた。柔らかそうな毛質の銀髪が見える。ユーリだ。 「ユーリ!」  チェリオが声をかけると、ユーリもこちらに気づいたようで大きく手を振った。  チェリオはユーリに駆け寄った。「ひさしぶり」とユーリが笑う。すっかり元気そうだ。ほっとする。チェリオはおうと返事をして、ユーリを覗き込んだ。 「身体はもう大丈夫なのかよ?」 「うん、もうすっかり。さすがに東側の診療所のことまでは言い出せなかったから、炊き出しに着いてきた」  悪戯っぽい笑顔でユーリが笑う。「誰に着いてきたの?」と問いかけて、チェリオはぎょっとした。横にいたのはアンナだったからだ。 「うえっ、めずらしっ」  アンナが不満げな表情だが過剰な反応はせず、「仕事は仕事だからな」と言ってのける。そんなに伯父上が怖いか? と尋ねてみたくなる。ユーリがナンドに呼ばれて別のテントに行ったのを見計らって、チェリオはアンナを呼んだ。 「あいつ、おまえらにマワされたの覚えてねえの?」  アンナが黙れという視線を向けてくる。「そうらしい」と小声で返し、「蒸し返すな」と継ぐ。そう言われるとムズムズする。「どうしよっかなあ」と煽るように笑うと、アンナの舌打ちが聞こえた。 「言ったら殺す」 「あれー? もしかしてユーリのこと気に入ったりとかした? これだから素人童貞は」 「黙れと言っている」  「誰が気に入るか」と吐き捨てた後で、アンナがチェリオに向けて銀製のスープボウルを突き付けてくる。今日はリゾットのようだ。チェリオはそれを受け取り、にやりと口元をゆがめた。 「ンなこと言って、あいつの具合が忘れられねえんだろ?」  アンナが白けた表情になる。それ以上はもう突っ込まないとでもいうように、しっしっと手で追い払われた。まだ湯気が立ち上るそれにスプーンを突っ込んで、日陰に向かう。途中でユーリがせっせとスープを用意しているのが見えた。ばっちりと目が合う。ユーリははにかむように笑ってチェリオを呼んだ。 「はい、これ」  手渡されたトレイには、ラタトゥイユと食べやすいサイズにカットされたパニーノが乗っている。きょとんとしてユーリを見ると、ユーリは満足げに笑みを深めた。 「ジャンカルロに教わって作ったんだ。あんまり数がないから、午前中だけ」  「休養中暇すぎてさ」とユーリが笑う。死にかけていたとは思えないほどさわやかな笑顔だ。チェリオはなあとユーリに声をかけた。 「サシャは、大丈夫なのか?」  ユーリが頷く。 「現場復帰にはまだしばらくかかるかもしれないけど、元気は元気。一昨日久々にベッドから降りて、外に散歩に行ったんだ」  チェリオはそうかとしか言えなかった。そんなに状態がよくないとは思っていなかったからだ。  よく見ると、ユーリには疲労の色が見える。元気そうにしているけれど、内心不安なんじゃないか。初めにアリエッテが具合を悪くしたときに、ロッカがしていた目に似ている。さすがにあそこまであからさまじゃないし、切り替えている……いや、どこかで割り切っている節があるだろうけれど、ユーリたちイル・セーラの感覚と、ノルマの感覚は違ううえに、肉親はふたりきりと言っていた。ずっと一緒に寄り添って生きてきたのだ。動いていないと余計なことを考えてしまうのではないか、とも思った。 「アナスターシャが教えてくれた薬の組み合わせのおかげで、だいぶ調子がいいんだよ。収容所を出た時にオレガノへの亡命案もあって、知らない国だからって断ったんだけど、オレガノの知識はいろんな発見がある」  ふうんと返して、チェリオはテント裏の日陰に腰を下ろした。ユーリが作ったというパニーノを手に取り、かぶりつく。ふわふわの卵とかりかりに焼かれたベーコンのコントラストがなんとも言えず、チェリオは無言でそれを頬張った。このあいだドン・クリステンが食べさせてくれたピアディーニとはまた一味違う。ひとつ、またひとつとがっついていると、ナンドから「リスみたいだな」と笑われた。「うるせー」と返して、残りを口に押し込む。チェリオは好きなものは味わって食べるというよりも一気に食べてしまう傾向にある。たまごなんてめったに食べられるものじゃないし、甘じょっぱさの加減が最高にいい。ラタトゥイユ、リゾットと次々に平らげて、チェリオはユーリに声をかけた。 「パニーノってもうひとつ食えない?」  チェリオが問うと、ユーリは眉を下げて笑った。なぜ笑われているのかわからなかったが、ユーリは「ついてる」と言いながらチェリオにナプキンを差し出した。次々に頬張ったせいで口の周りになにかが付いていたらしい。チェリオはナプキンで口元を拭い、ユーリがパニーノを用意してくれるのを待った。 ***  食事を終え、チェリオも炊き出しを手伝った。といっても炊き出しを求めてやってきた住人たちを一列に並ばせる程度だ。  軍医団が始めたこの活動は今年で4年目で、定着してきたこともあり、よほどのことがない限り食いっぱぐれることがないことを知っているからか、ヤジを飛ばす者もほとんどいない。イギンたちがいた頃はこの活動自体に横やりを入れて難癖をつける輩もいたが、いまはほとんどの住人が大人しい。軍部やピエタの世話になりたくない連中は、そもそも炊き出しの場にすら顔を出さないのだ。  隊員たちが代わる代わる昼食をとり終え、炊き出しに訪れる人数も徐々に減ってくる。もうすぐ17時だ。炊き出しが終わる時間帯だ。今日はやたらと人数が集まったからか、用意された大鍋の中にはあまり残りがない。残ったら夕飯にもらって帰るとナンドが冗談交じりに言っていたが、そんな量もないんじゃないかと思うくらいだ。ユーリがぐっと伸びをするのが見えた。少し疲れたような表情なのは気のせいだろうか。声を掛けようとしたが、チェリオよりも先にアンナがユーリを呼んだ。 「おい、顔色が悪いぞ」  アンナが木陰に座るよう指示する。テント内は日陰になっているとはいえ、今日はかなり暑かった。すこし頬が紅潮しているようにも見える。ユーリは申し訳なさそうに眉を下げて笑った。 「ひさびさに長時間立っていたから、ちょっと疲れただけ」  ユーリはそう言ったが、アンナは眉間にしわを寄せてむすっとした表情だ。 「おしゃべりアルヴァンが言っていたが、勤務を終えた後は兄の看病でほとんど病室に入り浸っているそうじゃないか。一体いつ眠っている? そんなふざけた体調管理では国医など務まらんぞ」  「そもそも貴様に倒れられたらチームの者が迷惑する」と、厳しい口調で、アンナ。ユーリは苦笑を漏らし、額に手を宛がった。 「ちゃんと寝てるけど、眠りが浅くて」  「だったら部屋で寝ておけばよかったんだ」と鬱陶しそうな表情をそのままに、アンナが溜息をつく。 「眠りが浅いのもあるけど、イギンのアジトで使われた違法薬物の作用っていうか」  ぼそぼそとユーリが言う。ユーリは悪気もなければ何の気なしに言っているだけなのだろうが、アンナの冷めた表情が気まずそうなものへと一気に変化する。 「サシャとか二コラが心配するから言えねえけど、時々すげえ疼くし、落ち着かなくてさァ。だからドラッグかがされるセックスって好きじゃないんだよなァ」  はあっと色っぽい溜息を吐いて、ユーリが腹を擦る。その場所は明らかにユーリがイイ声で鳴くあたりだ。ごくりと生唾を飲み込む。 「体を動かしていたほうが、気が紛れるんだ」  だから大丈夫とユーリが言う。たしかに暑さのせいというよりは疼きのせいで紅潮していると言ったほうが適切のような表情だ。目がすこしとろんとしていて、色っぽい。このまま北側の診療所に連れ込んでやろうかと下心を覗かせていると、アンナが焦れたような声を上げて舌打ちをした。 「すまなかった」  ユーリが驚いて、目を瞬かせた。チェリオもだ。まさかアンナが頭を下げるとは思わなくて、目を白黒させる。 「あれがベラ・ドンナだとは聞かされていなかった。もしそうだと知っていたらあのような真似はしなかったし、あの時は自分に対する劣等感とドラッグ入りの酒のせいでどうかしていたんだ」  ユーリはなにがなんだかわからないような顔でアンナを見ている。明らかにうろたえているのがわかった。 「え、え?」 「いや、そんなもののせいにするのもおかしい。俺が伯父上の親族でなければ処刑される程のことをしでかしてしまった。本当にすまなかった」  ユーリがチェリオに視線を向ける。どういうこと? とでも言いたそうだ。チェリオは面倒くさそうに眉を寄せた。 「まーじで覚えてねえの? もう一回サルターレとベラ・ドンナ嗅がせて、嫌っていうほど犯してやろうか?」  そこまで言っても、ユーリはなんのことかわからないという表情だ。揶揄うのも面倒になってきて、イギンのアジトにチェリオが連れていったあと、ユーリはイギンとブラウ、それからアンナにマワされた旨を説明する。するとユーリは真の抜けた声を出したあとでどこか納得したような顔をした。 「だから、どこかで見たようなことがあると思ったのか」 「いや、それだけっ?」  思わず突っ込んだ。さすがのアンナも、まだ罵倒されるほうが気が楽だったろうに。気まずそうに頭を下げたままのアンナを見て、ユーリはアンナを呼んだ。アンナがおずおずと顔をあげる。ユーリが両手でアンナの両頬を挟むようにしてみせた。間の抜けた顔だ。思わず噴き出した。 「あんたのおかげでサシャが助かったし、事情がそれなら仕方がない」 「懐広すぎだろ。賠償金たんまり請求してやればいいのに」 「ハロじいちゃんたちの件もそうだ。転居に関する書類を纏めたり、俺じゃできないことまでしてくれたって聞いた。俺がいない間、ユリウスと一緒に適切な処置をしてくれていなかったら、持たなかったと思う」 「それは仕事だからだ。なにも貴様の代わりをしたつもりは」  アンナがそう言いかけた時だ。ユーリがにやりと笑う。この顔はとんでもない交換条件を突きつけるつもりだと悟る。 「そっか、それなら責任取って」  でた。チェリオは半笑いで言った。ユーリのその言葉ほど怖いものはない。責任をとれなど、金を払えよりも怖い言葉だ。 「せ、責任だと?」 「そう、俺の腹が疼いて仕方がない責任」  アンナが眉根を寄せる。「どういう意味だ」と低い声で言う。ユーリはアンナの両頬を挟んだままでアンナの耳元に顔を寄せる。あからさまに色を孕んだ仕草だ。アンナの喉が大袈裟なほど鳴る。 「俺の代わりに地下街に薬草取りに行ってきて」  ぎゃはははとチェリオが大声で笑った。ただでさえおもしろいのに、あっけにとられたアンナの表情が笑いを誘い、腹が痛いと蹲る。ひいひいと引き攣った声をあげるチェリオをよそに、アンナは顔を真っ赤にさせて引き攣った表情だ。ユーリはそれを満足げに眺めて肩を竦めてみせた。 「俺の疼きが治まるまで犯してくれ――って言われると思った?」  アンナのあっけにとられた表情がみるみるうちに凶悪なものに変わっていく。くそがっ! っと大声でユーリを罵倒して、その手を払いのけながら勢いよく立ち上がる。耳まで真っ赤だ。なにかエロいことを想像したのだろう。チェリオ自身も何度もヤラれた手だ。ユーリの色を孕んだ声が耳に残っているのか、アンナは右耳を覆ってなんとも言えない表情をしている。あの顔で、あの声であんな誘うようなしぐさで言われたら、普通はエロいことをさせてくれると勘違いしてもおかしくない。ユーリはわかってやっているから質が悪い。 「なにを騒いでいるんだ?」  ナンドが話しかけてくる。アンナはやり場のない怒りを吐き出すためか、もう一度くそっと吐き捨てた。ただの世間話だとユーリが笑う。どこをどう解釈したらあれが世間話になるのかと突っ込みを入れたいところだが、チェリオもまたそうそうと同意する。ユーリの楽しそうな仕草で気づいたのか、ナンドは苦笑しながらアンナの肩を叩いた。 「まあ、ユーリはこういう奴だから」  ナンドは事情を知っているからだろう。アンナは悔しそうな、それでいて罰の悪そうな複雑な表情を浮かべている。珍しいことにナンドの手を払いのけることすらしない。ナンドがチェリオに視線を送ってくる。チェリオもまたわざとらしく肩を竦めてみせた。 「それで、なにを採ってくればいいというのだ?」  アンナが言う。ユーリはきょとんとして首を斜めに傾けた。それを見て、じれたようにアンナが舌打ちをする。 「貴様が地下街で薬草を採って来いと言ったのだろう」 「え、マジで行くの? 報酬としてヤク漬けにして抱かせろとか言わない?」  言わんわ! とアンナが声を荒らげる。デリテ街に足を運びたくないと言っていたというのに、どんな心境の変化なんだろうかと思う。それはナンドも同じだったようだ。 「Sig.ジェンマ、気持ちはわかるがさすがにあんたがデリテ街っつか、地下街に行くのはダメだろ。何事かあったら俺たちが困る」  デリテ街でも地下街は特に不衛生だ。上流階級層はよほどの変わり者でも進んで近付かない。だからドン・パーチェも東側のスラムの、トレ地区より先に近づくことはほとんどない。”におい”が違うからだ。今年はほとんど人が死んでいないから、腐敗臭が漂っていることはないが、炊き出しに来ない連中は毎日水を浴びるわけでもなく、簡易トイレが設置されている場所も限られている状態だ。そういう状態に慣れていない上流階級層の住人が地下街に近づくということは……と、ナンドがアンナに説明をする。  チェリオとユーリは思わず顔を見合わせた。たぶんユーリはそんなことを微塵も思っていない。「もしかして拷問のようなことを言ったのか?」と、視線だけで尋ねてくる。チェリオは答える代わりにそのようだと両手を軽く広げて見せた。 「俺が採ってくるし、アンナはユーリを街まで送ってくれたらいい。道中変なことすんなよ」  揶揄するようにチェリオが言うと、アンナは「喧しい」と唸るように言って、ふんと鼻を鳴らした。 「エルナンド、おまえが街まで送れ。俺はチェリー野郎と一緒に行く」  ナンドがいやいやいやと素っ頓狂な声を上げる。ユーリもまた意想外な顔をした。 「あ、じゃあ俺も」 「おまえはだめだ!」  ナンド、チェリオ、アンナの声がこだまする。ユーリは驚いたような表情になったが、すぐに表情を崩した。楽しそうに笑って、どこかくすぐったそうに口元を触る。「笑い事じゃないぞ」とチェリオが語気を強めた。 「次にひとりでのこのこと東側に現れやがったら、有無を言わさずその場で犯すからな」 「一人じゃなければいいって問題でもないぞ、おまえは当面東側に行くことは禁止だ」  ナンドも言う。ユーリははいはいと笑いながら言っているが、これは理由があって且つボディーガードさえつければ構わないと思っている顔だ。そんなに長いことユーリとつるんでいるわけではないが、強かさと諦めの悪さはよく知っている。 「薬草さえ手に入ればいい。サシャのこともあるし、わざわざ危険を冒してまで東側に行こうなんて思っていない」  意外なセリフだ。マジかよとチェリオが怪訝そうに言う。アンナもまた疑いのまなざしを向けている。ユーリが素直な時は大概なにかを企んでいる時だ。  聞き慣れた足音が近付いてくる。二コラだ。二コラがユーリに声をかけると、ユーリは明るい表情で二コラに駆け寄り、抱き着いた。結構な勢いだったというのに二コラはよろめきもしない。怪訝そうな表情でユーリを見下ろして頬を軽くひっぱった。 「なにか企んでいる顔だな」  ほらみろと、チェリオ。二コラもやっぱり同じ意見だった。ユーリは二コラにしな垂れかかったまま艶っぽい表情で満足げに笑ってみせる。 「失礼だな、企んでない。チェリオとアナスターシャが薬草を採ってきてくれるっていうから、その言葉に甘えただけ」  だよなとユーリが言う。アナスターシャがぶっきらぼうにそうだと答える。チェリオははたと気付いて、とがり声でユーリを呼んだ。 「そういえばおまえ、なにを採って来いって言ってないよな? 地下街周辺にあるものだぞ、捜さなきゃいけないものは無効だからな」  ユーリのことだから面倒なことを言ってきそうな気がして、先手を打つ。ユーリはそんなつもりもなかったようで、きょとんとしている。 「地下街の入り口周辺に自生している“エナキス”と“アンゼリカ”って花がいくつか欲しいんだ、根も含めて」  言われて、チェリオがアンナを見やる。アンナは眉を顰めて「時期的に両方咲いているか?」と怪訝そうに言う。「ぎり咲いてるんじゃない?」と、ユーリ。チェリオは食べられないものに興味がないため、花の名前を言われてもさっぱりわからなかった。 「それはドン・ナズマから聞いた異国の調合法か?」  二コラが尋ねると、ユーリは何食わぬ顔で「そう」と答えた。こいつはもしかして、サシャの具合が悪いことをいいことに、諸々実験をしているのではないかとふと思う。症状を回復させるために懸命なのだろうけれど、寝る間も惜しんで研究をしていたら、流石に自分が滅入ってしまうのではないか。 「エナキスと似た花があるから、それは採ってこないよう気を付けて」 「そのくらい知っている。この国は何故重要な草花(そうか)を診療所周辺で栽培していないんだ?」 「勝手に育てて勝手に調合したら、指定外薬物所持違反って怖いピエタに怒られちゃうから」  ふふんと笑いながらユーリ。アンナがナンドを睨むとナンドは「俺たちじゃないぞ」と焦ったように言った。それはスカリア隊が実際にユーリに絡んだ時にロッカにかけた容疑のことを指している。アンナは不満げな表情で眉間に皺を寄せたあと、声が漏れるほど大きな溜息をついた。 「伯父上が仰っていたとおりだ。この国は是正すべき点が多すぎる。大体必要最低限の草花(そうか)が住民街にないなど、医師団や町医者に掛かれない場合はどうするというのだ。愚鈍にも程がある」  チェリオはユーリと顔を見合わせた。アンナの発言が意外すぎたからだ。 「オレガノでは住民街に薬草があるのか?」 「当たり前だ。最低限自分の身は自分で守るよう全国民が基礎知識として持ち合わせている。この国のように軍医団や医師、大学が利権を得て命を金にするような愚かなことはしていない」 「じゃあオレガノに永住すればよかったじゃん」  チェリオが軽口を叩く。アンナはできることならそうしたかったがとぼそぼそと口の中で呟いた。 「オレガノがそんなにいい場所なら、どうして戻ってきたんだ?」  ユーリもまた不思議に思ったようだ。他意のない様子で尋ねる。アンナは面倒くさそうに舌打ちをして、「聞きたければ俺の役に立ってからにしろ」とぶっきらぼうに言い放ち、東側のスラムへと歩き出してしまった。  「Sig.ジェンマ」とナンドが慌てたように呼んだが、アンナは振り返りもせずに「そいつを責任もって大学まで送り届けたあとで、伯父上に俺が自らの意思で地下街に向かったと言っておけ」と吐き捨てる。チェリオはめんどくせえのと唇を突き出してぼやいたあとで、ユーリたちにまたなと声をかけてアンナの後を追った。

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